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『How to Read a Poem』Terry Eagleton(Blackwell Publishing)

How to Read a Poem

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「詩を語るイーグルトン節」

 タイトルは直訳すると「詩の読み方」とか「英詩のわかり方」くらいか。


 え、あの理論派イーグルトンが詩の入門書?とびっくりするかもしれないが、英米の大学ではかつては、英文科に入った人間がまず最初にやらされたのが、詩などのテクストを用いたpractical criticism(実践批評)だったのである。practical criticismとは批評の基礎トレーニングみたいなもので、紙と鉛筆を手にいきなりテクストと面と向かわされ、「さあ、何が言えるかやってみましょう」と分析をさせられる。野球でいえば、キャッチボールのようなもの。あらゆる批評の基礎たるべきものだと筆者も思う。テクストとしても、詩がちょうどいい。

 イーグルトンも若い頃はこれをやらされた。それが今では、すっかりそういう伝統が廃れてしまって・・・という嘆きから本書は始まるのだが、「そりゃ、あんたのせいだろ」と言いたい気がしないでもない。少なくともLiterary Theory(邦訳『文学とは何か』大橋洋一訳)を読んで、よし詩を読もう、という気になった人はあまりいないのではないだろうか。

 では本書は、作品テクストに対するイーグルトンのせめてもの罪滅ぼしか、というと、答えはイエス & ノーである。目次を見ればわかるとおり、冒頭に「批評の機能」という章があって、その次にやっと「詩」が来るのだが、その章タイトルも'What is Poetry?'(「詩とは何か」)。つまり本書のタイトルのHow to Read a Poemとは裏腹に、イーグルトンが俎上に載せようとしているのは、ひとつひとつの作品ではなく、詩というジャンルそのものなのである。

 もちろん本人もそんなことはわかっている。そもそも「ひとつひとつの作品」だの、「ひとつひとつの体験」だのを後生大事に味わうという態度に、近代特有の「個物信仰」が隠されているとの説明。それはイデオロギーに過ぎない、というのである。というわけで、本書の前半は詩の入門というよりは、詩をきっかけにした批評入門である。20世紀欧米の文学批評が詩の分析をひとつの出発点にしていたことをあらためて思い出させてくれはするものの、そして詩の引用もあちこちに散りばめられてはいるものの、話はだいたい「倫理性」とか「フィクション」といった大きい問題に戻っていく。中盤から後半にかけての、イーグルトン自身によるテクスト分析の柱となるのも、内容と形式がいかにぶつかり、ズレルかという話で、話題の芯は個別テクストというよりは「フォルマリズム(形式主義)」そのものである。

 たしかにイーグルトンによる大きい問題の扱いは上手である。おそらく高校生や大学生をターゲットにしているのであろう本書は、著者のいつもながらのわかりやすい文章をさらに噛み砕いた軽快なもので、実になめらかに読める。その文体は、言ってみれば「~なわけさ」口調で、個別の問題に深入りしたり執着したりせず、「こんなことくらいわかってるもんね」とばかりに、ちょっと斜に構えて距離をおきながら次々に問題を分類し、つなげ、組み立て直していく。詩を出発点にしながら記号とか、形式とか、イデオロギーといった話に軽々と飛び移っていく様を見ていると、この人ほんとにシステムの話が好きなんだなあ、と思わせる。まさに根っからの整理屋である。

 ためしに以下にその一節を、「~なわけさ」口調で訳出してみよう。イーグルトンはだいたいにおいて誰かに難癖をつけるときに本領を発揮する傾向があるが、ここではF・R・リーヴィスによるキーツの「秋へ」という詩の解釈を批判している。リーヴィスは「秋へ」の'moss'd cottage tree'という表現をとりあげ、その子音の多さが節くれ立った樹木の表面や葉の茂りぶりを連想させ、cottage treeのところなどはとくに、かりっと噛むと甘い液がしみ出してくる熟したリンゴの歯触りを感じさせるのだと解釈しても「まんざら珍奇な読みではあるまい」と言う。これに対しイーグルトン。

 珍奇といえば、これほど珍奇な読みもない。リーヴィスはどうやら節くれ立って頑丈な木に葉が茂っているという図を信じて疑わないみたいだけど、詩にはそんなこと一切書いてないし。それじゃまるで、ハムレットはそばかすだらけで鼻がへし折られていたと勝手に信じて疑わないのとかわらないわけさ。

 リーヴィスからすると、ほんとうの詩の言葉はリンゴみたいに実が詰まって熟していなきゃならないわけで、そうすると読書というのは噛むことと同じだなんてことになるわけよ。

ここはincarnational fallacyを扱ったセクションである。incarnationとはキリスト教用語で「受肉」、つまり神が人間の姿をとって現れることを示すが、この場合は、詩の言葉が対象物を「受肉」する、つまり、言葉そのものにモノが顕現するという考え方を表す。当然ながらイーグルトンはそうしたポストモダン以前の思考法をばっさり切るわけだが、実はここ、本書の中では一番「脆弱性」の高いところではないかとも思う。

 というのも、イーグルトン自身の実践批評は内容と形式がいかにズレるかを指摘してオチとすることが多いのだが、その出発点としてあるのは、むしろ「受肉」の感覚であると思われるからである。「受肉」にこだわってしまうからこそ、そこからの逸脱がドラマチックだったり、おもしろかったりする。イーグルトンのシステム論が、テクストとの接触なしには成り立たなかったのと同じで、つねに賢く目を光らせるだけではなく、どこかでは錯覚したり、騙されちゃったりする愚かさがないとそもそも文学の話にならないのではないか。ロトマンあたりには随分寛容なわりに、リーヴィスとなるとやけにむきになっちゃうイーグルトンの、ある種の世代性を感じさせるところである。

 とはいえ本書には数多くの美点がある。とくに韻律の扱いは、「韻律にばかり注目したって、詩の形のことは全然わからないわけさ」というメッセージがちゃんと伝わってきて、たいへんいい。引用もいい(詩も批評も)。「倫理性」の意味を「何がいいとか悪いっていう話だけじゃないわけさ」と何頁にもわたって丁寧に説明してくれるところもいい。イーグルトンの本領発揮は前半の批評理論概説だろうが、途中で若かりしイーグルトンの戯曲作品からの一節が照れ混じりに引用されるなんていう一幕もあるし、最終章ではウィリアム・コリンズやウィリアム・ワーズワスなどの自然派詩人を題材に、しっかり実践批評のお手本が示されてもいる。「みなさん、詩を好きになりましょうね」なんていう押しつけがましさはほとんどないし(もう少しあってもいいのにと筆者は思ったが)、むしろ詩を好きになれない人が、そういう自分を理解するのにちょうどいい本である。目次でみるよりは、各チャプターのバランスに濃淡があるものの、全体としては「批評入門・英詩篇」として重宝されるのではないだろうか。


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