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    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
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    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
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2007年06月29日

『アルジャジーラとメディアの壁』石田英敬・中山智香子・西谷修・港千尋(岩波書店)

アルジャジーラとメディアの壁 →bookwebで購入

●「映像の地政学 ――情報戦争、世界化、メディア」

 極東の四人の研究者が、中東の砂漠の島を訪れる。グローバリゼーションが進行し、米欧の主導によって世界の一元化が進展しているなか、この島は、それとは異なったオルタナティヴな視角から世界を捉えて映し出す、極めて重要な機能と役割を持っているという。そこでは、情報の伝達のみならず、その発信の地政学的効果によって、グローバル化された世界と情報のユニラテラリズムに重層的に働きかけ、西側メディアのさまざまな問題を突き崩し、世界の実相を逆照射し、世界を変容させるという果敢な試みが展開されている。またそこでは、世界化された情報秩序やメディア市場に対して偏向のない独自の回路から問いを付すようなトランスナショナルな公共空間の構築が企てられている。情報記号論、経済思想史、思想文化論、映像人類学と、専門を異にする四人の研究者の目的は、この島のうえに実際に立ち、その経験を通して、それぞれの立場から、現代のグローバル・メディアの構造的問題について考察することである。彼/彼女らの考察は、強大な帝国の圧力を受けながらも、その独自性を維持し活発な活動を繰り拡げるこの島の報道姿勢に対する共鳴と共感によって結びつけられている。極東の四人の研究者とは、石田英敬、中山智香子、西谷修、港千尋。この中東の砂漠の島は、アラビア語で文字通りの「島」、すなわち「アルジャジーラ(Al-Jazeera)」というカタールの小さな衛星テレビ放送局である。とくに2001年9月11日以降、西側メディアを通じて、この島の名前とロゴマークは数多く目にされているはずだ。

 本書は、石田、中山、西谷、港の論考と、港の撮影した写真やアルジャジーラ・ネットの写真、そしてアルジャジーラの倫理規則や略年表、スタッフの紹介やインタビューによって重層的に構成されている。はじめに、西谷によって日本のメディア状況の概観――アメリカへの追従とドメスティックな市場――が示され、それと対比するかたちで、アルジャジーラの特徴――グローバルかつジオポリティックな意味性――が提示される。そして、著者四人によるジャミール・アザールへのインタビューが行われる。アザールは、アルジャジーラの創設以降、現在に至るまでの経緯を簡潔に説明し、そのなかで彼がどのような考えを抱きながらジャーナリストとして活動してきたのか、グローバル・メディアとしてのアルジャジーラが情報戦争のなかでどのような役割を演じているかといった報道姿勢に関する問題について、現場の視線からひとつひとつ言葉を積み重ねていく。本書には、アザールのほか、ハサン・イブラーヒーム、ニダール・アルハーミー、マフムード・アブドゥルハーデー、ユースフ・アッシューリー、ムスタファー・ソアーグといったアルジャジーラを支える現場スタッフたちの紹介とインタビューが所収されている。彼らの発言を通して、アルジャジーラの使命感や緊張感、ジャーナリズムへの意志が経験的に伝えられる。それだけでも、本書が資料的な価値をもちうるものだということがわかるだろう。

 これらの取材調査を基盤にして、四人の考察が展開される。港は、情報通信産業の潜在性とデジタル映像の偏在性に着目し、そこにおけるアルジャジーラのニュースの特徴を描き出していく。ここでは、ニュース映像に刻まれている「複数的な文脈に属する複数的な時差」が「持続としてのリアルタイム」の枠組みのなかで構築されていることや、アルジャジーラの報道が「記者を現地に送り、事実を伝える」という「基本的なこと」によって成り立っていることが指摘される。そのジャーナリズムの姿勢は「アラビア語放送」や「女性の地位」といった「表現」によって担保されている。次いで、石田は、アルジャジーラを「ダイクシス」や「テレテクノロジー」の側面から照らし出すとともに、「1991」から「9・11」へ至る「メディアの中の戦争」の実相を「イメージ」の問題として考察していく。アルジャジーラの「テクノロジーの文字」、とりわけコンピュータ・グラフィックスやデザインに注目するという着眼点は極めて重要である。そして、中山は、アルジャジーラ訪問へ至るまでの経緯を簡潔に説明し、現地調査で判明したスタッフたちの組織の実態や、アルジャジーラの「PR/倫理規定」、あるいはその「グローバルな志向」について報告する。そこから、グローバル・メディアとしてのアルジャジーラの独自の立ち位置が分析され、そのジオグラフィックな重要性が提示される。最後に、西谷は、湾岸戦争以降の情報や映像のユニラテラリズムを徹底的に批判するなかで、メディアウォールを突き崩す運動の一環としてアルジャジーラを捉え返す。ここでは、アメリカによってコンテクスト化されたメディア状況のなかで、アルジャジーラが「第三者」の位置から「客観報道の原則」を貫いていること、そのことによって、アルジャジーラが現代世界のメディアの実際的問題を炙り出していること、さらに、アルジャジーラがトランスナショナルなメディアとして、アラブ・イスラームの共通意識の空間を「公共圏」として浮かび上がらせていることなどが明らかにされる。西谷によれば、そこには、西洋的政体の移植とは異なった、アラブ・イスラーム世界のオルタナティヴな「民主化」の地政学的戦略が込められている。

 本書は、カタールへのわずか四日間の滞在をもとに構成されている。また、四人の執筆者のなかには、アラブ・イスラームの専門家が含まれていない。そのため、分析が細部にまで展開されず、記述が希薄なところが見受けられるのは事実である。しかし、本書は、BBCやCNNと比して、あまりにも知られていないアルジャジーラについて少しでも知るためには、グローバル性の研究という視点からみて、非常に適切な認識のツールであるように思われる。また、現場スタッフのインタビューや、スタジオの写真などは重要な資料となるだろう。今後本格的に展開されるべきアルジャジーラ研究にとってのひとつの布石となることは間違いない。アルジャジーラは現在、ジャーナリストの養成事業の展開や、研究センターの開設、英語放送の開始、新たな支局の設置、多チャンネル化、ウェブサイトの拡充など、非常に大きな変化の只中にある。このメディアのグローバルな展開は、「世界」と「メディア」にさらなる影響を与え、新たな問題を投げかけつづけていくことだろう。本書の著者とともに、私たちは、アルジャジーラという「島」の行方と、その在り方――トランスナショナルな公共空間の構築やメディアウォールの突き崩し――が世界にもたらす効果について、注目していくべきである。

(中路武士)

・関連書籍

Gearóid Ó Tuathail, Simon Dalby, Paul Routledge (ed.), The Geopolitics Reader, 2nd edition, Routledge, 1998/2006.

Khalil Rinnawi, Instant Nationalism: Mcarabism, Al-jazeera, And Transnational Media in the Arab World, University Press of America, 2006.

Olfa Lamloum, Al-Jazira, miroir rebelle et ambigu du monde arabe, La Découverte, 2004.(『アルジャジーラとはどういうテレビ局か』、藤野邦夫訳、平凡社、2005年)

西谷修・中山智香子編『視角のジオポリティクス――メディアウォールを突き崩す』、東京外国語大学大学院21世紀COEプログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」研究叢書、2005年。


・目次

   アルジャジーラの風景(港千尋)
   ファルージャ攻囲戦(アルジャジーラ・ネットより)

    日本のメディア状況――まえがきに代えて(西谷修)

   ■ジャミール・アザール インタビュー
    アルジャジーラと戦争の時代
      創設の時
      9・11以降
      メディアウォールとアラブ
      アラブのグローバル・メディアとして
      アラブ・ネットワーク
      ジャーナリズム論
      グローバルな情報戦争の中で

  1.砂漠のテレビ アルジャジーラ(港千尋)
      情報産業の潜在性
      ニュースの複合空間
      効果としてのビンラディン
      持続とリアルタイム
      基本的なこと
      矛盾のなかで

  2.世界化と情報秩序――「アルジャジーラ・テレビ」断章(石田英敬)
     0.テレビ的媒介
     1.情報の世界秩序
     2.メディアのなかの戦争
     3.アルジャジーラ・モーメント
     4.アルジャジーラTV局スタジオへようこそ

   ■アルジャジーラのスタッフたち
   ■アルジャジーラの足跡
   ■アルジャジーラ 倫理規定

  3.アルジャジーラへのアプローチ(中山智香子)
   1.アルジャジーラ訪問
     2.アルジャジーラの占める位置
      結び

  4.アルジャジーラの意味(西谷修)
      情報のユニラテラリズムに抗して
   噴煙の向こう
   「テロとの戦争」と第三者の排除
   報道の原則を貫く
   アラブの公共性を開く
   別の「民主化」の道
   ゆくえ

