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    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
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    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
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2007年07月13日

『ドラキュラの遺言――ソフトウェアなど存在しない』フリードリヒ キットラー(産業図書)

ドラキュラの遺言――ソフトウェアなど存在しない →bookwebで購入

●「デジタル時代のエクリチュール」

 ブラム・ストーカー作の小説『ドラキュラ』への言及から始まる評論集。数々の評論を一貫する問題設定は、メディア環境における「人間」や「知」のあり方だ。著者はキットラー。これまで、情報技術とそれをとり巻く知を対象に、人間に関する社会的了解と技術の抜き差しならぬ関係を、本書評欄でも既出の『書き込みのシステム』および『グラモフォン・フィルム・タイプライター』で論じてきた、気鋭のメディア論者である。その著者が、コンピュータやマイクロチップなどの、いわゆるデジタル仕様のメディアを論じていく。

 よくキットラーは技術決定論者だといわれる。しかしよく見てみると、技術にまつわる社会的了解を随所に挟んでいるのが見て取れる。その社会的了解、および社会的了解の歴史性を表すために、キットラーは精神分析の論者やドッペルゲンガーの立ち現れ方を時代ごとに比較する、あるいはライター・詩作者によるテクノロジーへのメタレベルからの語りを扱っていく。こうした方法によって、データ処理機械としての人間の誕生と、記録・情報伝達メディアとしての文字がもつ独占的地位の凋落がコインの裏表であることが明らかにされていく。

 本論集は三部構成になっており、様々な言説を挙げながら技術と社会、それによって現象する人間性や知のあり方を見せつけられるたび、高揚感を味わうことしばしばだ。とはいえ――かく言う評者がそうだったのだが――デジタル仕様のメディアを本格的に扱うⅢの部分になると、やや事情が変わるように見えるかもしれない。というのは、そこではデジタル・メディアの理論的中核であるノイマンやチューリングの開発した技術そのものの説明に紙幅が費やされ、技術にまつわる(人々によって提出される)知の部分が、前の2つの部分よりも量的に少ないように見えるからだ。しかしこうした紙幅の割き方は、遂行的にある事態を読者に明らかにしてくれる。その事態とは、

一方でコードとアルゴリズムの知識の上では、原理的にアプリケーション・ソフトあるいは暗号を書くことが可能なままでありながら、他方の、ユーザー・フレンドリーと偽る面では、完成品からその生産条件を逆推理することも、その条件そのものを変えることも、徐々に不可能になってゆく(288ページ)

という事態である。デジタル仕様のメディアがもつ権力性が幅を利かす事態である、といってもいいだろう。

 こうした事態の背後にあるテクノロジカルな事実として、キットラーはデジタル仕様のメディアが自己言及的に作動する(命令とデータが同じフォーマットで作動する)ことを挙げている。もっともキットラーも指摘する通り、こうした自己言及性それ自体は、必ずしもデジタル仕様のメディアに起源をもたない。冒頭の論文にある通り、活字の導入とほぼ並行してスペースがメタ言語としても活用されたという事実にも見られるからだ。しかし、データの操作方法とその操作方法の指示が無差別に書き込まれるといった事態がデジタル仕様のメディアによって支配的になれば、生まれるものが膨大な量と形式化作用を経て旧来の姿と比べまったく異形なものとなるばかりでなく、生まれたデータのどこが命令でどこがデータなのかといった「メタ/ベタ」の区別が端的につけづらくなるからだ。著者キットラーは、自己言及的に作動していくデジタル仕様のメディアがシミュレーション・システムという(人間に代わる)新たな主体を作ること、また自己言及的なメディアの背後にあるテクノロジカルな事実と技術の社会的な了解の差異から膨大な利権――ソフトウェアにまつわる著作権――が生じていることなど、様々な論点を提出している。ひとつのテクノロジカルな事実からさまざまな論点が提出されること自体、デジタル時代のエクリチュールがさまざまな社会的領野に異なった形で作用することを示している。そしてそれゆえに、著者キットラーは、その複数性からデジタル仕様のもつメディアの権力性に対抗できる/すべしと考えているのだろう。

 メディアの星座は刻々変化している――行け!(169ページ)

ある論考でのキットラーの擱筆。私自身も、その困難さを自覚しつつ、この言葉を真摯に受け止めようと思う。

(田村謙典)

・参考文献
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford UP
佐藤俊樹,1996『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化時代を解体する』講談社選書メチエ
鈴木謙介,2007,『ウェブ社会の思想――〈遍在する私〉をどう生きるか』日本放送協会出版

・目次

序言
Ⅰ ドラキュラの遺言/象徴的なものの世界――マシンの世界
Ⅱ ロマン主義‐精神分析‐映画:ドッペルゲンガーの歴史/ベンの詩――「とびきりのヒットソング」/耳の神様
Ⅲ オペレーターの離脱/シグナル‐ノイズ補完距離/リアル・タイム・アナリシス、タイム・アクシス、マニピュレーション/プロテクト・モード/ソフトウェアなど存在しない
訳者あとがき
文献一覧



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2007年07月11日

『アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』バーバラ・マリア・スタフォード(産業図書)

アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育 →bookwebで購入

●「蒙」を「啓く」/「網」を「開く」――エンライトメントとエンターテイメントのあいだ

 18世紀の啓蒙主義時代に、文字でなく、視覚的なものが、人々の教育においてどのように用いられていたのかを問うこと。もし、本書に記されている内容をごく簡単にいってしまえば、こうなるだろう。とはいえ、スタフォードの述べる視覚的なものとは、けっして文字で書かれた内容を補填する挿絵、あるいはテクスチュアルな読解に従属するイメージなどを意味するわけではない。それは、人間の感官へと直裁的にうったえかける、「五官による手のこんだ知の諸形式」(p.8)のことである。つまり、著者は、「『蒙(くら)』きを『啓(ひら)』くこと」が目指されたかつての時代によこたわる、非文字的なる広大かつ強力な「認識知(epistemology)」の空間を、同時代のめくるめく視覚テクノロジー(の図版)と、それにむけられた多種多様な思想のむこうがわに見とおそうというのである。


 さて、啓蒙主義思想においてみられる、「文字文化」に対する「口誦-視覚的文化」の蔑視とは、そもそもプロテスタントがカトリックに対してなした批判のうちにあらわれた主題でもあった。すなわち、神を可視化し、文字にもとづかない宗教教育をおしすすめるカトリックは、大衆を感覚的な眩惑へと導くフェティシズムにすぎないではないか、とプロテスタントから糾弾されたのである。それゆえたとえば、ときにカトリックの活動は、僭主をあがめさせるために様々な視覚的な魔力が動員される「東洋的専制支配」へと軽蔑的に重ねあわせられることもあった。

 「フェティシズム」、「東洋的専制支配」、「あやかし」、「ごまかし」、「目くらまし」…、なんと呼びならわされようとも、啓蒙主義者たちとって盲目的な感覚狂いはとにかく空虚で奇怪なものにほかならなかった。したがって、彼らが推し進めた思想的プログラムは、それまで貴族のひまつぶしでしかなかった娯楽をも、より教育的で意義のあるものへと変換していこうとした。みたところそれほど役に立つように思われぬ数学的なゲームですらも、感覚的な学習として、知性の弛緩を回避させ、無気力からたちなおらせることが期待されたのである。そのうえで、この種の「合理的レクリエーション」は、傍らで横行していた詐欺まがいのレクリエーションから、はっきりと区別されねばならなかった。のぞき眼鏡をみせる、見事な手さばきでカードをあやつる、客の目のまえで死んだ鳥を蘇らせるなどなど、各種のイリュージョンからなる詐欺文化、およびそれにたずさわり、無学の大衆をまどわせる「手妻」の詐欺集団(手品師、香具師、ペテン師……)は、啓蒙主義者たちにより糾弾されるさだめとなったのである。

 もっとも、啓蒙主義者たちといえども、あらゆるデモンストレーションに悪しき感覚狂いの元凶をみたわけではない。大衆だましを意図することなく、科学的啓蒙のために適切に利用されるかぎりにおいて、視覚テクノロジーは実に有効な教育ツールとして理解されもしたのである。チョークと黒板、それに教科書といった程度の見るべき教材に乏しかった時代、自然の真理を観客に対してデモンストレートすることで、視覚テクノロジーは彼らの無知に容易に光を照らすことができると同時に、それにより、それまでだまされつづけてきた巧妙な詐欺文化から身を守るすべをも、彼らは習得することができるとされたのである。



 ところが、である。こうした一連の科学的啓蒙でさえも、一歩まちがえれば、それが否定したはずの「手妻」がなせる技へと転落する危険性がないわけではなかった。なぜならば、ペテン師が大衆をそそのかすためにおこなった詐欺まがいのスペクタクルを教育家が暴きたてるためには、たとえその秘密を明かしつつ教育的実践がなされたとしても、やはりペテン師たちと同じ、刺激たっぷりのスペクタクルを、大衆のまえで見せざるをえなかったからである。かくして、「あらゆるエキシビジョニスム(exhibitionism 顕示趣味)が、非合理への、そして合理への二重のヴェクトルを孕む」(p.157)というぬぐいがたき困難あるいは逆説が、たち現れることになった。

 これは、巧妙なテクニックで大衆をそそのかす詐欺師であれ、その奇術を適正な原理に依拠してあばきたてる教育家であれ、いずれもが思考を「身体化(incarnate)」することへと向かっていたことによる。「事物がいかに示されるかと事物が何を示しているかを平気で別々のものにできる誤り」(『グッド・ルッキング』,p.5)を、幸いにもおかさないでいられたという点において、両者は互いに手をとりあっていたのだ。たとえ、そこにいっけんあからさまな対立関係がみられようとも――。テクノロジー(とそれを感受する視覚)の位置づけが、かくも複雑かつ曖昧でありつづけざるをえなかった事態――まさにそれをとおしてスタフォードは、啓蒙の時代における五官をめぐる「認識知」の広がりを、逆にはっきりと浮かびあがらせようとしたのだといえよう。



 本書のむすびでは、18世紀に関する壮大な歴史叙述を踏まえたうえで、著者は啓蒙の時代から19世 紀への接続も示唆するにいたる。ロマン主義思想における「意味と不条理、役に立つ学知と空虚な装飾」(p.355)という二極間の応酬も、上記でみた啓蒙主義時代における感覚の知に負うところがあるというのだ。たとえば、かのガスパール・ダーフィット・フリードリッヒが描いた窓越しに後ろ姿を見せる人物像も、こうした二極間の応酬から浮かびあがった形象なのだとされる。

 さらにまた、そもそも序論では本書が「18世紀と近代(モダニティ)末期の深い繋がりを考えるところから出発している」(p.8)とあるように、18世紀を媒介として、著者は視覚をめぐる今日的な問いもかかげている。スタフォードいわく、「マルチ・メディアがどんどの個人的で個別的なものになっていくにつれて、あらゆる形式のグラフィック・ディスプレーがもう一度、共通の儀礼、公けの関心と結び付かねばならないだろう。これが啓蒙主義の教えである」(p.365)。かつての時代の「教え」から現代の状況を照らそうというスタフォードのこうした企図は、たとえいくらそれがあざやかに提示されていようとも、いっそう深く分節化された問いに答えたうえで評価されるべき事柄だろう。とはいえ、少なくとも現代の我々に対して、こうした「啓蒙主義の教え」を説得的に示したという意味でのスタフォードの教えは、今後の歴史研究がとりくむべき、感覚や身体をめぐるいまだ未踏の問題系をしっかりと照らしだしてくれることだけはまちがいない。

(林 三博)

・参考文献
Barbara Maria Stafford. Body Criticism: Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine. MIT Press, 1991.(高山宏訳『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』産業図書、 2006年)
――――. Good Looking: Essays on the Virture of Images. MIT Press, 1996.(高山宏訳『グッド・ルッキング――イメージング新世紀へ』産業図書、2004年)
――――. Visual Analogy: Consciousness as the Art of Connecting. MIT Press, 1999.(高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー――つなぐ技術としての人間意識』産業図書、2006年)

・目次


第一章 精神の解放
第二章 見えないものが見える
第三章 実験室ゲーム
第四章 エキシビショニズム
結び



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『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』バーバラ・マリア・スタフォード(産業図書)

ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識 →bookwebで購入

●「《観察/操作》としての一致」

 「何かが他の何かに似ている…」とは、どれほど確実な認識方法なのか。美術史を専門とするバーバラ・マリア・スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』(2006年、産業図書)は、「視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせ」ることで(p.61)、この問いに答えようとするものである。

