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『Up in the Old Hotel and Other Stories 』Joseph Mitchell(Vintage Books)

Up in the Old Hotel and Other Stories

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「ジョゼフ・ミッチェルのニューヨーク」


 グリニッチ・ビレッジにも夏が来たようだ。ワシントン・スクエアの真ん中にある噴水にも水が張られた。ストリート・パフォーマーたちも戻ってきた。

 平日の午前中のワシントン・スクエア。平日でも人は多い。(こんな時間にブラブラしていて、一体この人たちは働かなくてもいいのだろうか)。自分のことを差しおいてそんなことを考える。この公園の常連であるサミュエルと今年も会うことができた。サミュエルは作家を目指している。

 「苦しい生活の体験談をいつかハリウッドが買ってくれないかな」

 去年の秋、最初の冷たい雨が降った日に近くのカフェでサミュエルはそう呟いた。一杯のコーヒーは僕からのその年、最後のプレゼントだった。

 今年も昼間からワシントン・スクエアのベンチに座っているところをみると、ハリウッドからの誘いはまだきていないようだ。サミュエルは疲れているようにみえた。

 サミュエルと別れて立ち寄ったセント・マークス・ブックスでジョゼフ・ミッチェルの『Up in the Old Hotel』を見つけた。ジョゼフ・ミッチェルは1908年7月27日にノースカロライナ州で生まれた。1929年、当時発行されていた『The New York Herald Tribune』に自分のコラムを載せて以来、30年代から60年代半ばまでニューヨーカー誌にコラムを書いた。

 本書はそのコラムの集大成といってもいいだろう。全ての作品は最初にニューヨーカー誌に掲載されたものだ。ミッチェルはジャーナリストとして高い評価を得た。ゲイ・タリーズなども好きな作家としてミッチェルの名前を真っ先に挙げている。

 ミッチェルは映画俳優や財界の要人などのレポートは避け、代わりにニューヨークのじゃま者たちに光を当てた。酔っ払い、挫折した者、詐欺師、それに街に生息するゴキブリや鼠などを題材にコラムを書き続けたのだ。ミッチェルの作品はニューヨーカー誌のライターたちからも最高の作品と評価されている。

 ミッチェルは60年代半ばから、ニューヨーカー誌の自分のオフィスにこもり、人に聞かれると「今、書きかけのものがある」といいつつも何も書かなかった。

 1964年の記事を最後に彼の署名記事はニューヨーカー誌に二度と現れなかった。1996年5月、87歳でこの世を去った。死んだ場所はマンハッタンだった。

 僕は本を持ってワシントン・スクエアに戻った。サミュエルの姿はもうなかった。噴水の側に座り、昼間に仕事をしない人々を見ながら、ミッチェルのコラムを読んだ。夏の光が公園に溢れていた。


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