  あとがき(中山智香子)




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2007年06月28日

『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』蓮實重彦(青土社)

表象の奈落――フィクションと思考の動体視力 →bookwebで購入

●「クリティークとフィクション――哲学の批評、文学の批評、批評の批評」

 表象不可能性に触れずにいられない粗雑な思考――好奇心あふれた厚顔無恥――に決して屈しないこと。蓮實重彦は「批評」をその抵抗の身振りとして提示する。蓮實によれば、批評とは、言い換えの作業、とりあえずの翻訳にほかならず、それは他者の言説のなかで潜在的に微睡んでいる然るべき記号に触れ、それを顕在化させることから開始される。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容し、その出来事を通して、批評の主体も変容させられる。しかし、この二重の変容を介して、とりあえずの翻訳にとどまるしかない批評は、その宿命として、あるとき、表象の奈落を目にすることになるだろう。表象の奈落においては、もはや他者の言説や覚醒すべき記号は存在しない。批評は批評を超えた何やら不気味なものに触れることになる。蓮實によれば、人が「フィクション」に出会うのも、そうした場合に限られる。本書は、このような認識のなかで綴られ構成された、批評とフィクションという主題をめぐる「批評」論集である。

 蓮實の批評は、批評家を追悼することで始まり、批評家を論じることで終わる。それに挟まれるかたちで、哲学者や小説家など、いくつもの異なる他者の言説を対象とした論考が展開される。ここでは、複層的な批評的問題系をめぐって、主題論的かつ説話論的に綿密な考察が繰り拡げられる。この批評的試みは、他者の言説における無数の記号のうち、どの記号に触れて目覚めさせるかという「動体視力」の問いを提起することになる。蓮實の批評の瞠目すべき点は、その思考の動体視力の速度と、顕在化された記号分析の強度につきている。この特異な思考を通して、まず、バルトの「倦怠する記号」に対する紳士的な「いたわり」が考察され、「ギリシャ人」とともにあるドゥルーズ的思考の「恩寵」が顕在化され、デリダ的な「芸術への無関心」における「文学/批評」と「物語=歴史」の問題が提起される。同様に、フーコーが見せた「近代」への躊躇と「十九世紀」への執着や、フーコーにおける「視線」と「技術」、「権力」と「知」の関係論的位相が巧みに描き出される。あるいは、「エクリチュールの人」としてのソシュールの記号概念と二重の差異の構造が明らかにされ、ポッティチェルリの絵画が「足」の数をめぐって読み解かれ、また、サルトルの日記が名を持たぬ「私」という側面から問題化される。続いて、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』が「固有名詞」と「人称」、「肉筆」と「黙読」という主題系から説話論的に分析され、また、セリーヌの『北』における「曖昧さの均衡」の「面白さ」や、ヨーロッパ的思考と小説の構造におけるヴァレリーという「負の記号」の特権性が明示される。さらに、「フィクション」という問題系をめぐって、さまざまな哲学者や言語学者の言説の不備や粗雑さが指摘されるとともに、その言説のなかに氾濫している「赤」の主題が「怪物」として読み解かれる。そして最後に、バルトが再考され、「疲労への権利」や「失敗の成功」を通じて「新たな生」へ至る「変化」の実相が明らかにされる。

 哲学の批評、文学の批評、批評の批評。蓮實の批評は、このように異なる他者の言説を対象とすることによって、その主体性を自在に変容させつつ、多層的に構築されている。それは、テクストの主題論的あるいは説話論的な読解の開かれた可能性を意味している(作者の意図や言説の論理を超えた意味作用の戯れ)。とりわけ、本書で展開され、次書に引き継がれる「フィクション」をめぐる「間テクスト」的な考察は注目に値するものだろう。この「フィクションの快楽」とでも呼ぶべき主題論的読解こそ、フィクションの批評的分析にふさわしい蓮實的身振りである。サールをはじめ、ジュネット、アウエルバッハ、スペルベル、シェフェール、リクールなど、フィクションの理論家たちには採用されなかったこの批評的視点によって、作者の意図や言説の論理のなかで仮死状態に陥っていた言語記号を覚醒させ顕在化することができるのである。さらにいえば、そこでは、フィクションをめぐる理論そのものが、フィクション的な言説へと変貌する可能性が示されているのだ。蓮實によって提示される「起源」を欠いた「赤」の「怪物」の主題系は、作者の意図や言説の論理のコンテクストを軽やかに破壊することで、まさに、哲学や文学における間テクスト的な網状組織の様態を鮮明に描き出すことに成功しているといえよう。蓮實における「フィクションと思考の動体視力」は、彼自身が指摘するように、「いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立ち合いから分離されたエクリチュール――こうしたエクリチュールによる本質的な漂流……」(デリダ「署名、出来事、コンテクスト」)のなかを自在に生きているのであり、それが、蓮實自身のテクストをフィクションに限りなく接近させることになるのだ。いうまでもなく、この批評的姿勢によって、蓮實はバルトと深く共振し、『彼自身によるロラン・バルト』の「映画のようなリメイク」を、フィクション的な言説によって試みることになるのである。こうして、「批評」と「フィクション」が理論を超えて奇妙な関係を描き出し、そこにおいて、哲学の批評、文学の批評、批評の批評が、統合的に表象と思考そのものをめぐる根本的な問いへと拡張されていく。

 このように、本書は、表象と思考をめぐる批評とフィクションという主題を通して、新たな「批評」の可能性を提示する。その可能性とは、批評という身振りによって自らをつねに変形させ、そのことによって、閉域化する理論を内側から破壊するような真に批評的な力能にほかならない。さらにいえば、この批評的な試みは、現在の形骸化した人文知そのもの――表象不可能性や思考不可能性という魅力に慣れ合う、慎みの徹底した不在――を問うことにもつながるだろう。「批評」が真に「批評」たりえるのは、そのような「知」そのものを問うことによってであるからだ。本書は、その意味で、徹底的に「批評」論集たろうとする身振りによって組み立てられているといえるだろう。

(中路武士)

・関連文献

Roland Barthes, Roland Barthes par Roland Barthes, Seuil, 1975.(『彼自身によるロラン・バルト』、佐藤信夫訳、みすず書房、1979年)

Jacques Derrida, Limited Inc., Galilée, 1990.(『有限責任会社』、高橋哲哉・増田一夫・宮崎裕助訳、法政大学出版局、2002年)

蓮實重彦『「赤」の誘惑――フィクション論序説』、新潮社、2007年。


・目次

 Ⅰ 墓の彼方の追想
    倦怠する彼自身のいたわり ――ロラン・バルト追悼
    ジル・ドゥルーズと「恩寵」 ――あたかも、ギリシャ人のように
    「本質」、「宿命」、「起源」 ――ジャック・デリダによる「文学と/の批評」

Ⅱ フーコーの世紀
    フーコーと《十九世紀》 ――われわれにとって、なお、同時代的な
    視線のテクノロジー ――フーコーの「矛盾」
    聡明なる猿の挑発 ――ミシェル・フーコーによるインタヴュー「権力と知」のあとがきとして

 Ⅲ 記号と運動
    「魂」の唯物論的擁護にむけて ――ソシュールの記号概念をめぐって
    視線、物語、断片 ――ポッティチェルリの『春』と『ヴィーナスの誕生』
    命名の儀式 ――サルトル『嘔吐』にたどりつくまで

 Ⅳ 近代の散文
    『ブヴァールとペキュシェ』論 ――固有名詞と人称について
    曖昧さの均衡 ――セリーヌ著『北』を読む
    小説の構造 ――ヨーロッパと散文の物語

 Ⅴ フィクション、理論を超えて
    エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン ――『ボヴァリー夫人』とフィクション
    「『赤』の誘惑」をめぐって ――フィクションについてのソウルでの考察
    バルトとフィクション ――『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み



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2007年06月27日

『記号の知/メディアの知――日常生活批判のためのレッスン』石田英敬(東京大学出版)

記号の知/メディアの知――日常生活批判のためのレッスン →bookwebで購入

●「セミオ・リテラシーへ向けて ――記号のテクノロジーと意味のエコロジー」

 石田英敬は、「社会における記号の生活」を研究する学としての「一般記号学」の遺産を相続しながら――それは二〇世紀的な知の体系そのもののあり方を問う身振りにほかならない――、現代の私たちの日常生活を批判的に読解することによって、その仮説や公準、成立条件を組み立てなおそうと試みる。この試みは、「記号の問い」と「技術の問い」と「社会の問い」の結節する場において複層的に展開されるとともに、具体的現象の綿密な分析を通して多角的に構築される(現代性の分析による批判理論の再構築)。特に、本書において、石田は、この三つの問いの重合点に「メディアの問い」の位相を位置づけ、メディア化した情報社会における意味の問題を中心的な主題として引き受ける。ここで、メディアとは「物質+記号」を意味し、その物理的基盤と技術的媒介を通して、人間にとっての意味を社会的かつ文化的に成立させるものを指す。石田は、記号の知とメディアの知とを突き合わせ接続させることで、現代の日常生活における人間の複合的で多次元的な意味経験を問おうとするのである。これは、記号と技術が結びつき(記号のテクノロジー)、そのことによって社会の意味環境(意味のエコロジー)がたえず変動している世界――そこではまた知も変容を要請される――において、必要不可欠な認識にほかならない。