 そこでスタフォードは「アナロジカルな手法の性質や機能を説明する力は、まさしくヴィジュアル・アートにこそ求められよう」(p.2)と前提し、次々と図版を引用しながら、超歴史的に「アナロジー」という思考方法の救出を試みる。訳者の高山宏曰く、「スタフォードにはまる」ということは、この「ジェットコースターのようなライド感」(p.226)に慣らされていくことであり、これを心地よく思うかどうかが本書の評価を決める処である。

 さて本著において興味深いのは、アナロジーを「参加(participation)」と捉える点である。その参加とは、異なる事物間に共鳴関係を作り出すパフォーマンスのことである。この参加というパフォーマンスを美術作品から観察することで、スタフォードは差異のなかの類似性、すなわちアナロジカルな秩序を見出していくのである。

「分かれたものの同士を統一にもちこむとか、偶然と絶対のみぞを埋めるとかいう不気味な視覚的能力は、アナロジーこそ認識の重要な特徴のひとつ、ということの一例になっている。それは知覚的判断力として、捉えにくい感覚的性質、束の間の感情を概念化する助けになる。してみると、共感覚的な繋ぎをつくることが科学発見への洞察にも、子供の発達にも重要だとして、何の不思議もあるまい。霊感を受けた推論は、分散した多様なものを一全体へと集めることを以て、知覚を概念的に結びつける。(種が異なるものの頭と尻尾を繋ぎ合わせることで)完全な人魚一体をつくる想像力豊かな仕事はただのお伽話ではなくて、知識形成が実際にはどう進むかのこの上ない象徴なのである。人間意識を人工物で一杯の現実に結びつける作業に終わりがないように、アナロジカルな営みにも終わりがない」(pp.27-28)

 要するに「人魚」とは、人間と魚が共に「参加」することで成立する共鳴関係(もしくは中間項)である。そしてこのようなアナロジカルな秩序を支えるのが、視覚的能力・知覚的判断力・霊感的推論である。スタフォードによれば、知覚的行為がこのように連結される時こそ、知識が形成される時なのである。

 本著はこのような表象分析を次々と重ねながら、ヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を抽出し、スタフォードが「精神の結合術」(p.147)とも呼ぶ「神経系美学」(p.142)を描き出そうとするものである。そのために第2章では、アレゴリーとアナロジーの関係が、「テクスト」と「図像」の対立の歴史として描かれる。続く第3章では、ライプニッツの『モナド論』(1714年)における百学連環的な「連愛(attachments)」が、「図像大好きヒーロー」による「結合術的な方法」として描かれる。そして第4章では、「見るとはつまり、何かが何か他のものと繋がっている、繋がることができると即効理解することに他ならない」という前提から、脳と身体の不可分性を語る認知科学の知見を参照しつつ、バラバラな表象をさまざまに総合していく「自我(selfhood)」の理解が描かれる。

 なるほど、評者はヴィジュアルでアナロジカルな認識方法が「非合理なオカルト」(p.22)と見なされてしまうことへの違和感を共有する。なぜならアナロジーの肯定なくして、信じるに値するほど知覚された類比的な一致を肯定することもできないからである。観相学(やさらなる俗流化としての『人は見た目が9割』)まで徹底しなくとも、「何かが他の何かに似ている…」とは簡単には無視できない認識ではないだろうか。したがって問題は、このような一致をめぐる知をどのように扱うのかという点にある。

 例えばこの一致を、《観察》と《操作》という二つのレベルで捉えてみよう。するとスタフォードの議論は、上述のごとく、あくまでも芸術作品における《観察としての一致》という記述的な水準にある。しかしスタフォード自身も若干示唆していたように、今日の情報技術は、データ/メタデータの一致/不一致を調整・判定することで社会を制御している。指紋認証や光彩認証などのバイオメトリックス技術や画像認証技術などを想像すると良いが、これらはもはや《操作としての一致》という工学的な水準にある。

 つまり一致というヴィジュアルでアナロジカルな認識方法は、無限に展開可能であるがゆえに、どのようにでも運用できてしまう。反−言語としての《観察》対象である一致は、そのまま工学的な《操作》対象にも成り得てしまうのだ。したがってヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を肯定するのであれば、それを単にアレゴリーへの対抗として切り出すだけではなく、その肯定がいかなる効果を生んでいくのかに注目すべきなのである。この意味において、本著は美術史に限らず、情報社会論や監視社会論における認証技術に関心を持つ者にも読み応えのあるものだと言えよう。

 なお《感覚》のいかがわしさに関心を持つ評者にとって、ヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を次々と切り出していくスタフォード流の《感覚》は、どうしても楽観的で恣意的に映った。もし芸術作品から何かを感じとることができるのなら、それは結局のところ、自分がそうできると信じている者のみが感じられるのではないかと思うからである。例えば、アナロジーを切り出すために数多く引用される芸術作品たちは、なぜ他のそれではなく選ばれるのだろうか。このように読者の選択対象自体がすでに著者によって選択されている以上(この連続が「ジェットコースターのようなライド感」だというわけなのだが…)、芸術作品に対する視覚的な直観から導きだされるヴィジュアルでアナロジカルな認識方法=分析そのものではなく、それを熱く語るスタフォードの《感覚》=著者を信じるかどうかに読後感が縮減されてしまう気がしてならない。

(加島卓)

・関連文献
Barbara Maria Stafford. Body Criticism: Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine. MIT Press, 1991.(高山宏訳『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』産業図書、 2006年)
――――. Good Looking: Essays on the Virture of Images. MIT Press, 1996.(高山宏訳『グッド・ルッキング――イメージング新世紀へ』産業図書、2004年)
――――. Artful Science: Enlightenment Entrapment and the Eclipse of Visual Education, MIT Press, 1994(高山宏訳『アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』産業図書、1997年)


・目次


プレビュー うしろへ、前へ
第1章 ポストモダン、類比の消滅
第2章 協和のフィグーラ
第3章 愛、この魔の引力
第4章 組み換え−−計算する「新しい精神」を、結合する「古い精神」に繋ぐ
後記 二元論の彼方へ−−達人より立つ人へ

訳者あとがき アイコノファイル・バイブル



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2007年07月10日

『S,M,L,XL』(未邦訳)レム・コールハース
O.M.A, Rem Koolhaas and Bruce Mau, 1995,
S,M,L,XL
, Monacelli Press

S,M,L,XL →bookwebで購入

●「サイズからコンセプトモデルへ:「ビッグネス」と「スモールネス」」

「巨大な」本


 『S,M,L.XL』という本書のタイトルは、展示や住宅を「S」、ホールやオフィスビルを「M」、巨大公共建築を「L」、都市計画を「XL」というように、対象の意味をあえて問わず、規模(サイズ)に還元して論じるというコンセプトを端的に表現している。1000ページを超え、物理的な意味で「巨大」な本書の外観は、「書物」というより「ボリューム」であり、著者のコンセプトを視覚的に補完するものとなっている。


コンセプトであり、マニフェストでもある「ビッグネス」


 本書のキーワードのなかでも「ビッグネス」は本書で展開されている議論の全体を貫くコンセプトかつマニフェストである。

 本書によれば、「ビッグネス」の理論は5つの定理からなっている。簡単にまとめると、1.一定の臨界容積を超えると建物は巨大ビルとなり、単一の建築的操作、もしくは複数の操作の複合によってすら管理できなり、建物の各部分が自律することになる。2.「エレベーター」の出現により、従来の建築の方法に変化をもたらした。3.巨大さのもとでは中身と覆いの距離がますます広がるため、ファサードはもはや内部で起こることを外へ表すことはない。4.サイズが巨大化するだけで、建物は善悪を超えた非道徳の領域に突入してしまい、そのインパクトはその質と関係がない。5.従来のスケール、建築学的構成、伝統、透明性、倫理からの逸脱し、巨大さはいかなる組織の一部にもならない。(p499-502)というものである。そして、それは巨大プロジェクトを進めていくうえで、普遍的に出現する問題であるという。

 それはコールハースがニューヨークのマンハッタンを過密な状態を観察することから導きだされた概念であると同時に、自身の建築にも応用されている。コールハースはここで、建物が巨大になり、中味が複雑になり、無理なままひとまとめにしようとすると、内部と外部を一致させようとする近代主義的な方法や論理は崩壊してしまうさまを批判している。

 たとえばフランス国立図書館計画(1989)ではあらゆる記憶媒体の保管庫を巨大な立方体の塊としてつくり、その塊の内部に主要な公共スペースを複数の「ウ゛ォイド(建築の不在、空っぽの空間)」(p602)として浮かべている。「ウ゛ォイド」は卵形のものやチューブ、螺旋状のものがくっついたり、離れたり、ときには交差している。これらのウ゛ォイドはエスカレーターによってお互い結びついている。クンストハル(1987)では単純な箱のなかに斜路や建物を貫通する外部通路が折り畳まれることでホールやオーディトリアム、展示場を設け、建物全体にサーキュレーションを生み出している。それらのスペースはさまざまな素材、部材の唐突な混在によって異様な光景を生んでいるのだが、それらの雑多なシーンはスロープによって滑らかにつながれている。

 これらの建築は単純な外形によってできているが、内部では自律した各部分が複雑に結びついていて「ハイブリッド」で「不均一」なものになっており、「偶然性」を引き起こそうとする。これらのプロジェクトは、現実の都市のようにさまざまな空間があり、さまざまな出来事が隣と無関係に起こるといったより流動的な都市の状況や、建築プログラムが複雑かつ巨大になるといった「ビッグネス」を建築空間のモデルとして置換する試みでもある。


「ジェネリック・シティ」


 建築と都市が限りなく並列的に描かれる本書において、「ビッグネス」と並んで重要な概念として示されているのは「ジェネリック・シティ(無印都市)」である。さまざまな欲望がマンハッタンに摩天楼の過密状態を出現させたように、急激な都市化によって「ビッグネス」の風景が世界中でみられようになった。これは移動や情報交換が容易になった流動化する都市の風景である。

 コールハースは「無印都市は本格的な多人種都市である。」という。「たとえば北へ向かうキューバ移民と南へ向かうユダヤ人たちがぶつかり合い、混合しあうと、いきなり居住地ができる無印都市の誕生である。」「無印都市はいつも移動中の人、いつも前に進もうとしている人びとによってつくられる」(p1252)それは長い歴史を経て出来上がった都市ではない。「ジェネリックシティ」は「アイデンティティ」から自由になった都市である。「歴史はない。大きいから誰が住んでもいい。簡単で手間いらず。」「ハリウッドの映画セットと同様、この都市のアイデンティティは毎週明け新しくつくりなおされる。」(p1249) 

 フランスのリール市におけるユーラリールのプロジェクト(1994)はTGVの開通に伴って計画された投機的な事業である。「800,000平方メートルに及ぶ都市機能空間−ショッピングセンター、オフィス、駐車場、新TGV駅、ホテル、ハウジング、コンサートホール、会議場−を120haの城郭跡に建設する構想である。」(p1160)「アイデンティティ」が強固である歴史的な都市を有しているヨーロッパでは、新たな都市化を受け入れる場所が既存の都市にはほとんどない。こういったヨーロッパ的状況が都市の周縁部にこのような急激な都市化を引き起こしている。後年の「MUTATIONS」展やOMAと共同して都市構想を行ってきた「AMO」の諸リサーチへと展開されていくこうした問題意識は、本書において萌芽的に描かれている。


「ビッグネス」と「スモールネス」


 東京の現在の風景をみてみると、「六本木ヒルズ」や「東京ミッドタウン」のような大規模開発が行われている一方で、戸建て住宅だけでなくアパートや雑居ビルといった小規模な建物で埋め尽くされており、「ビッグネス」のみでは説明できない状況が生まれていることに注目することができる。その状況は、本書『S,M,L,XL』のようにそのスケールの差異に着目することで、「ビッグネス」に対する「スモールネス」として捉えることができるのではないか。「ビッグネス」と同様に5つの特徴をあげてみよう。

 1.西洋の都市空間でみられるような壁を共有したアタッチドな建ち方とは異なり、建物どうしが間隔を空けたディタッチドな建ち方を採ること。2.そして、個別のライフスタイルや趣味が都市空間に直接的に影響を与えること。3.さらに、小ささと独立した建ち方ゆえに容易に建て替えが可能であり、都市空間が固定化せずに少しずつ更新されていくこと。4.なお、更新されやすいがゆえに異なる年代の建物が混在すること。5.また、ディタッチドな建ち方ゆえに隙間が多く空間的に非完結であり、また更新性のために時間的にも非完結であること。

