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『アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社)

アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで

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「ポピュラー音楽はすでに伝統芸能か?」

 タイトルだけからすると正統派の音楽史だが、実際にはなかなか強烈な〝斜めの目線〟を隠し持った本である。

 音楽批評はしばしば「そのとき、オレは現場にいた!すごかった!」的な熱気にのせて語られることがある。対象が音楽であれば、たとえ録音されたものであってもナマモノな的な迫力は大事だろうから、「そのとき」の熱気を「オレ」の一人称で生々しく伝えることにはたしかに意味がある。しかし、それは報告ではあっても、批評の域にまで達することができるだろうか。批評というからには、巻き込まれつつも対象と一定の距離を保つことも必要となる。

 同じような問題は、いわゆる音楽史にもついてまわる。歴史というからには、単なる「過去に起きた現在」の寄せ集めだけでは十分ではない。これは歴史です、と宣言する以上、そこには個別の「そのとき」を越えた何かが、流れを持った議論として語られねばならない。そのためには当然、報告を越えた批評性が必要になってくる。

 大和田氏の「音楽史」は、これらの課題を徹底的に意識したものである。大和田氏自身が音楽活動を行う人なのであり、行間からも溢れるほどの音楽愛がにじみ出してくるのだが、同時に著者はいかに音楽に対して冷めてみせるかに腐心してもいる。溢れるほどの音楽愛にとりつかれながらも、いかに愛など問題ではないかをジェスチャーとして示そうとする。やや倒錯的なほどに。

 しかも、その背後にはもうひとつの倒錯もある。著者は1970年生まれ。筆者とそれほど年が離れていないからそのあたりは実感としてわかるのだが、この世代の人にとっては物心ついたときアメリカのポピュラー音楽はすでに古典と化していた。80年代にミック・ジャガー(イギリス人だが…)が初来日したとき、彼はすでに40歳を越えていた。クラシックならまだしも、40歳をすぎて古典化したポピュラー音楽に対し、「イェイ!」とか「ワァオ!」とか叫びながら熱狂すること自体がすでに倒錯的である。ポピュラー音楽の研究にしても、九〇年代にはすっかり教科書化している。ナマモノであることが売りのポピュラー音楽はすでに過去のものと化しつつあるのだ。

 しかし、大和田氏が追いこまれた〝斜め〟な環境は武器ともなる。もともとアメリカ文学の研究者として出発した氏にとって――しかもよりによってハーマン・メルヴィルの研究者だ――はるか昔に死んだ書き手による、よくわからないテクストを分析するという立場に身を置くのは、決して難しいことではないのである。しかも、文学研究自体がかつての作家主義から文化批評へと重点を移しつつある、その潮流をしっかりとらえて大和田氏はたとえば従来の「ロック史」を次のように批判する。

 実は、このようにエリヴィス・プレスリービートルズなどの固有名詞を中心に記述される従来の「ロック史」は、「偉大なる作家」とその作品の分析・鑑賞を主眼とするかつての文学研究の手法を踏襲したものだ。ロマン主義モダニズム的な歴史観において、「作品」は単一の「作家=アーティスト」と結びつけられ、傑出した作家の羅列そのものが芸術ジャンルの〈歴史〉を構成する。こうした手法がポピュラー音楽の歴史化の過程でも採用され、「偉大なるロック・スター」を中心とする歴史がかたちづくられたことは想像に難くない。そして、このような歴史観にもとづくかぎり、一九五〇年代後半から一九六四年までの音楽シーンは活気のない低迷期として認識されるほかないだろう。あるジャンルにおける「天才の不在」が、そのままジャンルの停滞期として解釈されるのだ。(169)

 わざわざスター不在のおもしろくない時代をおもしろがろうとするとは!何て物好きな!と思う人もいるかもしれない。「このような歴史観にもとづくかぎり…」なんて難しいことを言うヒマがあったら、プレスリーでもストーンズでも素直に楽しめばいいではないか?無理してガマンして好きでもないものを一生懸命聴くなんて身体に悪いですよぉ、と。

 しかし、こうした箇所から読み取れるのは、大和田氏が音楽と批評という必ずしも相性のよくないふたつのものを結びつけるためにこそ、こうした仮面をかぶっているということである。大和田氏は内側に嫉妬やら倒錯やらを抱え持ちつつも、いくつもの仮面をかぶることでさわやかな論を展開するのに成功しているのだ。いや、音楽批評とは倒錯を抱え持つことでしか、さわやかにはなれないものなのだ。

