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『湖の南』富岡多恵子(新潮社)

湖の南

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 2000年の大晦日、例年はお盆の明け八月十六日に行われる五山の送り火が、ミレニアム記念のイベントとして灯された。


 この日、それをみたのかみなかったのか。ただ、お盆でもないのに、ご先祖様の魂をお見送りするための火を、キリスト教に由来するミレニアムとやらにいたずらに灯すことを、罰当たりだと考えるひともいるだろうと思ったことはおぼえている。そんなことをしたら、きっと京都によくないことが起こると考える信心深い年寄りだっているのではないかと。しかし、そんな私の想像じたい、世紀末だからといってなんとはなしの終末感に見舞われているからなので、つまりはこれもミレニアムをめでたがることと根はいっしょなのである。

 明治二十四年五月十一日、大津で滋賀県警の巡査津田三蔵に斬りかかられたロシア皇太子ニコライはその直前までに京都見物をしていた。このとき、皇太子入洛を記念して五月九日に五山の送り火が灯されたのだそうで、こうした例外は明治の時代からあったのだと知った。その後、日清日露の先勝祝賀のさいにも、それぞれ天皇陛下東郷平八郎の京都訪問を記念しておなじことがされたという。

   *

 明治の国家体制や司法権の問題、あるいは当時の国際問題とのかかわりにおいてこれまで言及されることがおおかった大津事件。著者は、近年発見された津田三蔵の書簡を読み込みながら、この国家の一大事を巻き起こした、明治日本のひとりの近代人に焦点をあててこれを描き出した。

 津藩藩医の次男として生まれた三蔵は、維新後の明治四年、十七歳のとき、新政府の兵士として召集された。配属先からの三蔵の手紙には、病気がちの母や兄弟たちの生活への気がかりが綴られている。長男である兄は家を荒らすばかりの困り者であったため、次男の心配の種は尽きることがない。母の看病と一家のこれからの生活のため、一刻もはやく除隊して帰郷したい三蔵だが、それは叶わず、各地に赴き兵役にあたりつづけた。西南戦争では左手に銃弾が貫通するという名誉の負傷をし、そのため勲七等の勲章を受けている。

 ようやく除隊となり郷里にもどった三蔵は二十七歳になろうとしていた。十年間兵士として新政府に仕え、その間学問もままならなかったため、明治というあたらしい時代で生きていくための学歴もなく、その幕開けの混乱にただ巻き込まれ、文明開化からとりのこされた彼は郷里の三重で巡査となった。 

 一度の依頼退職と、「上席巡査侮辱」を理由とする免職ののち、こんどは滋賀で巡査に志願。滋賀各地の部署に勤務し、明治二十三年、守山警察署詰、三上村駐在所勤務となる。翌年、訪日したロシア皇太子ニコライ一行の警護のため、三蔵は大津へと動員される。ここで事件はおきる。

 生まれてまもないアジアの小国家だった日本の巡査が大国ロシアの皇太子を斬りつけた。この一大事に国家も国民も青ざめる。皇太子の訪日が、日本を攻めるための視察であるとの噂は、庶民にまで信じられており、それだからこそ国家は皇太子一行を最上級のもてなしをするつもりでいたのだった。

 三蔵は事件後すぐ「狂人」扱いされるが、裁判所の精神鑑定ではそうとはみなされていない。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで「精神医学でいう狂人ではない。思想的狂人」あるいは「素朴な攘夷主義の信者」と書いたというが、著者はこれにたいして疑問を投げかける。

 三蔵の遺した手紙からは、彼が「なにごともイイカゲンにできない」「相当に、ものごとがキッチリと確認されないと安心できぬ性分」であったことがうかがえる。また事件後の関係者の証言からは、彼が極端に無口で、その挙動も他人とは異なる人物であるとわかるが、「政治向きの関心があったことは、だれもが認めていない」という。