 このような小ささゆえに引き起こされる独立性、個別性、更新性、多様性、非完結性は「トウキョウモデル」として抽出できるものだ。「ビッグネス」と「スモールネス」を比較してみると、流動化の激しい現実に対して、「ビッグネス」では分裂的な状態によって応え、「スモールネス」ではメタボリックな状態によって応えようとするものである。両者は現実の都市の現象から原理、原則をとりだし建築に応用し、また都市の空間や現象を生成させる方法である。こうした方法に着目することで、その原理/現象のサイクルのなかから都市と建築の批評的な視点を獲得するというロールモデルとして、本書は読まれうるだろう。

(能作文徳)

・関連文献
『建築文化:レム・コールハース/OMAの楽しい知識』vol.50 no.579、彰国社、1995年
『OMA/レム・コールハースのジェネリック・シティ』、TN Probe、1995年
Rem Koolhaas, Delirious New York: A Retroactive Manifesto for Manhattan, Monacelli Press, [1978]1994.(『錯乱のニューヨーク』、鈴木圭介訳、ちくま学芸文庫、1999年)

・目次


Fore Play
Exodus, or the Voluntary Prisoners of Architecture/ Delirious New York
Small
Less is More/ The House That Made Mies/ Dutch Section/ ±13,000points/ Learning Japanese/ Worth a Detour/ Obstacle/ Only90°Please/ Imagining Nothingness/ The Terrifying Beauty of the Twentieth Century
Medium
Field Trip (A)A Memoir/ Revision/ Shipwrecked/ Final Push/ Cadavre Exquis/ Typical Plan/ Byzantium/ Globalization/ Vanishing Act/ Islam After Einstein/ New Rotterdam/ Life in the Box?/ Neue Sachlichkeit/
Large
Bigness, or the problem of Large/ Soft Substance, Harsh Town/ Indeterminate Specificity/ Dirty Realism/ Working Babel/ Bifurcation/ Strategy of the Void/ Weird Science/ Last Apples/ Darwinian Area/ Passion Play/ Organization of Appearances/ Palace of the Soviets/
Extra Large
The White Sheet/ Atlanta/ Las Vegas of the Welfare States/ Unlearning Holland/ Congestion Without Matter/ Elegy for the Vacant Lot/ Their New Sobriety/ What Ever Happened to Urbanism? / Surrender/ Dolphin/ Singapore Songlines: Thirty Years of Tabula Rasa/ Tabura Rasa Revisited/ Side Show/ Quantum Leap/ Programmatic Lave/ The Generic City
P.S. Unraveling


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2007年07月09日

『情報批判論──情報社会における批判理論は可能か』スコット・ラッシュ(NTT出版)

情報批判論──情報社会における批判理論は可能か →bookwebで購入

 今を記述すること。このことは常に困難を伴っている。今を記述しようとしても、記述しようとする今と記述という営みを行う今は必然的にタイムラグを含んでいる。その上に、その記述を読む今が積み重なることで、記述しようとした今は、すでに時代遅れの今である可能性もある。今を記述することは、あたかも次の今を記述する営みに「時代遅れだ」と批判されるためにのみ積み重ねられる破滅的な営みであり、その意味で悲劇的であると言えよう。

 だからと言って、今を記述することが捨て去られることはない。なぜなら、今を知ることが何よりも今を生きる我々に指針を与えてくれるからである。スコット・ラッシュが本書で行っている営みも、やはり今を記述することである。

 今までもラッシュは今を記述してきた。たとえば、本書と関連の深いベックとギデンズとの共著(『再帰的近代化』)は「再帰的近代」として今を記述する営みであった。近代化の徹底した形として近代の(制度的)再帰性を論じるベックとギデンズに対し、ラッシュは、それらが科学主義的・合理主義的性格を有し、文化主義的・解釈主義的源泉を無視しているために「不十分」であるとして、その(制度的)再帰性の更なる帰結を論じていた。そこでは、ベックとギデンズによる今を記述する営みである制度的再帰性論は近代化の悲劇的な様相を論じつつ、ラッシュによって「不十分」と批判されることによって悲劇的な役を与えられている。

 本書は今の社会である「情報社会」の諸特性について論じた書である。テクノロジーやメディアによって可能にされる社会として情報社会を描く点で、ラッシュはマクルーハンの正統的な継承者となっている(佐藤俊樹は、この手の情報(化)社会論の陥穽──テクノロジーのアナロジーで社会を記述することによる安易な技術決定論に陥ること──を指摘している。社会を記述することに興味のある方はそちらも併せて読まれることを推奨する)。ただし、ラッシュは、マクルーハンだけではなく、多くの巨人の肩に立って記述を行っている。マクルーハンなどのメディア理論以外にも、古典的哲学、フランクフルト学派、フランス現代思想、現象学(的社会学)といった幅広い現代思想・社会科学に検討を加えており、本書は現代社会科学の一つの到達点でもある。

 ラッシュの立てた問いは、「現代の情報社会において批判理論は可能か」という、比較的単純な問題である。この問いに答えるだけなら簡単である。実際、ラッシュも先の問いを立てた直後に、「批判には従来常に超越的で別個の空間というものがあり、批判的考察はその空間から放たれることになっていた…。本書で論じたいことはこの手の批判はもはや不可能だということである」と答える。従来型の批判は不可能である、これがラッシュの答えである。

 ところが、この答えはかつてのラッシュ自身の記述に觝触する。ベックとギデンズとの共著の最後で、ラッシュは「〔社会理論的(政治的)課題への〕参加が・・・非常に批判力に満ちた距離からのものでなければならないと、私は強く主張したい」と記述している。批判という問題に対して、この記述と本書のラッシュの記述とは矛盾している。このような批判に対する立場の転換を、ラッシュはどのように説明しているのだろうか。

 ラッシュはこの問いから答えへと向かう過程を詳細に検討している。しかし、超越的なポジションからの批判が不可能であることについては、繰り返し指摘されてきたことである。クワインは科学的な知識体系から超越する外的なポジションを否定した。その段階ですでに超越的な批判の可能性は否定されている。したがって、ラッシュの行っている超越的な批判の不可能性は何も新しいことではない。ただし、批判論を検討する各章(第2部)も、デリダ、ハイデガー、レヴィナス、ルフェーブル、ベンヤミン、ヴィリリオなどの議論を批判の中に読み込んでいく作業であり、それはそれで非常に濃厚な知的エッセンスを含んでいる。

 ラッシュの独自性は、超越的な批判の不可能性を「情報社会」との関連で論じたところにある。ラッシュはポスト工業生産社会である今の社会を情報社会として記述する。コミュニケーション、テクノロジー、メディア、<information(情報)/disinformation(非情報的情報)>の共存、ストックではなくフロー、線形的ではなく非線形的。これらは情報社会の輪郭を成す特徴である。これらは再帰性の帰結として論じられる。たとえば、距離を置いた省察を必要とする言説的・分析的知に関わる情報はそれ自体で情報社会の特徴を成すが、その情報の過負担から帰結する極端なまでの個別性・事実性に関連する非情報的情報もまた情報社会の特徴である。ここに見られるのは、近代化の徹底であったところの再帰的近代化のさらなる徹底である。

 これら情報社会の特徴を貫いているのは時間の問題である。情報を機軸とするポストモダンにおいて、テクノロジーによってメディアの即時性が可能となり、個人やものはネットワーク上の単なる結節点になり、物事の網(ネット)は数多の出来事へと分解・断片化する。そこでの経験は、もはや反省をする余地もない、スピードという時間性である。ひたすら繰り返される今、今、今…。今に接続するのもやはり次の今なのである。「過去も未来もない今の時間性とは光速、つまり瞬間的時間である」。「「今」は偶発性ということ指向している」。そこでは、「新聞の記事が価値を持ち得るのはたった1日だけである。…最新のサッカーの試合の結果を報じる新聞記事は、試合終了後90分以内に書き上げて伝送しなければならない」。

 ここに至って、批判対象から距離をおいて省察するための空間は消滅する。「批判は情報内部のものであるほかない」。この批判は、かつての超越的なポジションからなされるものではない。そこでの批判は、コンセプチュアル・アート的なものになる。それは、未完であり、観客の(解釈ではなく)操作性によって進められる、そのように常に次の操作の可能性にひらかれている。その意味で、批判は超越的ではありえず、偶発的であり続ける。このように時間、批判を捉えることによって、ラッシュは自身の記述を転換・展開させているのである。

 ここに至って、批判という営みは、次に出てくる批判=情報に接続されるフローの結節点でしかないのである。最初の批判に対する批判も次の批判にひらかれているのであり、最後の批判は存在しない。批判は常に最後から2番目の批判であり続けるのである。

 同様に、記述される今も、次に記述される今によって接続されるための点であり、最後の今は存在せず、常に最後から2番目の今であり続ける。このように次々と今を記述することは、そのことによって人びとの一瞬の今を充たす「遊び」であり、悲劇的というよりは喜劇的である。これが本書から得られる帰結である(これは、ルーマンの社会学的啓蒙の帰結を論じた馬場靖雄の議論とパラレルになっている。本書とそちらを併せて検討することで、ルーマンの社会学的啓蒙とラッシュの情報批判論の異同──コミュニケーションのみか、テクノロジーに媒介されたコミュニケーションか──を考察することができる)。

 ラッシュの本書の帰結をさらに徹底させた先について考えてみたところで結論は同じである。確かに、本書は制度的再帰性を徹底させた先に出てくる今の社会を描いていた。しかし、これもやはり最後から2番目の今の社会。したがって、次に出てくる記述された今の社会によって乗り越えられることによってラッシュの論は破綻する、というわけにはならない。ラッシュの先に出てくる今の記述も、次の今の記述の可能性にさらされている最後から2番目の今の社会の記述であり、ラッシュのロジックの地平に出てくる記述だからである。

(畠山洋輔)

・関連文献
馬場靖雄,2001,『ルーマンの社会理論』勁草書房.
Beck, Ulrich, Anthony Giddens and Scott Lash, 1994, Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, Cambridge: Polity Press.(=1997,松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)
McLuhan, Marshall, 1964, Understanding Media: The extensions of Man, London: Routledge and Kegan Paul.(=1987,栗原裕・河本神聖訳『メディア論──人間の拡張の諸相』みすず書房.)
Quine, Willard V. O., [1953] 1980, From a Logical Point of View: 9 Logico-philosophical Essays, 2nd ed., rev., Cambridge: Harvard University Press.(=1992,飯田隆訳『論理的観点から──論理と哲学を巡る九章』勁草書房.)
佐藤俊樹,1996,『ノイマンの夢・近代の欲望──情報化社会を解体する』講談社.


・目次


 はじめに
 第1章 情報批判

第1部 情報
 第2章 テクノロジー的生活形式
 第3章 活気のある地帯、ない地帯──グローバルな情報文化に向けて
 第4章 非組織的組織
 第5章 統御困難な客体──再帰性の帰結
 第6章 メディア理論

第2部 批判
 第7章 批判と社会性──記号理論の再検討
 第8章 伝統、そして差異の限界
 第9章 表象の批判
 第10章 時間の後の存在

第3部 情報批判
 第11章 非情報的情報社会
 第12章 テクノロジー現象学
 第13章 非線形的権力──マクルーハンとハラウェイ
 第14章 結語──コミュニケーション、コード、再生産の危機



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『象徴の貧困2――感覚可能なものの構造転換(カタストロフィー)』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 2005,
De la misère symbolique 2. La catastrophé du sensible
, Galilée

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●「一般器官学と新たな政治エコノミーへ向けて」

「それは至るところで作動している、(・・・)至るところでそれは複数の機械である。それも、比喩的な意味ではなく。」(ドゥルーズ=ガタリ)

 機械、というよりはむしろ器官と呼ぶのが正しいだろう。同時に「器官なき身体」の構想は、個々の器官の命運を追尾する「一般器官学organologie général」の構想に置き換えられるべきであるだろう。器官なきリビドーは霧散するしかなく、器官とはまさしくリビドーに場を与えるものである。また反復の実践を通して、器官はみずからがリビドーの「崇高な/昇華されたobjet sublime」となる。世界はリビドーのエコノミーの場としての諸器官から成り立っている。

 ベルナール・スティグレールは『象徴の貧困』シリーズの中で、その一般器官学の壮大な構想を展開している。第一巻『ハイパーインダストリアル時代』では、ハイパー産業化時代におけるリビドーの危機が論じられた。その議論は、一見すると現代の絶望的な「出口なし」を描写しているだけのようにも見える。しかしながらこの第二巻『感覚的なものの構造転換(カタストロフィー)』に明らかなように、スティグレールは芸術という文化的営為のうちに未来の可能性を明確に見て取っている。本書においてスティグレールは、その未来の可能性の条件を一般器官学という観点から論じていく。

 一般器官学の試みは、「感覚可能なものの系譜学généalogie du sensible」から切り離すことはできない。技術と共に出現する人間にとって、身体の諸器官はつねに技術を通して構成された「拡張された器官organe elargi」である。それゆえそれらの器官を通して立ち現れる「感覚可能なものsensible」は、身体に接続される技術的配置とともに変遷していくことになる。ここに「感覚可能なものの系譜学」が要請されることの必然性がある。

