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    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
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    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
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2007年05月30日

『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』吉見俊哉(講談社)

「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史 →bookwebで購入

●「近代日本のざわめきの歴史」

 本書『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(1995)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての聴覚メディアの形成史をたどっている。著者・吉見俊哉は、社会や感覚の変容を技術変化の関数として捉えるマクルーハン流のメディア論を斥け、メディア技術の変化を集合的な感覚の変化の関数として捉える視座を示す。  本書において著者が特に注目するのは、「声」の変容そのもののなかに内在している「資本主義」の作動である。資本主義とは、人間の身体性/関係性の構造的変容自体のなかに存立しているシステムであると、著者はいう。複製メディアの登場や声の文化の変容もまた、資本主義の一契機なのであり、マクロな産業システムの変動によって説明できるものではなく、文化それ自体の身体技術論的な変容として記述されるべきものなのである。そうした資本主義が内在する声・聴覚メディアの形成の歴史と、現在におけるそれの社会的拘束性を明らかにすべく、著者は、大衆の想像力とブルジョアの欲望、知識人や音楽家たちの試み、産業の思惑と国家の戦略、専門的送り手/受動的聴衆の中間に位置するアマチュアたちの実践といった複数のアクターたちを次々に登場させる。

 本書の試みは、直接的には若林幹夫・水越伸との共同研究『メディアとしての電話』(1992)を引き継いだものであり、理論的には『メディア時代の文化社会学』(1994)の問題関心に応答したものである。著者はその後も、一方で新聞やテレビをめぐる一連の歴史研究を進め、また一方ではカルチュラル・スタディーズのオーディエンス研究などをも接続しつつ、『メディア論』(水越との共著・2001)、『メディア文化論』(2004)をまとめることになる。


 20世紀がまもなく終わろうとするときに、その世紀を一貫して記録し支えてきた聴覚世界の由来を記そうとした本書の問いの底流には、12年の経過を感じさせない鋭さが、いまなお宿っているように思う。

 「音痴でカラオケすら歌えず、音楽にもまったく疎い私」(p.289)と告白する著者は、むしろ従来の音楽研究者が発想しなかったような視角から、近代における音や「音楽」の歴史を抉り出している。近年では「聴覚文化研究auditory culture studies」と呼ばれる新たな研究のフィールドが拓かれつつあり、そこでは既存の「音楽」概念の見直しや、「音楽」と複製技術をめぐる社会的自明性の問い直しが進められているが、この書物はそうした新たな流れにも接続しうる試論も用意している。


 とはいえ、いくつかの点で不満も残る。もちろん、この著者によく向けられる批判として、歴史家としての資料の取り扱いの粗さ、取り上げられるべき事例の偏り、考察の甘さといった疑義を軽視するつもりはない。しかし、そうした限界を自覚する社会学者に対して、ここで同じ問題を蒸し返すのは、生産的な批評とはいえまい。

 本書において提示された音響メディアの形成史とは、いったいどのような歴史的な見取り図のなかに、あらためて位置付けられるものなのだろうか。これを考えるためには、「なぜ声や耳なのか」という疑問から、問いを始めてもいいかもしれない。感覚変容の問題系を考究するにあたって、なぜ聴覚があえて論じられる必要があるのか、どのようにすれば聴覚を取り出して論じることができるのか、ということについては、最後までそれほど明確には示されていないからである。

 声は、文字と不可分に存在する。本書がオングの「二次的な声の文化」の社会的成立を問う試みとしてスタートしたのならば、声を単独に拾い上げるのではなく、文字との重なり合いのなかで、両者の分節化と生成の過程を構造化する枠組みが必要になる。そこでは、たとえば音のエクリチュールであるレコードが、音響メディア以前の大量複製技術である印刷といかなる理論的関係をもちえるのかなどといった問題が、幾重にも含まれるであろう。

 こうした問題と関連して著者は、本書の最後でアンダーソンやアイゼンステインなどの議論を引き合いに出しつつ、出版資本主義の電子資本主義への転態や、1930年代以降の均質的な国土としての声の成立を論じることになる。しかし、この論の流れには、読者としてはやや性急な印象を受けてしまう。この著作の面白さは、声の動員や国家への回収といった大仕掛けへの安易な早上がりを禁欲し、むしろ国家や産業をメディアの社会的形成過程のファクターの一つと捉えることで、大衆の想像力や中間的存在としてのアマチュアたちの活動などに広く目配りしてきた点にあったからだ。印刷によって準備された同時的で均質的なコミュニケーションの空間に、声の文化が付け加わることで、より完全なかたちでの国民国家が実現したのだ、と著者が論じている限りにおいて、はじめに設定した問いの射程と考察の枠組みは、じゅうぶんに活用されないまま失効してしまうように思う。

 しかしその逆に、大衆の想像力やアマチュアの実践の歴史的意義を強調するだけでは、歴史が現代を反省的に照らし出すことはない。たとえば著者が、1925年の日本のラジオ・ファンたちの「電子のざわめき」が消し去られていく様子を「摘まれていった芽」(p.254)と形容するとき、本書で一貫して考察されてきた「電子のざわめき」の時代は、過度にユートピア化された理想的な過去として語られ、動員による収束によって片付けられてしまうのだ。それでも、「今日もなお現代のメディア・コミュニケーションを構成する基層的な文化として存続し続けている」(p.279)と論を閉じる著者は、ざわめきの奥底から聞こえてくる「大衆的な無意識」のようなものを、どこか楽観的に信じているふしがある。こうした思想的格闘を、文字と声の広がりのなかで、あるいは戦後や現代の問題のなかで位置付け理論的・実証的に示すことこそが、この書物に残された課題ではないだろうか。

 もちろんこれは、著者・吉見が読者にも委ねた課題である。わたしたちに求められているのは、本書の問いをより深く掘り下げ、戦後から現在までのメディア環境の問題のなかに血肉化していくこと、そして、近代の音響メディア文化の広がりのなかで絶えず生起し去来していた大衆的な想像力や心情のざわめきを聴きとっていくことではないだろうか。


(周東美材)


・関連文献(三点)

細川周平 1990『レコードの美学』,勁草書房
Ong, Walter J. 1982 Orality and Literacy : The Technologizing of the Word,Metheuen.=1991 桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』,藤原書店
吉見俊哉 1994『メディア時代の文化社会学』,新曜社

・目次
序章 声の資本主義
第1章 驚異の電気術
第2章 声を複製する文化
第3章 テレフォンのたのしみ
第4章 村のネットワーキング
第5章 無線の声のネットワーク
第6章 大正のラジオマニアたち
第7章 モダニズムと無線の声
終章 再び、声の資本主義


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『いかにしてわれわれはポストヒューマンになったか』(未邦訳)キャサリン・ヘイルズ
Hayles, Katherine N, 1999, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature, and Informatics, Chicago: The University of Chicago Press.

How We Became Posthuman →bookwebで購入

●「情報学的人間像=ポストヒューマンへの警鐘:物質性の軽視」

 本書は、「情報」というキーワードをもとに、K.ヘイルズが現代社会の人間像を考察した論考である。ヘイルズによると、現代社会においては、物質やエネルギーではなく情報こそが一義的な価値を帯びており、その情報の観点から人間像が記述されてきている。そして、その人間像は、人間と機械の同一視につながっている。ヘイルズは、このような情報学的人間像をポストヒューマン(posthuman)と呼んだ。

 ヘイルズのいう情報とは、少々乱暴にいってしまえばランダム性(randomness)と対比されるパターン(pattern)であって、物質性(materiality)との関連でいえば二つの特徴を有している。第一に、情報は、物質性とは別個にそれ自身として成立しており、全く物質性に依存していない点である。第二に、情報は、物質性よりも重きをなすものとして位置づけられており、情報こそが基幹であって、物質性は単に二次的なものにすぎない点である。

 このような見方に立てば、人間の身体=物質性は、さして重要ではなく取るに足りないものであり、いかにでも取替可能である。H.モラヴェックのように、現在の身体は、同じく物質としてのコンピュータと交換可能であり、人間の精神=情報をコンピュータ=物質性に移植してしまえば、人間は超生物に進化するという立論も出てくる。モラヴェックによれば、精神=情報をコンピュータに複製すれば、その人間は、不老不死に到達し、その気になればみずからの精神をビームで飛ばして惑星間の旅行ができるとした。人間の身体は、物質であるから取替可能であってそれがコンピュータに移行したとしても、人間の精神は崩壊したりしない。