 石田の考察は、11のレッスンという形式をとっている。それはまず、現代の日常生活を取り囲むモノに関する存在論的考察、精神分析学的考察、そして一般記号学的考察をめぐって開始される。次いで、ソシュールの記号学と、パースの記号論の概説がクレーの絵画を辿りつつ示され、それがメディア理論、コミュニケーション理論へ接続される。そして、それらを踏まえてまず、建築を手がかりに空間と場所の意味作用が分析され、また、アラーキーの写真集を手がかりに都市の意味作用が考察される。あるいは、広告を手がかりに欲望と無意識の構造が解明され、また、森村泰昌の芸術をめぐって身体とイメージが、監獄や学校をめぐって身体と権力が考察される。さらに、スポーツやスペクタクルを通して国民国家による象徴政治が分析され、また、テレビ・ニュースの意味生成の分析によって現代性の在り方が問われる。そして、ヴァーチャルなものが問題にされ、サイバースペースにおけるコミュニケーションやポスト・ヒューマンの条件が考察される。

 本書は、これらのトピックの記号論的分析によって、現代の日常生活を形成する意味の問題系の全体像を巧みに描き出し、私たちを取り囲む意味環境の複雑な位相を明らかにする。また、石田は、多岐にわたる哲学者や思想家――ハイデガー、フロイト、ヘーゲル、ラカン、フーコー、ドゥルーズなど――を批判的に導入しながら、記号の知とメディアの知の全体的な地図を軽やかに描き出すことで、現状の人文知の有用性と限界を明示する(この地図は、それぞれの理論概念の理解に寄与するものである)。

 このように、本書においては、さまざまな現象が、さまざまな理論に言及しされつつ、一般記号学を基軸にして批判的に読解されている。そこにおいて明らかにされる日常生活とは、記号と化したモノの様態、欲望のメカニズムに取り込まれた身体、記号空間として組み立てられた建築や都市(そのなかを往来する人々の意味活動)、網の目のように働きかける権力の実相、国家象徴による人々の意識の管理、記号支配への芸術実践による抵抗などである。本書は、そのひとつひとつの批判と分析を通して、具体的現象から意味経験の一般性の地平を問うているといえよう。しかしながら、とりわけ、本書における石田の論考は、広範な思想史的かつ理論的背景を基盤にした「テレビ記号論」と「情報記号論」の構築として特徴づけられるものでもあるだろう。一方で「テレビ記号論」は、視聴覚的な技術的文字による人間の意識や記憶のモジュレーションとコントロールを、他方で「情報記号論」は、情報化されユビキタス化された人間以後の計算論的世界の経験や表象と思考の在り方を、それぞれの「記号‐技術‐社会的配置」において根本的に問うものである(両者の問いは補完的な問いである)。

 したがって、石田の問いは、テレビやITといった記号テクノロジーの認識論的かつ技術論的な問いとして提起されることになる。その問いが意味するのは、テレビやITが社会に深く浸透し、意味環境の成立条件を技術的に書き換えつつある「記号論化した世界」において、それらを分析的に批判する一般記号学の可能性をおし拡げることにほかならない。テレビやITを通して世界が組織化され、人口の生が実時間で管理されるなか、石田は、それを内在的に批判する手がかりを本書において提示しようと試みているのだ。それは、ベルナール・スティグレールによる記憶産業批判――クリティカル・デバイスによるクリティカル・スペースの創出――と明らかに共振するものである。文化産業批判、日常生活批判の現在はここにあるといえよう。なお、テレビ記号論と情報記号論の試みは、すでに『テレビジョン解体』(慶応義塾大学出版会)や『知のデジタル・シフト』(弘文堂)などにおいてそれぞれ展開されている。

 本書は「啓蒙の書物」として企図されている。石田によれば、啓蒙とは「リテラシー」に寄与することを意味する。本書において提示されるリテラシーは、現代の日常生活における記号や意味とは何か、そこにいかなるメカニズムが働き、いかなる効果が生まれるのかを根本的に問い、批判的に思考する「セミオ・リテラシー(意味批判力)」である。それは、メディア・テクノロジーや記号テクノロジーによって私たちの意味活動が書き換えられ、意味環境全体にさまざまな影響が及ぼされているなか、意味のエコロジーをクリティカルに問い、新たな意味実践の主体を生み出そうと企てることにほかならない。本書は、知の批判的実践を基盤として、その創造的契機を見出すきっかけとなるものである。石田が指摘するように、セミオ・リテラシーのセンスを身につけること、それが今日ほど求められている時代はないのである。

(中路武士)

・関連文献

Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique générale, édition établie par Ch. Bally, Payot, 1916.(『一般言語学講義』、小林英夫訳、岩波書店、1972年)

Charles Sanders Peirce, Writings of Charles S. Peirce: a chronological edition, general editor: Max H. Fisch, associate editor: Christian J. W. Kloesel, Indiana University Press, 1982-2000.

石田英敬『現代思想の地平』、放送大学教育振興会、2005年。


・目次

1 モノについてのレッスン
             1 物の生活/記号の生活
             2 三つの絵画作品と知の言説
             3 記号の表層の露呈

        2 記号と意味についてのレッスンⅰ
             1 記号の学
             2 記号の構造と論理
             3 方法としての記号

        3 記号と意味についてのレッスンⅱ
             1 プロセスとしての記号
             2 記号の認知
             3 記号の解釈

        4 メディアとコミュニケーションについてのレッスン
             1 メディアとは何か
             2 コミュニケーションとは何か
             3 メディアの文明圏

        5 〈ここ〉についてのレッスン
             1 意味を帯びた空間・場所
             2 記号と構築
             3 意味空間の成立条件を問う

        6 都市についてのレッスン
             1 都市の意味を問う
             2 東京という物語
             3 意味空間のエコロジー

        7 欲望についてのレッスン
             1 欲望と意味
             2 広告の仕事
             3 資本主義の白日夢ともう一つの時間性

        8 身体についてのレッスン
             1 イメージとしての身体
             2 メディア社会と身体イメージ
             3 権力と身体
             4 私たちの身体のいま

        9 象徴政治についてのレッスン
             1 記号と共同体
             2 国民国家と象徴
             3 スペクタクル社会

       10 〈いま〉についてのレッスン
             1 今代/Modernity
2 テレビを考える
             3 ニュースな世界
             4 現代の天使たち:媒介される世界

       11 ヴァーチャルについてのレッスン
             1 ヴァーチャル・リアリティ
             2 サイバースペース
             3 ポスト・ヒューマンの条件

       展望 セミオ・リテラシーのために




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2007年06月26日

蓮實重彦「思考と感性とをめぐる断片的な考察7:声と文字」~『InterCommunication(季刊インターコミュニケーション)』No.58、Autumn 2006

InterCommunication58.gif →『InterCommunication』No58・2006年autumn

●「無声映画と歴史 ――映画批評とメディア論」

 本論「声と文字」は、蓮實重彦が、現在『InterCommunication』誌(NTT出版)に連載している「思考と感性とをめぐる断片的な考察」の第7回として書き上げたテクストである。「断片的な考察」とされているが、蓮實自身の発言――「『InterCommunication』で連載しているテクストは、ゴダールだけを論じるものではなく、近くマネがらみでフーコーに言及し、それからセザンヌをめぐってストローブ=ユイレにも触れることで終わる予定の十九世紀=二〇世紀論として構成されたもの」(『新潮』、2005年5月号)――に予告されているように、その一連の考察はある一定の持続をともなって構築されている。すでに第6回にいたるまでに、予告されていたゴダールやマネ、フーコーについての優れた批判が展開されており、連載全体を通しては、本論がストローブ=ユイレを導入するための布石として位置づけられることになる。なお、現在、連載は第9回まで展開されており、本論執筆後に急逝したユイレ――すなわちストローブ=ユイレという複数にして一なる存在――をめぐって、映画における「声」と「私」、そしてイメージという問題系が仔細に考察されている(「偶然の廃棄」「複製の、複製による、複製性の擁護」)。

