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『大人のための国語教科書 ― あの名作の〝アブない〟読み方!―』小森陽一(角川書店)

大人のための国語教科書 ― あの名作の〝アブない〟読み方!―

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「国語を去勢する」

 なかなか読みでのある新書である。思わず線を引いたりコメントを書きこんだりしてしまう。取り上げられるのは、漱石の『こころ』、鴎外の『舞姫』、芥川の「羅生門」など国語教科書の〝定番〟。これらが高校国語教育という独特の文化の中でいかにゆがんだ受容を強いられてきたかを、国語の先生の〝あんちょこ〟とも言われる「指導書」を参考に分析していく。どの章もちょっとした推理小説仕立てになっているので、「いったい答えは何かしら??」とどきどきしながら頁を繰ることになる。ナラティヴの焦らしもうまい。

 ただ、実にねじれた本でもある。何よりタイトルだ。著者の姿勢は一貫してまじめというか、ほとんど正義の味方のように颯爽としているのだが、このタイトルはどう見ても〝ヤジ〟である。だいたい「あの名作の〝アブない〟読み方!」という副題の安っぽい盛り上げ方は何なのだろう。これではまるでキャバクラ潜伏記ではないか。著者をちゃかしているとしか思えない。しかも角川のこの〝Oneテーマ〟というシリーズは「本書のテーマ」なるものを裏表紙の一角に掲げることになっていて、そこにはしれっと「国語教科書の読み方」などとあるのだが、その直下に「文学研究の第一人者が暴く 『国語教科書』の裏のウラ」などと書いてもある。つまり、久しぶりに勉強しようかなという「大人」向けに国語教科書再入門的なタイトルをかかげておいて、直後の副題では「べ~。この〝大人〟は〝大人のおもちゃ〟のあれです♪」とひっくり返し、さらには、教科書作成の裏にびっくり仰天するようなおぞましい陰謀が隠されているかのようなキャッチコピーをつける。実に節操がない。

 ただ、問題はこうした体裁をまとってしまった責任が、ある程度、本書の内容にもあるということである。本書の内容は、このようなタイトルや売り文句から想像されるものとはぜんぜん違うのだが、では、どういうタイトルをつければいいのかというとちょっと悩む。どうもやると宣言したことと、実際になされることがずれているのである。

 冒頭で著者の小森氏はこの本が共同作業の結果であるという説明をする。大学院に入学してきた前田英明という高校の国語の先生との出遭いの結実だというのである。ところが本文に突入するや、打って変わって直球勝負というのか、著者の強烈な肉声が聞こえる押しの強い文体でぐいぐい議論が展開され(いちおう〝ですます調〟なのだが)、著者自身の論文に言及しながら語りは勢いを増し、ついには「憤り」まであらわにする。

芥川龍之介が『羅生門』を発表したのは一九一五年(大正四年)です。この時期には、『羅生門』の時代の日本と同じようなことが起きていました。(中略)天皇の権威を利用して軍部がどんどん好き勝手なことをやっていき、それに対して都市暴動までが起きていた時代だったのです。そういう時代状況のなかで芥川龍之介はこの小説を発表しているのに、そのことに触れないのは問題なのではないでしょうか。

 そのように考えてみるなら、小説内部の世界とそれが書かれた時代状況についての隠蔽がなされている、ともいえそうな、現在の指導書における『羅生門』の扱いには、憤りにも似た思いを抱かざるをえません。

…とこんな感じで、かなり強烈である。

そもそも本書の起点となっているのは、高校の国語教育で、生徒に画一的な読みが押しつけられていて、自由な読みが抑圧されている、という危機感である。やり玉にあがるのは教科書そのものと、その付録として教員に影響力があるとされる「指導書」である。たとえば漱石の『こころ』。各社の指導書では、抜粋という形で作品が掲載されていることもあり、物語が先生の手紙というワンクッションおいた形で語られていることが隠蔽され、そのことによって作品にゆがんだわかりやすさを押しつけている、という。その結果、『こころ』は「女をめぐる男同士の争いと友情の崩壊/裏切り」という、わかりやすいけれど実におもしろくない枠に押し込められ、たとえば同性愛の可能性といったものにも目が向かないようになっている。