 先のような情報の定式化やモラヴェックの発想は、1946年から同53年までのサイバネティックス(cybernetics)をめぐる会議に端を発している。この会議で議論された通信と制御の理論は、動物/人間/機械に等しく適用できるものであった。参加者の一人C.E.シャノンは、情報概念を計量的に定式化して情報理論(information theory)を確立した。その情報理論に、人間の神経を情報処理システムとして考える神経回路モデルが付け加えられた。W.マカロックとW.ピッツの仕事である。それに、J.v.ノイマンの二値コンピュータが続いた。この三つの概念枠組みが契機となって、人間は、情報処理する存在にすぎず本質的に知能機械と同一視されることになった。人間とコンピュータとの違いがなくなっていったのである。

 このサイバネティックスは変化しながらも現在まで続いており、その影響は広く行き渡っている。ヘイルズは、歴史を紐解き、サイバネティックスを第一世代(first wave)/第二世代(second wave)/第三世代(third wave)に区分した。第一世代サイバネティックスは、1940年代半ばからスタートしている。ホメオスタシス(homeostasis)が基礎概念であり、フィードバックループなどが議論された。主要な人物として、前述したシャノンやマカロック、ピッツがいる。続く第二世代は、1960年代半ばから始まった。再帰性(reflexivity)が基礎概念となり、オートポイエーシスが主なテーマとなった。H.マトゥラナやF.ヴァレラが中心的な役割を果たしている。第三世代は、1980年代から起こっている。バーチャル性(virtuality)をめぐって論議が交わされ、人工生命やセル・オートマトンなどが取り沙汰された。R.ブルックスやH.モラヴェックが活躍している。これらは、基礎概念の相違こそあれ、広い意味では同一線上の議論であり、いずれも人間の情報的側面にのみ着目し人間と機械を同一視している点で軌を一にしているといってよい。

 ヘイルズによれば、こうした人間観に相関するように、小説でも同じような考え方が見られるようになった。B.ウルフのLimboの小説は、第一世代のサイバネティックスとの関連が深い。P.K.ディックの小説は、第二世代と共鳴関係にある。N.スティーヴンスンの小説は、第三世代に呼応している。科学と文学は、共変する関係にあり、もはや分離したディスコースとしては進行しえていない。科学と文学は、連関しながらポストヒューマンを形づくってきた。

 繰り返しになるが、情報の観点からの人間観、すなわちポストヒューマンは、人間の物質性を軽視してその情報的側面のみを重視する考え方であり、人間と機械の同一視をもたらしている。この人間観は、学問や小説の領域で深く浸透し広く知れ渡るようになった。しかし、ヘイルズは、こうした人間観を肯定的に評価しているわけではなく、むしろ悪夢と評し憂慮している。ヘイルズは、まるでアクセサリーのように身体をみなす状況の行く末を危惧している。ヘイルズは次のように述べ警鐘を鳴らした。

ポストヒューマンに抵抗するなら、今である。その後で、ポストヒューマンをもたらす思考様式の破棄を目指し、それらを爆破して変えていこう。現行のポストヒューマンは、人間の破壊につながるものがある。しかし、私たちは、別のポストヒューマンを打ちたて、地球を共に生きている人間やほかの生命体、人工物が長らえるように行動することができる。(p291)

 ヘイルズは、ポストヒューマンに抗戦を促している。そのヘイルズの戦法は、情報と物質性との懸隔を埋めることである。そうすることで、人間は、みずからの身体性を見つめなおしその限界を認識して、コンピュータやロボットなどの情報技術に依る不朽幻想に惑わされなくて済む。人間の生命は、身体という歴史的に形作られた物理的構造に埋め込まれており、そこから離脱することなどできない。情報と物質性との関係は密接不可分である。ヘイルズは、本書を通じて情報と物質性との分離の過程を明らかにすることによりこの両者の分裂を食い止めようとした。

 ヘイルズは、科学や文学の潮流を丹念に分析して議論を重ね、その論議をもとに警鐘を鳴らしている。その警鐘には、十分耳を傾ける価値があると思われる。

 なお、情報学の内部からも、こうした情報学的人間像=ポストヒューマンを内破していく試みが始動している。その戦略は、情報の観点から人間を記述しつつも、情報概念を定義しなおすことで現行のポストヒューマンの趨勢に抵抗しようとするものである。たとえば、西垣通は、生命にとっての価値として情報を定義し、新たな情報学的人間像を作り出そうとしている。西垣は、「それによって生物がパターンを作りだすパターン」として情報を概念化し、情報産出の基体を生命体に限定した。この立場からは、物質性を軽視し人間とコンピュータを同質なものとして定位する発想は出てこない。西垣の研究営為は、あくまで情報の観点を取りつつも生命体が構成する情報を重視しており、ヘイルズの戦法とは異なるが、現行のポストヒューマンの動向に抵抗するものであるといえるだろう。現行のポストヒューマンへの対抗は、ヘイルズだけでなく、いくつかの地点で同時多発的に生まれている。

(河島茂生)



・関連文献
Heims,Steve J, 1993, Constructing a Social Science for Postwar America: the Cybernetics Group, 1946-1953, Cambridge: The MIT Press.(=2001,忠平美幸訳『サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発』朝日新聞社.
Hofstadter, Douglas and Dennett, Daniel C eds., 1981, The Mind’s I: Fantasies and Reflections on Self and Soul, New York: Basic Books.(=1992,坂本百台監訳『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」』TBSブリタニカ.
西垣通,1991,『デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたち』岩波書店.

・目次
Acknowledgments
Prologue
1. Toward Embodied Virtuality
2. Virtual Bodies and Flickering Signifiers
3. Contesting for the Body of Information: The Macy Conferences on Cybernetics
4. Liberal Subjectivity Imperiled: Norbert Wiener and Cybernetic Anxiety
5. From Hyphen to Splice: Cybernetics Syntax in Limbo
6. The Second Wave of Cybernetics: From Reflexivity to Self-Organization
7. Turning Reality Inside Out and Right Side Out: Boundary Work in the Mid-Sixties Novels of Philip K. Dick
8. The Materiality of Informatics
9. Narratives of Artificial Life
10. The Semiotics of Virtuality: Mapping the Posthuman
11. Conclusion: What Does It Mean to Be Posthuman?
Notes
Index

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2007年05月28日

『象徴の貧困――1.ハイパーインダストリアル時代』ベルナール・スティグレール[著]ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ眞紀[訳](新評論)

象徴の貧困――1.ハイパーインダストリアル時代 →bookwebで購入

●「精神のテクノロジー、精神のポリティックス」

 ≪本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気のなかにある≫。その雰囲気の徴として、次の四つの点が挙げられよう。まず、ハイデガーが定義した近代――普遍数学と技術による自然支配の計画をもとに、計算が至上のものとなる社会――が、現在においては、バイオ‐デジタルなハイパー近代として拡大され強化されていること。次に、マルクスが定義した近代――ブルジョアジーの到来としての資本主義――が、現在においては、社会的生産の産業化のみではなく、それを拡張したかたちで、意識や精神、記憶や文化を産業化する、ハイパー産業によって特徴づけられていること。そして、ドゥルーズの管理社会論やフーコーの生‐政治論、デリダのテレテクノロジー論が、情報通信技術によって組み立てられた現代社会の権力を批判するための政治哲学としてますます重要となってきていること。さらに、産業技術であり芸術でもある現代的映画が――その固有の構成要素である時間的対象を武器(技術)として――、感性的経験を感性の条件付けへ置換する経済戦争において、管理社会を内在的に批判する特権的な力能を有していること。これらすべての徴によって、本書は構成されている。

 ドゥルーズの管理社会論への補遺として位置づけられる本書において、ベルナール・スティグレールは、精神を原料とするハイパー産業の問題を主題化する。ハイパー産業においては、情報通信技術や視聴覚メディアによって象徴や感覚が管理され、マーケティングやプロファイリングによって意識や情動が市場化される。そして、このシステムを構成するエネルギーがエントロピー化しながら機能的に循環することで、欲望‐リビドーの回路が破壊されることになる。それは、個体化にとって必要な自己への配慮、本源的ナルシシズム、そして世界そのものの喪失を意味する。スティグレールが「象徴的貧困misère symbolique」と呼ぶのは、知的な生や感覚的な生の成果としての象徴の生産に参加できなかったことに由来する、この個体化の喪失にほかならない。ここで問題とされるのは、ハイパー産業が、オーディオヴィジュアルやデジタルといった感性に関わるテクノロジーを管理し、そのことによって身体の意識と無意識の時間を管理するということである。したがって、生物的‐身体的器官、人工的器官、社会的器官という人間の感性を形作る組織を総合的に研究するような「一般器官学organologie générale」の展開によって、象徴や情動、そして感覚‐意味の社会的回路の遮断(生産‐消費という文化産業の図式)に闘争を試みる必要がある。ランシエールがいうように、感性的なものが政治的なものの地平を形作るならば、この一般器官学の試みは美学(感性学)であると同時に政治哲学でもあるだろう。本書は、その構想のための序文であると宣言されている。

