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    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
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    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
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メイン | 『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール
Bernard Stiegler, 1994, La technique et le temps 1. La faute d’Épiméthée, Galiée »

2007年04月18日

『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラー
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford University Press

書き込みシステム1800/1900→bookwebで購入

●「私たちの知のあり方は、言説を保存し、記録するシステムの論理によって決定される」

 ふだん、私たちは自由に世界を見わたし、物を考えている。私たちは目の前の事物をごく自然にまなざし、それに意味を与えていく。まなざし、意味を与える「私」が世界の中心にいて、世界を知覚し、意味の秩序を与えることは、ふだん私たちが何の変哲もなく行っていることだ。

 しかしそうした「人間主義的」なパースペクティヴは、フーコー『言葉と物』によって打ち砕かれた。私たちの世界への関わり方、物の考え方は、あたかもソフトの最適化がコンピュータのフォーマットに従わざるをえないように、その時代ごとに存在する《フォーマット》に規定されている――それが『言葉と物』の主張だった。

 キットラー『書き込みのシステム』も、この《フォーマット》を理解する試みとして位置づけることができるだろう。その際、この《フォーマット》を論じるに当たりキットラーが注目するもの、それが本書の原タイトルたるAufschreibensysteme、すなわち「書き込みのシステム」だ。

 『書き込みのシステム』の著者は、以下のように主張する――私たちの思考や世界への関わり方を定める《フォーマット》は、データを保存し、記録する「書き込みのシステム」によって決定されているのだ、と。ここでいう「書き込みのシステム」とは、プログラミングや情報技術の特性を含んではいるが、むしろキットラーによって丹念に追われるのは、そういった技術の使用法や社会的了解のあり方である(フーコーの何を、どう超えたのかといった点に興味をもたれた方は、『書き込みのシステム』の後書きや『言説分析の可能性』の北田暁大論文にその核心が論じられているので、そちらをどうぞ)。

 言説を保存し、記録する「書き込みのシステム」の編制を、キットラーは2つに類型化して論じる。その2つとは、タイトルにもなっている「書き込みのシステム1800/1900」、つまり18世紀的な記録システムと、19世紀的なそれだ。以下紹介していこう。




 まず、18世紀的なものについて。ドイツ文学を専門とするキットラーによると、私たちの思考や世界を見る18世紀的《フォーマット》においては、意味と理解の最終的な拠り所として「母の声」なるものが強調されるという。

 1800年前後、ドイツでは父親から母親へと教育の主役が変わった。その結果、教育の主体が母親であることが「自然」とされ、「母親」と「自然」が重ね合わせられた。「自然」=「母親」は沈黙する(何も語らない)存在であることによって、人々は無限に「母の声」を代弁していく。こういった解釈学的な構造が、私たちの思考や世界への関わり方を規定する18世紀的な《フォーマット》なのだ。

 「母の声」を解釈するのは、そこに普遍的な精神の存在を当時の人々がみていたからだが、キットラーはその背景に18世紀的な「書き込みのシステム」の存在を指摘する。18世紀における「書き込みのシステム」とは、当代において発明された表記法=Alphabetizationであった。印刷技術と学校教育を背景に広まったこの表記法は、人々に表記のあり方を均一化させる。表記法が同じようなものであれば、同じ表記法に則り書くことを通し、この言葉を同じように書く人々との間で「何か」が共有されているのではないかという想定が可能になる。

 つまり解釈学的な「母の声」の探求は、Alphabetizationという18世紀的な「書き込みのシステム」の効果なのだと、キットラーは指摘しているのだ。このような解釈学的探求は哲学者によって担われていく(ゆえに哲学者を頂点にしたヒエラルキーが構成される)。




 しかし、哲学者を頂点とする18世紀的な「書き込みのシステム」の体制は、ある時期から失効したとキットラーは指摘する。彼はその背後に、精神物理学の登場を挙げる。19世紀的な体制の始まりだ。

 生理学などの発展によっておこった精神物理学は、現代の心理学の始祖たる学問で、外的な刺激と内的な感覚との対応関係を調べようとした学問のことだ。外的な刺激と内的な感覚との対応関係を調べるこうした精神物理学の試みは、心のプロセスを数量的に計測しようとする試みでもあった。心身と外的刺激との関係という問題を設定したことにより、精神物理学は記憶を純粋な生理学的機能へと還元させる(できる)という《フォーマット》を作った。すなわち、精神物理学は記憶と意味を切り離し、結果として思考するより速く人間の脳裏へとデータを書き込んでしまうという刺激‐反応モデルを、19世紀以降の《フォーマット》として作り上げてしまったのだ(「テレビが子どもに悪影響を与える」といった言説が巷でもっともらしく囁かれるのも、この《フォーマット》がいかに強力な磁場をもっているかを示す例だろう)。