 同じような手法で、『舞姫』は、すべてが終わったあとに西洋を東洋の地点から振り返る主人公の視線に注目することにより根底から読み直され、「羅生門」では下人のいじる「にきび」の話が、天皇制の問題へとつながる。テクスト細部への視線はいやらしいほど淡々として精密なのだが、勝負所となると、義憤を混じらせつつ、天皇や中国皇帝のセックス作法をからめた壮大な権力闘争に広々と話を展開させる。なるほど、古典というのはこんなふうに読み直せるものかと感心する。

 しかし、本書の起点を考えると、ここで疑問が湧かないでもない。冒頭で著者が表明するスタンスは、「画一的な読み」への抗いであった。たしかに小森氏のテクスト分析は精緻であり、その語り口も見事。指導書の退屈な読みは完膚無きまでに打破されているように見える。しかし、完膚無きまでに打破するくらいだから、そこで行われるのはまさに力勝負。つまり、勝つか負けるか、白か黒かという世界である。いちおう分析の最後には、まあ、これは私の個人的な読みなんで、どうぞ気にしてくださるな、みたいなコメントが付されているが、これはまったく嘘で、小森氏の読みをワン・オブ・ゼムとして読ませるようなゆるい論調ではぜんぜんない。「どうだ、俺を信じろ」という口調である。だからこそ、本書は刺激的なのである。つまり、読みをめぐる強烈な〝エゴ〟を露出させているからこそ、この本は成立するのだと言っていい。でも、これではいじめられっ子がいじめっ子になっただけのことではないだろうか?

 それならはじめから、「国語教科書のイデオロギーを暴く!」というスタンスにしたらよかろうという気もしてくる。国語教科書はまちがっている!と。しかし、そうはできない事情がいくつかある。そもそも国語教科書というのは去勢された存在なのである。その作品選択は実に束縛だらけ。セックスはいけない、差別はいけない、政治はいけない、片親はいけない、女中はいけない、頁数が長くてはいけない、難しすぎてはいけない、小学生ちっくではいけない、国語の先生が嫌がるものではいけない、編集委員が嫌いな作家はだめ、たまには女性の作家もいれなければいけない、たまには戦争の話もあるといいかも……などなどさまざまな条件を奇跡的にクリアした作品だけがめでたく選出されているのである。しかも、入試との関係もあり、小説はどんどん脇に押しやられ(「どーせ、授業ではやらないでしょ」などといわれる詩歌部門ほどではないにしても)、お飾りの気味が強い。そういうがんじがらめの中でかろうじて選ばれた作品を、おっかなびっくり授業で扱うわけだから、自由でラディカルな読みを奨励するなど無理である。つまり、〝権威としての国語〟なるものに本格交戦を挑んだところで、あっさり勝ってしまうに決まっているのだ。

 国語の授業の中の〝文学〟など、吹けば飛ぶような実に脆弱なものなのである。というより、いまだに国語の一角で「なんとなく文学」な雰囲気が残っていること自体、慶賀すべきことだと言っていい。だからこそ、〝戦争〟ではなく〝解放〟なのだ。国語教科書を、ひいては国語という科目をやっつけるのではなく、文芸批評の知見を用いてこれまでの隷属から解き放つ。よく言われるように国語は、英語や数学といった明確な技術習得目標のある科目とちがって、そもそも存在意義があいまいで、〝道徳〟の一環と化すことが多い。〝道徳〟となれば、たしかに裏側からまわりこんでくるような、いやな匂いがする。

 しかし、解放のためには戦争がやはり必要であるらしい。国語教科書による束縛を解くための最大の武器は、よりおもしろがらせること、よりどきどきさせること、より興奮させること。そうすることで「こっちの方が正しそうだ」と信じさせることなのである。本書はそれを、洗練された手つきで、徹底的にやる。

 つくづく文学批評にしても、あるいは人文学にしてもやくざな世界だなあと思う。解放の名の下に戦争をしかけるのだ。「こうするぞ」という構えとは違うことをやることでこそ、力を発揮する。まさにそれが、たとえば文学研究のようなものが社会的に意義を持つ数少ない方法のひとつではないかとも思う。『こころ』を同性愛の視点から、あるいは『舞姫』をオリエンタリズム(もしくは逆オリエンタリズム)の視点から読み解いたところで、アカデミズムの世界内であれば「ああ、クイアね」とか「ポスコロね」などと言われて終わるだけだろう。しかし、いくつもの偽の覆面をかぶる必要があるとはいえ、他流試合ともなれば、そう簡単には負けないし、そこに文学研究の潜在力もあるのかと思わせる本であった。


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