• 堀場国際会議  -->UMAT公式サイト
    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
    つづきを読む
  • シンポジウム  -->案内ページ
    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
    つづきを読む

« 『錯乱のニューヨーク』レム・コールハース[著]鈴木圭介[訳](ちくま学芸文庫) | メイン | 『いかにしてわれわれはポストヒューマンになったか』(未邦訳)キャサリン・ヘイルズ
Hayles, Katherine N, 1999, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature, and Informatics, Chicago: The University of Chicago Press. »

2007年05月28日

『象徴の貧困――1.ハイパーインダストリアル時代』ベルナール・スティグレール[著]ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ眞紀[訳](新評論)

象徴の貧困――1.ハイパーインダストリアル時代 →bookwebで購入

●「精神のテクノロジー、精神のポリティックス」

 ≪本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気のなかにある≫。その雰囲気の徴として、次の四つの点が挙げられよう。まず、ハイデガーが定義した近代――普遍数学と技術による自然支配の計画をもとに、計算が至上のものとなる社会――が、現在においては、バイオ‐デジタルなハイパー近代として拡大され強化されていること。次に、マルクスが定義した近代――ブルジョアジーの到来としての資本主義――が、現在においては、社会的生産の産業化のみではなく、それを拡張したかたちで、意識や精神、記憶や文化を産業化する、ハイパー産業によって特徴づけられていること。そして、ドゥルーズの管理社会論やフーコーの生‐政治論、デリダのテレテクノロジー論が、情報通信技術によって組み立てられた現代社会の権力を批判するための政治哲学としてますます重要となってきていること。さらに、産業技術であり芸術でもある現代的映画が――その固有の構成要素である時間的対象を武器(技術)として――、感性的経験を感性の条件付けへ置換する経済戦争において、管理社会を内在的に批判する特権的な力能を有していること。これらすべての徴によって、本書は構成されている。

 ドゥルーズの管理社会論への補遺として位置づけられる本書において、ベルナール・スティグレールは、精神を原料とするハイパー産業の問題を主題化する。ハイパー産業においては、情報通信技術や視聴覚メディアによって象徴や感覚が管理され、マーケティングやプロファイリングによって意識や情動が市場化される。そして、このシステムを構成するエネルギーがエントロピー化しながら機能的に循環することで、欲望‐リビドーの回路が破壊されることになる。それは、個体化にとって必要な自己への配慮、本源的ナルシシズム、そして世界そのものの喪失を意味する。スティグレールが「象徴的貧困misère symbolique」と呼ぶのは、知的な生や感覚的な生の成果としての象徴の生産に参加できなかったことに由来する、この個体化の喪失にほかならない。ここで問題とされるのは、ハイパー産業が、オーディオヴィジュアルやデジタルといった感性に関わるテクノロジーを管理し、そのことによって身体の意識と無意識の時間を管理するということである。したがって、生物的‐身体的器官、人工的器官、社会的器官という人間の感性を形作る組織を総合的に研究するような「一般器官学organologie générale」の展開によって、象徴や情動、そして感覚‐意味の社会的回路の遮断(生産‐消費という文化産業の図式)に闘争を試みる必要がある。ランシエールがいうように、感性的なものが政治的なものの地平を形作るならば、この一般器官学の試みは美学(感性学)であると同時に政治哲学でもあるだろう。本書は、その構想のための序文であると宣言されている。

 スティグレールは、象徴的貧困を「難‐存在mal-être」の問題として捉え、映画的なもののなかに、感性‐政治の戦争、意識の産業化の実相を読み解いていく。クレショフ効果に確認されるように、映画は、音楽(メロディー)とともに、時間的対象を技術的に構成し、そのことによって意識を構成するメディアである。それは、映画の時間と意識の時間が一致するということ、すなわち、映画の流れという時間的対象の流れに沿って、意識が、その時間を「取り入れるadopter」ことができるということを指し示している(映画の時間=意識の時間→意識の映画)。このような時間的対象の構造を基盤にして映画は組み立てられ、意識は文化産業による徹底的な搾取の対象=製品へと組み換えられるのだ。映画や音楽は、産業的な時間性を通して、意識の時間性を技術的に書き換えるのである。そしてさらに、それらが大量に生産され消費されることで、感性的な経験は、意識の単独性を剥奪する画一化や同一化、すなわちその経験それ自体を不可能とする感性的な条件付けに取って代わられることになるだろう。単独的な意識が、億単位で、同一の時間的対象を同時に取り入れ、体験し、反復し、消費することで、大規模に共時化されるのだ。こうして、精神のエコロジーの危機という問題が生じ、本源的ナルシシズムが毀損されることになる。

