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『鯉浄土』村田喜代子著(講談社)

鯉浄土

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鯉コクを食べに行きたくなる小説(ウソです)

 鯉コクという料理がこんなにすさまじいものだとは思わなかった。この短篇集の表題作「鯉浄土」によれば、生きた鯉を「攻める」(っていう言葉を使うのだそうですが)場合、鯉を目隠しし鼻先をガツンと一撃したうえで、包丁による「処刑」を行なう。

ガッシ!と包丁の刃が頭に打ち下ろされた。骨が断ち切られる音がした。

そのとき、鯉がキュッ、キュッと二度小さな声で鳴いた。それからあおりを食って反りくり返った。太い首だから一度では落ちない。ガツン、ガツン!と容赦ない刃が食い割って、鯉は自分の血の色で目玉まで染め抜かれる。

絶命の瞬間、鯉が鳴くとは知らなかった。そして、いよいよ調理。

鯉の血が洩れてべたべたしたビニール袋を流し台に置いて口を開けた。ずっしり重い鯉の切り身が滑り出したとたん、ギラッと光ったものがある。真っ黒い大目玉が流しに現われた。大目玉、大目玉、大目玉…..。それがびっしりと連なっている。

 大目玉というのは、鯉のウロコがそう見えたということなのだが、なんだか悪い夢を見そうだ。

 「鯉浄土」は、胸部大動脈瘤の手術をひかえている、語り手の「ダンナ」のために、造血に効くという鯉コクを夫婦一緒になって作る話なのだが、医者からは、ダンナの動脈瘤が破裂すれば、血が1メートル半も噴き上がることになろうと脅かされる。語り手の「私」の目には「血の噴水」が浮かぶ。鯉の血と、破裂するかもしれないダンナの血の噴水は、「私」の脳裏でいつしか重なっている。そういう「私」は、鯉を煮込んでいる間も、さらにエスカレートして「嫌な話を思い出し」てしまう。「手無し娘」という昔話だ。継母が美しい先妻の娘を下男に殺させようとするが、下男は娘の両腕を切り落とすものの、命だけは助けてやる。

倒れた手無し娘の腕の付け根から血の束が噴き出る。娘は痛みをこらえて呪文を唱える。

 手はなくとも 血はめぐるな

 手はなくとも 血はめぐるな

 ここまで来ると、ちょっとしたスプラッター小説だ。村田喜代子の短篇がいかに「えぐい」世界か少しは分かっていただけるだろう。でも、この短篇、不思議なことに「えぐい」だけではない。どんどんとエスカレートする「えぐさ」に、そこまでやるか、と笑ってしまうところがたくさんある。村田は、考えてはいけない残酷で悲惨なことを次々と考えることに、倒錯した喜びを感じているかのようだ。そして、これがいちばん不思議なことなのだが、「鯉浄土」から受ける印象は、悲惨でもなければ暗くもなく、どこかしら浄土の平安さえ感じさせるということである。

 「私」は、手無し娘の話には後日談があって、娘には新しい腕が生えて、美しい結婚をするのだということも思い出す。手無し娘がそうであるなら、血が1メートル半も噴き出すかもしれないダンナの体の手術にも希望が持てるのかもしれない、ということなのか。その一方で、鯉コクの鍋は相変わらずぐつぐつ噴いている。

じっと耳を傾けていると、鯉は死んだのでなくて、まだ生きて鍋の中でぐつぐつと何か言っているようだ。

 いのち。いのち。ワタシのいのち….。

 鯉の呟きが洩れている。

 私はひき込まれるように聴き入った。

 短篇の末尾である。鯉も手無し娘も動脈瘤を患うダンナも、血まみれのなかで蠢いているかのようで生々しい。しかし、「ワタシのいのち」というひそやかな鯉の呟きに耳を傾けるシーンには、奇妙に静まり返った、浄土的ともいっていい平安がわずかに滲んでいる気がする。あ、これが村田ワールドなのか、と思う。この味わいはちょっとほかに例が思い浮かばない。

 いちばん最後に収められた「惨憺たる身体」も忘れがたい。父親の三回忌に集まった親族たちが、まじめ一本やりだった父がつけていた手帳のなかに、異様な言葉がひしめき合っているのを発見する。子供たちの誕生日などを律儀に書き留めているほかに、テレビショッピングで買った「辞書付き漢字電卓」を引いて書いたと思しき、いわゆる「身体比喩」の語彙がそこにはたくさん記されていた。口ガ裂ケル 肉ヲ斬ラセテ骨ヲ斬ル 鮫肌 血デ血ヲ洗ウ…..。そんな禍々しい言葉が、本書では、1ページ半ほどゴシック体の黒々とした文字で続く。この過剰さがまた村田ワールドなのだ。

 さて、父親は戦争へ行った世代だから、こういう壮絶な身体語彙は戦争体験に関係しているのかもしれないと思い浮かべているうち、語り手の「わたし」が最後に思い出すのは、骨を焼いたときに見た父親(舅)の喉仏だ。喉仏は、人が両腕をまわして合掌しているように見えるから、つまり仏の坐像に似ているからこの名前がある。その喉仏という身体語彙を、舅は手帳に記していなかった。今まで見たことのないような完全な形の、白く焼き上がった舅の熱い喉仏の骨を、想像のなかの墓前に供える。

 お義父さん。もう一つ書き忘れていましたよ。喉仏。

 「鯉浄土」と同様に、ここでも、惨憺たる身体の言葉の羅列の最後に、ほのかに明るい浄土が微かに見える。殺生する罪深き人間たちの、存在するだけですでに壮烈なる生のありようと、その果てにある浄土を一瞬だけ幻視させる村田喜代子の作品は、まるで日本の中世説話みたいな、素朴で、しかも壮絶な物語だ。

 合計9篇を収める短篇集。「からだ」「庭の鶯」「力姫」といった名品をここで紹介できないのが残念。

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