 スティグレールは、象徴的貧困を「難‐存在mal-être」の問題として捉え、映画的なもののなかに、感性‐政治の戦争、意識の産業化の実相を読み解いていく。クレショフ効果に確認されるように、映画は、音楽(メロディー)とともに、時間的対象を技術的に構成し、そのことによって意識を構成するメディアである。それは、映画の時間と意識の時間が一致するということ、すなわち、映画の流れという時間的対象の流れに沿って、意識が、その時間を「取り入れるadopter」ことができるということを指し示している(映画の時間=意識の時間→意識の映画)。このような時間的対象の構造を基盤にして映画は組み立てられ、意識は文化産業による徹底的な搾取の対象=製品へと組み換えられるのだ。映画や音楽は、産業的な時間性を通して、意識の時間性を技術的に書き換えるのである。そしてさらに、それらが大量に生産され消費されることで、感性的な経験は、意識の単独性を剥奪する画一化や同一化、すなわちその経験それ自体を不可能とする感性的な条件付けに取って代わられることになるだろう。単独的な意識が、億単位で、同一の時間的対象を同時に取り入れ、体験し、反復し、消費することで、大規模に共時化されるのだ。こうして、精神のエコロジーの危機という問題が生じ、本源的ナルシシズムが毀損されることになる。

 スティグレールは、この意識と技術と産業の主題系から、映画『恋するシャンソン』(Alain Resnais, « On connaît la chanson », 1997)――文字通り、映画と音楽という二つの時間的対象を扱った作品である――の構造の解明を試みる。そこで問題化されるのは、感性的共同体を構成する「われわれ」という意識である。われわれとは、記憶の技術、文字によって形作られた公的‐政治的な開け、共‐感を意味する。われわれは『恋するシャンソン』に登場する歌を知っていて――原題は「聞き飽きた」という意味である――、その歌の記憶を通して、すでに映画のなかに引き込まれている。そこでは、登場人物が腹話術のようにクリシェともいえる商品化された歌をうたう演技をすることで、われわれの過去、時代の雰囲気を幽霊のように蘇らせる。そして、非現実的な演出やモンタージュによって予期せぬ奥行きを獲得した歌を通して、われわれの記憶が喚起され、歌のなかにわれわれの意識がすでに織り込まれていること、われわれの意識がすでに歌に住まわれていることが明らかにされる。つまり、歌という時間的対象によって、われわれの記憶が外在化され共有され産業化されているという事実が、われわれの意識の内に取り入れられた映画という時間的対象を通して顕在化されるのである。そこで明らかになるのは、意識の内的な時間と記憶が、技術的に外在化された記憶によってつねにすでに構成されているということにほかならない。スティグレールのいう「記憶の第三層」「後成系統発生的層」の問題系があるのはそこである。そして、意識の産業化の問題(時間の搾取)――われわれが誰なのか、われわれが在るのかわからないという耐えられない状況(集団の個体化の喪失)――もまた、その問題系のうちに位置づけられることになるだろう。このようにして、記憶産業は、意識を同期化し共時化することによって象徴を画一化し、意識から通時性や単独性を剥奪するのである(脱意識化)。アラン・レネの映画はまさに、映画によって、個体化と単独性、難‐存在の問題を暴き出し、表現し、批判しているのだ。

 スティグレールは、次いで、ハイパー産業時代におけるこの個体化の問題、「私」と「われわれ」の問題を、シモンドンの読み直しを図りながら明らかにしていく。シモンドンは近代を技術的な個(労働者に代わって道具を持つようになった機械)の出現――それは労働者の所作の機械による形式化、記号化、離散化を意味する――による、人間の個体化の衰退として特徴づけた。スティグレールによれば、ハイパー産業時代とは、意識と身体の時間を管理するマーケティングによって、この個体化のプロセスが計算に切り詰められ、象徴が破壊されるという個体化の衰退の極限的なケースとして特徴づけられる。ここでは過去把持装置――そこに前‐個体的環境が依拠するのだが――が市場に完全に組み込まれ管理されることで、われわれに私を投影することが困難となり、心的にも集団的にも個体化が毀損されることになる。それが意味するのは、個体の単独性が単なる特殊性へと歪められ(カスタマイゼーション)、分割された個体が消費者となり(脱個体化)、本源的ナルシシズムが喪失されるという事態である。個体化を構成する差異が消滅し、私もわれわれも消失し、誰でもない「みんなon」が消費者として立ち現れるのだ。そして、消費者の意識は、ネットワークによって作られる技術環境のうちに機能的に統合され、そのシステムの一機能と化すとともに、ユーザプロファイリングによって形式化されカテゴリー化されることになる。また、過去把持の画一化にともなう未来予持の投影の消失、市場ネットワークによる意識の注意の喚起と管理のため、消費者は昆虫化(蟻化)されることになる。もはや個ではなく、イディオム(固有言語)が衰弱した群集的な部分、昆虫のような群生組織のみがあり、そこで生産されるのは、もはや象徴ではなく、デジタルなフェロモンにすぎない。みんなとは、ハイパー産業化による過去把持装置の管理の帰結としての、社会の昆虫化の可能性を意味しているのだ。実際に、情報通信技術による群生的な行動の記録は、ウェブ上での地理‐暦システムの統合を通して、フェロモンを分泌する蟻が他の蟻の行動を勾配という形で解読し合計し、その行動を蟻塚の領土に書き込んでいるかのような印象を与える。そこでは、私の記憶もわれわれの記憶も喪失され、ひとびとは、単に適応し反応する者、自由な行動を剥奪された存在となるのだ。スティグレールによれば、われわれは、精神のエコロジーを破壊するこのプロセス、象徴的貧困にすでに飲み込まれ始めている。

 われわれは、この象徴的貧困に対して闘争を展開していかなければならない。スティグレールは再び映画という時間的対象(そして、その技術的発展としてのテレビ)を取り上げ、精神の市場化、感性の管理の構造を描き出していく。しかし同時に、映画はすぐれて感性的な経験でもある。映画には、観客自身によって投影された映像が予期せぬものとして現象する、つまり、未来予持を予期せぬ映像として投影させ、解放するというカタルシスの機能が備わっており、感性的共同体を単独的なものとして実感させる芸術的力能があるからだ。レネやベルトラン・ボレロのような現代的映画の監督は、映像技術と視覚をメタ的‐自己反省的な主題系とすることで、この映画の力能を直接的に提示する。スティグレールは、そこに、映画を象徴的貧困へ立ち向かうための武器とする可能性を見出す。しかし、一般器官学の序文として位置づけられる本書において、それは実践にまで展開されることはない。それは、感性的戦争において中心的役割を演じる芸術家が、心的‐集団的な個体化を実現させる特権的なフィギュールとして主題化される『象徴的貧困――2.感性的なものの構造転換(カタストロフィー)』において試みられるだろう。本書は、そのために、現代世界の問題系の地平を技術的‐産業的な側面から仔細に描き出し、サステナブルな情報社会の在り方を模索しているのである。精神のエコロジーへ向けての感性学、精神のポリティックスは、本書から開始されるのだ。

(中路武士)

・関連文献

Sigmund Freud, Das Unbehagen in der Kultur, in Gesammetle Werke, 14, [1930]1948, SS.419-506.(「文化への不満」、浜川祥枝訳、『フロイト著作集3 文化・芸術論』、人文書院、1968年)

Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, Aubier, 1958.

Michel Foucault, Sécurité, territoire, population, Seuil/Gallimard, 2004. ----Naissance de la biopolitique, Seuil/Gallimard, 2004.