 スティグレールは、この意識と技術と産業の主題系から、映画『恋するシャンソン』(Alain Resnais, « On connaît la chanson », 1997)――文字通り、映画と音楽という二つの時間的対象を扱った作品である――の構造の解明を試みる。そこで問題化されるのは、感性的共同体を構成する「われわれ」という意識である。われわれとは、記憶の技術、文字によって形作られた公的‐政治的な開け、共‐感を意味する。われわれは『恋するシャンソン』に登場する歌を知っていて――原題は「聞き飽きた」という意味である――、その歌の記憶を通して、すでに映画のなかに引き込まれている。そこでは、登場人物が腹話術のようにクリシェともいえる商品化された歌をうたう演技をすることで、われわれの過去、時代の雰囲気を幽霊のように蘇らせる。そして、非現実的な演出やモンタージュによって予期せぬ奥行きを獲得した歌を通して、われわれの記憶が喚起され、歌のなかにわれわれの意識がすでに織り込まれていること、われわれの意識がすでに歌に住まわれていることが明らかにされる。つまり、歌という時間的対象によって、われわれの記憶が外在化され共有され産業化されているという事実が、われわれの意識の内に取り入れられた映画という時間的対象を通して顕在化されるのである。そこで明らかになるのは、意識の内的な時間と記憶が、技術的に外在化された記憶によってつねにすでに構成されているということにほかならない。スティグレールのいう「記憶の第三層」「後成系統発生的層」の問題系があるのはそこである。そして、意識の産業化の問題(時間の搾取)――われわれが誰なのか、われわれが在るのかわからないという耐えられない状況(集団の個体化の喪失)――もまた、その問題系のうちに位置づけられることになるだろう。このようにして、記憶産業は、意識を同期化し共時化することによって象徴を画一化し、意識から通時性や単独性を剥奪するのである(脱意識化)。アラン・レネの映画はまさに、映画によって、個体化と単独性、難‐存在の問題を暴き出し、表現し、批判しているのだ。

 スティグレールは、次いで、ハイパー産業時代におけるこの個体化の問題、「私」と「われわれ」の問題を、シモンドンの読み直しを図りながら明らかにしていく。シモンドンは近代を技術的な個(労働者に代わって道具を持つようになった機械)の出現――それは労働者の所作の機械による形式化、記号化、離散化を意味する――による、人間の個体化の衰退として特徴づけた。スティグレールによれば、ハイパー産業時代とは、意識と身体の時間を管理するマーケティングによって、この個体化のプロセスが計算に切り詰められ、象徴が破壊されるという個体化の衰退の極限的なケースとして特徴づけられる。ここでは過去把持装置――そこに前‐個体的環境が依拠するのだが――が市場に完全に組み込まれ管理されることで、われわれに私を投影することが困難となり、心的にも集団的にも個体化が毀損されることになる。それが意味するのは、個体の単独性が単なる特殊性へと歪められ(カスタマイゼーション)、分割された個体が消費者となり(脱個体化)、本源的ナルシシズムが喪失されるという事態である。個体化を構成する差異が消滅し、私もわれわれも消失し、誰でもない「みんなon」が消費者として立ち現れるのだ。そして、消費者の意識は、ネットワークによって作られる技術環境のうちに機能的に統合され、そのシステムの一機能と化すとともに、ユーザプロファイリングによって形式化されカテゴリー化されることになる。また、過去把持の画一化にともなう未来予持の投影の消失、市場ネットワークによる意識の注意の喚起と管理のため、消費者は昆虫化(蟻化)されることになる。もはや個ではなく、イディオム(固有言語)が衰弱した群集的な部分、昆虫のような群生組織のみがあり、そこで生産されるのは、もはや象徴ではなく、デジタルなフェロモンにすぎない。みんなとは、ハイパー産業化による過去把持装置の管理の帰結としての、社会の昆虫化の可能性を意味しているのだ。実際に、情報通信技術による群生的な行動の記録は、ウェブ上での地理‐暦システムの統合を通して、フェロモンを分泌する蟻が他の蟻の行動を勾配という形で解読し合計し、その行動を蟻塚の領土に書き込んでいるかのような印象を与える。そこでは、私の記憶もわれわれの記憶も喪失され、ひとびとは、単に適応し反応する者、自由な行動を剥奪された存在となるのだ。スティグレールによれば、われわれは、精神のエコロジーを破壊するこのプロセス、象徴的貧困にすでに飲み込まれ始めている。

