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『美女と機械―健康と美の大衆文化史』原克(河出書房新社)

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「グローバルな身体文化の淵源を描き出す」


 以前にも本欄で著者・原克(はら・かつみ)さんの著作を紹介したが、本書に触れてみて著者の作品をすべて読破してみようという気になった。

 本書は、19世紀における『サイエンティフィック・アメリカン』(1845年創刊)、『ヴォーグ』(1892年創刊)、『フィジカル・カルチャー』(1899年創刊)といった身体に関する膨大な雑誌記事や広告の言説と図像に追った労作である。それは、乗馬マシンや電動ベルトといった(現代にも存在する)健康器具に注目した博物学的なものでもあり、社会史的なものでもあるが、その真骨頂は秀逸な言説分析たり得ている点にあると評者は位置づけておきたい。
 「最近、運動不足で」。何気ない日常会話でよく耳にする言葉だ。気がつけば評者自身もよく発している。しかしそれは、どのような基準に対しての「運動不足」なのだろうか。また、基準があるとすればそれはいつ誰が作ったものなのだろうか。さらには、何のために運動しなければならないのだろうか。
 本書は、このような疑問に示唆を与えてくれるものであり、読み物としても、あるいは身体表象論としても十二分に読み応えのあるものである。入手が難しい事例を豊富に渉猟しているさまには「博覧強記」という言葉がまさにフィットする。しかしながら、情報量やそのカバー領域の広さ以上に特筆すべきは、著者が第1章でまず言説分析の困難さに触れていることにある。

  「したがって、ある身体観を分析しようとするとき、原理的には、それに先行するあらゆる言説と非言説を視野に入れなくてはならない。ということは、仮に、ある特定の先行する言説をもちだすとしても、それを特権的な根拠として言挙げするのではなく、あくまでも、言説の多次元的な枠組みを構成するだけの、ひとつの例証とのみ見なくてはならない」

 著者は明らかに、ミッシェル・フーコーの影響を受けた今日の言説分析に対する批判を念頭に置いている。つまり、自ら言説分析が万能ではあり得ないこと、そこからこぼれ落ちるものがあることを潔く認めているのである。それでも、著者は身体観をめぐる多様な言説を追究しようとするのだが、その際、その時代その時代の知の枠組みを形づくる言説というものを考える際に、言説分析を通して非言説、つまり言説ではないものの重要性を指摘しているのも見過ごしてはならない。

 「著者にとって、身体観とは「身体観といったような表象現象は、人間の直観的として、一見、だれもが共有している『共通感覚』であるように思われがちだ。しかし、こうした表象を成立させている言説の枠組み、あるいは価値の枠組みというものは、決して一次元的なものではない。ある特定の言説が、ある特定の明確な結果を導き出す。そんな単線的な因果関係にはないのだ。そうではなくて、ある身体観が、仮にそこに成立していたとして、それは、先行するなんらかの身体観の記憶、またそれとは逆の身体観の記憶、あるいは消えてしまった記憶のなんらかの痕跡。さらには、直接身体について語っているわけではないが、しかし、なんらかの身体的なるものを想起させることどもの言説の痕跡、こうした、諸々の言説やら非言説、イメージやら反イメージが、何層にもおりかさなって、連動し合いながら言説の枠組みを形づくっているものだ。それは、あくまでも多層的であり、しかも、その多層性の作法に単一の法則などない」

 多くの社会史的な読み物、ないし言説分析があまりに「きれいに」現代社会へとすんなり結実していく。「商品」として見ればそれは完成度が高いといえるのだろうが、賦に落ちないものが残る。それに対して本書は、必ずしも現代へと繋がらない言説や、人々の記憶のような非言説的なものもひっくるめて、現代の身体観が言説的に構築されていくさまを描こうとするのである。一見、悲観的で禁欲的でありながらそのなかに希望を失わない姿勢には共感を覚える。

 「美女と機械」と題された本書は、意外にも男性の事例から始まる。19世紀の英国。そこでは近代化・都市化に伴う諸問題が生じていた。そこから、都市という「身体」の整備とともに人間の小さな「身体」を改善しようという試みが始まるのである。
 1844年、英国キリスト教青年会YMCAが、急速な都市化が生みだした「不健全な状態」の改善に名乗りを挙げる。それは「強靭な肉体」(ストロング・ボディー)を作ることで、病気に打ち勝とうというもので「筋肉的キリスト教運動」(マスキュラー・クリスチニティ)と呼ばれた。キリスト教とマスキュリニティとの節合を考えるうえでも興味深い事例だ。そして、それはドイツで語られていた国家主義的文脈ではなく、むしろ社会的・都市管理的文脈で語られていく。つまり、ファシズムナショナリズムといった政治的な文脈ではなく、社会全体や都市の秩序を守ろうという自治意識的な文脈のなかから生じたのである。
 19世紀半ばには、そういった「不健全な状態」を効率的に回避するために、身体運動と「食餌療法」を適切に組み合わせることが語られる。それは身体との新しい向き合い方であり「身体鍛錬」(フィジカル・カルチャー)という新思潮だったのだ。英国に端を発する身体鍛錬は、たちまち植民地である米国にも到来する。発信源はハーバード大学である。著者は同大学における3人のキーパーソンの足跡をたどりながら、以下のように断言するのである。

  「二〇世紀を通じ米国市民の身体観を下支えし、ある意味では、がんじがらめにしてきた思潮というのは、十九世紀の身体鍛錬イデオロギーにその淵源をもっている」

 雑誌広告から導かれる知見は多岐にわたるが、評者がとりわけ注目したのは「女性の身体の部分化」と「スリーサイズ信仰」である。明らかに現代日本の身体表象、あるいは身体文化と繋がっていると思えるからである。
 前述したように、著者はあくまでも特定の言説が、ある特定の明確な結果を導き出すような単線的な因果関係などないとしている。しかし、このような知見は著者がまえがきで意図したこのような問題設定が見事に成功していることを示している。

  「本書は、こうした健康美神話がどのように作られてきたか、そして、それが完成した後に、どのように変質していったか。その道筋を明らかにすることをめざす。それは、今日の女性の身体イメージが誕生した瞬間に立ちあうことである。したがって、本書は二〇世紀型『美しい身体』の書と言っても良い」

 著者は必ずしも明示的には語っていないが、英国、米国に始まる身体文化が日本をはじめグローバルに拡張していることは明白であり、その意味で本著はその深淵を見事に描き出している。

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