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『大きな熊が来る前に、おやすみ。』島本理生(新潮社)

大きな熊が来る前に、おやすみ。

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「ライン跨ぎ」

 「他の人はこの作品についてどう言うかな?」というのが表題作を読んでの最初の感想だった。無防備というか、身も蓋もない表現が平気で出てきて、今にも「ヘイヘイ」というヤジが聞こえてきそうなのだ。冒頭など次のような具合だ。

 徹平と暮らし始めて、もうすぐ半年になる。付き合ってすぐの頃に今の部屋へ二人で引っ越したから交際期間もほとんど同じぐらいだ。それでも時々は冗談で、結婚の話なんかも出る。

何なのだろう、この小説っぽくない「ふつう」さは。若い女性による作品だというのに、ぜんぜん洒落てない。だいたい暮らし始めて「半年」というセッティングには、いかにも「はじめて深刻な喧嘩をしちゃいました」的平凡さが漂っている。「付き合ってすぐの頃に今の部屋へ二人で引っ越したから」とか「交際期間も同じ」とか「それでも時々は冗談で、結婚の話なんかも出る」などと聞くと、雑誌などの結婚相談コーナーのがやがやした雰囲気が思い浮かぶ。

 ためしにこの出だしを、次のように書き換えたらどうだろう。

 徹平と別れて、もうすぐ半年になる。いつの間に部屋に住み着いた彼といったいどれくらいの間付き合ったのか、交際期間などというものを語るのが不可能な出口の見えない時間を私たちは共有したのだった。もちろん、結婚の話を冗談まじりにでも話に出す機会などなかった。

少しだけ「小説っぽく」なっただろうか。単に否定的に、曖昧にしただけのことなのだが、ある意味ではこの作品、こんな感じで始まっていても決して不思議ではない内容なのだ。

 でも、やっぱり、出だしはあのままがいい。きわどいラインなのだが全体を通してみると、作者の反小説的前向きさと明瞭さとが、評者にはとても魅力的に思えた。小説を書くなんて、嘘つきのはじまり。そういう土俵に乗って、「この人、嘘がつけないのだ」と思わせるのは意外とたいへんなことだ。ストーリーで嘘をついても、言葉のレベルでは嘘をつかない、そういう際どいラインがありそうだ。

 クライマックス近くには次のような一節もある。

「俺、二度と殴ったりしないから。本当に、もうしないから。約束する」
 こういう台詞を信じようとする私を、たぶん、ほとんどの人は馬鹿だと思うだろう。騙されてるんだ、そんな男はこれからもずっと同じことを繰り返すと忠告されるだろう。
 だけど先のことは分からなくて、今は言葉で、約束するしかなかった。少しでも相手に変わる意志があって、それに付き合う体力と気持ちが私にあるかぎり、付き合い続けたかった。

男の台詞はともかく、それに続く地の文。呼びかけというのか、宣言というのか、所信表明というのか(とくに「今は言葉で」のあとの「、」が大事だ)。語り手がぬっと飛び出してきて、お面をとるとそれが著者で、おじぎをして挨拶までされたような気分になる。ほとんどルール違反に近い。まるで18世紀のイギリス小説のようだ。

 でも、ここの部分もやはり、こうでなくっちゃ、と思う。この語り手は嘘がつけないのだ。ぜんぶ言わないと気が済まないのだ。やれることしか、やらないのだ。

 ストーリーそのものは、まるで心療内科のモデルケースのようだ。保育士の主人公は半年ほど前からある男と同棲している。ふたりとも目立ったところがあるわけではない。派手に振る舞うのは苦手。むしろお互いが相手の不器用さに惹かれて付き合いだしたようなところがある。しかし、ふたりには心の傷というか、どうにもならない不安定な部分がある。主人公はかつて父に虐待を受けた。「悪い子にしていると熊に喰われるぞ」というのが父の口癖だった。幼い主人公は、「じゃあ、なぜ、父は熊に喰われないのか?」などと考えた。そうしてわざと熊をおびき寄せるために、遅くまで起きていたりする。父が熊に喰われるように。自分が喰われてもいいから。

 にもかかわらず、主人公は父と似たところのある男と付き合いだす。そして過去が繰り返されていく。「彼と一緒に暮らすのは、どこか、ゆっくりと時間をかけてお互いを掘り起こしていくような作業だ」と主人公は言うが、それは実際の出来事にもつながっていく。男の暴力。幸福ではない妊娠。やがて男の抱えた何かが少しずつ主人公にも見えてくる。

 精神分析じみた心理解説にはげんなりするもののだが、不思議とこの作品ではそうはならなかった。小説的な迂回や屈曲を飛び越えた一刀両断みたいな書きっぷりも、勢いゆえの冴えを持っている。

帰りの電車を待つホームでそう言った彼の、今よりもずっと渇いた目の感じは、未だに印象に残っている。きっとこの人は子供や動物が苦手だろうな、と思った。そういう無邪気な強い生命力を発散するものの対極にいる人だという気がした。

なかなか冷酷な台詞なのだが(父が熊に喰われてしまって欲しい、などという言葉よりもずっと)、この語り手=主人公はまるで幼い子供のように、ふいにそうした視線で相手をやっつけにかかる。

  よく「手紙を書くようにして書いてみなさい」などというが、たぶん、そういうところのある作品なのだ。語り手の(自分の)言葉に対する信頼の強さについ、こちらも感染してしまう。「あとがき」には、大幅な推敲をへた作品だとあるが、この著者は同じ物語を何度も書き直していく人なのかなとも思った。佐伯一麦のようになればいいのに。

 二つ目の「クロコダイルの午睡」はプロット勝負。三つ目の「猫と君のとなり」は、こんなストーリーなのに楽しめてしまうあたり、著者の力だな、と思った。

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