 それは大和田氏が本書の中で強調している、アメリカ音楽の擬装願望とも関係するだろう。とくにロック。そもそもフォークシンガーが匿名性の中に埋没することで共同体の歌を歌おうとするのに対し、ロックは「私自身=アイデンティティ」を表現するものだとされてきた。六〇年代のカウンターカルチャーの時代には、「私」の肯定が求められたからである。しかし、大和田氏はそんなふうに「私」にこだわるロックが、「擬装」への憧れを隠し持ってきたと主張する。

 そして、だからこそ〈擬装〉と〈匿名性〉というフォークの価値観を抑圧するロックは「有名」であることと矛盾をきたす。ジム・モリソンからカート・コベインにいたるロック・ミュージシャンが「有名性」と「無名性」の間で引き裂かれてきたのは、フォークを抑圧するロックがかかえる構造的な問題だといえるだろう。しかし、〈擬装〉や〈匿名性〉をアメリカ音楽文化の特性であるとひとまず仮定してその歴史をあらためて振り返るとき、ロックにも「私自身=アイデンティティ」の表現とは異なる「他人になりすます」音楽の系譜を読み取ることができるのではないか。(188)

 大和田氏のロック擬装説はおそらく今後さらに別の機会を得て展開されるだろう。楽しみである。

 そんなわけで本書では、ミンストレル・ショウにはじまってブルースやカントリーから「ティンパン・アレー」と呼ばれる二十世紀初頭の量産音楽、ジャズ、ロック、ヒップホップ、ラテンなど章ごとにターゲットを定めながら、単に楽曲をテクスト分析するだけでなく、それぞれの音楽潮流が社会の中で生成していったその現場を再構築するという手法がとられている。

 その中でも個人的に興味深かったのはジャズの箇所であった。いや、音楽史というと、どうしてもジャズのところが気になるのである。筆者の近辺にはジャズには詳しい人が何人かいて、いつも「あれを聴け」とか「修行が足りない」「お前はわかっていない」とか言って励ましてくれるのだが、どうもなかなかうまく入門できていない。今回も、例によってマイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』の"So What?"を聴きながら、ここでは「垂直性」から「水平性」への転換が起きているのだよ、という大和田氏の解説を読む。

 これはピアノの楽譜を想像すればわかりやすいだろう。即興演奏のフレーズ(右手/上段)が和音(左手/下段)による「垂直的な」拘束を受ける機能和声に対して、そのような束縛から解放されるモード奏法はスケール(右手/上段)の「水平的」な音階にもとづいてソロが展開されるのだ。『カインド・オブ・ブルー』のサウンドを形容する表現としてしばしば「浮遊感」という言葉が用いられるのは故なきことではない。モード奏法はコードという重力から解放されることで音階の「水平的」な響きを特徴とする手法であるからだ。(127)

 なるほど。ピアノの比喩ならわかる。つまり、水平とか垂直というのは、とりあえず形而上学的なことではないのだ。音楽批評は話が急にテクニカルになるのでびっくりするが、そこはむしろ信頼できるところだ。『カインド・オブ・ブルー』を聴きながら、「水平」といわれると「水平かもね」という気がしてくるのである。きっと、たらたらたら~とか、ひょろひょろ~とつながるあたりのことを言っているのだろう。そんな具体的な例を踏まえたうえで、大和田氏は話題を一段ステップアップさせ歴史の話へと移っていく。このあたりがやはり本書の目指すところなのだろう。

民族音楽としてのニューオリンズ・ジャズから大衆音楽のスウィング・ジャズを経て、ハイ・アートとしてのモダン・ジャズにいたる〈普遍的な歴史〉がきわめてモダニズム的な歴史観に裏づけられているとすれば、ジャズ史におけるポストモダンはそのような直線的な歴史の無効化を意味している。端的にいえば、もはやモード奏法以降のジャズ史に「目的」はなく、さまざまなサブジャンルが無時間な平面上に並立しているだけなのである。(128)
「さまざまなサブジャンルが無時間な平面上に並立しているだけなのである」なんて、まるで小林秀雄の「無常といふこと」をさわやかにしたかのようだ。このように大和田氏の文章には、たとえ長めの文であってもすっとこちらの頭に入ってくるようななめらかな読み心地があるのだが、それは実際には単純なさわやかさの表出ではなくて、さまざまな抑圧やら逆転やらが重なり合ったからこそ生み出される複雑な熱気の産物なのだと言える。音楽史としては次世代意識の強い本だが、全体を通してリサーチはたいへん丁寧で、第一世代の議論を踏破するのにも便利である。力作だと思う。

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