 事件後すぐ「兇行者は何者か」との声に、三蔵は「旧藤堂和泉守の藩士」であると答えた。またこの日、彼が配置された三井寺ちかくにある「御幸山西南戦争記念碑」の前で、やってきたロシア人二人に最敬礼をしたが無視され、その無礼に「ドーモ慷慨ニ堪ヘ」ず、「記念碑ノ前ニテ西南ノ役ノ事ヲ思ヒ出シ 色々胸ニ浮ビ 死者ニ対シテモ感慨ガ起リマシタ」と供述する。そこから「素朴な攘夷主義の信者」といった評価は生まれたのかもしれない。

 しかしその犯行の動機は、「当時如何ニシテ斯ヽルコトヲ仕出来シタルカ其ハヅミハ自分ナガラ分ラヌ次第アリ」あるいは「細カキコトハ一々申上ゲ難シ只ダ自然ノ感覚ガ起リタリ」。つまり三蔵自身にもよくわからないのである。

 きわめて几帳面で融通がきかず、めったに他人と口をきかず、どこか常人とはちがったところがあるとみなされていた男。くわえて時代にとりのこされ、生活の苦労が絶えないうえでの、巡査勤めの鬱屈。今のテレビのワイドショーでなら、「ストレスによる心神喪失」とでも表現されるのだろうか。しかし、日本の近代化のごたごたのなかで、戦争に駆り出された男の体験は「明瞭に言語化しうるほど単純なものではなかった。」と著者は書く。「『死者ニ対シテモ感慨ガ起リマシタ』の『感慨』が『自然の感覚』に運ばれて三蔵の凶行を押し出す震源にひろがっていったのだとしても、本人がその『感慨』の具体を語りえず、他人はそれを知ることはできないのである。」

   *

 事件と津田三蔵、あるいは皇太子ニコライをなぞる筆は後半、大津の著者のもとに送られてくる差出人不明の奇妙な手紙へとおよぶ。本書を、津田三蔵の書簡という「新資料」をもとに、この歴史的事件を書きかえるべくなされた歴史小説、あるいは津田三蔵をめぐる人間ドラマとして読んでいる者にとっては、かなり唐突な脱線なのだが、ここにきて、語り手としてこちら側、つまり読み手の側に立って事件をたどっていたかにみえていた著者が、本のなかで、ひとりの登場人物としてはっきりとたちあらわれてくる。

 大津に居を移した著者が、買い物途中、「此附近露国皇太子遭難之地」いう記念碑にぶつかり、自らの身辺からこの事件にしだいに迫っていくのを追っていくうち、読み手は、「歴史小説」や「人間ドラマ」とはまったく別のある物語に立ち会っていることに気づく。そしてそのことによって、津田三蔵の生きた明治という時代と、私たちの生きる現代をひとつづきのものとするある大きな流れのなかに、読み手は押しやられてゆくのである。

 手紙の差出人(著者は「旅先より」といつも書かれてあることから彼を仮に「タビト」と命名)は、彼のいうことがほんとうであれば、著者が以前住んでいた家に出入りしていた電気屋の息子であるという。もう四十にちかく、両親は亡くなり、妻にも先立たれて子どももいない孤独の身である。

 タビトは、「なにをしても迷惑をかける家族はいない」と前置いて、「あの二人の人がいなくなると、できたらもう一人いなくなると、かなり変わると思うのです。」などと、なにやら物騒なことを書きつけてくる。

 もしも手紙の主がほんとうにあのときの「電気屋の息子」であれば、とてもある種の「運動」をしていた若者にはみえなかったと著者は思い、「なにか妄想に支配されているのではないか」と訝り、また「どうしてわたしの移ったばかりの棲家を知っているのか、それが一番気味悪い」と不安がる。

