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『ビリジアン』柴崎友香(毎日新聞社)

ビリジアン

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「口の中がざらざらする小説」

 夕陽と川べりと工場街を背景にした静かな世界である。だが、癒し系とも違う。セピア色の〝昭和〟な感傷にひたりたくなるが、それも違う。どこかピリピリしたものがある。

 『ビリジアン』は掌編を20ほど連ねて、小学校から中学、高校へと至る思春期女子の姿を、ときに時間軸を前後しながら描き出した作品である。場面は学校の教室や登下校が中心で、いかにも何もなさそうな世界ばかり。実際たいしたことは起きないのだが、読んでいると何か落ち着かない。

 たとえば冒頭の「黄色の日」はタイトルの通り、空の色が黄色くなった日のことを書いている。

「今日はえらい黄色いですなあ」
「ほんまですねえ」
二人とも立ち止まらないまま同じようにまた上を向いた。西山先生のうしろの子どもたちはまだ子どもでよくわかっていないのか、ふつうの日と変わらずに隣の子としゃべったり前の子を蹴ったりしていた。男の先生が、離れていく西山先生の背中へ向かって言った。
「どないしたんでしょうねえ」
「天変地異ちゃいますか? こわ」
そういうことを言うから、わたしは西山先生が好きだった。西山先生は彼女の新しい子どもたちを連れて、講堂へ入っていった。(19)

ほのぼのしていて、ここだけ取り出すと典型的な微温小説のように読めるかもしれないが、どういう作用か、通して読んでくるとこちらはじわじわと不安感のようなものに苛まれている。登場人物たちがやけにのんびり前向きでふつうなのが、よけい気になる。

 冒頭部はこんな具合である。

朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言ってなかった。(10)

 語り手は繰り返し「黄色」のことに触れるのである。「黄色い」という言葉そのものが、小説の中に混入した慢性病のようにも感じられてくる。

三時間目には、黄色くなり始めていた。最初、豪雨の前ぶれのときのように、昼間なのに夕方みたいという感触を持ったけれど、すぐに違うと気づいた。だって、黄色すぎるから。きっとみんな、そう思ったと思う。(14)

黄色は未来についての漠然とした不安のようなものにもつながっているのかもしれない。でも、誰もそれをはっきり言葉にしない。語り手も含めて。かわりに読者が先走って心配してしまう。

「消しゴム、半分ちょうだい」

わたしが言うと、中川は机から薄いプラスチックの定規を出し、消しゴムを切り始めた。その手も消しゴムも地図帳もノートも机も、全部ぼんやりと黄色っぽい光に覆われていた。

「なんか黄色くない?」

「だいぶ黄色い」

中川は、窓を見上げた。わたしも空を見た。薄暗くどこまでも雲に覆われた空は、黄色かった。(16)

こういう部分をへてさっきの「ほのぼのした」会話に至るのだが、その頃にはこちらはほのぼのしただけではすまない気分になっている。

 これはいったいどういう「気分」だろう。

 『ビリジアン』の表層はごく日常的である。主人公はいかにも主人公らしく、いたずらだったり、おてんばだったり、呑気だったり。感覚も鋭敏で周りもよく見ているし、よく反応するし、電車の中で変な伝道者に絡まれたりして、言ってみればいかにも主人公にふさわしい人物である。

 ところが、一見静かでおとなしい語り口が、実はあまりに静かすぎて「どこか変だぞ」という気持ちを呼び起こす。心ここにあらずとでもいうような、情緒の一部が冷えきってしまったような視線である。そのせいでかえって、見ているはずのものについて、まるで見えていないような気分にさせる。どこか無機的なのである。実際、この連作集には砂や石のイメージがあふれている。終わり近くの「船」という一篇には次のような箇所がある。

 堤防の外の場所は全体に光が当たっていて、そこにあるものがどれも同じ物質に見えた。堤防沿いに歩いた。巨大なタイヤのトラックがわたしを追い越した。砂が熱風で舞い上がって、口の中がざらざらした。皮膚の上で汗と混ざった。(238)