 こうした《フォーマット》は、人間(性)の了解そのものを変えていく。すなわち、意味を解釈学的に探求する存在としてというよりも、むしろそのつどの刺激‐反応によって条件づけられる、離散的な身体を有するものとして。『書き込みのシステム』では、思考や世界への関わり方を規定するこうした《フォーマット》が、19世紀以降に登場した3つの「書き込みのシステム」、すなわち蓄音機・映画・タイプライターという記録システムによって社会的にも地位を占めていく様子が論じられていく。

 キットラーの論述においては、蓄音機・映画・タイプライターの地位がそれぞれラカンの「現実界/想像界/象徴界」といった分類と重ね合わせられる。このような筆致を通し、精神分析も本当は19世紀的な「書き込みのシステム」の効果なのだとキットラーは論じていく。こうして、精神物理学を背景にした19世紀以降の《フォーマット》は、18世紀的な《フォーマット》を窒息させるのだ。




 たしかに、こうした19世紀的な《フォーマット》の言挙げは、今でもあちこちで「作者のイイタイコトを理解せよ」とか「学問の真理を追究せよ」といった、解釈学的=18世紀的な《フォーマット》がある場面ではいまだに幅を利かせている現実に対する、キットラー流の皮肉なのかもしれない。しかし、この皮肉は真面目に受け止めるだけの価値がある。もし皮肉であるなら、皮肉をいうべき現実が存在していることを意味し、ということはつまり、キットラーの論理に遵えば、その現実にはそれをとりまく独特の「書き込みのシステム」があり、そのシステムの論理が私たちの知のあり方をゆるやかに規定していることになるのだから。

 こういったキットラーの視角は、身につけると案外汎用性が高い(=私たちにとって「使える」)のかもしれない。たとえば、ひと昔前にブームをおこした国民国家と「国語」の問題。

 キットラーは18世紀的な「書き込みのシステム」を広めた場として、近代的な教育システムを挙げている。彼によれば、人々によって明らかにされるべき「母の声」という想定があるからこそ、ドイツの学校教育においてA・B・Cという文字列が断片化された「母の声」とみなされ、その断片化された「母の声」を取り戻すべく組織的な識字化=国家による「国語」の統制が成立したのだという。

しかし日本の教育――もちろん、「国語」の教育もその中に入る――は、やや事情がこみ入っている。このことは、キットラーが18世紀的な教育システムの中に位置づけた教育学者・ヘルバルトという人物をめぐって説明することができるだろう。

日本近代教育史においても、ヘルバルトは重要人物である。なぜなら近代教育における実践の枠組みは、当初ヘルバルトの知によって規定されていたたからだ。しかしこのヘルバルトの日本における受容たるや、何とあの刺激‐反応モデルという、19世紀的な知の《フォーマット》の下で語られている。

さらに興味深いのは、日本の「国語」教育においてこのヘルバルト的な知の枠組みが否定された20世紀において、まさに18世紀的な知の《フォーマット》たる、解釈学的な実践が学校教育でなされていく。だとすれば、国民国家を作るのに一役買ったものとして位置づけられてきた日本の「国語」は、言説を保存し、記録するシステムに対する歴史的・社会的な了解とその用いられ方、つまりキットラー流の「書き込みのシステム」という視角から論じられれば、もっと違った知見が紡がれるのではないだろうか。
キットラーの皮肉とその視角には、真面目につき合うだけの価値がある。


(田村謙典)

・関連文献
Crary, Jonathan, 1990, Techniques of the Observer: On Vision and Modernity in the 19th Century, MIT Press, =1997→2005,遠藤知巳訳,『観察者の系譜』以文社
北田暁大,2006,「フーコーとマクルーハンの夢を遮断する――フリードリッヒ・キットラーの言説分析」佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から』東信堂
Foucault, Michel, 1974, Les mots et les choses, Editions Gallimard=1977,田村俶訳『言葉と物――人文科学の考古学』新潮社

・目次
Foreword (David E. Wellbery)
Ⅰ 1800――The Scholar’s Tragedy / The Mother’s Mouth / Language Channels / The Torst
Ⅱ 1900――Nietzsche / The Great Lalula / Rebus / Queen’s Sacrifice
Afterword to the Second Printing


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