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『父を葬る』髙山文彦(幻戯書房)

父を葬る

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「父と接吻する男」

 九州にはやはり何かある――たとえ錯覚にしても、そんなふうに感じさせる小説である。


 九州の中でも宮崎は「陸の孤島」。福岡からでも飛行機を使う。小説の舞台となる高千穂はその遥か奥地にある。熊本との県境近く、阿蘇からも遠くない。何より地図の上で目につくのは、それが九州全体の真ん中にある、ということだ。どの海からも離れている。従って、どの都市からも遠い。まさに奥の奥。何かあるとしたら、ここしかない。

 『父を葬(おく)る』という書名には、とりあえず嘘はない。いくつもの重篤な病に冒され、余命わずかと宣告された父が、少しずつ狂い、少しずつ崩れるようにして死を迎える。しかし、肉体と精神が崩壊していく様を、感情を抑えた目でとらえる筆致には、明らかにそれだけではすまないものがある。

 バリアフリーの広いトイレにはいると、父は思いがけない行動に出た。パジャマをパンツごと引き下ろし、便座に腰掛けようとする。

 あたりまえの話だが、父は息子の目のまえで、このようにあからさまに糞などする男ではなかった。父はしばらく神妙な顔をして動かなかったが、やがてトイレットペーパーを引きちぎり丁寧に折りたたむと、ゆっくりと股のあいだにもっていき、拭ってみて、しげしげと眺めた。汚れひとつ、ついていない。

「出らんかったね」

「出らんかった」

どうしてこのような場面を描くのだろう。いったい著者は父をどうしたいのか、と読んでいて思う。介護小説とか、老人小説とかいった優等生めいたものではない。もっと激しいものを隠し持っているのではないか。

 ならば『父を葬(おく)る』というより、『父を葬(ほうむ)る』、もしくは『父を葬(ほうむ)り去る』かもしれない。たとえば、草刈りに行った主人公が「これらの蔓の藪が父にとりついた病の元凶のように思えて、私は鉈でばっさばっさと切り払っていった」というような箇所、父を救おうという気持ちと、そこに微妙に混じった暴力的なものとが、『葬』の意味についてあらためて考えさせる。

『父を死なせる』ということか。たしかに、この高千穂という奥地の村で、主人公は死のごく近くを生きてきた。「生まれてすぐ死んだ兄がいる。サッカーボールくらいの小さな墓石だったが、それを見るにつけ小さいままで死にたくないと思い、この兄が死んだおかげで自分は生まれてきたのかと思った。二つ違いだった」。「十六のとき、じじ様が死んだ。肝臓ガンで、ミイラみたいになって死んだ。その壮絶な闘病と死にざまを目のあたりにしながら、自分は十六まで生きた、じじ様が祟りを全部ひきうけてくれたのか、と私は、また新しい秘密が生まれたことに慄(おのの)いていた」。なるほど。少なくとも、単純な葬送の物語ではない。まるで植物のように死者と生者とがバトンタッチをしていく世界なのだ。

 とくに冒頭の数章での、死んでいく父に対する語り手の複数の感情のからみ合いはほんとうに壮絶で、果たしてこの小説、最後までいけるのかな、と心配になるほどである。祖母の葬式の後のこと。「「ああ、これでせいせいしたな」と、ほんとうにせいせいした顔で言うのを聞き、この男は死んでも二上山には還れないのではないかとおもった」という主人公は、しかし、「父の頬を両手で包み、キスをする夢」を見たりする。生後まもなくのこと。すぐに弟ができ、母を奪われた主人公は祖母になつく。祖母からはついに乳が出るようにもなった。そんなことを想い出しながら、はたと気づく。「ということは、父と私は同じ乳で育ったわけだ。なんということだろう。ふたりは、血を分けた兄弟のようではないか」。

 何なのだこの小説は!?と思わずにはおられない。いったい父をどうしたいのか。父に何をしたいのか。やがて主人公は、自分の知らなかった父について少しずつ語りはじめる。まるでそうすることで、彼自身が父と出逢おうとするかのようだ。熊本の大学に入学し、当時としては村で唯一の「大学出」となった父。文学にかぶれ、カフェの女給と同棲して貢がせ、無頼派のように飲み歩いたかと思うと、就職したとたんに肺をわずらった父。ただ者とは思わせないような詩を書いた父。