Gilles Deleuze, Pourparlers, Minuit, 1990.(『記号と事件―1972‐1990年の対話』、宮林寛訳、河出書房新社、1992年)

・目次
第一章 象徴の貧困、情動のコントロール、そしてそれらがもたらす恥の感情について

  感性と政治/消費時代における象徴的なもの――グローバルな象徴の貧困/情動のコントロールと戦争

第二章 あたかも「われわれ」が欠けているかのように あるいは、武器をアラン・レネの『みんなその歌を知っている』からいかに求めるか

  生きづらさと敬意/感性と治安の悪化/時間的な商品についての再確認/映画館にて/歌/「われわれ」/ある時代の雰囲気、そして家族/クリシェ/文法とサンプリング/腹話術師――猿真似やおうむ返しではないにせよ/「われわれ」に逆らって(寄り添って)/信仰、投影、無信仰/嫌悪を生むということ/パリを愛するということ/エピフィロジュネーズと第三次過去把持/奇跡と不安/カミーユと歴史/見かけ、嘘、フィクション/いいこと=悪いこと/『モワ・ノン・プリュ…Moi non plus...』/遮られた視界

第三章 蟻塚の寓話 ハイパーインダストリアル時代における個体化

  前置き/個の歪みとハイパーインダストリアル時代における個体化の衰退/個と機械/個体化と過去把持の装置――個体化をなす三つ巴の要素/選別としての個体化/西洋の個体化のごく大ざっぱな歴史 1.記号化/西洋の個体化のごく大ざっぱな歴史 2.個体化の能力の移動/生きづらさと破壊行為への移行――「みんな」によって歪められた個としての消費者/個体化の衰退から「使い捨て」へ/ネットワークにおける注意、把持、予持――ヴァンパイア化/前‐個体的環境へのアクセスのモードの画一化と、特異性のカスタマイゼーション/計算が一般化した記号化のハイパーモダン段階/デジタルフェロモン/認知的から反応的に/圧倒的多数、一握りの少数/「われわれ」と「彼ら」

第四章 ティレシアスと時間の戦争 ベルトラン・ボレロの映画をめぐって

  シネマトグラフ/人を盲目にする像という悪夢/本物の戦争の再来/観客が投影する装置としての映画とそのカタルシス機能/未来予持と欲動――受肉について/集団的第二次過去把持(=R2C)による未来予持的なキャッチ/望外のものとしての映画芸術――「期待する必要はない」、思いがけぬことが起きるのだから/時間の欠如と戦うこと、待ち望んだ予期せぬもの/ティレジアと革命的な武器



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『錯乱のニューヨーク』レム・コールハース[著]鈴木圭介[訳](ちくま学芸文庫)

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●「マンハッタンはどこまで完璧でありえるか」

委員会が提案したマンハッタン・グリッド―――分割される土地は誰のものでもなく、そこに描き出される人々の群れは架空のものであり、そこに建てられる建物は幻影であり、その中で行われる活動は存在しない。」(p35)

 マンハッタンについて語ることにより、その隠れた戦略を暴き出し、自家薬籠中とすることにより、再びマンハッタンを構築すること。それがこの本の目的である。著者レム・コールハースは特異な建築家である。20世紀のモダニストが自らのイデオロギーを基に方法論を展開し、明晰なマニフェストを提示しながらも創作を展開していたのに対し、レム・コールハースは自らのイデオロギーを決して語ることなく、また自己の創作の方法論を明確に提示することもなく、ただマンハッタンの生成プロセスを語ることによってのみ、自らの創作の根拠を世の中に提示しようとする。しかしそれはそのまま逆説的にもセンセーショナルなマニフェストとなり、また具体的な方法論となり、新しい前衛運動の萌芽を単独の自己によって提示するものとなった。レム・コールハースの活動の軌跡、その数々の実作と理論は共に現在の建築界に絶大な影響を持ち続けている。

 著者により明示されてはいないが、本書の構成はマンハッタンの成長段階に沿って三つの主要な章に分けることができる。一つは「無意識的マンハッタニズム」、その次に「半意識的なマンハッタニズム」、最後に「意識的な(著者の言葉を借りるならば「予測されるべき」)マンハッタニズム」の章である。著者はまず、「無意識的マンハッタニズム」の事例として19世紀末にニューヨーク湾の入江の突端に位置するコニーアイランドと呼ばれる地区で、いかに様々な空想世界のテクノジーが生み出され、遊園地の形を借りてそのテクノロジーの応用が展開していったかを述べる。あらゆる先端的な電気的テクノロジーと機械的なテクノロジーの全てが、極度に人工的なテーマパークを構成するために動員され、その徹底的にアンリアルな光景にニューヨークの大衆は魅了されていった。まだ当時のマンハッタン島では今見る形での摩天楼の建設は行われてはいない。しかし既に原型としてのニューヨークが、マンハッタンの思想そのものが、余すところ無くこのコニーアイランドに存在していたことをコールハースは指摘する。

 次に彼は1920年代にかけて興隆を極めたマンハッタンの摩天楼の建設がいかにして行われたかを記述する。そこでは原型としての摩天楼がまず漫画家によって提示され、また類型としての様々な高層ビル群が提出されたことが語られる。しかしこの章で重要なのは、それらの摩天楼の完成図を描く専門のドローイング技術者として活躍したヒュー・フェリスという画家の存在である。この画家は、ニューヨークで1920年代までに整備されたゾーニング法を逆手にとり、将来構築可能な(予定されるべき)全ての摩天楼の姿を実験的なドローイングの手法を駆使して描いた。いわば、将来の可能性の極限としてのマンハッタンである。漆黒の木炭の平面的なドローイング手法によって切り取られたゾーニング法に基づく最大容積のレンダリングを取り出しながら、コールハースは、マンハッタニズムが「無意識的マンハッタニズムという第一の位相から半意識的な第二の位相へ」と移行したと語る。(p198)いわば、コニーアイランドという無意識のマンハッタニズムは、1920年代を通して半意識的(半計画的?)マンハッタニズムへと進化を遂げたというのだ。

 次に、本書の白眉ともいえる、ロックフェラーセンターの創造の章の記述が開始される。コールハースはマンハッタニズムの思想を体現する決定的な建築として、ロックフェラーセンターを「天才なき傑作」として取り出し、その創造に携わったひとりの摩天楼建築家、レイモンド・フッドの思想と実践を限りなく優しい眼差しで称揚する。そこではマンハッタンという、独自の論理を有した場所において、壮大な資本と時間とアイデアが投入された、想像を絶する規模の大規模複合施設が創造されたプロセスが克明に記されつつも、そのデザインが単独では決して行われなかったこと、しかしそこにおいてレイモンド・フッドが「タワー都市」という独自のメタフィジックスをもってその巨大な生産機構の中で、創造へと介入を果たしていったことが語られる。そのレイモンド・フッドの独自の思想が純粋に展開したドローイング(「マンハッタン1950」)を称して、レムは述べる。「この計画はそれ自体として、マンハッタニズムの新局面、すなわち<予測されうる>マンハッタンの段階が始まったことを知らせる証拠なのである」と。(p298)

 ここでは、独自の思想をもった建築家が、マンハッタンというそれ自体が巨大な運動メカニズムを有する都市の内部において、その独自の思想を、マンハッタンというメカニズムを損なわない方法で、むしろその状況を利用し、実現していった過程が語られている。その際にその戦略を彼は<予測されうるマンハッタン>として明確に掲げている。これ以後の章では、まさにその状況を利用せず、マンハッタンというメカニズムを損なう形での大胆な提案を行い続けたル・コルビュジェのニューヨークにおける悲喜劇と、そのメカニズムによって創作の手法をいわば「先取り」されたサルバドール・ダリがニューヨークにて自暴自棄のパフォーマンスを行い、警察に逮捕される様が描写された後、1938年のニューヨーク万博を境にマンハッタンという思想自体が凋落してゆく様が語られる。

 ひとことで要約するならば、コニーアイランドで誕生した「無意識のマンハッタニズム」が1920年代の計画的水準の導入により「半意識的マンハッタニズム」へと移行したが、その後マンハッタンという現象のメカニズムの将来を<予測>することにより、マンハッタンを再創造する、いわば「意識的なマンハッタニズム」という方法が今後あり得るということを、本書を通してコールハースは述べているのである。

 それは彼の建築家としての実践の全てでもある。本書の末尾には、「補遺、虚構としての結論」として、<予測されるマンハッタン>という彼の方法論を応用した70年代初期の数々の建築プロジェクトが収められている。ここでは「囚われの球を持つ都市」というプロジェクトを例にあげたい。そこではレムはマンハッタンの基礎となる三つの基本公理として「グリッド、ロボトミー(筆者註:表層と内部の乖離のこと)、垂直分裂―――だけがメトロポリスの領土を建築に取り返してやることができる」として、グリッドの上に表層と内部が乖離した、床が垂直に連なってゆくだけの、極めて衝撃的な都市計画のプランを提示している。さらにはその三つの基本公理系が解釈と修正されたものとして、その後のプロジェクトが続くとも述べられているのだ。(p490)。つまりマンハッタンは基本公理系として三つの命題に集約され、そこでその原理を応用することにより、無限にプロジェクトが連なることが予告されているのである。