 スティグレールはその系譜学の試みにおいて、「感覚可能なものの機械的転回tournant machinique du sensible」を重要なメルクマールとして取り出す。19世紀における複製技術の出現は感覚可能なものの地平を根本から変容させた。とくに映画や音楽など、スティグレールが「時間的対象objet temporel」と呼ぶものの出現を可能としたことで、それまでには存在しなかった芸術的経験が生み出されることとなった。

 この「機械的転回」が重要であるのは、それが経験の質というものに介入するからだけではない。それは同時に、芸術作品の大規模な産業化をも可能とするものであった。芸術的経験のエコノミーは貨幣のエコノミーへと次第に組み込まれていき、このことがよりマクロな構造における経験の質の変容を産出していくことになる。ここにスティグレールが「ハイパー産業化時代」という言葉で喚起している問題の場所があり、そして新たな芸術実践の必要性が叫ばれるのもまたこの現在から出発してのことである。


 もし芸術的経験の核というものが存在するとすれば、それは何であるのか。スティグレールの答えは明確である。「信憑croyance」、これこそが芸術的経験の核心であるというのだ。そのことを示すに際して、スティグレールは三つの例を挙げる。1)芝居を見たことのないスペイン人の兵士が護衛に当たっていた劇場で、デズデモーナを扼殺しようとしているオセロを銃撃してしまったというエピソード。2)衛生意識の向上のために見たことのない映画を見せられたアフリカの人びとが、話の内容とはまったく関係のない雄鶏にしか興味を示さなかったというエピソード。そして、3)リュミエール兄弟によって上映された初めての映画を見た観客が、自分たちの方へと向かってくる電車を見て飛び上がったという伝説。

 これらの例を挙げながら、スティグレールは芸術的経験を構成する二つの契機を提示する。1)可動性を切断し、現実と虚構との区別を打ち立てること。舞台やスクリーンで繰り広げられる光景は、現実的な連続性から切り離された「他なる場所autre plan」で生じる出来事である。現実とは区別された虚構が可能となる「他なる場所」を立ち上げることが芸術的経験を可能とする条件であり、上に挙げられた三つの例は、いまだその区別が成立していない段階を示している。2)そのような区別が可能となるためには、「器官学の実践pratique de l’organologie」が必要であること。舞台やスクリーンは、ただそれだけで「他なる場所」とのインターフェイスとなるわけではなく、それが可能となるためには反復的な実践が求められる。その反復を通して、次第に舞台やスクリーンは「他なる場所」とのインターフェイスとして立ち上がっていく。いうまでもなく芸術の核に存在する「信憑」とは、このようにして生み出される「他なる場所」への「信憑」である。

 重要であるのは、デジタル技術によってあらゆる情報が統合されつつあるハイパー産業化時代においてこのような「信憑」の産出を模索することである。

問いとは、テクネー(技術)としての芸術の問いであり、そしてハイパー産業化された器官学の時代においてテクネーは、記憶媒体(hypomnémata)の新たな諸形態に即した器官学的諸実践を展開することができるようなある政治の発明を要求する。(p.158)

とすればここで問われるのはその政治の主体である。本書においてスティグレールは、手を通して残される物質的刻印に芸術的営為の根底を見出すヨーゼフ・ボイスの芸術的試みを取り上げながらも、アマチュアという存在に注意を向ける。

 技術の発達は芸術作品の大規模な産業化を可能としたのと同時に、サンプリング・ミュージックに見られるようにアマチュアによる芸術の領有をも可能とした。スティグレールによればアマチュアとは「対象を愛する者celui qui aime un objet」である。そこにおいて反復的な実践の対象となる「対象」は、「他なる場所」とのインターフェイス、すなわち崇高なものとなる。アマチュアという存在にこそ、現代で「信憑」が生み出されていくその可能性が潜んでいるのだ。

 
 現状は決して楽観視できるものではない。消費を大量に生産し、人びとに大量の消費を要求する資本主義の環境では、ありとあらゆるステレオタイプが出回っていく。スティグレールによればそのような事態はリビドーを育む特異性の経験そのものを枯渇させてしまう。とすれば人びとのリビドーを消費の活力としてまさに自身の源泉としている資本主義は、緩やかな自己破壊のプロセスを歩んでいるということになる。

 スティグレールの一般器官学の驚くべき点は、リビドーの経済をも包括するものとして考察されているところであり、「器官学の実践」と呼ばれていたものは、同時にリビドーの経済を展開していく実践でもある。「対象」に向けられる反復的実践を通して、「対象」は昇華されたものとなり、そのことによってリビドーの経済は活性化される。

 フロイトの読解を通してスティグレールは、それらの「対象」がトラウマタイプという独自の経験を可能にすると主張する。トラウマタイプとは「予期せざるものinattendu」の経験であり、それを通して既存の記憶のネットワーク=二次的把持が再編成を迫られるような経験である。ただしその予期せざるものとは、特定の「期待の地平horizon de l’attente」に潜在する緊張の発露である。それゆえ芸術受容の経験が示しているように、そこでの予期せざるものとの遭遇は、実践を通して「期待の地平」を開発していくことによって可能となる。つまりは予期せざるものとの出会いとは、記憶のネットワークが繰り返し動揺しながら発展させられていくというそのプロセスを指すのである。

 ここではリビドーの経済が、実践の「対象」を社会において配備していくという一種のエコロジーと結びつくことになる。スティグレールが繰り返し述べているように、まさに発明されなければならないのは精神のエコロジーなのであり、それは同時に精神の政治的エコノミーでもあるのだ。本書は一般器官学のプロジェクトという観点から芸術を考察していくことで、そのエコロジーとエコノミーの本質を鮮やかに描き出している。

(谷島貫太)

・関連文献
Jacques Rancière, Le Partage du sensible, La Fabrique, 2000
Benjamin, Walter. “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Repro-duzierbarkeit”,1936.(「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミンコレクションI近代の意味』,浅井健二郎編訳,ちくま学芸文庫,1995年)
Freud, Sigmund. “Jenseits des Lustprinzips”, Internationaler Psychoanalytischer Verlag,1920.(「快感原則の彼岸」『自我論集』,中山元訳,ちくま学芸文庫,一九九六年)

・目次


当てもなく――読者への注意
語り手のいるプロローグ――感覚可能なものの機械的転回と音楽の特権性
I. 感じるために参加する、あるいは現勢化のための技法
II. 武装すること――ウォーホルとボイスから出発して
III. 我らすべて――変-容としての個体化と社会的彫刻としての変-容
IV. フロイトの抑圧――生は死に奪い取られその逆もまた
V. 分離する結合――カモノハシはどこへ?


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2007年07月06日

『消費文化とポストモダニズム』マイク・フェザーストン(恒星社厚生閣)

消費文化とポストモダニズム〈上〉 消費文化とポストモダニズム〈下〉
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「ポストモダニズムとは何か」という問いに解を与えようとする試みは、常に挫折する運命にあ るのだろうか。
これまでにも「ポストモダニズムとは何か?」を説明しようとする試みは数限りなく行われてき たが、少なくとも評者はいまだに「ポストモダニズムとは何か」を、理解できていない。

しかしながらそれは、評者自身がポストモダニズムに対して「近代的な思考」に基づく合理的説 明を求めていることの証左なのかも知れない。ポストモダニズムなるものが、そもそもそうした 「近代的な思考」を放棄したところで初めて成立し得るものなのだとすれば、こうした合理的説 明を求めるような思考を保持しつづけている限り、ポストモダニズムを理解することなどできな いのは当然である。

では、「近代的な思考」に基づかない読み=解釈実践とは、いかなる実践なのか。私たちは既に 「近代的な思考」に基づく強固な認識枠組を作り上げており、それを解除するためには、「近代 的な思考」の枠組を通して認識することが可能な形で、「脱・近代的な思考」=ポストモダンを 提示することが必要となる。

そして、いくらこうした有効な認識枠組を渇望したところで、ポストモダニズムがそれを提示す ることは、絶対にないだろう。そこに合理的な認識枠組を求め、またそれを提示しようとした瞬 間、それは極めて近代的な実践になってしまうのだから。

こうしてわれわれ(いや、評者だけか?)は、「ポストモダニズムとは何か」をめぐる無限ループ に嵌っていくのである。



本書においてフェザーストンは、こうした無限ループを回避しつつ
ポストモダニズムを理解するためには、特に文化的領域で起こって
いる具体的現象について、以下の前提の下に考察する必要があると述べる。

  第一に、ポストモダニズムは、原理を巡るそれぞれの
  領域での競争的闘争に顕著に見られるような芸術、
  知的、学問的領域における変化に関わっている。

  第二に、ポストモダニズムは、象徴的商品の生産、
  流通、宣伝の様式の観点で、 より広い文化領域に
  おける変化に関わっている。(…)

  第三に、ポストモダニズムは、異なる集団の日常の
  実践や経験における変化に関わっている。(…) 
  (下巻p17-18, 強調は引用者による)

すなわちここでフェザーストンが提示しているのは、商品の生産・流通や、諸集団における日常 実践の「歴史的な変化のプロセス」としてポストモダニズムを捉える視座なのである。< BR>


さて、ボードリヤールの論考に代表的に見られるように、ポストモダニズムは常に消費社会と結 びつく形で論じられてきた。たとえば、消費社会の(そしてポストモダニズムの)象徴として、本 書においても幾度となく言及されるのが、MTVである。

本書においても「観ている人々の目は、記号やイメージの上を滑走し、意味するものも意味され るものも何の意味も持たない」(下巻p131) と言及されているように、MTVは、表現内容についても、その番組編成についても、合理的説 明を徹底的に拒絶するメディアとしてみなされてきた。

そして、その文脈なきプログラムを軽やかに受容する受け手との相互作用の中で、またそれらを 近代的音楽受容とは異なる文脈に位置づけようとする言説の中で、MTVはまさしくポストモダ ニズム的なメディアとして構築されてきた。

(こうしたMTVとポストモダニズムをめぐる歴史的/実証的研究については、Goodwin[1992] が詳しい。なお評者自身がポピュラー音楽および映像メディアを研究フィールドとしているため、 議論の焦点がどうしてもMTVに向けられてしまうのはご寛恕願いたい。)



ただフェザーストンによれば、こうした文化的実践のあり方は、何も
消費社会/MTV/ポストモダニズムなどに特有のものではないという。彼はむしろ「日常生活 のポストモダンな審美化にまつわる特徴の多くは、モダニティに基づ」(上巻p115) いている、として議論を展開している。

たとえばフェザーストンは、こうしたMTV的な、すなわちポストモダニズム的な文化的実践の あり方を、ベンヤミンが『パサージュ論』で描いた19世紀パリの遊歩者に見出しつつ、次のよう に述べている。

  フィギュラルな布置編成は、映画、テレビ、広告など視覚的な
  記号作用の布置にみられるが、それはまた、消費文化の
  一般的な特徴の一つともいえるのである。

  ここでわれわれはベンヤミン(Benjamin[1982b])が強調した
  夢のような大量消費の世界における陶酔感覚や平凡な
  ものを詩的にする作用などをみることができる。それらは
  ベンヤミンが『パサージュ論』のなかで行った19世紀中期
  パリのアーケードの議論で中心的なものである。(上巻p103)

フェザーストンは、ポストモダンと近代の断絶を強調するのではなく、むしろ両者の間に歴史的 連関を見出しつつ、それがいかに「特定のオーディエンスや一般大衆の間に広がり、受容=承認 されていったかなどにかかわる社会的なプロセス」(下巻p114) を描き出すことの重要性を強調する。そして同時に、ポストモダン文化を媒介する文化仲介者の 日常実践を記述する必要性を説く。

すなわち本書において提唱されているのは、「ポストモダン的な社会学」ではなく、 「ポストモダン文化の社会学」という方法論なのである。



こうした、ポストモダン文化をめぐる受け手や仲介者の日常実践にフォーカスを当てる研究は、 特にカルチュラル・スタディーズにおいて盛んに行われている分野ではあるが、本書はこうした 研究と社会学とを架橋する、方法論的なマニフェストの書として位置づけることができるだろう。

おそらく、本書を読んでも「ポストモダニズムとは何か」という問いに対する直接的な解は得ら れまい。しかしここには、その問いをめぐる無限ループを回避しつつ、ポストモダニズムを理解 し記述するための、極めて実践的な方法論がある。
(溝尻真也)



・関連文献
 Baudrillard, Jean, (1970),
La societe de consommation: Ses Mythes, Ses Structure, Paris : Denoel (今村仁司 塚原史訳, 1979,『消費社会の神話と構造』, 紀伊國屋書店.)