 事件と三蔵、またニコライのその後を追いながらも、タビトの手紙についての記述はつづく。

 「だれかが爆弾を仕掛けて大勢の人が死ぬと、罪もない人を巻きぞえにしてとか、罪もない幼い子供まで、とか新聞には書いてありますが、いつもおかしいと思っています。罪のない人なんていません。(…)だれもが偶然に、意味もなく死んでも不思議なことはありません。」「突然でおかしいかもしれませんが、この数年ずっと、自分は人なんてとうてい殺せないのに、だれかをヤッテしまわないかという気がして、時どき気持ちがたかまっていくので困ります。」「最近少しずつわかってきたことがあります。それは、本当のことはいってはいけないし、本当のことをいっても、だれも相手にしてくれないのだということです。」

 津田三蔵の動機は何だったのか、「大津事件」とはいかなるものだったのか、著者が直接語ることはない。事件後の五月二十七日、三蔵の死刑を主張する政府を裁判所が却けるかたちで無期懲役の判決が下る。三蔵は九月三十日、収監先の釧路集治監で衰弱のため死亡した。

 タビトからの手紙は依然として送られてくる。「学校が夏休みになると、どこへ行っても子供がいてうんざりします。クルマが混んでいるので、仕事になりません。とくに、お盆のころの高速道路の渋滞には毎年いやになります。不思議なのは、何十キロの渋滞でも、みなけっこう楽しそうなことです。(…)みんなが休むから休む、みんながいくからいくのが楽しいのです。」

 「本当のことをいっても、だれも相手にしてくれない」とわかっているのなら、こんな手紙をなぜ出すのだろう、などといえるほど、ひとも世の中も簡単ではないのだろう。タビトがなぜ著者に手紙を送りつけてくるのか、その動機を問いただしたら、津田三蔵がそうだったように、タビト本人にもよくわからないのかもしれない。

 「縁もゆかりもない人間に、ひと時でも理不尽に感情を支配されるので、手紙を読まされる度にどこかに不快感と不安が残る。これがホンモノの『ストーカー』につきまとわれたら、どんなに不安で不快、それより恐怖するだろう。(…)それでもまだわたしには、ひとりの四十ちかい男が(…)父の店のお客さんで、気さくに(?)話していたオクサンを思い出して手紙を書いているとしたら、なんて思いやるところがあり、もしなにか事件が起れば、それが甘かったとなじられるのだろう。」

 もしもタビトがほんとうにいて、この本を読んだなら、著者に、「では津田三蔵はあなたにとって縁もゆかりもある人間なのですか?」などと問いかけてきそうではないか。

 結局、手紙の一件のゆくえはわからずじまいである。最後、これもまた唐突に、大津の花火大会とその人手、「ユカタ姿の女の子」が目立つという話題から、数日前に美容院で若い美容師にきいたエピソードで本書は幕を綴じる。

 その美容師が友人と誘い合い、浴衣を着て京都の祇園祭ででかけたときのこと、あまりの人ごみに歩くのもやっと、気がつくと、友人のひとりの帯(うしろの結び目をただ取り付けるだけになっている式の)の結び目が抜けて、どこかにいってしまっていた、その子は怒ったり泣いたりで…との、それは「笑い話」として紹介されるのであった。

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 2000年の大晦日、例外的に行われた送り火をみたかどうかの記憶がないのは、そのころの私が、人びとが無邪気にありがたがる「京都」らしいものにたいして、卑屈な抵抗感をもっていたせいだった。このときすでに京都へ住みはじめて何年かが経っていたが、毎夏、送り火がはじまったよ、と家人が教えてくれても知らぬ顔、人びとで埋めつくされた鴨川の河原にわざわざいってみるなど、思ってもないことだった。祇園祭にもいちどもでかけたことがなかった。私はタビトのように、みんながいくから私も、という行動原理を馬鹿にしていたのではなかったが、今にしてみると、はたしてどうだか。いまでは宵山には浴衣でも着て一杯飲みにでかけたくなる私だが、かつての「京都」なるものへの行き過ぎた嫌悪感と、著者を気味悪がらせたタビトのある思いこみは、たいしたちがいはなかったかもしれない、との思いもある。


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