 おそらく、かつてこれほどまでに破壊的に応用力のあるアーバニズムの理論を構築した建築家、都市理論家は近代以降では誰も存在していないのではないだろうか。グリッドによってありとあらゆるイデオロギー、プログラムや共同体や個人の多様性の共存が保障され、同時に内部と外部の乖離により、内部では外部との乖離によってその自由が他者の領域と抵触することなく保障される。そして、内部においては垂直の床の分裂が、ありとあらゆるプライベートな活動の自由を保障するだろう。

 この本で語られているマンハッタニズムと呼ばれるアーバニズムは、通常の意味でのアーバニズムを超えてしまっている。それは最大の自由と多様性を保障する20世紀の思想の都市計画水準での実例なのだ。それは別名、グローバル資本主義というメカニズムを機軸として私たちの生活を包み込んでいるものだ。もし私たちがグローバル資本主義において最大の自由と多様性を保障するアーバニズムを実践するのなら、私たちはこの本の射程がどこまでも遠大なものであることに、気がつくことだろう。

(柄沢祐輔)


・関連文献
『S・M・L・XL』Monacelli Press.Inc ,1995
『El Croquis OMA/Rem Koolhaas 53+79』El Croquis,1998
『OMA@work.a+u レム・コールハース』株式会社エー・アンド・ユー,2000

・目次
序章
前史
第一部 コニーアイランド――空想世界のテクノロジー
第二部 ユートピアの二重の生活――摩天楼
第三部 完璧さはどこまで完璧でありえるか――ロックフェラーセンターの創造
第四部 用心シロ!ダリとル・コルビュジェがニューヨークを征服する
第五部 死シテノチ(ポストモルテム)
補遺 虚構としての結論
原註
謝辞


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2007年05月11日

『テレビのエコーグラフィー――デリダ〈哲学〉を語る』ジャック・デリダ+ベルナール・スティグレール(NTT出版)

テレビのエコーグラフィー――デリダ〈哲学〉を語る →bookwebで購入

●「技術論と憑在論 ――イメージ、アーカイヴ、テレテクノロジー」

 ジャック・デリダとベルナール・スティグレールは、現代世界の諸問題(自由主義経済、文化資本主義、ナショナリズム、グローバリゼーションなど)を、映像メディアやテレテクノロジーの発達に代表される技術の問題から根本的に捉え直し、それを哲学の問題として引き受ける。それは、イメージやエクリチュール、情報やコミュニケーションについての切迫した政治的‐倫理的思索の試みである。私たちの生きる時間(時代)に関するこの思索の試みは、メディアやテレテクノロジーを分析的に把捉することによって批判的に実践され、デリダやスティグレールの中心的な概念や重層的な問題系にしたがって単独的に展開される。本書は、デリダによる現勢性(アクチュアリティ)の人工性、あるいは現勢性の潜勢性(ヴァーチャリティ)に関する論考、スティグレールによる離散的なイメージの憑在論的な分析、両者のダイアローグから成るテレビのエコーグラフィーによって組み立てられた、技術哲学‐政治哲学の実践的記録である。

 デリダは、テレテクノロジーによって計算され、強制され、フォーマット化され、初期化される政治的現在、その構造が刻々と変形される公共空間を、「人工‐現勢性l’artefactualité」(人為時事性)と「現‐潜勢性l’actuvirtualité」(仮想時事性)という二つの特徴線から問題化する。現代世界において、現勢性は純粋な所与ではなく、メディアによってつねにすでに能動的に生産され、選別され、投資され、人為的に解釈されている。この人工‐現勢性の集中や占有を通して、国際化や世界化と同時に自民族中心主義がリアル・タイムで構築され、人工的な出来事が証言される。また、ここでは、潜勢性は現勢性に対立されるものではなく、現勢性やその代補、出来事に直に刻印されている。この現‐潜勢性を通して、現勢的なイメージやディスクールの時間‐空間が潜勢的なものとして技術的に組み立てられる。デリダは、自分の生きる時代、アクチュアリティを考える哲学者として、この現勢性の技術的変容をめぐる議論の脱構築、現代的な緊急性への政治的‐倫理的な責任‐応答可能性を、差延の運動、メシア的に到来する出来事の単独性から探る。それは他者の他者としての経験、すなわち絶対的な歓待、正義を意味する。それはまた、存在論の彼岸で、遺産相続と反復可能性、痕跡と記憶、不在と現前をめぐる亡霊の問い、亡霊的技術としての補綴をめぐる技術論理を意味する。デリダは、マルクス的亡霊の読解を基盤にして、国民国家、歴史修正主義、西洋中心主義、反セム主義、人種差別主義、移民排斥主義、世界秩序、市場経済などの問題に言及することで、現代を具体的に批判していく。

 この現代世界の批判を踏まえて、デリダとスティグレールのダイアローグが構築される。その主題はテレテクノロジーの時代における視線の権利をめぐって開始される。テレビがもたらした自己の家への現代的回帰、テレ権力による自己性と他者性の変容が、イメージという視聴覚的現象を担保する代補的技術を中心にして考察される。同時に、視聴覚的資料のアーカイヴの法や制度、技術が、記憶の政治とその批判的実践の問題系として考察される。デリダとスティグレールは、この技術と記憶、イメージとアーカイヴの関係を、テレテクノロジックなエクリチュールのシステムから本源的に捉え返し、そこから視聴覚メディアをめぐる議論の脱構築を試みる。それはアルファベットからオーディオヴィジュアルに至るまでの離散的技術に関するある種の地政学の試みである。そして、その試みは、人工‐現勢性やホモヘゲモニーを構築する記憶産業や、人間の意識や情動を計算論的にコントロールするアーカイヴ市場への徹底的な批判として形を成し、さらに視聴覚テクノロジーや情報コミュニケーションの新たな地平に対峙する文化の政治を要請することになる。ここから、情報の支持体、政治的共同体と記憶をめぐる技術の問いが、映像や情報の「パルタージュ」の問題として提起される。それはまた、技術なしには成立しえない責任‐応答可能性や批判‐選択、また技術と相互に結びついた単独性や反復可能性の徴の経由を意味する遺産相続の問いでもあるだろう。こうして、デリダとスティグレールは、現代のテレテクノロジーを批判しながら、そのなかに、固有言語(イディオム)の他なる経験の可能性、時間に時間を与える未来の可能性、出来事や場所性の可能性を見出していく。

 デリダとスティグレールが俎上に載せるテレテクノロジーの種差性は、真理、証言と証拠に深く関わるものである。技術的アーカイヴは証言の現前によって担保されることで証拠として認定されるが、その証言自体が技術によってつねにすでに支えられている。このアポリアのなかで、証言と技術、記憶と歴史の関係性のラディカルな再考察の必要性が論じられる。なぜなら、写真のイメージやアルファベットのエクリチュールにおけるように、真正さの価値は、分離不可能な仕方で、技術によって可能となると同時に技術によって脅かされているからだ。したがって、ここから、技術的な痕跡それ自体が、意味‐感覚や機械的なもの、アーカイヴ化の様式とともに問題化されることになる。それは、テクノロジーを通して不在と現前のあいだに回帰する過去や記憶や死への単独的な関係性(アナクロニズム)、遅延された不可視の可視性や不可能な触覚性、すなわち幽霊や亡霊の問題系として立ち現れるだろう。この幽霊の論理は、本源的技術性における憑依の境位、脱構築の核心的な場にほかならない(遺産相続のなかには、この幽霊による「眉庇効果」の経験がつねにすでに刻印されている)。こうして、デリダとスティグレールは、出来事とその幽霊的記録、歴史とエクリチュール、時間(生中継やリアルタイム)とイメージをめぐって、技術論的憑在論を構築するに至る。同時に、ここで、痕跡や差延の運動から、記憶のアーカイヴとそれによって組み立てられる無意識に注意すること、幽霊的痕跡の問いに精神分析をもって向き合うこと、さらに、知の支持体の技術的変容を用心深く捉え直すことの必要性が明確に提示される。このダイアローグの瞠目すべき点は、さまざまなアクチュアリティを批判的に分析するデリダの憑在論をスティグレールが技術論理的に捉え直すことによって、両者の議論が相互に絡み合い補完し合いながら――そして、ハイデガーの存在論やバルトの写真論などの解釈をめぐって、さまざまな齟齬を生産的に孕みながら――新しい形で展開されていることである。