 Benjamin,Walter (1982)
Das Passagen-Werk, Herausgegeben von Rolf Tiedemann, Frankfurt am Main : Suhrkamp (今村仁司・
三島憲一訳, 1993-1995,『パサージュ論1‐5』, 岩波書店)

 Goodwin, A. (1992)
Dancing in the Distraction Factory: Music Television and Popular Culture, Minneapolis: University of Minnesota Press


・目次
上巻   序章.日本の読者のために   1.モダンとポストモダン-定義と解釈   2.消費文化の諸理論   3.ポストモダン文化の社会学を目指して   4.日常生活の審美化   付論.グローバリゼーション・環境・リフレクシヴなデザイン 実践に向けての一つの習作:社会学とカルチュラル・ スタディーズの新たなフィールドへ  下巻   5.文化変動と社会的実践   6.ライフスタイルと消費文化   7.都市文化とポストモダンのライフ・スタイル   8.消費文化とグローバルな脱秩序化   9.コモン・カルチャーか、アンコモン・カルチャーか?   10.結語:多様性のグローバライゼーション   講演録.グローバル化するポストモダン:消費文化とポストモダニズムの反省   解説.グローバライゼーションと免疫不全の臨床美学: リスク環境の共有化におけるアレルギー文化と サステナブルな〈生〉のスタイル


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『グローバル・カルチャー―ナショナリズム・グローバライゼーション』(未邦訳)マイク・フェエザーストン編
Mike Featherstone, ed. 1990, Global Culture: Nationalism, Globalization and Modernity, Sage

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「グローバル・カルチャーの位置」

 1955年、アメリカのイリノイ州に第一号の店舗を開いたマクドナルドが始めて日本にやってきたのは1971年のことであった。その後冷戦が幕を閉じ、新しい世界秩序が成り立っていく中で、マクドナルドはそれと同じ速度で世界各国(旧ソ連(1990年)、中国(1991年)など)に広がってきた。そして今や我々は、ビックマックBigMac一個の価格で各国の経済指標を測る時代を生きている。60年代、かすかにその姿を現した「グローバル化」という概念は、90年代以降メディアや企業、政府、金融、そして知識集団の中でひろく扱われるようになり、今や誰もが身近に感じる一般的な用語になっているのである。インターネットで、大衆文化で、海外旅行で、我々はそれが元々存在していた当然の条件であるかのようにグローバル化を語っている。

 しかしグローバル化は、その言葉自体は普遍的で、とても親しいものでありながらも、一方今の世界に関して実質的な洞察力を持っているとは決していえない、曖昧で複雑な概念である。それはグローバル化が多重の次元で様々な形として行われる現象だからである。したがって、そのグローバル化という急速な変化の複合と力動を説明するためには、政治と経済だけではなく文化的な観点が要求されるのである。フェザーストンFeathersoneを始め、ウォーラーステインWallerstein、アパデュライAppaduraiなど多く知られている碩学の論文が収録されている本論文集は、そのグローバル化と文化を論じることにおいて決して欠かすことのできない特別な存在感をもつ著作である。今までいわゆる「グローバルな何か」に関する数多くの著作を読んできた(あるいはその参考文献を注意深く観察してきた)読者であれば、この多少大げさな表現にとくに違和を感じることはないだろう。この論文集の編集者であるフェザーストンFeathersoneは、「グローバル・カルチャーは存在するのであろうか」というテーゼを前面に出し、グローバル化に関して対立する二つの伝統的な流れの中で、グローバル・カルチャーを巡る論争を纏めている。

 グローバル化に対する二つの代表的な観点といえば、グローバル化を本質的に単一の因果論理によって作動するものとして捉えているウォーラーステインWallerstein、ギルピンGilpinらの側と、多重の因果論理で説明し、それらを歴史的過程として強調するギデンズGiddens、ロバートソンRobertsonらの側である。グローバル・カルチャーの存在というテーゼを巡っても、普遍的なグローバル・カルチャーの形成の可能性を強調する立場と、グローバル・カルチャーを主張すること自体がイデオロギーであり、そのものは地政文化の連続だと主張する立場が対立する。

 まずフェザーストンは、世界システム理論における文化の位置を巡る論争に注目する。ウォーラーステインにとって文化概念とは、資本の蓄積という論理に基づく世界システムによって説明される問題であり、彼にとっては、文化を定義すること自体が本質的に政治的な境界を定義する問題なのである。それに対しボインBoyne、ウォースリーWorsleyらは、その一面的な文化概念を批判し、ナショナリズム、宗教、そして人種主義などが重視される「近代」を、文化の次元なしに理解することはできないと指摘する。アンソニースミスAnthony Smithもグローバル・カルチャーに対して否定的な意見を示している。彼にとってグローバル・カルチャーとは、グローバルなコミュニケーションに対立するものであり、グローバル・カルチャーには共通の歴史的経験という部分が欠けていて、そこでグローバルな記憶が存在することはできないのである。むしろグローバル・カルチャーより民族文化による「グローバルな文化戦争」の方がふさわしいのだという。

 フェザーストンはグローバルなレベルにおける趨勢がある種の文化的な統合と均質性を進めるという主張を批判しながらも、グローバル・カルチャーという共通の素地について語る余地に可能性を見出す観点を堅持する。その可能性の一つとして取り上げているのが、ロバートソンRobertsonの「グローバルな圧縮のプロセス」である。彼がいう単一の場所が意味するのは単純な均一性や共通文化ではなく、社会関係を決定するコンテクストと同時に社会構成員の存在、アイデンティティーと行為に準拠したものであり、複雑な社会的・現象学的条件である。ハーネルズHannerzも一つの世界文化は存在すると断言する。しかしそれは、意味と表現の体制の全面的な同質化ではなく、世界が一つの社会的ネットワークになり、地域と地域の間には人間や財、そして意味のフローが存在するということを意味する。アパデュライAppaduraiによる五つのグローバルな文化的フロー、つまりエスノスケープ、メディアスケープ、イデオスケープ、テクノスケープ、ファイナンススケープは、そのような様々なフローに繊細な想像力を提供している。

 本書の冒頭でフェザーストンは、「グローバル・カルチャーは存在するのであろうか」というテーゼを論じるために、民族国家の文化を拡張させることを警戒しながら、ナショナルな、または社会的なレベルを超えて思考することを提案している。「トランスナショナル」という概念が普通に使われるようになった現時点から17年前、つまり我々がインターネットや携帯の存在すらよく知らなかった時代に書かれたということを考えると、それは非常に洞察力のある提案であることを言わざるを得ないのであろう。しかしそれから17年後、インターネットを初めとする尖端のテクノロジーによって全世界が圧縮されつつある現時点で、そのテーゼに答えを出すことはいかなる意味を持つのかを、我々は省察的に考えなければならない。相変わらず、むしろより激しく行われているグローバルな文化威信競争を巡るナショナル・カルチャーの争いの中で、我々は(カンクリーニCancliniがいう)飛行機から、あるいは高速道路上の車からグローバル化を論じているのではないだろうか。グローバル・カルチャーが存在するのであれば、それは我々にとって何を意味するのであろうか。本書がもつ問題意識は今でも有効である。

(金ソンミン)

・参考文献
Featherstone, Mike. Consumer Culture & Postmodernism. Sage、1991. 川崎賢一、尾川葉子、池田 緑. 消費文化とポストモダニズム(上、下). 恒星社厚生閣、1999、2003.
McGrew, Anthony. “A Global Society?”. Modernity and its Future. Polity Press, 1992.
Tomlinson, John. Globalization and Culture. Polity Press, 1999. 片岡信. グローバリゼーション : 文化帝国主義を超えて、青土社、2000.
吉見俊哉. カルチュラル・スタディーズ. 岩波書店、2000.


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2007年07月05日

『無信仰と不信1 産業的民主主義の退廃』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 2004, Mécréance et discrédit 1.La décadence des démocraties industrielles, Galilée

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●「資本主義世界における文化の政治と「記憶媒体hypomnémata」の実践」

 資本の流れはあらゆる境界を踏み越えていき、その運動を通して、地球上に存在するさまざまな現実的統一性や想像的な統一性を動揺させつづけていく。そこで生み出されていく動揺に対しては、当然ながら反動的な動きが伴うことになる。国家や民族や宗教といった想像的な統一性がいたるところで過剰に回帰し、しばしば物理的な暴力をもたらしながら、世界の不協和音は日増しに高まっていく。

 2002年4月21日、大統領選において極右政党を率いるジャン=マリ・ルペンが決選投票に進むことが判明し、フランスに大激震が走った。また2004年6月13日には、フランスでの国民投票の結果はEU憲法に拒否を突きつけ、ヨーロッパの足元が大きく揺らいだ。資本のグローバルな移動に対する反動という性格を紛れもなく有しているこれらの事例のうちに、ベルナール・スティグレールは政治という営為を根拠づけているはずのある「信憑croyance」の崩壊を見て取る。「無信仰と不信」がいたるところに瀰漫し、そのことによって政治が機能不全に陥りつつあるというのだ。スティグレールはこの地点から出発して、資本主義時代における可能な政治のあり方を探っていく。

 そこでスティグレールが繰り返し強調するのが、文化に関する政治というものの必要性である。こんにち政治を機能不全に陥らせているのはある「信憑」の不在であり、とすればなによりも要請されているのはその「信憑」を耕すものであるところの文化に関する政治である。しかしながら現代においては文化は、ハリウッドを頂点とする「プログラム産業」によって徹底的に商品化されており、その傾向は情報・コミュニケーション技術の発展によってさらに推し進められつつある。そこでは文化的対象はグローバルなマーケットにおいて均質化され、特異な経験を育む契機となることは困難である。

 それではそのような状況においていかなる可能性が残されているのか?

 スティグレールは系譜学的な問いを立てることで、現代の「無信仰と不信」の起源を探っていく。そこではマックス・ウェーバーの議論を手引きとしながら、資本主義の成立そのもののうちに、社会の基盤にあった宗教的な「信憑」が、換金可能な「信用」へと格下げされていくプロセスが見出される。そのプロセスの結果として、計算不可能なものとの関係である「信憑」はもはや不可能となり、すべてが計算可能性のうちに切り縮められる。資本主義とは計算可能なものしか存在しない世界のことであるのだ。

 スティグレールはここで展開されていくプロセスを「オチウム(Otium)」の「ネゴチウム(Negotium)」への還元のプロセスとして捉え直す。オチウムとは計算不可能なものとの関係において繰り広げられる象徴的営為であり、かつては聖職者がその役割を一手に引き受けていた。しかしスティグレールによれば資本主義化のプロセスは、あらゆる活動を生活の糧を稼ぐための営為であるネゴチウムへと還元してしまった。

 ミシェル・フーコーは「自己の書法ecriture de soi」と題された文章において、「記憶媒体hypomnémata」を場とした古代ローマにおける自己陶冶の技法について論じている。スティグレールはこの議論を自身のオチウム論の中に位置づける。あらゆるオチウムは特定の記憶媒体を場として展開されるものであり、その活動を通してそれぞれに特異な自己が構成されていく。また同時に記憶技術を場とした実践は、事実と権利の差異を生み出していくものであるともされる。いうまでもなく権利は、事実とは異なり、つねに「いまだ存在しないもの」、来るべきものとしての「信憑」の対象である。

 プログラム産業はオチウムの場としての記憶媒体を、際限のない消費の対象として編成し直す。この事態はいうまでもなく、資本主義が「信憑」を「信用」へと切り縮めていったそのプロセスをさらに推し進めるものである。そこでは特異性の経験は次第に困難になり、それゆえ資本の流れに無力にさらされることになる。想像的統一性が性急に召還されるのはまさにここにおいてであり、その事態はまさしく記憶媒体の実践としての文化の欠如を証言していると言える。

 政治的闘争の真の舞台は文化であり、またそれぞれの文化的対象がそこへと書き込まれる記憶技術である。スティグレールによるこの主張は何も奇異なものではなく、アメリカ的な民主主義と消費主義とが映画というメディアを通して世界中へと輸出されていったという現実の事態を想起すればその正当さは容易に理解される。

 ここで問題となっているのは個々の境界を相対化しつづけていく情報・コミュニケーション技術をラッダイト的に放擲することではなく、それらを新たな文化政治のための武器として積極的に取り込み活用していくことである。そのことによって、文化的対象を徹底して消費の対象へと引き下げてしまうプログラム産業に抵抗する、記憶媒体の実践を通してそれぞれの特異性の経験を耕していくという「特異性の政治的エコノミーéconomie politique des singularités」が可能となるのだ。
 