 この「声と文字」において、蓮實がまず問題とするのは、十九世紀の詩人、とりわけステファーヌ・マラルメの「声の不在」である。蓮實は、写真術によってマラルメの表情や身振りが記録されているにもかかわらず、この象徴派詩人の声が録音術によって保存されていない事実に注目する。この事実は、エミール・ゾラをはじめとして、十九世紀の多くの人々によって写真機が広く共有されていたのに対して、録音機による音声の複製が一般化されるまでに長い時間が必要とされたことを表している。また、十九世紀末に無声映画として誕生した映画は、それが発声映画となるまでに約三〇年の歳月を必要とした。この時間的偏差には重い歴史的意味がこめられているのかもしれない、と蓮實はいう。再現された映像と再現された音声との同調は回避され、その間には時間的なズレが生じていたのだ。では、このズレは、そして写真機やキャメラの普及とテープレコーダーの普及との間に横たわる一世紀の隔たりは、いったい何によるものなのか。人は、その偏差により敏感でなければならない。しかし、メディア論の多くは、エディソンによる蓄音機の発明を誇大視して、この事実に触れようとしない――グーテンベルクによる印刷術の発明を誇大視して、十九世紀の輪転機の導入を見落としてしまうように。あるいは磁気テープの導入による録音術の急速な民主化を語ることがないように。本論において、蓮實は、このようなメディア論の単純化された抽象性――「粗雑さ」――を問題視し、特に、フリードリッヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を鋭く批判していく。

 キットラーによれば、情報通信技術を通して、分離されていた情報の流れはデジタル的に統合された数値の羅列になる。そこではどんなメディアも任意の別のメディアに化けることができる。二〇世紀は、まだメディアがあり娯楽があり、その終末がやってくるまえにすでに何ものかが終末を迎えている時代と定義される。しかし、二〇世紀へ向けられたこのような視線は、蓮實にとっては単なる抽象にすぎない。そこには、デリダの痕跡についての思考をエディソンの蓄音機の発明に基づくものとする、二〇世紀を「非=歴史」化する姿勢がみえるからだ。したがって、キットラーは無声映画から発声映画へいたる時間的偏差を、とるにたらぬ誤差として無視せざるをえない。とはいえ、蓮實は、キットラーが「エディソン小説」に言及している点で、その偏差に間接的に触れていることを認めている。この一連の小説においては、死人の声を蓄音機によって聞くこと、今はなき人物の声を再現することが主題とされる。そこでは、声によって具現化される身体性が映像による再現よりも高いことが指摘される。しかし、先にマラルメにおいて確認したように、人はこうしたかたちで録音術を十分に活用してはいない。蓮實によれば、この現実は、逆説的に「声の優位」――声が身体そのものであるがために、触れがたい「禁止」の領域となっていること――を示している。それは、自己への現前においてしか声が声ではないとデリダが批判した「現前の形而上学」に連なるものである。無声映画と発声映画の間の時間的偏差を歴史化しているのは、この「音声中心主義」的なイデオロギーにほかならない。

 問題は、無声映画を成立せしめた「声の禁止」ということをキットラーが無視していることである。事態はキットラー的な終末に抵抗していたように推移している。映像の再現と音声の再現は、異なる比重で人の思考と感性を騒がせていたのであり、その事実が、メディアの複製技術的な存在形態に歪みをもたらしている。もはや明らかなように、その歪みに無声映画が位置しているのだ。二〇世紀は、この無声映画の歴史性を無視して語ることはできない。そして、そこにおいては、映像が容認され、音声が禁止されていたのだ。しかし、メディアを論じているはずのキットラーは、それを成立せしめる諸々の感性的なフォルムをめぐる言説を口にすることはない。それは、UFA(ドイツの映画会社、Universum Film AG、1917‐1945年)をめぐる映画批評的かつ映画史的な記述の不備からも明らかである。蓮實がいうように、UFAがエリッヒ・ポーマーのデクラ・ビオスコープ社を吸収合併することによってはじめて、ドイツ映画は、F・ラングの『ニーベルンゲン』や、F・W・ムルナウの『最後の人』を得たのである。さらに、それのみならず、キットラーはデリダのグラマトロジーを明らかに誤読している。それは、キットラーが「声」の「自己への現前」と同じものとして、「文字」の「自己への現前」を考えていることからも明らかである。蓮實によれば、「声」の「自己への現前」という現象は、「現前の形而上学」として、録音術の発明にもかかわらず、声の複製技術による再現に抵抗したのであり、「文字」は、そしてそれに類する視覚的な再現は、「現前の形而上学」においては二義的な役割を演じたがゆえに、普遍化された模造品として容認されたのだ。二〇世紀は、その模造品である無声映画が、複製されたもののリアルさを、未知の体験として人類の感性に提示したことで記憶されるべき時代なのである。

 キットラーは、映画を「イマジネールなもの」という側面から語る。そして、それを「ドッペルゲンガー」を可能とするトリック撮影のなかに見出し、また、『カリガリ博士』や『プラーグの大学生』などのドイツ映画を通してその主題を確認する。しかし、この議論もまた、蓮實にとっては粗雑にしか映らない。なぜなら、映画批評的かつ映画史的には、ドイツ映画は、ルビッチやラング、ムルナウらを持ちえたことで世界と拮抗しえたのであり、それらの高度な美学的達成に到達しえた無声映画に描出されているのは、ドッペルゲンガー的想像力や、文学におけるイマジネールなものとは程遠い、運動体験のリアルさそのものにほかならないからだ。

 おそらく、人は、無声映画における登場人物たちの声を永遠に聞けぬだろうし、マラルメの声は「デジタル的に統一された数値の羅列」たりえないだろう。キットラーにとってマラルメが「文字」の人であり、「声」の人ではないとしても、マラルメ自身は、いささかも「声」を追放したりなどはしないし、「文字」というよりも「活字」の配置と余白によって詩篇を作り上げていた。『骰子一擲』はその実践にほかならない。こうして、蓮實は、『骰子一擲』が「声」の追放とは無縁であることの証左として、ストローブ=ユイレの『すべての革命はのるかそるかである』を導入することになるだろう。

 以上のように、本論「声と文字」においては、蓮實重彦(映画批評)によるフリードリッヒ・キットラー(メディア論)の批判が鮮やかに展開されている。ここでは、メディア論的アプローチによって映画という視覚的表象を捉えることの困難さが提示されている。そしてまた、無声映画という「宿命」を背負った二〇世紀といかに向き合うべきか、という問いが提起されている。したがって、蓮實が繰り返し指摘するように、問題とされるのは、「映画と歴史」の関係にほかならない。キットラーが断言的に「1900年の書き込みシステム」を「歴史であることをやめた時代」として位置づけるとき(非‐歴史化)、しかし、そこでは明らかに映画への無知が告白されているといえるだろう。映画史とは、スクリーンに投影された、文字どおり大文字の、そして複数の歴史にほかならぬからである。映画によってこそ、二〇世紀の歴史が可能となるといえよう。

 とはいえ、ここで注目したいのは、本論が、映画批評によるメディア論の批判だけでなく、近代のメディアそのものへの根源的な問いを提起していることにある。もちろん、本論は、現在連載されている考察の一章を構成するにすぎず、その問いは今後も継続されていくことだろう。なお、本書評で、まだ連載中の考察から本論を紹介したのは、国際会議「Ubiquitous Media: Asian Transformation」において、蓮實とキットラーによるセッションが行われることによる。ここでは、映画とメディアをめぐるこのような問いが新たな批判知のパラダイム・シフトへ向けて転回されるはずである。

(中路武士)


・関連文献

Stéphane Mallarmé, Un coup de dés jamais n’abolira le hasard, revue Cosmopolis, mai 1897.(『骰子一擲』、秋山澄夫訳、思潮社、1991年)

Friedrich Kittler, Grammophon Film Typewriter, Brinkmann & Bose, 1986.(『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、1999年)

Jacques Derrida, La voix et le phénomène, introduction au problème du signe dans la phénoménologie de Husserl, PUF, 1967.(『声と現象――フッサール現象学における記号の問題への序論』、高橋允昭訳、理想社、1970年)

2007年06月25日

『映画の世紀末』浅田彰(新潮社)

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●「映画との対話 ――映像の思惟学と記憶の政治学」

 十九世紀と二一世紀のはざま――映画の世紀――を批判的に解読すること。本書において浅田彰が試みるのは、松浦寿輝、蓮實重彦、鵜飼哲、四方田犬彦とともに、映画をめぐる対話、ディスカッションをクリティカルに組み立てることである。この試みが集団的かつ複層的に記録されているのは、映画が集団によって制作され享受される、すぐれて集団的な芸術文化であるからにほかならない。浅田と対話者は、現代文化における映画の位置や位相を探求すべく、ヴィム・ヴェンダース、ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ジャン=マリー・ストローブ/ダニエル・ユイレ、ミシェル・クレイフィ、クロード・ランズマン、ピエル・パオロ・パゾリーニといった映画作家の仕事の基本的な枠組みと情報を明示するとともに、それを文化的かつ政治的コンテクストに関連させて、「啓蒙的に」議論を展開していく。