 スティグレールは、このダイアローグを敷衍するかたちで、写真や映画などのイメージを憑在論的に分析する。スティグレールはまず、心的映像(記憶)がなければ映像対象(記録)もないこと、しかしその映像対象がなければ心的映像もないことを示す(心的映像とは映像対象の亡霊的回帰なのだ)。それは、映像メディアの技術的変容がそのまま人間の超越論的想像力に影響を及ぼすということである。アナログ映像は、「指向対象」と「死」の物質的連続性、現象学的志向性、日の光によって、単独的な触覚性をともなった幽霊的効果を生み出す。デジタル映像は、夜の光(電子)によって、その幽霊的効果を分解し、不連続化し、離散化する。計算論的操作性を本質的属性とする離散化は、触覚や光の記憶の連鎖に本源的な影響を与え、亡霊と幻想の区別を曖昧にし、信と知を不安定化する。現代のアナログ‐デジタル映像は、この光の二重の帰属と、触覚に対する不確実さ、そして新たな幽霊の出現を意味するものである。そこでは、アナログ映像の現実効果や連続性が人工的な技術的総合としてつねにすでに内属的な離散性を有していたことが露呈される。また、腕時計のように、デジタル映像の複数的な不連続の多様性が表出され、さらにそれが、インデックスのように離散的な規則の同定可能性として示される。スティグレールによれば、それは運動のシステマティックな離散化、可視的なものの文法化、映像の解体的分析の可能性として位置づけられるものである。ゆえにアナログ‐デジタル映像の問いは、観客と技術による総合と合成の分析的把促に向けられる(映像分析の可能性は、技術的総合の進化にともなう観客の総合の進化を提起する)。そして、その問いはつねにすでに離散的なテクノロジーによって裏打ちされている。これは、文化産業的な図式に対してオルタナティヴな批判的分析の可能性を意味するだろう。こうして、私たちは映像を分析的に見るようになるのだ。アナログの連続性を離散化することで、デジタル技術は新たな知の可能性の条件を示しているといえよう(批判の道具を利用した、批判の空間の創出)。

 情報機器のユビキタス化をみればわかるように、現在、映像メディアやテレテクノロジーによって亡霊の力能が強められている。デリダとスティグレールは、未来は亡霊たちにある、という。ここで要請されるのは、技術論と憑在論によって、テクノロジーによって組み立てられる幽霊的な現代世界や視聴覚的現象を批判していくことにほかならない。ヘーゲルが哲学者たちに新聞を毎日読むことを勧めたように、デリダとスティグレールはテレメディアの構造を読み解いていかなければならないと警告する。本書は、その具体的実践の理論的方法論(=エコーグラフィー)の提起として、私たちの生きる時代に最も必要な批判書のひとつにちがいない。

(中路武士)

・関連文献
Jacques Derrida, Spectres de Marx: l’état de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale, Galilée, 1993.

Revue philosophique, vol.115-2 (« Jacques Derrida »), PUF, avril-juin 1990, pp.129-408.(カトリーヌ・マラブー編『デリダと肯定の思考』、高橋哲哉・増田一夫・高橋和巳監訳、未來社、2001年)

Roland Barthes, La chambre claire: Note sur la photographie, Gallimard-Seuil, 1980.(『明るい部屋――写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1985年)

・目次
 第一部 人為時事性(Jacques Derrida)
 第二部 テレビのエコーグラフィー(Jacques Derrida et Bernard Stiegler)
   視線の権利
   アーティファクチュアリティ、ホモヘゲモニー
   記憶の証書――地政とテレテクノロジー
   遺産相続とリズム
   「文化例外」――国家の状態、出来事
   アーカイヴ市場――真理、証言、証拠
   フォノグラフィー:意味――遺産相続から地平へ
   幽霊的な記録(分光写真spectrographies)
   無意識の警戒
 第三部 離散的イマージュ(Bernard Stiegler)



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『偶然からの哲学』(未邦訳・未英訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 2004, Philosopher par accident , Galiée

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●「<技術の問い>と<哲学の問い>」

 ベルナール・スティグレールの哲学の投企は、主体と客体、人間と環境、存在と時間の関係を先立って定立する(前‐定立)、人工器官、補綴、代補、すなわち技術へと向けられる。スティグレールは、その起源から至る所で哲学が技術を絶えず否定的に捉えてきたという形而上学的歴史を脱構築することによって、技術の問いを、哲学の本源的な問いとして提起する。それは、哲学の問いを、哲学そのものが忘却し排除し隠蔽してきたそれ自身の起源、つまり、すでにそこにある既現的な技術の問いを基盤にして、全体として辿り直し、解体し、再構築することを意味する。この問いは、情報テクノロジーによって、現存在の意識、時間が文化産業化され、方向喪失が生み出されつつある現代において、時代から要請された不可避の問いである。本書は、スティグレールとエリー・デューリングとのラジオ・ダイアローグによって組み立てられた、この技術と時間の存在論哲学への入門的補遺である。

 スティグレールは、哲学の問いを、ギリシア的、さらにアテネ的な技術の問いから改めて取り上げる。その隠蔽された起源、技術は、ソクラテスに言葉を与え、ソフィストによるパロールの弁論術的使用を告発するプラトンのディスクールと共にある。プラトンは、超越論的な内的想起=アナムネーシスを認識論的本質とし(『メノン』)、技術によって支持された人工的な外的記憶=ヒュポムネーシスを忘却の要因として規定した(『パイドロス』)。ここで、生きた記憶や存在、真実は、技術や生成、忘却と対立させられることになる。しかし、スティグレールは、エピメテウスの神話のなかに(『プロタゴラス』)、技術こそが忘却を代補するものであること、記憶がつねにすでに技術そのものであることを見出す。なぜなら、死すべきものとしての人間は、エピメテウスによって「偶然的に」忘却され、プロメテウスによって「遅ればせに」技術が与えられることで、その性質の欠失が補われ、形作られたからだ。現存在のアナムネーシスはヒュポムネーシスによってつねにすでに支持され、技術性や事実性、前定立性や歴史性といった存在の境位によって規定されているのである。ジャック・デリダが示した通り、エクリチュールのように外在化された記憶が、知や思考を編制し、現存在と存在の布置を条件づけてきたのだ。この技術論理=テクノロジーをめぐる議論は、人間の本質を、生命体の技術的外在化の過程であると定義した人間論理=アントロポロジーにおいて確認されるだろう(ルロワ=グーラン)。

 人工器官によって外在化され組織化された物質が、遺伝的でも経験的でもない、現存在の第三の記憶(後成系統発生的記憶)を構成する。そして、問題の伝達を可能とする技術的な記憶によって、文化が組み立てられる(技術は文化の可能性の条件である。ハイデガーがいうように、技術は文化の本質なのだ)。スティグレールによれば、人間の後成系統発生の状況を基礎にして3、4万年前に記憶技術が登場し、新石器時代以降、それはエクリチュール(記数法)となり、紀元前7世紀頃には西洋を創立することになる。それは、ギリシアにおいてアルファベットという文字が登場し、都市が構成されたことを意味する。アルファベットとは、思考という過ぎ去るものに正確に改めてアクセスすることを可能にする、つまり過去を正確に定立する(正‐定立)、外在化された痕跡の記憶の総合にほかならない。記憶としての技術は、時間の物質的把持、技術的特性によって再活性化され反復されうる過去のアーカイヴを可能とするのだ。そして、この正定立的文字の蓄積や構造化、さらに印刷術の発明によって、グーテンベルクの銀河系の構築が可能となったのである(グーテンベルクの銀河系は、正定立的文字によって組み立てられた文化に属している)。

 19世紀以降、産業革命とともに、新たな正定立的文字の総合である、記憶保存のアナログ・テクノロジーが登場する。それは、「graph」という文字が示すように、機械的‐自動的にリアルタイムで視聴覚を総合する、写真(光の文字)、映画(運動の文字)、蓄音機(音の文字)、電信(遠隔の文字)などのテクノロジーである。これらのテクノロジーは、アルファベットと同じく、過去の要素を物質的な媒体に定着することによって、正確に保存し、伝達することを可能とする。その事実は、複製技術としての印刷術によって構築された書物の文化とは異なった大規模な過去の層が組み立てられることを意味する。そして、20世紀後半には、ハイパー化された文化産業を背景に、ICT、デジタル・テクノロジーによる技術的文字とアーカイヴの根本的な革命が引き起される。

