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『四十日と四十夜のメルヘン』青木淳悟(新潮社)

四十日と四十夜のメルヘン

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「記録が記憶となるまで」

 青木淳悟は2003年に新潮新人賞を表題作で受賞した現代日本作家である。現代を生きながら同時にその現代を掴むというのはなかなか難しいことだが、小説を同時代的に読むということは、読みながらその時代性を身体で感じることができるかもしれないという可能性を含んだ、地味に見えて実は結構スリリングな愉しみがあると思う。

 「四十日と四十夜のメルヘン」にはページをめくるとまず、野口悠紀雄著『「超」整理法』から引用されたエピグラフがある。

必要なことは、日付を絶対忘れずに記入しておくことだ。

 この一節がこれから始まる小説と一体何の関係があるのか、そもそも文学とは何のつながりもなさそうな本から引っ張ってくる意図は何なのか、1ページ目からつまずいてしまう。そして本編では語り手のものと思わしきある一定の期間の日付入り日記が、順不同で淡々と繰り返し書かれていく。この小説の構造は読み手に混乱を起こさせ、空気が膨張するような錯覚をもたらす。

 さらに日記と日記の間には日記以外のエピソードのようなものがこれもまた一見整理なく散りばめられているのだが、そのなかに語り手が通っていた文芸創作教室の講義の先生が書いたという小説に関する記述がある。

ところが修道院の生活には一日を特徴づけるような出来事があまりにも少なかった。修道士たちは昨日と今日の区別なく院内の菜園で働き、あいもかわらず種なしパンを焼き、一日七回の祈祷礼拝を行った。日々の活動は聖務日課書によって規定され、季節ごとの日照時間に合わせて寝起きされ、年間を通じてそのサイクルは遵守された。そんな十年一日という修道生活の記録を前にして、彼はきっと困難をおぼえたはずなのだ。

 これを読むと、毎日毎日を家と職場の往復に費やし、家に帰れば帰ったで日々同じようなことを繰り返す「現代人」の象徴のようにも思えてくる。そのことに抗うように、いまの世の中では「小さな幸せ」という、単調な生活のスパイスになるようなものを探し求めがちだ。

 後半になってくると、語り手が書いている架空のフランスを舞台とした童話の記述が増えてくる。そして語り手は自分の住むアパートを指し、何号室という区切りがなくなってしまい、漠然と「ここにいる夢」を頻繁に見る、ともいう。メルヘンチックな童話や夢物語には「いつ・どこで」という記録としての正確な情報が抜け落ちているものだ。そして、読む人によっては「つまらない」と感じてしまうような、ある意味で表面的な、情緒のない、意味の取り払われたむきだしの言葉で語られる。それは装飾だらけの言葉で語られるものよりもむしろリアルさは強烈で、強烈すぎるがゆえに逆にふわふわとした「夢のような」地に足がついていない不思議な感じを受ける。日付入りの日記の羅列として始められたこの小説もさいごには日付が消え、唐突な情景や整理のついていないキーワードだけが残る。この感覚は夢を見ている感覚と少し似ていて、ただの日付入りの記録だったはずが、気がつけば記憶の底にある印象的な風景を見たときのような余韻だけが残っている。

 「四十日と四十夜のメルヘン」は、“たった一回の生を生きる”ということを感じにくい現代において、何も起こらずただ過ぎていくばかりの日々のなかの「小さな幸せ」を見つけるという方法以外のやり方で、その生を感じさせ、拡張させ、循環させている。このことは小説という言語表現にまだまだ可能性があるからだと改めて思わせてくれるのだ。

 青木淳悟はこの作品で「日本代表選抜会」、そして別の作品でも「Road to 2014現代日本」と、どちらにもエントリーされているが、まさに「現代」の空気を小説という言語表現によって掴み、小説という言語表現によってその停滞した空気を自由に広げようという意志をもった、注目すべき「現代」日本作家だ。

紀伊國屋書店新宿本店ピクウィック・クラブ 梅崎実奈)

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  『四十日と四十夜のメルヘン』と合わせて読みたい本■

・青木淳悟『このあいだ東京でね』新潮社

この作品で「Road to 2014現代日本」にも同時エントリー。

・庄野潤三『プールサイド小景・静物』新潮文庫

・正岡子規『子規句集』岩波文庫

淡々と日々を切り取っていく手法にはこんなものも。方法は違うが同じように「生」が感じられる。

・トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』ちくま文庫

保坂和志青木淳悟が受賞した時の新潮新人賞において「ピンチョンが現れた!」という題で選評を書いている。


→『四十日と四十夜のメルヘン』を紀伊國屋書店で購入