 この映画との対話は、したがって、映画をめぐる閉域的な理論的考察であるというよりも、私たちが生きる映画の世紀末――映画はいまだに十九世紀の亡霊でありつづけ、二一世紀を迎えられずにいるのだ――の様相を正確に描出するための、開かれた土台であるといえよう。しかしもちろん、映画がそうであるように、この開かれた土台は、制度的な安易な理解可能性をいささかも意味するものではない。そうではなく、本書において浅田が目的とするのは、映画と思考、記憶、歴史、政治などを貫く問題を、その入り組んだ複層性を通してありのまま提起し、読者をディスカションに組み込んでいくことである(本書は一般的な観衆を前にして展開された映画談義を文章化したものである)。

 浅田の批判はまず、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』(1987年)を「奇蹟の映画」として徹底的に擁護し肯定することから始まる。浅田によれば、そこにおいては、「時間の結晶」(ドゥルーズ)が、重層する記憶の襞、歴史の裂け目からの光を様々に屈折させて、それ自体の内から輝き出すという映画的な再生が試みられている。そこでは、ベンヤミン的な天使を喚起させる奇蹟が描き出されているとされる。次いで、浅田は、ゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)を「膨大な映画史的記憶を突き抜けて忘却にいたること/想起し引用するのではなく反復すること」の実践として捉え、そこに見出される曙光のなかに映画の始まりを宣言する。さらに、ゴダールの『新ドイツ零年』(1991年)が「二〇世紀末から二一世紀にかけての思考と創造の地平」として位置づけられ、その音‐映像から「運動=映像」「時間=映像」(ドゥルーズ)以後の思考の映画の可能性が指摘される。

 次に、ゴダールをめぐって、浅田と松浦の対話が展開される。ここでは、ゴダールにおける音響と色彩の戦略が議論され、映画における技術的媒介の構造について考察される。そして、「名」の問題や「ET(と)」の問題が提起され、そこから「逃走‐線」という主題系の位相が軽やかに描き出される。また、この対話を引き継ぐかたちで、ゴダールにおける「(pas) ça(それ[ではない])」の特異的実践、不定冠詞と定冠詞、「このもの性」と「カテゴリー」(ドゥルーズ)といった問題系が複層的に提示される。そして、映画における引用と反復の関係性や、歴史と条件法的モンタージュの在り方が浮き彫りにされる。

 それに重なるかたちで、浅田と蓮實の対話が展開されることになる。ここでは、ゴダールにおけるヴィデオとフィルム、大文字かつ複数の歴史性、ヨーロッパ史観、アメリカ映画、あるいはTVやメディアなどの重層的な問題が整理される。そして、ゴダール(=歴史)とレネ(=記憶)、ゴダール(=実践)とストローブ=ユイレ(=教育)の対比が、それぞれの思考とイマージュの在り方にそって鮮やかに描き出される。

 ストローブ=ユイレは続く浅田単独の映像‐唯物論に関する考察に引き継がれ、特に、ドゥルーズのイマージュ論――これはフーコーによる思考のアルケオロジーに通じるものである――を背景にして、そのフィルモグラフィーが仔細に分析される。ここでは、その作品が、演劇や小説やオペラの映画と、エッセーとしての映画というふたつのセリーにそって適確に分類され、ストローブ=ユイレの全体像を描写することが試みられる。

 また、浅田と鵜飼の対話では、ゴダールとストローブ=ユイレの関係を下敷きにして、パレスチナを主題とした、映像と政治の関係が綿密に考察される。クレイフィやランズマンが導入され、映画における記憶と歴史、図像や宗教や表象といった問題が提起されるとともに、政治映画の可能性の地平、イマージュそのものの力が探求される。

 そして、浅田と四方田の対話では、すでに忘却されつつあるパゾリーニを肯定的に捉えなおし、再導入する試みが展開される。ここでは、パゾリーニにおける詩と言語の問題から、左翼的なものと唯物論的なもの、キリスト教に対する複雑な関係、そしてイマージュ=記号の映画理論的問題にいたるまで、具体的実例と映画作品やテクストに則して、様々な観点から考察と分析が幅広く展開され、その実践が批判的に肯定される。

 本書は、以上のような構成によって重層的に組み立てられている。本書において、浅田と対話者は、数多くの哲学者や映画作家に言及しながら、現代的映画の諸問題を多角的かつ具体的に批判している。しかし、ここに収められたすべての考察には、一貫した問題系の地平が存在している。それは、ドゥルーズの『シネマ1*運動イメージ』と『シネマ2*時間イメージ』によって提起された、「映像の思惟学」と「記憶の政治学」の問題系にほかならない(ゆえに、映画をめぐる対話の多層的な展開が、最終的にドゥルーズ的なコンテクストに回収されてしまう印象が否めないところもあるだろう)。本書の企図は、このドゥルーズの分類学を十分に踏まえたうえで、その先に展開されるべき、ドゥルーズ以後の映画、そして映像芸術の可能性の探求へ向けて開かれている。ドゥルーズが指摘したように、「運動=映像」「時間=映像」以後の、映画における第三の映像の機能と関係性が問題として浮上しているのならば、この浅田と対話者の試みは、さらなる展開が要請されてしかるべきものである(その意味で、浅田が、映画だけではなく、それを取り囲む情報やメディアを批判しつづけていることに注目しなければならない)。本書は、そのための出発点として提示されているといえよう。なお、本書の試みが、浅田と松浦の対談「人文知の現在」(『表象』第01号、2007年)や、浅田と蓮實の対談「ゴダールとストローブ=ユイレの新しさ」(『新潮』、2005年5月号)において、さらに展開されていることを付記しておく。

(中路武士)

・関連文献

Gilles Deleuze, Cinéma1: l’image-mouvement, Minuit, 1983.(『シネマ1*運動イメージ』、財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2007年近刊予定) ----- Cinéma2: l’image-temps, Minuit, 1985.(『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一・大原理志・岡村民夫訳、法政大学出版局、2006年)

Serge Daney, La Rampe, Cahiers du cinéma, 1983. ----- L’Excercise a été profitable, Monsieur, POL, 1993.

Barton Byg, Landscape of Resistance, University of California Press, 1995.

Philippe Lacoue-Labarthe, Pasolini, une improvisation, La pharmacie de Platon, 1995.


・目次


   奇蹟の映画
       奇蹟の映画 ――ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』を見る

   映画の奇蹟
       映画の終わり、映画の始まり
       孤独の力
       ゴダールを語る1 ――松浦寿輝との対話
       ゴダールを語る2 ――松浦寿輝との対話
       ゴダールを語る3 ――蓮實重彦との対話

   唯物論
       ストローブ=ユイレを導入する

   政治
       パレスチナから遠く離れて ――鵜飼哲との対話

   墓碑
       パゾリーニ・ルネサンス ――四方田犬彦との対話




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『ゴダール革命』蓮實重彦(筑摩書房)

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●「映画的、ゴダール的 ――クリティークとクリエーション」

 蓮實重彦がいうように、映画とは、いつ炸裂するともしれぬ「時限爆弾」である。映画には、撮られた時代や社会から遠く離れた地点で、時空を超えて不気味に作動し続ける時限装置が仕掛けられている。とりわけ、ゴダールの『映画史』(1988‐98年)に刻印されているように、すでに忘却され、なお禁じられ、つねに見えない不在のフィルムこそが、その不穏な装置を装塡している(ムルナウ、溝口、バルネット、エイゼンシュテイン……)。では、ゴダール自身の映画はどうなのか。蓮實によれば、ゴダールとは、発火時刻の設定以前に作動し炸裂してしまった時限爆弾にほかならない。だが、時限爆弾の設計に失敗するという企画に成功するというゴダール的な倒錯を前に、「どうすればよいのか」。本書は、この極めてゴダール的な問いをめぐって構成される「ドキュメンタリー」である。

  「映画作家は映画を撮る」。蓮實の論考は、ゴダールに纏いつく問題を解読することから始まる。蓮實によれば、ゴダール的な問題とは、すぐれて同語反復的な断言命題である。そこには「どうして」も「だって」もない。女は女である、失業者は失業する、誘惑は誘惑的である、孤独は一人ぼっちである、自分の人生を生きる、そして、女は女であるも自分の人生を生きる……。ゴダールの映画とは、このような人生の断片が交錯しあい、絶えず表情を変えてゆくアーカイヴである。映画は人生であり、映画は映画なのだ。そこでは、混濁と明晰が、悲痛と甘美が、夜と昼が、男と女が、直接的な語らいを演じている。したがって、ゴダール的な問題は、理由と結論を排した、その間隙(=と)をおし拡げる「破局的スローモーション」として生きられることになるだろう。そして、その間隙に差し込む光こそ、ゴダール的な恩寵=優雅さを表現しているのだ。