 『技術と時間』シリーズで技術の根源性について繰り返し論じてきたスティグレールは、政治の根底に「信憑」を生み出す文化的営為を見出しながらも、それらの営為を実現する技術の次元を忘れることはない。本書『無信仰と不信1』では、シンボリックなものが書き込まれやり取りされる記憶媒体という場のもつ意味が、その根源的な性格においてあぶりだされていく。その上でスティグレールは本書の結末部で、その記憶媒体において書き込みを行う「手」という形象に注意を向けると同時に、そのような「手」を有した知識人という存在の役割を強調する。「手」を有した知識人とは、単に観照するのではなく「手」をもって実践的に介入する存在であり、また特定の記憶媒体の配置において「手」をもって書き込む存在でもある。実践の場とはつねに記憶の書き込みの場である。「手」をもった知識人とは、自身が、そして社会がそこへと置かれている書き込みの場の性格に批判的なまなざしを向けつつも、同時にその場において積極的に書き込みを行なっていく存在であるのだ。

 スティグレールの著作をつねに貫いており、本書では知識人の役割とともに考察された「手」の形象は、『象徴の貧困』の第二巻においては芸術家の、そして芸術を愛するアマチュアの「手」として捉え直されていく。重要な著作を量産しつづけていく「スティグレールの手」からは、なかなか目が離せないのである。

(谷島貫太)

・関連文献
マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫、大塚久雄訳、1989年
蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』,筑摩書房、2001年
ハンナ・アレント『人間の条件』、ちくま学芸文庫、志水速雄訳、1994年

・目次


一章 退廃とそれが我々にもたらす義務
二章 信憑と資本主義時代における政治
三章 人々のオチウム(Otium)
四章 信じようと望むこと――知識人の手において



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浅田彰×松浦寿輝「人文知の現在」~『表象』第01号、表象文化論学会、月曜社、2007年4月、pp.8-33

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「<人文知の現在>に抗って ――知のアメリカ化、幼児化、情報化」

 人文知をめぐる重層的な問題系のあいだを横断し、人文知の現在を批判すること。閉域化し衰弱しつつある知的空間のなかで、人文知の在り方をその根底から問うこと。浅田彰と松浦寿輝による対談「人文知の現在」がめざすのは、その批判的な問いを通じて、人文知の可能性を探っていくことである。

 対談ではまず、1989年の東欧民主化と1991年のソ連崩壊以降における、アメリカの主導するテクノキャピタリズムの世界化と、プラグマティックな工学知による利潤追求の全面化という問題が指摘される。また、それへの反動としてのヨーロッパ的な人文的教養への不可能な回帰が、知的空間の閉域化という不毛な構図を形づくっていることが示される。ところで、歴史的かつ原理的にみれば、ドイツ思想の輸入と翻訳によって生み出されたフランス現代思想に明らかなように、文化圏のあいだでの移動と翻訳は、二〇世紀の人文知を活性化してきたといえよう。その意味では、デリダやフーコーのように、アメリカ的なものとの接触を介した移動と翻訳によって、人文知が活性化したということもありえるだろう。あるいは、アドルノやパノフスキーのように、アメリカ的な合理化に耐えうるような人文知の力こそ重要なのではないか。ここでは、知のアメリカ化をヨーロッパ的人文主義によって単純に否定するのではなく、このような二〇世紀的な越境と翻訳を二一世紀にいかに取り戻せるか、それが人文知の可能性のモチーフのひとつになるとされる。そしてさらに、現在の日本の知的空間においても、古いパラダイムへの回帰や、新しいパラダイム内での縮小再生産に陥らず、既存のパラダイムを蹴散らし、新たな出来事を呼び込むような模索を展開することの重要性が示される。

 続いて、人文知が創造の現場と繋がることの必要性が確認される。人文知は、批評の実践だけでなく、文化的創造への接触や参与によって、真の意味で機能するといえるからだ。しかし、浅田と松浦にとって、この文化的創造の現在は、文学や詩において顕著にみられるように、もはや歴史意識を欠いた白茶けた荒野のようにしか映らない。芸術家の感性や身体、才能が、文化的教養と出会って化学変化を起こすというケースが例外的なものとなりつつあるのだ。そしてさらに現在、それに関連して、資本主義の結果、世界が幼児化していること、また、その幼児的退行を売り物にする芸術ばかりが市場のただなかに投げ出されていることが指摘される。幼児化する世界(幼児的資本主義)において、芸術的な創造行為や、学問的な営為は、それらにとって必要な「自明性の揺らぎ」を失いつつあるのではないか。知は自らをその世界の外へ投げ出し、突破口を開かなければならない。人文知には、市場の論理を抜け出したものに反響板を当て補助線を引き、自明とみえるものを批判しながら、創造的なものの力を訴える機能があるのだ。ひとつの言語やネーション、あるいはディシプリンから抜け出し、いわば思考の亡命者となること。現在の人文知を内破するためには、このような実践が求められているとされる。

 対談は、さらに、幼児化やポストモダン化とも関わってくる電子メディアの問題系をめぐって展開される。ここでは、活字メディアから電子メディアへという情報知のパラダイム・シフト(膨大な記憶の外在化と機械的な検索の可能性)が、現状では、人文科学の優れた達成に寄与しているとはいえないと論じられる。なぜなら、現在生じているのは、前近代的‐幼児的な主体が、閉じられた場のなかで情報空間を共有するという退行(無媒介的な共現前のイリュージョン)にほかならず、そこでは歴史的に蓄積され咀嚼された学知が単なる情報へと置換され、存在と一体化した知に対する敬意が失われつつあるといえるからだ。情報の行き交う空間ではなく、書物によって構成された知の迷路としての図書館によって、人文知の基盤が形づくられてきたという歴史的事実を忘れてはならない。情報知のコンビニ化という時代において、情報になる前の知、身体化された知、モノとしての知と直接かつ偶然に遭遇できる場が必要とされているのだ。新たな知的創造は、蛸壺的に限定された情報を共有する匿名の共同体から、特異性が突出しつつ相互に遭遇する場への相転移がなければ行われえないだろう。そのために、人文知は、アーカイヴを維持するコンセルヴァトゥールや、その遭遇を組織化するメディエーターの役割を演じるべきであると述べられる。

 ここで浅田と松浦が要請するのは、偶然的な出来事から発し、ジェネレーションやディシプリン、さらには言語や制度をも越えた、連帯や交通、友情である。あるいは、アカデミックな活動とアクチュアルな活動を相互に結び付けていくことである。移動と越境を通じて他者と触れ合い、葛藤や緊張を受け止めること――こうした体験が、人文知を衝き動かし、その新たな基盤となっていく。そしてそのためには、自己への懐疑と絶望から出発して、知そのものへと立ち向かっていくような身振りが必要とされるのではないか。本対談は、人文知の現在を批判しながら、このような問いかけの提起を通して、人文知の未来の可能性を批判的に描き出しているといえよう。なお、『表象』の創刊号の特集は「人文知の現在と未来」と題されており、浅田彰や松浦寿輝だけでなく、岡崎乾二郎、中沢新一、田中純、鵜飼哲、岡田温司、神崎繁、あるいはサミュエル・ウェーバーといった気鋭の人文学者による人文知へのさまざまな問いが提起されていることを付記しておく。

(中路武士)

・関連文献

Iain Boal, T. J. Clark, Joseph Matthews, Michael Watts, Affected Powers: Capital and Spectacle in a New Age of War, Verso, 2005.
浅田彰・松浦寿夫・岡崎乾二郎編『批評空間臨時増刊号:モダニズムのハードコア――現代美術批評の地平』、太田出版、1995年。
Michel Foucault, Folie et Déraison. Histoire de la folie à l’âge classique, Plon, 1961.(『狂気の歴史――古典主義時代における』、田村俶訳、新潮社、1975年)


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2007年07月04日

『知のデジタル・シフト―誰が知を支配するのか?』石田英敬編(弘文堂)

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 デジタル化という問題について考えるとき、オプティミスティックな技術決定論に対する批判的な態度は、もはや一応の定見であるかのようにみえる。それらはむろんITアレルギーのような単純なものではなく、起きていることがら、起きつつあることがらを相対化して解釈しようとする積極的な態度には違いない。しかしいっぽうでそうした立場には、展開する事象の強烈なスピードに比べて、はるかに心もとなさを感じるということも認めなければならないだろう。

 その心もとなさとは、あまりのめまぐるしさゆえに、自分自身立ち止まって考える猶予を与えられない焦燥であると同時に、このテクノロジーが、人間の経験してきた統制的な枠組みを超える次元で展開されることへの焦燥であり、また現実の日常的環境としてそこに依存せざるをえなくなっているという、矛盾を孕んだ不安でもある。そこで今起きているのは、われわれの身体的な経験のなかでどのように配置され、理解されうることなのか?たしかに感じているに違いない不安、ゆらぎは一体何のゆらぎであるのか?
  
 本書第一部の第一論文、「〈人間の知〉と〈情報の知〉―人間の学としての情報学を求めて」で編者自身が試みようとするのは、そうした問題系の理論的俯瞰である。

 まず基本的なフレームとして、〈記号〉〈技術〉〈社会〉という三つの次元が相互に連関して形成するボロメオの輪が示される。このうち〈記号〉〈技術〉は、アンドレ・ルロワ=グーランが示唆するとおり、人類が直立歩行に伴って解放された、脳と手から各々同時発生的に導き出されるものであり、このふたつが反復・連鎖することで立ち上がる、社会の記憶によって文明は成立する。ここで重要なのは、ベルナール・スティグレールが明らかにしたように〈技術〉は生得的なものではないという点、また〈記号〉も他者を介して開花するという点であり、いずれも集団的記憶としての社会と不可分である。

 このボロメオの輪において、文字は脳と手、つまり記号と技術の領域をクロスさせるテクノロジーとして位置づけられる。すなわち、記憶するメタ・ツールとして発生した文字が、独立した技術(文字テクノロジー)として言語を記憶するようになることで、脳と手、記号と技術の領域が分節化され、記憶が外在的な「知」となるのである。さらにグーテンベルグの発明した活版印刷は、文字から身体的な記憶を喪失させる。このようにして完全に外在化し、観念化した「知」の空間は編者によって「万有アーカイヴ」と名づけられる。この万有アーカイヴを生きる者がすなわち活字人間なのであり、フーコーが問題化した言説の秩序とは、万有アーカイヴにおける知の編成を示す、という見取り図が成立する。

 編者の問題意識は、このように人間の記憶から編成された、万有アーカイヴの秩序であるところの人文知のゆらぎにある。デジタルなコミュニケーションテクノロジーが人間の記憶とは無関係に供するのは、アドホックな「情報」とその集積であって、そこでは記憶は事後的にいかようにも再構成されてしまう。万有アーカイヴの秩序崩壊である。従って、今ゆらいでいる人文知に求められているのは、このアドホックな無限大の情報をどのように編みなおし、万有アーカイヴに変わる新たな知のシステムを組み立ててゆくかという戦略―知のデジタル・シフト―であると編者は論じる。

 では、これを担ってゆくのは「誰」なのか。

 以下の本論では、さまざまな場面で進行しつつある知のデジタルシフトに関連する知見と、進行中のプロジェクトが研究者・開発者によって報告される。しかしながら、デジタル・システムの主要な問題点である、アーキテクチャと主体との位置関係は、そもそもそこにおいて「主体」とは何を指すのかを含めて、すべての論者が明示しているわけではない。その中で、第二部の水島論文「インターフェイスとしてのGoogle、ブログ―『ユーザー』という概念を巡って」は、これらWeb.2.0の開発者たちと従来的なシステム開発との溝に着目し、そこで用いられている「ユーザー」という概念の相違を論じている。水島は、Googleやブログの開発者たちには、一様に「ユーザー」の自主性を信じて疑わないような楽観性がみられると述べた上で、彼らの考える「ユーザー」が、社会システムに対する「個人」ではなく当初から集合名詞であることを指摘する。そこには常に開発者である自分たちが含まれており、Web.2.0とは人間がシステムに内在して共に拡張する再帰的ダイナミズムとして把握される。

 そのような魅力的かつ危いダイナミズムを持ちうるデジタル・テクノロジーの環境にあって、本書で紹介されるいくつかのプロジェクトが、人間の知をどのように担保しようとするのか、そこにおいて制御と再帰的な自己増殖はどう布置されるのか。社会学の普遍的論点である社会と個人の布置をそのまま反映したこの問題は、われわれが常に注意深くそれを意識化してゆくことでしか、おそらく解決することはできないだろう。そのとき、冒頭編者によって、壮大なスケールのなかで論じられるボロメオの輪の「シフト」という明解なコンテクスト―それ自体が「知の秩序」そのものであるが―は人間の知が生んだ理論的な支柱として、きわめて重要になるのである。