 スティグレールによれば、このアナログ‐デジタル的正定立は、時間の脱自態、つまり過去‐現在‐未来の関係を本源的に変容させるものである。なぜなら、現存在の時間性を担保する後成系統発生的媒体が、記憶の産業化のプロセスによって管理されることになるからだ。映画やレコードをはじめとした19世紀以降のテクノロジーは、(クレショフ効果が示すように)感性や情動を統制し、視聴覚的な時間的対象を文化産業化する。それは、ベンヤミンやアドルノが示したように、意識‐時間の美学‐感性学的操作と産業的搾取に基づく政治経済の問題を生み出す。視聴覚的時間的対象を組み立てるプログラム産業やマーケティングによって、人間の意識が、消費者としての身体を備えた自我のマスとして市場を構成するに至るのだ。ここで、フッサールによって示された、意識の現在に組み込まれた記憶(第一次過去把持)と、意識の過去として回想‐想起される記憶(第二次過去把持)の関係は、テクノロジーが外在的に記録保存し市場化したアーカイヴ(第三次過去把持)によって重層的に決定されることになる。そして、アナログ‐デジタル的正定立は、新たな時代の可能性を切り開くと同時に、過去把持の装置を市場原理に従った計算の対象とすることで、極度に共時化され細分化された意識の荒廃、精神のエコロジーの危機、個体化プロセスの喪失、記憶や生の管理、いわゆる「象徴的貧困」の脅威をもたらす(映画の時間と難‐存在の問題)。

 ここで要請されるのは、技術装置を武器として批判的に使用した、単独的な意識の現勢化(アクティング・アウト)、意識の感性を洗練する政治的行動の実践、現存在の怠惰に打ち克つ哲学的思考である。そのためには、技術によって外在化された第三次過去把持を通して組み立てられる現存在の意識や無意識の物質的条件について根本的に考え直し、思考の権利を肯定し、それを批判的に行動へと移さなければならない。それは、哲学の問いを技術の問いによって脱構築すること、今世紀の科学技術の発達に結びついた新たな問題や作業仮説によって知や思考を批判することを意味している。スティグレールは、精神と行動において、認識論的、哲学的、科学的、倫理的、感性学的、経済的、政治的な革命を行わなければならないと指摘する。精神のエコロジーのために、テクノロジーの構成的役割や、産業的権力の方法論を、その本源的技術性から測定しなければならないのだ。このような批判は、本書のタイトル、そしてスティグレールの哲学的経験の単独性が文字通り示すように、偶然的に忘却された人間の起源、哲学的思考の技術的根源にある偶然を、偶然と共に、偶然から考えることにほかならない。本書は、その批判的実践のために、現代にとって非常に重要な問題を提起しているダイアローグである。

*本稿は、西兼志氏による未刊行邦訳を参照させていただいた。記して感謝する。

(中路武士)

・関連文献
Martin Heidegger, Vorträge und Aufsätze, Gesamtausgabe, Abteilung: Veröffentlichte Schriften 1910-1976, Band 7, herausgegeben von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, Vittorio Klostermann, 2000.

Jacques Derrida, Mal d’archive, Une impression freudienne, Galilée, 1995.

石田英敬編『知のデジタル・シフト――誰が知を支配するのか?』、弘文堂、2006年。

・目次
哲学者と技術
記憶としての技術
産業的時間対象の時代の意識
意識、無意識、非知

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2007年05月07日

『変われる国・日本へ−−イノベート・ニッポン』坂村健(アスキー)

変われる国・日本へ−−イノベート・ニッポン →bookwebで購入

 わが国の「イノベーション担当大臣」は誰か。即答できる人はどれくらいいるだろう(答えはこちら)。実は現在、内閣府を中心に二〇二五年までを視野に入れたイノベーション創造のための長期的戦略指針「イノベーション25」なるものが策定され、各省庁レベルでの政策のすり合わせが行われている。本書の著者である坂村健は、この指針策定に当たって組織された有識者会議「イノベーション25戦略会議」のメンバーの一人でもある。

 著者が著名なコンピュータ・アーキテクトであることを考え合わせると、本書において、特定の技術革新を称揚する薔薇色の産業振興策が開陳されているのではと勘ぐる向きもあるかもしれない。確かに、著者が近年力を入れるユビキタス・コンピューティングについても論旨にかかわる範囲で筆が割かれているが、本書の主題はそこにはない。議論の射程は狭義の技術革新の域を大きく飛び越え、その筆致も浮つくところがない。

 たとえばイノベーションについて語られるはずの本書のなかで、二年後の導入が予定される裁判員制度の検討に結構な頁が充てられている。しかもその結論は、同制度の利点や欠点を一方的に並べ立ててその是非を論ずるといった類のものではない。そこでは、「『市民の司法参加』といったきれいごと」が前景化することによって「『精密司法』対『ラフ・ジャスティス』」という制度の設計思想上の論点が覆い隠されてしまった点こそがもっとも強く批判される[一二三頁]。単純化を排した、一筋縄ではいかない議論なのである。

 ここで裁判員制度が俎上にのぼるのは、本書でとりあげられる「イノベーション」なる語の含意が際立って広汎なものだからである。著者はイノベーションに三つの水準を認める。第一の水準は新しい製品を創造する「プロダクト・イノベーション」、第二の水準は新しい方式や運用を創造する「プロセス・イノベーション」、そして第三の水準が新しい制度や構造を創造する「ソーシャル・イノベーション」である。このうち現在の日本に関して著者がもっとも問題視するのがこの最後の水準、「インフラ・イノベーション」や「環境イノベーション」などとも換言される、制度・構造などを変えていく力の弱さなのである。裁判員「制度」もまたイノベーションの一例としてとりあげられる所以である。

 新しい制度や構造、インフラといったものは、他のイノベーションを効率よく生み出すための基盤、著者言うところの「イノベーションを生むためのイノベーション」となりうる。いったん基盤として確立すれば、こまごまとした個別案件ごとの調整を経ることなく、さまざまな「新しいこと」が生み出される可能性があるからである。だが著者によれば、日本はこの「ソーシャル・イノベーション」ないしは「インフラ・イノベーション」を考えつくのが「全くダメ」ということになる。

 日本が製品や運用のレベルでは新しいことを創造できるのに、大規模な制度や構造となるとそれができない原因としてここで採りあげられるのが、「不確実なこと」「完全には責任が取れないこと」にたいするコンセンサスのありようである。著者は、未来を正確に予測すること、誰かが完全な保証を行うことが今後ますます難しくなるとまず認める。その上で、それでも(あるいはだからこそ)日本の文化、ものの考え方、法律の作り方までふくめたありとあらゆるものを変える必要があると説く。この際に重視されるのが「ベスト・エフォート」という考え方である。

 元来、「ベスト・エフォート」なる語はコンピュータや通信の世界でよく耳にする。ネット上で「光ファイバーを引いたら一〇〇Mbps出るって言ってたのに実際には一〇Mbpsそこそこ」などとぼやかれるアレだ。回線速度の最高値は決まっているが回線が混み合ってくると速度が落ちる。システム全体としては最善の努力をなすが、個々の要求については完全に応えることを保証しないという設計思想である。通信品質の保証にも意を配っていた従来の通信システムに比べて、このベスト・エフォート的な発想で設計されたことが、インターネットがかくも普及した一因になったともいわれる。

 著者はこのベスト・エフォートなる概念を換骨奪胎し、日本でソーシャル・イノベーションを実現する上での基本的な考え方の一つに据える。それは「各人ができるかぎり最大限の努力をすることを前提に、全体についての絶対保証はないことを知った上で利用する、すなわち『自己責任』を負う」ことと定義し直される[四九頁]。その上で、一〇〇%の完璧がないことを前提にした上で、新たな制度・構造を積極的に運用していくというベスト・エフォート的な考え方についてのコンセンサスを作ることを日本社会に求める。日本を「変われる国」とするために。

 社会が多様化し、将来が不透明化するなかで、だからこそベスト・エフォート的な割り切りの下に、新たなインフラを創造していく必要があると著者は説く。現に従来からある道路網なるインフラも、毎年一〇〇万人を超える事故死傷者という社会的損失を出しながら、諸主体への責任分担の下なお運用するというコンセンサスが得られているではないか、と。こうして、「絶対」を求めて立ちすくむことなく、とりあえずそれぞれの「最善の努力」を当てにしながら、ケース・スタディや実証実験を積み重ねてソーシャル・イノベーションを実現していくことが求められることになる。