 「映画作家は映画から遠く離れる」。蓮實の論考は、次いで、1970‐80年代以降のゴダールをめぐって展開される。1)ゴダールという有名性が、政治的に集団的に映画を撮ることを通して匿名化され、映画から遠く離れていったこと(隠棲)、2)ソニマージュ工房において映画を思考するためにヴィデオとテレヴィが技術的に使用され、ゴダールにおける「間隙(と)」が政治的問題として顕在化していったこと(工場)、3)「ここにはいない遠い存在」として、ゴダールが商業映画に帰還し、映画それ自体がゴダールという「白痴」を通して自己反省されていったこと(遠くから)――蓮實は、これらそれぞれの時期の作品にひとつひとつ仔細に言及しながら、ゴダール的な問題の位相を時系列的に明らかにする。ここで、人は、「見えてはいないゴダール」と「見えているゴダール」の差異を通して提起される、視線と思考の過酷な体験(どうすればよいのか)と向き合わざるをえない。

 「映画作家は決算の身振りを演じる」。蓮實の論考は、また、『映画史』をめぐって展開される。蓮實は、ゴダールが映画作家として引き受けた映画の歴史的な現実に由来する必然的な身振りとして、三つの厄介なゴダール的性癖――「間に合わないこと(遅刻)」、「待てないこと(性急)」、「与えないこと(交換)」――を挙げる。映画は、19世紀に、人民戦線に、スペイン内戦に、レジスタンスに、アウシュビッツに間に合わなかった(ゴダールは遅刻するほかない)。映画は、自分自身の潜在的な資質がどんな可能性を秘めており、それが顕在化されればどんな威力を発揮するのか時間をかけて待つことができなかった(ゴダールによる性急な断言と断片の反復)。映画にはそもそも与えるべきものなど何ひとつなく、むなしく夢の工場となるほかなかった(ゴダールによる贈与の否定とスピルバーグへの対抗)。ゆえに、ゴダールは、映画における貸借関係をゼロにする必要があったのだ。『映画史』は、この三つの映画的性癖によって組み立てられた映画史への「決算」の身振りとして定義され、それぞれの主題に応じて詳細に分析される。

 「映画作家は世紀のはざまを生きる」。蓮實の論考は、さらに、『映画史』と並行して撮られた、あるいは『映画史』の後に撮られた五作品のテマティックな分析的批評へと引き継がれる。ここでは、1)『新ドイツ零年』(1991年)が「二匹の犬」から、2)『JLG/自画像』(1994年)が「喪」から、3)『フォーエヴァー・モーツアルト』(1996年)が「ヴィッキー・メシカ」から、4)『愛の世紀』(2001年)が「女の表情」から、5)『アワーミュージック』(2004年)が「赤いバックをもつ乙女」から、それぞれ瞠目すべき視点と思考で批評される。また、それに続いて、「映画作家の仕事をたどる」として、『勝手にしやがれ』(1959年)から『ゴダールの決別』(1992年)へ至るまでの作品の評論が19本選定され、再録される。ここでは、文字通り「映画評論家の仕事をたどる」ことができるにちがいない。ゴダールにおけるテマティックな一貫性と多層性に触発された、映画との官能的な戯れが、豊穣な知性と感性を背景としたエクリチュールによってドキュメントされ、アーカイヴされているといえよう。ここには、ゴダールと蓮實が、映画の半世紀をいかに過ごしたかをめぐる記録が保存されているのだ。そして、巻末の書誌に明らかなように、この批判的思考のアーカイヴは、他の追随を許さない質量を備えている。

 映画とは「思考する形式」である。蓮實によれば、そのつど思考を刺激しながらもそこに形成される意味をひとつに限定することのない映画は、人騒がせで始末に負えず、物騒きわまりないものである(時限爆弾)。現実の複製であるかに見えて、その再現には決して行きつくことのない、裏切りの映像であり音響なのだ。だからこそ、人類は、「消費」しがたい芸術として、映画を必要とした。しかし、それがテレヴィのように大量に「消費」されてしまうという現実が、同時代的な連帯をこばむゴダールを孤独に追いやる。だが、私たちはその孤独を度外視してはならないと蓮實はいう。この世界に抵抗するためには、「ゴダール的」な孤独だけでなく、より深刻で救いのない「映画的」な孤独を、あと二つか三つ創造する必要があるからだ。本書は、その創造を要請するために書かれているといえよう(クリティーク→クリエーション)。なお、いうまでもなく、黒沢清が召喚されているのも、その創造の要請のためである。

(中路武士)

・関連書籍

Jean-Luc Douin, Jean-Luc Godard, Rivages/Cinéma, Édition augmentée, 1994.

四方田犬彦・堀潤之編『ゴダール・映像・歴史 ――『映画史』を読む』、産業図書、2001年。

Raymod Bellour & Mary Lea Bandy (eds.), Jean-Luc Godard: Son+Image 1974-1991, Museum of Modern Art, 1992.

・目次


  プロローグ
    時限装置としてのゴダール

 Ⅰ 映画作家は映画を撮る
    破局的スローモーション

 Ⅱ 映画作家は映画から遠く離れる
    「白痴」の帰還

 Ⅲ 映画作家は決算の身振りを演じる
    ゴダールの「孤独」

 Ⅳ 映画作家は世紀のはざまを生きる
    そして、誰もいなくなってしまった、のだろうか…… ――『新ドイツ零年』
    喪中のゴダール ――『JLG/自画像』
    老齢であることの若さについて ――『フォーエヴァー・モーツアルト』
    女と夜景 ――『愛の世紀』
    赤いバッグの乙女 ――『アワーミュージック』

 Ⅴ 映画作家の仕事をたどる
    『勝手にしやがれ』/『はなればなれに』/『恋人のいる時間』/『モンパルナスとルヴァロワ』/『アルファヴィル』/『気狂いピエロ』/『彼女について私が知っている二、三の事柄』/『ワン・プラス・ワン』/『東風』/『万事快調』/『勝手に逃げろ/人生』/『パッション』/『カルメンという名の女』/『ゴダールのマリア』/『ゴダールの探偵』/『ゴダールのリア王』/『右側に気をつけろ』/『新ドイツ零年』/『ゴダールの決別』

  エピローグ
    ゴダール革命に向けて

  付録 特別インタヴュー
    映画はゴダールのように豊かであっていっこうに構わない(黒沢清)

  蓮實重彦によるゴダール 関連書誌

  四〇年後に――「あとがき」にかえて




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2007年06月22日

『映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史』蓮實重彦(NTT出版)

映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史 →bookwebで購入

●「映画の孤独な擁護 ――二〇世紀を批判的に肯定する試み」

 蓮實重彦は問う。二〇世紀といかなる関係を維持すべきか、国際紛争と大量虐殺の世紀といかに接すべきか、と。二〇世紀が私たちのほとんどを作り上げ、私たちのほとんどが二〇世紀を作り上げたものである以上、私たちはこの問いへ応答する責任をもっている。はたして、二〇世紀を好む正当な理由はあるのだろうか。

 蓮實重彦は答える。二〇世紀について考えるにあたって、二〇世紀が誇りうるものとして、孤独に映画を擁護せざるをえない、と。映画という優れて二〇世紀的な視聴覚的表象を徹底的に擁護することで、二〇世紀を捉えなおし肯定しなければならない。映画が存在するからこそ、二〇世紀は、好まれる正当な理由をもっているはずなのだ。

 映画を欠いた歴史など存在しえない。映画に対する無自覚によって、二〇世紀の悲劇が政治的に導き出されたのだ。しかし、私たちはいまだに映画の機能と役割を理解するにはいたっていない。だからこそ、私たちは、為政者とは別の仕方で、映画に相応しい視線を送り、映画が存在していることの意味を把握し、思考すべきなのだ。二〇世紀を分析し記述し肯定するにあたって、映画の擁護をその中心に置くべきときが到来しているのである。しかしもちろん、本書のタイトル「映画への不実なる誘い」が示すように、あるいは本書の関連ウェブサイト「あなたに映画を愛しているとは言わせない」が示すように、二〇世紀の肯定と映画の擁護は、「批判的」に行われねばならない。

 本書は、戦争の世紀であった二〇世紀が映画の世紀であったという視点を確立するために、「批判的」な言説によって組み立てられた映画評論への優れた入門書である。本書において、蓮實は、映画における「国籍」「演出」「歴史」という三つのテーマを立て、映画によって喚起される問題系を仔細に考察していく。