 われわれは、この象徴的貧困に対して闘争を展開していかなければならない。スティグレールは再び映画という時間的対象(そして、その技術的発展としてのテレビ)を取り上げ、精神の市場化、感性の管理の構造を描き出していく。しかし同時に、映画はすぐれて感性的な経験でもある。映画には、観客自身によって投影された映像が予期せぬものとして現象する、つまり、未来予持を予期せぬ映像として投影させ、解放するというカタルシスの機能が備わっており、感性的共同体を単独的なものとして実感させる芸術的力能があるからだ。レネやベルトラン・ボレロのような現代的映画の監督は、映像技術と視覚をメタ的‐自己反省的な主題系とすることで、この映画の力能を直接的に提示する。スティグレールは、そこに、映画を象徴的貧困へ立ち向かうための武器とする可能性を見出す。しかし、一般器官学の序文として位置づけられる本書において、それは実践にまで展開されることはない。それは、感性的戦争において中心的役割を演じる芸術家が、心的‐集団的な個体化を実現させる特権的なフィギュールとして主題化される『象徴的貧困――2.感性的なものの構造転換(カタストロフィー)』において試みられるだろう。本書は、そのために、現代世界の問題系の地平を技術的‐産業的な側面から仔細に描き出し、サステナブルな情報社会の在り方を模索しているのである。精神のエコロジーへ向けての感性学、精神のポリティックスは、本書から開始されるのだ。

(中路武士)

・関連文献

Sigmund Freud, Das Unbehagen in der Kultur, in Gesammetle Werke, 14, [1930]1948, SS.419-506.(「文化への不満」、浜川祥枝訳、『フロイト著作集3 文化・芸術論』、人文書院、1968年)

Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, Aubier, 1958.

Michel Foucault, Sécurité, territoire, population, Seuil/Gallimard, 2004. ----Naissance de la biopolitique, Seuil/Gallimard, 2004.

Gilles Deleuze, Pourparlers, Minuit, 1990.(『記号と事件―1972‐1990年の対話』、宮林寛訳、河出書房新社、1992年)

・目次
第一章 象徴の貧困、情動のコントロール、そしてそれらがもたらす恥の感情について

  感性と政治/消費時代における象徴的なもの――グローバルな象徴の貧困/情動のコントロールと戦争

第二章 あたかも「われわれ」が欠けているかのように あるいは、武器をアラン・レネの『みんなその歌を知っている』からいかに求めるか

  生きづらさと敬意/感性と治安の悪化/時間的な商品についての再確認/映画館にて/歌/「われわれ」/ある時代の雰囲気、そして家族/クリシェ/文法とサンプリング/腹話術師――猿真似やおうむ返しではないにせよ/「われわれ」に逆らって(寄り添って)/信仰、投影、無信仰/嫌悪を生むということ/パリを愛するということ/エピフィロジュネーズと第三次過去把持/奇跡と不安/カミーユと歴史/見かけ、嘘、フィクション/いいこと=悪いこと/『モワ・ノン・プリュ…Moi non plus...』/遮られた視界

第三章 蟻塚の寓話 ハイパーインダストリアル時代における個体化

  前置き/個の歪みとハイパーインダストリアル時代における個体化の衰退/個と機械/個体化と過去把持の装置――個体化をなす三つ巴の要素/選別としての個体化/西洋の個体化のごく大ざっぱな歴史 1.記号化/西洋の個体化のごく大ざっぱな歴史 2.個体化の能力の移動/生きづらさと破壊行為への移行――「みんな」によって歪められた個としての消費者/個体化の衰退から「使い捨て」へ/ネットワークにおける注意、把持、予持――ヴァンパイア化/前‐個体的環境へのアクセスのモードの画一化と、特異性のカスタマイゼーション/計算が一般化した記号化のハイパーモダン段階/デジタルフェロモン/認知的から反応的に/圧倒的多数、一握りの少数/「われわれ」と「彼ら」

第四章 ティレシアスと時間の戦争 ベルトラン・ボレロの映画をめぐって

  シネマトグラフ/人を盲目にする像という悪夢/本物の戦争の再来/観客が投影する装置としての映画とそのカタルシス機能/未来予持と欲動――受肉について/集団的第二次過去把持(=R2C)による未来予持的なキャッチ/望外のものとしての映画芸術――「期待する必要はない」、思いがけぬことが起きるのだから/時間の欠如と戦うこと、待ち望んだ予期せぬもの/ティレジアと革命的な武器



→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/1966