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『まなざしのレッスン 1 西洋伝統絵画』三浦篤(東京大学出版会)

まなざしのレッスン 1 西洋伝統絵画

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「入門書の王道」

 文学を専門にしていると、ときに美術の専門家がうらやましく見えることがある。言葉を言葉で語ると、いかがわしい要素が混入しやすい。対象と距離がとれていればいいが、いつの間にか分析対象の言葉に伝染したり似てしまったりということがある。しかも、場合によっては、そんなふうに道を外れた方がかえっておもしろかったり刺激的だったりもするからややこしい。

 それに比べると美術語りというのは、実にさっぱりして清潔だ。目の前にきちんと対象をすえ、「ほら、ここね。よ~く見てください」なんて指差しながら、紛れもない証拠をつきつけてくる。もちろん文学にだって〝引用〟という武器があるのだが、私の知り合いの研究者などは「俺さあ、引用のとこって、面倒くさくて飛ばしちゃうんだよねえ」なんて言っている。たしかにその心理はわからなくもない。引用部というのは地の文と微妙にリズムが変わるから、するっとは入っていけないのである。これでもかと引用が連ねられたりすると、やたらと添付ファイルの多いメールと同じで、つい放置したくなる。

 ゴンブリッチパノフスキーといった美術史家たちが、美術の領域をこえて幅広い読者を得たのも、「よ~く見てください」という指差しに、上質の知的快楽がこめられていたからである。言葉でものを語るというのは、まさに批評の原点のひとつ。井戸端会議でのゴシップだって、快楽のツボはそこにある。「うわあ、そうよねえ、よく言葉にしてくれたわ」というふうに。

 三浦篤の『まなざしのレッスン』にも、上質の快楽がある。ここでも基調となるのは絵画語りならではの「よ~く見てください」という指差しである。もちろん、傾聴に値するコメントに伴われてこそ、そんなレトリックも生きてくる。以下は、ルーベンスの「パリスの審判」をとりあげた一節。

ルーベンスは画面を構成するにあたり、審判する側とされる側を左右向かい合わせにして、両者の間に緊張感を持たせていますが、よく見ると左右の樹木の枝ぶりや傾いているさまも、またヘラの孔雀がパリスの犬を挑発している細部も、やはり対立をはらんだ拮抗感を巧みに演出しており、画家の技量を感じずにはいられません。

 もちろんこうした「よく見ると…」のレトリックは、顕微鏡を使って小さいものを大きくみせるような、〝拡大〟の魔力によるのだけではない。むしろ大事なのは、まなざしの〝やわらかさ〟である。臨機応変に目の知性を駆動させること。場合によっては目を離したり、目をくらまされたりすることも必要になる。たとえば著者は、レンブラントの「イサクの犠牲」が「登場人物のポーズを大きくジグザグ状につないで、よりダイナミックに絵画化」していることを指摘したりするが、このような「ジグザグ」は、前のめりに画面に向き合うだけでは感得できないものだろう。

 とくにエネルギッシュな画風を説明するときには、このようなまなざしの柔軟さが役に立つ。美術史上の「様式」という概念を説明する一節で、著者はミケランジェロルーベンスの画風の違いを次のように言葉にしてみせる。

ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の壁画が、個々の形態を明確な輪郭線で枠取り、触知できるような立体感を表しているのに対して(線的)、ルーベンスの作品では形態の境界線を曖昧にし、あくまで視覚的な現象として捉えています。また、水平垂直の平面的な層構造で画面を構成する前者に対して(平面的)、後者は空間の奥行き、前後関係を強調しているのがわかります(深奥的)。さらに、ミケランジェロ作品が画面の中で完結した統一性を保持するように、シンメトリカルに構築されているのに対して(閉じられた形式)、ルーベンス作品は緩やかな枠組みの下での動きと変化を重視し、不均衡な斜めの構図を採用しています(開かれた形式)。加えて、前者では個々の要素が全体の統一性の確立に協調しながらも独立性を保っているのに対して(多数的統一性)、後者では各要素が分離されずに1個の量塊(マッス)として流動しているのです(単一的統一性)。

専門家からすると常識の域に属する指摘かもしれないが、すっと入ってくるようなやわらかい語り口のおかげで「前後関係」とか「不均衡な斜めの構図」とか「量塊(マッス)」といった、下手をすると〝カッコいい抽象性〟に堕落しそうな表現が、実に心地良い具体性を持つ。著者の語り口のひとつの美点は、絵の中の質感や〝動き〟に対する反応の良さだと言えるだろう。

 図像学の知見を頼りにした絵画入門のたぐいは数多く出版されているが、「AはBの象徴です」とか「Aはこの時代は即座にBを連想させたものです」といった説明は、はじめは「へえ」と思わせるものの、すぐに退屈になってくる。そうした知識は、情報として私たちが絵画を見るときの助けにはなっても、私たちの絵画体験をほぐしてくれるものではない。「どうやって見るか」とともに、「どうしてこう見てしまったのか」をも私たちは知りたいのである。

 もちろん、本書もまなざしの快楽に淫するだけではない。いや、むしろ受胎告知のテーマからはじめて神話画、宗教画、寓意画、肖像画、風景画と、近代西洋絵画の主要テーマを古典的な作品を参照しながら辿っていくやり方はきわめて正統的なもので、きちんと絵画史の常識が身につくように工夫もされている。図版も豊富。

 ただ、何よりこの本の魅力を体現しているのは、「絵の置かれる場所」とか「細部は語る」といった表題を立てた、各章にひとつずつ用意されたコラムではないかとも思う。その中でもとりわけ印象に残ったのは蠅の話である。絵画にはときに「あれ?」というような〝雑音〟が紛れ込んでいるもの。その中でも蠅は、その小ささにおいて、またその象徴性において、抜きん出た〝雑音〟となっているという。クリストゥスの「カルトゥジア会修道士の肖像」に見える蠅に焦点をあてた或る研究者は、そこに「メメント・モリ」の教訓を読むとともに、普遍的な美と、さらには画家自身の署名をも読んだ。そういう指摘に〝ふ~ん〟とうなりつつ、この知見を結果としてだけ受け入れるよりも、蠅を見てしまうような目の、その〝まなざし〟のあり方そのものに興味をかきたててくれるのが、本書の入門書としての力なのである。

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