 論考は、映画における「国籍」という概念の「脆さ」をめぐって開始される。蓮實はまず、二〇世紀のひとつの特徴として、独創に背を向けるというアメリカ的な独創性の活用――オリジナルの価値ではなく、その模倣‐コピーの大量生産と大量流通――という現象を指摘し、そこから、黒澤映画におけるように、リメイクや翻案といった、文脈の置換可能性による映画の国籍の脆さを提示する。そしてまた、蓮實は、ジャン=ピエール・リモザンやダニエル・シュミット、さらには成瀬巳喜男を例に挙げながら、映画において、国籍の概念がいかに危うく、崩れやすいものであるのかをひとつひとつ確認していく。

 それを踏まえて、ギー・ド・モーパッサンの『脂肪の塊』(1880年)というフランス小説が、世界各国で交錯するように翻案され、多様なかたちで映画化されているという事態について考察が展開される。ここでは、日本版の『マリアのお雪』(溝口健二、1935年)、ロシア版の『脂肪の塊』(ミハイル・ロム、1934年)、アメリカ版の『マドモワゼル・フィフィ[フィフィ嬢]』(ロバート・ワイズ、1944年)、フランス版の『脂肪の塊』(クリスチャン=ジャック、1944年)、中国版[香港版]の『花姑女』(朱石鱗、1951年)が取り上げられる。蓮實によれば、『脂肪の塊』が、このようにさまざまな国で翻案されたのは、作品の主題が、その時期のプロデューサーを安心させ、かつ、その時期の優れた映画作家を刺激したことによる。しかしそれ以上に、映画においては、『駅馬車』や『上海特急』のように、その翻案の流通が、翻案そのものを超えた豊かな広がりを有していることも指摘される(この国籍の脆さという見解は、たとえば1930年代のフランス映画の美的イメージが、異邦人によって形成されたという事実とも共振するだろう→『映画はいかにして死ぬか』)。

 この映画の荒唐無稽さ――固有の社会的‐文化的文脈に背を向け、作品を多様なかたちで翻案し複製する力――は徹底的に擁護される。たしかに、アドルノとホルクハイマーが文化産業として定義した映画は、資本主義やフォーディズムの一形態として、あらゆるものを混同し翻案し標準化したが、しかし、映画を大量に流通するコピーによる思考の頽廃として嫌悪することは、二〇世紀を単に否定する抽象論を構築するにすぎない。映画は複製芸術として、みずからの表現を、否定すべきものとしてではなく、「新たに思考すべき生の条件」として現実に抱え込んでしまったのだ。映画は、それが複製であるがゆえに持ちうる、類似を否定することのない差異――モルフォロジーとテマティスムにおける、微細で質的な差異――の迫力を有しているのである。

 蓮實の論考は、次いで、映画における「演出」――「映画とはごく僅かなもので成立するものだ」という原則――をめぐって、テマティックに展開される。映画は「男と女と銃」で成立する(デイヴィッド・ウォーク・グリフィス)。映画は「男と女と車」で成立する(ロベルト・ロッセリーニ/ジャン=リュック・ゴダール)。映画は「大人と子供と車」で成立する(アッバス・キアロスタミ)。ここでは、その変奏として、「男と女と階段」というテーマ系が導入され、アルフレッド・ヒッチコックの巧みな演出が分析されていく。

 まず、映画におけるショットの概念が説明され、その適確な演出の例としてヒッチコックの『めまい』(1958年)や『汚名』(1946年)が取り上げられる。続いて、ヒッチコック作品のなかに、『サイコ』(1960年)に見られるような、上下の縦軸といった視覚的テーマに関連する「饒舌な階段」と、『断崖』(1941年)に見られるような、視覚的効果が自粛された単なる装置であるにもかかわらず、物語の展開と撮影の仕方によって緊迫した雰囲気を醸し出す「寡黙な階段」というふたつの異なる文体があることが指摘される。

 それを踏まえたうえで、映画における階段が、とくに『汚名』において、テーマ系としていかに構築されているか、詳細に分析される。『汚名』においては、階段は、ヒッチコック的な「禁止」のテーマと深く結び付いており、「支配」という上下の縦の力学を露呈する装置として呈示されている。その階段が男と女によっていかに昇降され、構図や編集によっていかに見せられるかを通して、登場人物の感情の様態が表現され、緩慢なサスペンスが構築される。男と女と階段という単純な要素の組み合わせによって、映画が成立しているのが確認されるのである(この階段のテーマ系は、ヒッチコックにおける円環と球体の優位[曲線の勝利]、あるいは、落ちることと落ちないこと[落下と宙吊り]のテーマ系と明確に共振するものだろう→『映画の神話学』)。

 最後に、蓮實の論考は、映画における「歴史」をめぐって展開されることになる。ここでは、「女性」という切り口によって、ゴダールの『映画史』(1988‐1998年)の「横断」が試みられる。蓮實は、『映画史』に召喚された女性を選び出し、彼女たちがどのように作品のなかを横切り、ゴダールがそのことにどのように敏感であったか、『映画史』の「断片」を「持続」によって回復しながら、仔細に描出していく(この描出は、蓮實によるゴダール論がプレテクストとされていると考えてよいだろう→『ゴダール革命』)。

 蓮實が指摘するように、『映画史』において、1)アイダ・ルピノはハリウッドのスタジオシステムの崩壊とB級映画に、2)リタ・ヘイワースは戦後映画史における商品化された女性とそれを見る男たちの視線との醜い争いに、3)シド・チャリシーは愛の行為の表象としてのミュージカルの消滅に、4)リリアン・ギッシュはラスト・ミニッツ・レスキューに代表される映画的文脈の不可能性に、5)エリザベス・テイラーは第二次世界大戦と強制収容所に、6)アンナ・マニアーニはアメリカ映画の崩壊とネオリアリスモに、7)ジャネット・ゲイナーは見ることのできなかった映画への嫉妬に、8‐9)ルネ・ファルコネッティとフロランス・ドレーは優れた映画作家が引き出した女性の美しさに、10‐11)ヴィッキー・フレドリックとローレン・ランドンは女性の肉体の運動の賛美に、12)ナタリー・ウッドはあらゆる視線を惹きつける高みに、それぞれ結び付けられている。蓮實は、それぞれの女性について、ゴダールが涙したであろうところを選び出し、それを持続として提示したうえで、女性が『映画史』を侵蝕しているさまを描き出す。そして、『映画史』において、女性が「ひとつの主旋律」を形作っていることが明らかにされて、論考が閉じられる。

 本書は、連続講演という時間的制約のなかで組み立てられたテクストであるだけに、やや拙速な印象が否めない。十分に思考が展開されておらず、分析の密度に不満が残る箇所も少なからずある。しかしながら、本書を組み立てているテクストの「批判的」な力は、近年流行っている社会学的、歴史的、メディア研究的、文化研究的なアプローチでは到底追いつくことのできない、フィルム体系そのものへ迫ろうとする速度を有している。そして同時に、決して制度化されえない「批判」そのものの強度を有している。それは、ここで発せられ綴られた言葉のひとつひとつが、――「個人的な事情」から「映画評論家廃業」を宣言した経緯を蓮實がもっているにもかかわらず――なおいっそう豊かな「映画語」たりえていることを意味するだろう(もちろん、言葉はつねに映画に敗北するのだが、それでも言葉がスクリーンのように輝き響いている)。運動と時間、映像と音響、持続と記憶、光と影の戯れといったフィルム体験に拮抗しうる文彩と動体視力によって、本書は、映画という特異な思考の形式そのものを体現しているといえよう。「批判」が失われつつある現在において、本書の試みは今後も重要性を増すばかりであると思われる。

(中路武士)

・関連図書

François Truffaut, Le cinéma selon Alfred Hitchcock, Robert Laffont, 1966.(『映画術――ヒッチコック/トリュフォー』、山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社、1981年)

蓮實重彦編『リュミエール』(No.1-14)、筑摩書房、1985‐1988年。

Jean-Luc Godard, Jean-Luc Godard par Jean-Luc Godard, tome 1 (1950-1984) et 2 (1984-1998), écrits, documents et entretiens réunis par Alain Bergala, Éditions de l’Etoile-Cahiers du cinéma, 1985 et 1998.(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』アラン・ベルガラ編、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998‐2004年)

・目次

第一章 映画における国籍

 国籍という概念、その脆さ/「日本映画」の揺らぎ/成瀬巳喜男『鶴八鶴次郎』における翻案/モーパッサン『脂肪の塊』の翻案――日本/ソ連版『脂肪の塊』/アメリカ版『脂肪の塊』/フランス版『脂肪の塊』/中国版『脂肪の塊』/「翻案」を超えた広がり/複製芸術としての映画へのまなざし/複製ゆえの迫力/差異への感性