 このような「口の中がざらざら」する感触はまさに典型的だが、さらに言うと砂や石や水のイメージの背後にあって一番重要なのが、「どれも同じ物質に見えた」という感覚でもある。ほのぼのとした思春期小説の仮面をかぶっていながら、『ビリジアン』には事故や病気や死や暴力のことがちょくちょく出てくる。怖ろしい大地震や天変地異もちらっと言及される。しかし、決してテーマとはならず、それらをめぐって深く考えたり、思い出したり、思考したりということもない。あくまでちらっとのぞくだけ。そんな意味ありげなものなのにちらっとしかのぞかないのは、たぶん、小説の世界が「どれも同じ物質に見えた」という目でつくられているからだと思う。

 中学校の廊下は石だった。濃い灰色に白い粒状のものが混じっていた。表面は光っていた。よく滑った。階段も石だった。段も、手すりも、硬くて縁は角張っていた。だからぶつかって頭を打つやつがいた。目の前で二年生の男子が血を流していた。流していたというよりは、噴き上がっていた。短い間だったけど。(160)

 暴力は終始このぐらいの距離感で描かれる。「たいへんだ!」という感じはない。主人公が爆竹を破裂させて顔に火の破片があたっても(「火花2」)、いじめにあって殴られ血を流しても(「赤」)、バイク事故で切断寸前になった指のことが語られても(「白い日」)、どれもあの冒頭の「黄色の日」と同じように、「なんか黄色くない?」という程度の温度で受け取られる。こういう〝微温性〟はなかなか独特だ。何よりこの微温をずっと維持するのはけっこう難しい。おそらく秘密は〝ブレンド〟にある。イメージとイメージの配合のバランスのおかげで、どんな情緒も突出しない。話が特定の方向に盛り上がったりもしない。どうやら、人が何かを強く思ったりしないようになっている。

いきなり背中を跳び蹴りされて、駐車場に転がった。灰色のコンクリートが目の前に迫ったとき、灰色の表面の刷毛の跡まで鮮明に見えた。擦り剥いた手を蹴られた。起きあがりかけたら、昼間と同じところを殴られた。二度目を避けようとして、頭を殴られて、また背中を蹴られた。小石の刺さった膝と手が痛んだ。手首と肘に血が滲んでいた。血が出なければいいのに、と思っていた。なんの役にも立たないのだから。吉本さんたちは、またティッシュをくれた。そして、やめたりいや、なんでそんなんすんのよ、なども言ってくれた。(「赤」156)

 登場人物たちはそれなりに状況を一生懸命生きているようだが、この暴力シーンに際しての「やめたりいや、なんでそんなんすんのよ」なんていうセリフの間延びした感じは何なのだろう。

 こういう世界に入り込んで、私たちは「どこか変だぞ」と思うわけである。ふつうなら、病気だの死だの暴力だのとなると、「すわっ、小説のはじまり!」といきりたつのが読者というものだが、そうなるかわりに、マイナスのシグナルはちら出しで終わる。私たちはこのようなマイナスの要素に、今そこにある生々しいものとして遭遇するのではない。あくまで気配として感じるだけなのである。

 描出されているのは予感そのものかもしれない。未知に対する漠然とした敏感さと言ってもいい。今ある世界が、まるで未知のもののように見えている。だから予感は決して明確な形をなすことはなく、静かでおだやかな世界の中に混じりこんでいる。思春期小説なのだが、思春期のステレオタイプな明るさや元気さや感傷性は抑制され、「気分がよかった」とか「好きだった」といった感慨さえも、ぴりっとした緊張感やじわっと染み出すような不安とブレンドされている。イメージそのものはこの作家が他の作品でも用いてきたものだが、醸し出される気分がちょっと違うように思った。ずっと前に読んだ山本昌代の作品を思い出したりもした。


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