 著者がかくも執拗に制度・構造レベルでのイノベーションを求めるのはなぜか。その背景には、「新しいこと」を構造的に必要としつづける資本主義のなかで、そのイニシアチブを握ることが日本という国家にとってこれまで以上に重要になるという現状認識がある。このように一方で国家単位での制度競争の視点を強調しながら、他方で公共的な責任主体としての国家の役割は、「絶対保証はない」という認識の下で相対化されることになる。著者のこうした立場は、一見すると奇異なものに映るかもしれない。だが本書から少し距離をとってみれば、「ベスト・エフォート」なる新しい意匠の背後にあるものは、(著者自身も「アングロサクソン的伝統」として認めているように)ある意味で近代の原初から見られる発想だともいえる。

 近代においては、「国家」と「個人」なる概念は、それぞれ強い選択性を認められるかたちで相補的に発達してきた。複数の国家間で制度競争が繰り広げられることによって国家に包摂されない個人の観念がリアリティをもつ一方で、個人に創意・決定・責任の一端を帰属させることによって国家への過剰なコスト転嫁も回避されることになる。本書の著者による「(個人の)環境としての国家」への定位もまた、ある意味でこうした近代の初期条件に則ったものといえる。それに対してたとえば「テクノ・ナショナリズム」などとこと新しく呼んでみたとしても、それだけでは恐らく批判の態をなさないであろう。

 むしろ、アーキテクトの立場から(たとえば「市民の司法参加」の如き)「きれいごと」のみを語るような論者を挑発しているのは著者の方なのかもしれない。その挑発を勝手に忖度してみれば次のようにまとめられようか。「さまざまな批判や問題がありうることはとうにわかっている。そうした批判や問題点を現実的に調停する(制度や構造の)『仕様書』に起こしてこい」と。「絶対」や「完全」な立場に自らを擬することを端から棄てて、不確実性を前提に、「実証実験」や「ケース・スタディ」の相でアーキテクチャを形づくっていく知に対して何を語りうるのか。過去日米貿易摩擦に巻き込まれたこともある著者が(屈折したかたちとはいえ)「アングロ・サクソン的コンセプト」を縷々説明するというある意味皮肉な本書は、実はそうした重大な問いも同時に投げかけているように思える。

・参考文献
井上達夫・嶋津格・松浦好治編,1999,『法の臨界II−−秩序像の転換』東京大学出版会.
中西準子,2004,『環境リスク学−−不安の海の羅針盤』
坂村健,2006,『ユビキタスでつくる情報社会基盤』東京大学出版会.
坂村健,2005,『グローバルスタンダードと国家戦略−−日本の「現代」<9>』NTT出版.
佐藤俊樹,1993,『近代・組織・資本主義−−日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房.
宇沢弘文,1974,『自動車の社会的費用』岩波書店.

・目次
第1章 イノベーションとは何か
第2章 イノベーションが日本を変える
第3章 ケース・スタディ型社会を目指して
付録 ユビキタス・コンピューティングの現在
あとがきにかえて



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『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』ウルリッヒ ベック,アンソニー ギデンズ,スコット ラッシュ(而立書房)

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●「再帰性理論をめぐる対話」

 「近代とはいかなる時代か」という問いは、社会学徒ならば避けては通れない問題である。『再帰的近代化』は、ウルリッヒ=ベック、アンソニー=ギデンズ、スコット=ラッシュの三者が、この問いにたいして真正面から取り組んだ共著である。同書は「近代化」を理解する鍵概念として、いまや社会学の基礎概念のひとつとなった「再帰性」(reflexivity)を用いて、現代を近代の徹底化として論じる理論社会学の書である―著者らはこの視座を「再帰的近代化」(reflexive modernity)とよんでいる。再帰的近代化の基本命題は「社会の近代化の進展とともに、行為の担い手が、自らの存在およびその社会的諸条件に省察を加え、さらに省察によってその条件を自らつくりかえる能力を獲得するようになること」(p.318)である。

 同書は再帰性にかんする入門書ではなく、応用の書である(cf.再帰性概念にかんする基礎的な理解のためには、文末に掲げたギデンズの『近代とはいかなる時代か?』から読み始めることをお勧めする)。同書は、三人の独立した論文を中心に編まれており「再帰的近代化」の特徴について、それぞれの力点の置き方の違いに応じて政治、ポスト伝統社会や美的原理の領域で論じられている。これらの寄稿論文を受けて巻末では、ベック、ギデンズとラッシュがそれぞれ他の論者にたいする応答と批判を行っている。ここでは見解の相違を隠すことなく、むしろ積極的な批判的対話を通じて、それぞれの理論的立場の共通性と相違が明確に打ち出しており、再帰的近代化をめぐる理論的問題点が浮き彫りとなっている。一冊のなかで繰り広げられる丁々発止の議論は、まさに共著ならではの醍醐味といえよう。

 寄稿論文にたいする批判と応答を組み込んだ本の構成上、論点は多岐にわたっているもの、主題を大別するならば三つ挙げることができるだろう。第一は、再帰性の概念定義をめぐる問題である。各論者は、現代がモダニティかポスト・モダニティかという論争に拘泥することなく、「モダニティ」(初期モダニティ/単純的モダニティ)と「再帰的モダニティ」(後期モダニティ/ハイモダニティ)を区別する認識を共有している。こうした再帰的近代化の変奏が、政治とサブ政治の理論(ベック)、文化と伝統の領域における社会変動の理論(ギデンズ)、美的感覚化と経済の理論(ラッシュ)を題材とする三つの章をまたがって展開されている。三者の相違点としては、ラッシュが、ベックとギデンズとは対照的に、再帰性を認知的水準だけでなく、ポスト構造主義に定位しつつ「ミメーシス的象徴の産出配分構造」がもたらす「美的再帰性」を提唱している点などがあげられる(pp.247-268)。

 第二は、「脱伝統遵守」(detraditionalization)の概念である。再帰的近代において伝統はつねに再帰的に問い直される対象となる。伝統は、かつてのように伝統であるという理由だけではその正統性を維持できなくなっており、人々の生活のあり方や生き方は絶えず討議や議論に開かれるようになる。この脱伝統遵守の概念についてはギデンズがもっとも紙幅を割いて議論を展開しており、伝統社会にかんする文化人類学的先行研究を起点としながら、後期ポスト伝統社会における再帰性の特徴を描きだしている。

 第三は、エコロジー問題に対する関心である。エコロジー問題はギデンズとベックの寄稿論文で論じられているが、これはとりわけ『危険社会』を著したベックの議論を通底する主題となっている。両者が共有する認識としては、「環境」や「自然」は初期モダニティでは人間の行為の外部として位置づけられてきたことが指摘される。対照的に、再帰的近代において「環境」は、もはや人間の社会生活に外在する条件ではなく、人間の社会生活によって徹底的に影響を受け、繰り返し秩序づけられていく対象として顕現化するものとして論じられている。

 原著が刊行されたのは1994年のことだが、以上に掲げた論点は、今もなお新鮮さを失っていない。再帰性をめぐる議論が、欧州を中心になおも活発に繰り広げられている点はその証左であろう。こうした再帰性をめぐる最前線の議論を理解するための足がかりとして、同書は役に立つだろう。

(伊佐栄二郎)

・関連文献
Ulrich Beck, 1986, Risikogesellschaft. Auf dem Weg in eine andere Moderne, Suhrkamp Verlag. = 東廉,伊藤美登里訳,1998,『危険社会――新しい近代への道』東京:法政大学出版局.
Anthony Giddens, 1990, The Consequences of Modernity, Polity Press. = 松尾精文,小幡正敏訳,1993,『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』東京:而立書房.
Anthony Giddens, 1991, Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age, Polity Press. = 秋吉美都,安藤太郎,筒井淳也訳,2005,『モダニティと自己アイデンティティ――後期近代における自己と社会』東京:ハーベスト社.
Scott Lash, 1990 Sociology of Postmodernism, Routledge. = 田中義久監訳,1997,『ポスト・モダニティの社会学』東京:法政大学出版局.
Scott Lash, 2002, Critique of Information, Sage. = 相田敏彦訳,2006,『情報批判論――情報社会における批判理論は可能か』東京:NTT出版.

・目次
はじめに
1.政治の再創造――再帰的近代化理論に向けて(ベック)
2.ポスト近代社会に生きること(ギデンズ)
3.再帰性とその分身――構造、美的原理、共同体(ラッシュ)
4.応答と批判(ベック、ギデンズ、ラッシュ)


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