第二章 映画における演出

 映画は「男と女と階段」で成立する/単純なショットの組み合わせ/階段の意味するもの/階段へのまなざし――小津、ヴェンダース/饒舌な階段と寡黙な階段/ヒッチコック『汚名』/階段への視線、演出/「男と女と……」

第三章 映画における歴史

 ゴダールの『映画史』――女性たちへの視線/『映画史』の断片を持続によって回復する試み/ゴダールとミュージカル/ゴダールの確信/ゴダールの歴史認識/映画史と『映画史』/ジャンヌ・ダルク/映画史における貴重な瞬間への直感/ジョン・フォード『捜索者』――ナタリー・ウッドへの視線/黄色いバラ




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2007年06月13日

『テクネシスを具体化する―エクリチュールの彼岸の技術』(未邦訳)マーク・ハンセン
Mark Hansen, 2000, Embodying Technesis: Technology beyond Writing, The Univesity of Michigan Press

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●「技術の哲学」

 いかにして技術=テクノロジーを考えていくことができるか? 本書は、この問いの底知れぬ深遠さを教えてくれる。この探求のためにハンセンが対象とするのが、具体的な技術の事例ではなく、20世紀の哲学者たちの技術をめぐる言説である。ハイデガー、デリダ、フロイト、ラカン、ドゥルーズ=ガタリ、そしてベンヤミン。ハンセンは、膨大な哲学的言説を驚くべき強度で分け進んでいく。

 そこでのハンセンの所作は、西洋形而上学に伏在するロゴス中心主義を脱構築していくデリダのそれを想起させる。だが、ハンセンはそのデリダすらも俎上に乗せる。彼が照準を合わせるのが、テクネシス(technesis)と呼ぶ、技術を言説に閉じ込め、思考への従属を強いる哲学的戦略である。この戦略において、従来の哲学は技術の「頑健な物質性robust materiality」を削ぎ落としつづけた。しかし、主体や思考に最高位の価値を置く人間中心主義を乗り越えるためにこそ、この技術のもつ物質性を捕捉する必要がある。技術は、思考に対して、表象モデルにはとらえることができない「根源的な外在性radical exteriority」を有している。その方法が、技術に対する理論の抵抗が崩壊する特異点を探りだし、そこから理論の彼岸を現出させるというものなのだ。

 そしてハンセンは、テクネシスの創始者としてアリストテレスから出発し、ハイデガー、デリダという現象学の系譜を検討し、機械のメタファーに技術を還元してしまう所作を見出す。さらにこの現象学に比して、より物質へと接近するように思える精神分析の系譜(フロイト、ラカン、ドゥルーズ=ガタリ)を検討し、技術の問いへの接近の可能性と失敗の歴史を描いていく。

 しかしハンセンが行なうのは、哲学的言説が技術を捉えることに失敗しつづけてきたのだという発見ではない。もしそれだけの試みであるのであれば、技術の根源的な外在性と彼が呼ぶものを、否定的言明の繰り返しによって語っているだけだという批判を免れないであろう。むしろ、ハンセンが目指すのは技術をめぐる文化理論の「再構築」である。

 彼が強調するのが「具体化embodiment」という局面である。この「具体化」において、表象(常に思考と結びつく)の手前の、技術の物質的現実性との相互作用を考察することが可能になる。それゆえに本書のもうひとつのハイライトは、後半部でなされる「肉体的ミメーシスcorporeal mimesis」の再発見であろう。それは、ベンヤミンのいう「体験Erlebnis」の概念の精錬においてなされる。ベンヤミンがハンセンにとって特権的なのは、言説‐表象主義的な理性の専制を問題とし、具体化された経験の領域の還元不可能性を主張するからである。経験における模倣的な基礎を強調することで、具体化を言語に還元するのではなく、システム論が導入するような「システム/環境」の区別を援用することができる。これによって、言語は、その特権を失い、物質領域との接触の様式の一つとなる。このミメーシスを導き出すのが、「経験Erfahrung」から「体験Erlebnis」へという変化である。「体験Erlebnis」は、ショックの経験があたりまえとなった世界において最も適切な経験の様式となる。それゆえに、ベンヤミンがとりわけ『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』で展開した映画の分析が重要となる。映画において、ショックは、機械的刺激への、純粋に生理学的で、感覚的、そして美学的な反応を示すものである。このエッセイにおいて、重要なことはベンヤミンの次の四つの振る舞いである。すなわち、①映画の触覚的次元を強調し、②言説的、弁証法的内容からショックの生理学的次元を切り離そうとし、③イメージの内容から、イメージの模倣的な衝撃の場としてのメディウムに移動し、④経験の自立的、潜在的な力を付与する様式としての体験を肯定することである。以上の四つを原理とすることによって、具体化された経験のレベルに技術の衝撃を位置づけることができ、言説へと具体化の衝撃を崩落させてきたことを押しとどめることが出来るのである。

 このようなハンセンの議論は、従来のメディア論に対して甚大な影響をおよぼさずにはいない。例えば、俗流のマクルーハン解釈において、メディアは事後的、機能的に意味を付与される。これは、解釈し意味を付与するという点において、ハンセンが批判するテクネシスの典型に他ならない。だが、その影響はメディア論にとどまらない。たとえば、この議論を経由するならば、さまざまな事象の構築性を論じる議論は、いかに言語外の経験や物質を削ぎ落としているかを自覚せずにはいられないであろう。我々は、技術の物質性を思考や言語へと従属させることに向けられたハンセンの批判を引き受ける必要があるだろう。

 しかし、明晰かつ鋭利な議論の展開ゆえに、その議論は拙速に見えるかもしれない。たとえば、デリダの「差延différance」を、存在論的地位にあると切り捨ててしまうが、デリダが存在論ontologyに対置して憑在論hauntologyを提起することを考慮するならば、その処置は妥当であろうか。デリダの「亡霊性」の概念は彼のいう技術の根源的な外在性に通じていないのか。また、ドゥルーズ=ガタリの議論の検討において、ベルクソンとスピノザの緊張関係にある二つの伏流が確認しながらも、後者の勝利においてテクネシスに陥ることをハンセンは示している。しかし、その結論を下すには、ドゥルーズの『Cinema』におけるベルクソンの議論の継承の検討が必要ではないか。

 このような問いにすぐに答えを求めることは、それこそ拙速であろう。なぜなら、このあとに書かれる著作、『New Media for New Philosophy』では、『Cinema』におけるドゥルーズの議論が方法論の中心に置かれ、さらにもう一つの著作『Bodies in Code』では、デリダに近しいスティグレールの議論が参照されるからである。

 なお、本書は、カリフォルニア大学アーヴィン校比較文学コースに提出された博士論文に基づいている。本書は、大陸の思想が、大西洋を越えた土地に蒔かれた種の、豊穣な芽吹きの一つであろう。そして、それがアジアの地で、別の種と邂逅する。その接触において、いかなる新たな果実が産み出され、新たな種が蒔かれるのであろうか。

(新倉貴仁)

・関連文献
Benjamin, Walter, 1939, Über einige Motive bei Baudelaire(=1995,久保哲司訳「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』ちくま学芸文庫)
Hayles, Katharine, 1990, Chaos Bound: Orderly Discourse in Contemporary Lietarature and Science. Itaca: Cornell University Press
Lyotard, Jean-Francois, 1991, The Inhuman: Reflections on Time(=2002,篠原資明他訳『非人間的なもの 時間についての講話』法政大学出版局)

・目次
序章.テクノロジーへの抵抗
第一部. テクノロジー、具体化、文化批評
第一章. テクノカルチャーと具体化
第二章. 技術的現実の位置づけ
第二部. テクノロジーの機械への還元
第三章. メタファーから具体化へ―テクネシスへの抵抗
第四章. テクネーの機械的基礎を問う―テクノロジーについてのハイデガー
第五章. 脱構築のメカニクス―ド・マンについてのデリダ、あるいはカルチュラル・スタディーズの時代におけるポスト構造主義
 幕間1 プシュケーとメタファー―デリダのフロイト
第三部. 技術的現実を追う
第六章. テクノロジーと外的経験―フロイトの科学的心理学プロジェクトの再考
第七章. 思考の彼岸のテクノロジー、あるいはいかにして現実はラカンの現実界になるか?
第八章. 存在論的革命の代償とは何か? ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』におけるアンビヴァレンス
 幕間2 システムと別れる―記号論の彼岸のテクノロジー
第四部. 肉体的ミメーシス
第九章. ベンヤミンにおけるいくつかのモティーフについて―Erlebnis(体験)としての技術の(再)具体化、あるいはミメーシスのポスト言語主義的死後の生


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