(柴野京子)

・関連文献
 ミシェル・フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳、河出書房新社,2006
 マーシャル・マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』森常治訳、みすず書房、1986
 アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』荒木亨訳、新潮社、1973(絶版)
 ボルヘス「バベルの図書館」『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫、1993
 Bernard Stiegler,La technique et le temps 1. La faute d’Épiméthée Galiée,1994

・目次


I 知のデジタル・シフトとは何か?
1.〈人間の知〉と〈情報の知〉――人間の学としての情報学を求めて(石田英敬)
2.新百学連環―エンサイクロペディアの思想と知のデジタル・シフト(吉見俊哉)
3.情報機器が生み出す「融合」環境と「広告」の位相(水島久光)
4.科学技術と社会(境真理子)
II 「知」のデジタル・テクノロジー――開発の現状
1.技術と人間のインタラクションをめぐって1 メディアアート(阿部卓也)
2.技術と人間のインタラクションをめぐって2 ナレッジインタラクションデザイン(阿部卓也)
3.検索技術の現在――MIMAサーチ(髙畑一路)
4.映像インデキシング技術と映像アーカイヴ技術(中路武士) 
5.記憶技術の現在(西 兼志)
6.ユビキタスと知(髙畑一路)
7.インターフェイスとしてのGoogle、ブログ――「ユーザー」という概念を巡って(水島久光)
III デジタル・シフトと知の変容
 1.イメージとテクノロジー(中路武士)
 2.融合の微分学―端末市民論再考(水島久光)
IV 知のコンシェルジェ――百科知識によるコンテンツ探索(三分一信之・藤井泰文)

・関連書評
『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
『偶然からの哲学』(未邦訳・未英訳)ベルナール・スティグレール


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2007年07月03日

『技術と時間3——映画の時間と難—存在の問い』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 2001, La technique et le temps 3. Le temps du cinema—et la question du mal-être, Galilée

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「可能性の世界における「新しい批判」」

 スティグレールによれば映画というメディアは、『技術と時間』シリーズの第二巻、『方向喪失』において分析された二つの要素から成り立っている。一つは正定立、すなわちある対象そのものへと到達しているという信憑をもたらすような記録様態である。この概念をスティグレールはロラン・バルトの写真の現象学から取り出した。もう一つは時間的対象、すなわちそれ自体が時間的な移行によって成り立っているような対象である。こちらはメロディーを聴くという意識の経験を分析するフッサールの時間意識論の検討を通して焦点を当てられた。

 さらにテレビというメディアはそれらの要素に、同時的に起こりつつある出来事を中継するという直接性と、またその同じ映像を大量の人間が同時に見るという共時性を付け加える、とスティグレールは述べる。

 アナログ技術に依拠する映画やテレビというメディアが人間の個人的、集団的な記憶のあり方、さらには個人と社会の個体化のプロセスに及ぼす甚大な影響に注目しながら、しかしスティグレールはすぐに、映画やテレビといった時間的対象がそもそもいかにしてかくも強力な影響力を有することができるのか、という問いへと遡っていく。

 そして「そもそも」を問うこの問いは、「そもそも意識とは何か」というきわめて哲学的な問いへと接続されていく。そこで検討されるのが、人間の経験の先験的な条件を探っていったカントの『純粋理性批判』における議論であり、その検討を通してスティグレールは、カントにおける先験的なものの地位を根本から転倒させていく。

 そのカント読解においてスティグレールが焦点を当てるのは、1781年の『純粋理性批判』の第一版における「純粋悟性概念の演繹」(1787年の版では置き換えられている箇所)で展開されている「把捉Apprehension」、「再生Reproduktion」、「再認Rekognition」の三つの総合に関する分析である。そこでスティグレールは、カントによって取り出された意識の構造を一種の映画として捉えかえす。

第三の総合は、はじめの二つの総合(それらは一種のラッシュと挿入画面である)をある唯一かつ同一の時間的流れの中で配置しモンタージュするものである。そしてこれらのすべてが一種の意識の映画——それは投影し、自身の来たるべき将来へと張り渡されている——を形づくっている。(p.79)

 『純粋理性批判』第一版において「再認」は、意識の統一性を担保する統覚を生み出す総合として捉えられている。映画をモデルしながらスティグレールは、この「再認」をそれぞれのショットをモンタージュすることで結合しそれをスクリーンに投影して一つの作品へと組み立てていく作業として捉えていく。

 そこにはおおまかにいって二つのポイントがある。一つは意識の映画は自身の統一性を所与として前提としてはおらず、投影の作業を通して生み出されていくということ。ここにおいて意識は,自らの統一性を来たるべきものとして絶えず志向しつづけていく一つの運動体として捉えられることになる。もう一つは意識の映画が成立するためにはそれが映し出されるためのスクリーンが必要であるということ。ここでスクリーンと呼ばれているのはスティグレールが繰り返し三次的把持という名において指し示してきたものである。このことによって、意識は技術的対象という「外」を迂回することによってしか成立しえないという事態がスクリーンの不可欠性として示される。

 ここでのスティグレールの主張は端的にいって、意識には技術的対象という「統覚の杖béquille de l’aperception」が必要であるというものである。「統覚」という意識の権利上の統一性を構成する力能を、技術的対象という事実的な「外」へと迂回させること、ここにスティグレールが遂行する転倒作業の核心がある。

 この転倒に伴って、カントにおいては純粋に心的なものであるとされていた図式化の能力(すなわち想像力の働き)は、書き込みあるいは操作(manipulation)といった手の次元への迂回を通して構成されるものとされ、さらにはカテゴリーもまたそれらの書き込み能力あるいは操作能力とともに歴史的に構成されるものとして捉え直される。そして想像力がそのように技術的次元において構成されているということは、それが産業によって組織されることが可能であるということをも意味する。スティグレールはこのようにして、アドルノとホルクハイマーによる文化産業批判を引き継いでいく。

 一種の映画であるとされた意識は、それが投影される三次的把持というスクリーンにおいて自らの統一性を生み出すとされるのだが、そのスクリーンという場は、同時に意識の記憶というものを構成する場でもある。ただし意識はたった一人で自己の記憶を構成するわけではない。三次的把持とはつねにすでに何らかの記憶が書き込まれている場であり、スティグレールによればそこには意識によるある過去の「取り込みadoption」という問題が生じる。「取り込み」とは意識が自分の生きたことのない過去を自分のものとしていくプロセスであるが、むろん、それが可能となるのはその過去へのアクセスを可能とする技術的配置によってである。

この取り込みのプロセスの条件は、後成系統発生によって、すなわち技術的記憶によって開かれた可能性のうちにある。そこにおいて、ある決して生きられたことのない過去、その当人によっても、またその生物学的な祖先によっても生きられたことのない過去へと到達することが可能となるのである。(p.142)

 だとすれば技術的諸条件の変容にともない、当然のごとくそこでの記憶へのアクセスの様態も姿を変える。そして『映画の時間』という書名が示しているようにこの巻においてスティグレールが焦点を当てるのは、映画というメディア技術がもたらした社会的な記憶の構成の地平の性格である。 

 スティグレールは、映画というメディアを通して国民の記憶を構成してきたというアメリカを例に挙げながら、その記憶構成の地平の性格について論じていく。その分析を通して見えてくるのは、個人個人の「我」が自己の統一性を生み出すその場が、同時に集団的な「我々」が構成される場でもあるということである。スティグレールによれば個々の「我」は映画を通して虚構的かつ理念的な「我々」を志向し、そのプロセスのなかで「我」と「我々」が差異をはらみながらともに個体化していく。映画は「我」と「我々」との「同期化synchronisation」と「非同期化diachronisation」とを編制する独自のエコノミーをもたらすのだ。

 ただし忘れてはならないことは、ベンヤミンがすでに述べていたように映画というメディアはつねに産業との本質的な結びつきのうちにある、という事実である。アドルノとホルクハイマーによって見出された文化産業の問題とは、産業的なエコノミーが「我」と「我々」のエコノミーを根本から巻き込み、さらにはそれを積極的に利用しもする、という点にある。

 そこに生じる「危機」の指標としてスティグレールによって捉えられているのが「教育enseignement」の問題である。ここで教育ということで言われているのは学校で行われるものにとどまらず、家庭や地域の共同体で行われるそれをも同時に考慮されている。そこで問題となっていることを一言で言えば、広義の教育のプログラムがプログラム産業によって用意されるプログラムに置き換えられつつある、という事態である。個々人を共同体へと参入させると同時に独自の時間のリズムを生み出す教育のプログラムが、映画やテレビのプログラムに置き換えられ、それぞれのプログラム表(番組表)のリズムの中で、経済的な利潤追求のプロセスの中に組み入れられていく。

 スティグレールが「新しい批判」の必要性を主張するのは、このような危機についての認識に基づいてである。

 『純粋理性批判』において認識に向けられたカントの批判は、アプリオリな認識の基準というものを前提とすることによって成立していた。しかし技術の根源性を掘り起こしていくスティグレールの議論は、そのようなカントの前提を根底から突き崩していった。たとえば認識を可能とするカテゴリー自体が技術への書き込みを通して構成されるものであるということが論証されたのだった。

 ただしここにおいて動揺するのはたんにカントにおけるアプリオリなものの地位だけではない。理論と実践、『純粋理性批判』と『実践理性批判』とを截然とわけていた境界そのものもまた、重大な疑義にさらされることになる。スティグレールの議論においては、技術という実践の領域に属するはずのものが認識の可能性の条件を構成するとされていたのだ。

 スティグレールはここでの掛け金をアリストテレスの『ニコマコス倫理学』における基本的な区別の正当性にまで遡らせる。アリストテレスはそこで、知(エピステーメ)の対象である「他のようではありえないもの」と、実践知(フロネーシス)と技術知(テクネー)の対象となる「他のようでもありうるもの」との区別を打ち立てると同時に、前者の後者への優越というヒエラルキーを設定している。しかしスティグレールが述べるように技術そのものが認識の可能性の条件を構成するのであれば、そのヒエラルキーが無効化されるのと同時に、「他のようではありえないもの」の領域は消失し、すべてが「他のようでもありうるもの」の領域に書き込まれることになる。

 このような問いの構制の変化は、産業革命以降の近代科学技術の性格が要求するものである。認識することと制作することが結びついた近代科学技術においては、もはや「純粋な事実確認という理念」は無化され、「科学はそれ自体が行為遂行性になる」とスティグレールは述べる(p.299)。

 このとき、知はもはや不変の現実を参照することはできず、可能性の海の中で自ら基準を創出していかなければならない。換言すればそこで問題となる問いというのは、基準を事実として確認するものではなく、自らが基準そのものを発明していく遂行的な問いなのであり、このような問いにスティグレールによって与えられた名が「新しい批判」である。

 そこでの公準は「差異を作ること」、より正確に言えば事実と権利との差異を作ることである。権利とは事物のように存在するものではなく、事実の次元との差異において、権利上の次元としてのみしか存在しない。「新しい批判」はその権利の次元を発明し創出していくことを自らの使命とするとされる。むろんそこでは認識と実践が不可分に絡まりあっている、ということも忘れられてはならない。「発明」という実践には、それを可能とする根本的な諸条件に関する洞察がともなう必要がある。ここにおいて技術の問いは、認識と実践との循環運動として定式化されるのだ。

(谷島貫太)


・関連文献
Adorno, Theodor W., Horkheimer, Max. Dialektikder Aufklärung. Philosophische Fragmente,, Querido Verlag,1947.(『啓蒙の弁証法――哲学的断想――』,徳永恂訳,岩波書店,1990年)
Aristoteles,『ニコマコス倫理学』上・下,高田三郎訳,岩波文庫,1971年
Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft, 1787.(『純粋理性批判』,篠田英雄訳,岩波文庫,1961年)

・目次


はしがき
イントロダクション
第一章 映画の時間
第二章 意識の映画
第三章 「我と我々」――取り込みのアメリカ的政治
第四章 我々の教育施設の居心地の悪さ
第五章 差異を作る
第六章 テクノサイエンスと再生産=複製

・関連書評
『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
『技術と時間2——方向喪失』(未邦訳)ベルナール・スティグレール


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2007年07月02日

『技術と時間2——方向喪失』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 1996, La technique et le temps 2. La désorientation, Galilée

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●「スティグレールの記憶技術論——正定立、プログラム、時間的対象」

 スティグレールは『技術と時間』シリーズの第一巻『エピメテウスの過ち』において、「人工補綴prothèse」としての技術の次元が人間の時間性や歴史性の根源的な条件をなしているということを明らかにしていった。この第二巻『方向喪失』においてスティグレールは、今度はその根源的な条件がそれぞれのエポックにおいていかにして具体化していくのか、ということについて論じていく。