わたしは鳥

とても高い空から

あなたを見ている

千秋屋の角を、いま

あなたは曲がる

足もとのクロッカスを踏みしだきながら

そうれ見たことか

真っ白なブラウスが

返り血をあびる

痩せて大柄。大酒のみで、美しい顔立ち。若い頃は、歓楽街の女たちとの関係も絶えなかった。何を考えているのかわからないような沈黙。世事には疎く、親戚の誘いで定職をなげうった途端、移った会社が倒産してタクシー運転手。

『父と出逢う』。そんなタイトルでもいいかもしれない。しかし、そんなふうに安心させてくれる小説でもない。もう死が間近に迫った父は、それでも容赦なく描かれる。看護の母と伯母とは、とにかく父に小便をさせることに血道をあげる。ちょっとでも動けば小便だと信じて揺り起こし、パジャマを引きずりおろしてシビンを股間に差し出し、「しわくちゃのナマコのようなペニス」をつまみだそうとする。

 正直言って、ちょっと笑ってしまいそうになる。そして、まさか笑わせようというのか、とどきっとしたりする。この恐ろしいようなおかしさは、最後まで続く。自宅に戻った父に例によって「おしっこ?」と声をかけ、三人がかりで便所に連れて行こうと酸素ボンベを外したところ、急に様子がおかしくなる。「呼吸がゴーゴーと唸りをあげはじめた」という。そして黄白色の濁った泡をどろりと吐き出す。

父は意識を失って、目を閉じていた。私は母から奪うように父をひっぱり出して、廊下にもどしたが、母がパジャマの裾をつかんでいるので、オムツごと脱げてしまい、下半身が丸出しになった。糞のあとがわずかにオムツについていたが、それは筆をさっとはらった程度のかぼそい跡でしかなく、もうだいぶまえのものと思われた。小便は一滴も洩れていなかった。

さすがに笑いはしないが、いったい父をどうしたいのか?というあの問いがやはり浮かぶ。

 そうか、と思う。これは、まさにそういう小説なのだ。父をどうしていいかわからなくて、息子と、母と、その他みなで、それぞれの父を勝手に創作し、勝手に生かし、勝手に死なせる。殺す。何しろ小説の中で、父にはきちんと名前すら与えられていないのだ。ほとんどしゃべらせてももらえない。呆けているのか、実は正気なのかもよくわからない。『父をどうする?』。こんなタイトルではどうか。

 こんな状況の中でも、なかなか強い心臓を持っているという父は、そう簡単に死にはしない。小説の中程には、深々と突き刺さるような一節がある。

父とは不思議な現象だ。死というのも、不思議な現象だ。なぜならどちらも、唯一無二のものでありながら、まぼろしのように遠くにある。たしかなものであるがゆえに、たしかであろうと求めてみると、ふっと手まえで逃げてしまう。

「父とは不思議な現象だ」という一言を、ここまで生々しく実感させてくれる小説はそうあるものではない。何しろ中上健次の伝記を書いた著者である(『エレクトラ』)。高千穂と熊野が嫌でも重なる。あるいは四国の奥地の大江健三郎、アメリカ南部のウィリアム・フォークナー…。連想は広がる。しかし、土俗的なものを描いたことで知られるこうした作家たちと、髙山文彦とは何かが違うようにも思う。ひどくやさしいのだ。ある種の作家にある強烈なエゴを感じない。だからこそ、ここまで父を自分の中に受け入れることができる。夢の中でキスするなんて、そう易々とできることではない。小説後半では、そのやさしさがあちこちにあふれ、ときには憎んでもいたはずの父や、それから母とも、どんどん歩み寄っていく。どんどんお互いを赦す。まるで彼岸で出逢った家族のような穏やかさなのである。『父をゆるす』。そんな傲慢なタイトルを髙山文彦は決してつけないだろうな、と思いながら、最後は静かに読み終えることのできる小説なのである。

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