 技術一般の次元で問いが立てられていた『エピメテウスの過ち』に対して、『方向喪失』では技術の具体化の特定のエポックに問いが向けてられていく。そこでは技術一般のなかの下位区分に当たる「記憶技術mnémo-techniques」という独自の位相に焦点が当たることになる。技術はそれ自体が反復するものとして人類の記憶を構成するが、しかし記憶技術は記憶をそのものとして保存し、伝達していく。同じく技術という後成系統発生épiphylogenèseの層に属しながらも、この二種類の技術的記憶は明確に区別される。

あらゆる代補は技術であり、あらゆる代補的技術はプログラム〔プログラムの概念についてのちほど触れる〕を《外在化する》記憶の支持体である。しかしすべての技術的代補が同時に記憶化の技術であるわけではない。特殊に記憶—技術的な代補は新石器時代以降にしか出現しない。(p.16)

 いうまでもなく、記憶技術によって生み出されていく集団的記憶の層は人類における記憶の生にとってきわめて大きな位置を占めており、人類史のそれぞれのエポックの種差性を理解していくためにはその層のもつ重要性を正面から引き受ける必要があるとスティグレールは考えるのだ。

 スティグレールは現代を「方向喪失désorientation」の時代として捉えながら、「西洋Occident」における「方向喪失」の系譜を考察していく。ただし「方向喪失」とは技術という「外」への迂回を宿命づけられている人類という種にとっては根源的な契機であり、それゆえそこで問題となっているのは現代における「方向喪失」の種差的性格である。

 スティグレールは「方向喪失」の系譜学を開始するにあたって、一見すると奇妙なことに写真という比較的新しい記憶技術をはじめに取り上げる。そこでは、しかしたんに「新しい技術」の出現の意味を考察することだけではなく、ほかならぬ西洋そのものの意味を掘り下げることもまた同時に目指されている。そしてそれに際して依拠されるのが「正定立orthothèse」という概念である。

 ロラン・バルトによる写真の現象学(『明るい部屋』)は、写真という記憶技術の特権的な「指向対象Réferant」として、「それは—かつて-あったça-a-été」という被写体の存在の紛れもなさへの信憑を見出した。スティグレールはその分析を取り上げながら、そこに見出された信憑を「正定立」という過去への独自のアクセスの様態として捉え直す。「正定立」とは、ある過去の出来事に「正確に」到達しているという信憑を生み出すような記録の様態であるが、写真という記憶技術に焦点を当てて取り出されたこの概念はきわめて広大な射程をもつものとして扱われており、正書法的エクリチュールや、さらにはデジタルテクノロジーまでもがこの概念を通して理解されている。

記憶化のテクノロジーとしての写真や映画に固有なものは、正定立の概念のもとで考察されなければならない。ただしその概念は、アナログ的なテクノロジーの種類(写真、録音、映画など)だけではなく、すでに記憶の文字的テクノロジー(正書法的エクリチュール)を特徴づけるものであったし、さらにはデジタルテクノロジーをも特徴づけるものでもある。(p.41)

 スティグレールはこの「正定立」の概念によって、西洋というエポックそのものを捉えようとする。たとえばハイデガーが「存在の歴史」と呼んだ「西洋」のロゴスの圏域は、正書法的なエクリチュールによって生み出された特定の「正定立」の圏内において際限のない解釈のプロセスとして展開される「差延的同一化identification différante」(p.52)の運動として捉え直される。また同時にこのプロセスは、ギリシャのポリスに端を発する民主政治の基盤としても見出される。すなわち「西洋」なるエポックの全体が、正書法的エクリチュールという特定の「正定立」的な記憶技術にみずからの支えを有する特定の遅れの体制であるとスティグレールは主張するのだ。

 『方向喪失』において「正定立」と並んで重要な位置を占めているのが、アンドレ・ルロワ=グーランによって動物と人間という区別を越えて記憶一般を扱うものとして構想された「プログラム」の概念である。スティグレールはルロワ=グーランを踏襲して記憶を反復するプログラムであると捉えながら、人類においてはその記憶のプログラムが技術という後成系統発生の層において遅らされ、そのことによって新たな差異の可能性をもたらしていると考える。おおまかにいって遺伝的な記憶しか世代を超えて反復していくことのできない他の生物一般に対して、人類においては道具としての技術や記憶技術を支持体とすることによって、後成系統発生という「記憶の第三の層」において記憶が反復していく。ここに、人類独自の記憶のプログラムの領野が見出されることになる。

 むろん、スティグレールがプログラムという概念で指し示そうとしているのは、コンピュータープログラムに見られるような際限なく同一のままでありつづけるプログラムではない。遺伝子のプログラムが反復を通して差異をもたらしていくように、人類の記憶のプログラムもまた差異を、「ありそうにないものl’improbable」を生み出すプロセスとして理解されている。たとえば記憶のプログラムの織り物として編み上げられていく集団的な記憶は、「特異化の、固有言語性のマークであり切っ先」である「スタイルstyle」を生み出すとスティグレールは述べる(p.102)。そこでは「民族性éthnicité」というものが、特定の虚構的な起源へと送り返されることなく、時間をかけて沈殿していった記憶のプログラムの織り物の、それぞれ確かな固有の色模様である「スタイル」としてポジティブに捉え直される。

 ところで、スティグレールが現代のうちに見出す「方向喪失」は、まさにこの記憶のプログラムが生み出していく「特異性singularité」の抹消に関わる。現代的な「方向喪失」の状況にあってはそのような「特異性」の確保は次第に困難になり、そのことによってその「特異性」の経験を通して生み出されていく「個体化individuation」のプロセスもまた危機に陥っている。そしてそのような危機の中心的なエージェントとして見出されるのが「プログラム産業」であり、ここにおいてスティグレールの記憶技術論が文化産業批判の系譜と交差することになる。

 ある出来事が生じるということ、社会的記憶の中になにものかが到来すること、このことは同時に新たな記憶が後成系統発生的記憶の層に書き込まれるということを意味する。裏返せば、そこへと書き込まれえないような出来事は、そもそも出来事として存在し始めることすらない、ということでもある。ところで物質性をまぬがれえない技術的支持体はその不可避の有限性において、無限の記憶を受け入れることはできない。ということはつまり、そこにはつねに記憶の「選別sélection」の原理が働くことを意味する。ある出来事とは、つねにすでにそのような選別のプロセスを経ることで選択的に仕上げられたものにほかならない。

記憶の、記憶すべきものの(その記憶すべきものの把持である記憶可能なものにおける選別がそれをそのものとして構成する)保存は、またつねにすでにその仕上げでもある。(p.138)

 記憶の場の有限性にもとづく、ある出来事はつねに選別のプロセスを通しての「仕上げélaboration」によってしか生み出されえないというこのロジックをスティグレールは「出来事化événementialisation」と呼ぶのだが、現代においてこの「出来事化」の役割を大きく引き受けているのが「プログラム産業」であり、スティグレールはそこに批判を向けていく。

 スティグレールは、遺伝子のプログラムにまで介入しそれを産業化していくバイオ産業までも視野に入れた全般的な「プログラム産業」批判を展開していく。しかしその批判においてもっとも重要な位置を占めるのは、アナログ技術の出現によって可能となった映画や音楽などの時間的に移行する「時間的対象objet temporel」を扱う文化産業的な「プログラム産業」である。というのも、のちに『技術と時間』の第三巻、『映画の時間と難—存在の問い』でより深く議論されていくように、時間的対象は同じく時間的に移り変わっていく意識の時間と深く絡まり合うがゆえに、そこには強力な「同期化synchronisation」のポテンシャルが潜んでいるからである。そして、現代における「方向喪失」の種差性が見出されるのはそのポテンシャルのただなかにおいてであり、のちには現代的な「方向喪失」は「ハイパー同期化」への傾向として理解されていくことになる。

 以上のような問題意識からスティグレールはフッサールが『内的時間意識の現象学』で展開した時間的対象についての分析に踏み込んでいくのだが、ここでもまた、『エピメテウスの過ち』におけると同様に「時間のなかでの技術」から「時間としての技術」へと問いの位相が移行していることが見てとられる。スティグレールがフッサールの時間意識論に見られる「矛盾」を通して明るみに出していこうとするのは、フッサールがそこから技術的契機を徹底して排除しようとした形而上学的テロスとしての「生き生きとした現在」のただなかに、つねにすでに技術の次元が構成的に関与しているという事実である。アナログ技術に基礎を置く映画や音楽に代表される文化産業的な時間的対象という特定の「時間のなかでの(記憶)技術」が有する現実的なインパクトが、時間意識そのものを構成するものとしての技術という「時間としての技術」への考察を促しているのだ。

 ただし、そこでのスティグレールの試みが全面的に成功しているのかといえばいくらかの疑問符が残る。

 フッサールの時間意識論を「脱構築」していくスティグレールの議論は、二つのステップに分けることができる。1)意識の現在そのものに組み込まれた記憶としての一次的把持と、意識の過去として想起され回想される記憶としての二次的把持とを区別すると同時に対立させ、その前者のみに「生き生きとした現在」の特権を与えようとするフッサールに対して、その両者の対立という図式はけっして維持しえず、二次的把持はつねにすでに一次的把持へと介入し、その作用そのものの可能性の条件をなしているということを示していくのが第一のステップ。2)その議論を踏まえた上で、フッサールが「イメージ意識」と呼びつつ意識における記憶の出来事には非関与的なものとみなしてしまった記憶技術へと保存された記憶を三次的把持rétention tertiereと名づけ直しながら、一次的把持と二次的把持の関係がつねにすでに三次的把持によって条件づけられているということを示していくのが第二のステップ。

 詩句を読むという経験を例として挙げながら、二次的把持という前—個体的な記憶の背景がもつ独自のリズムの中から一次的把持がいわば突端として浮かび上がり個体化していくさまを描き出すと同時に、そのような一次的把持と二次的把持との循環的な関係性を通して流れゆく意識を「渦巻く流れun flux tourbillonnant」(p.243)のモデルによって分析していくその手際の鮮やかさに比して、意識の構成における三次的把持の根源性を分析していくくだりには、どことなく曖昧さの印象が免れない。

 たとえば一方ではスティグレールは、録音技術の出現によって「完全に同一の」音の流れを繰り返し聞くという経験が歴史上はじめて可能となり、そのことによって過去の聴取の記憶が現在の聴取に影響を与えるということ、すなわち一次的把持への二次的把持の浸透というものが客観的=客体的に明らかになったという例を挙げる。そのことによって、三次的把持と一次的/二次的把持との連関が間接的に示される。また他方では、幾何学の歴史がエクリチュールという三次的把持の媒介がなければそもそも不可能であり、それゆえ幾何学の歴史を担う「われわれ」の意識の「原—大いなる—現在archi-grand-maintenant」(p.264)が根源的に三次的把持によって構成されているという事が確認される。ここでは三次的把持と一次的/二次的把持との連関が、歴史的スケールをもつ議論との類比によって示されるということが行なわれる。しかしながらいかなる理路によって三次的把持が一次的把持と二次的把持との間の「渦巻き」の性格を根本から条件づけているのかという点については、明確な分析はなされていない。

 『方向喪失』の巻はこのようにいくばくかの曖昧さを残しながら閉じられていく。しかしそこで残された課題についてはその5年後に刊行されることになる第三巻において、今度は「映画としての意識」という意識モデルとともに新たな回答が与えられることになる。映画という特定の「時間のなかでの技術」を手掛かりにしながら、スティグレールはふたたび「時間としての技術」という技術の根源性に関する問いを、カントの『純粋理性批判』の読解を通して技術を場とする意識の構成の原理の考察として深めていくのだ。そこではまた、「出来事化」のプロセスに不可避にともなう記憶の選別に関わる「基準論critériologie」についての「新しい批判nouvelle critique」の必要性が強く主張されることになる。

(谷島貫太)

・主要関連文献

Roland Barthes, La Chambre claire: note sur la photographie, Gallimard et Seuil, 1980.(『明るい部屋』, 花輪光訳,みすず書房,1985年)
Jacque Derrida, Schibboleth, pour Paul Celan, Galilée, 1986, (『シボレート—パウル・ツェランのために』飯吉光夫・守中高明・小林康夫訳、岩波書店、1990年)
Edmund Husserl, Vorlesungen zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins, Husserliana, Bd.X.(『内的時間意識の現象学』,立松弘孝訳,みすず書房,1967年)

・目次

イントロダクション
第一章 正書法の時代
第二章 方向喪失の発生
第三章 記憶の産業化
第四章 時間的対象と把持の有限性

・関連書評
『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
『技術と時間3——映画の時間と難—存在の問い』(未邦訳)ベルナール・スティグレール


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