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    UBIQUITOUS MEDIA : ASIAN TRANSFORMATIONS
    ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成
    ―The Theory Culture & Society 25th Anniversary


    会期: 2007年7月13日(金)~16日(月・祝)
    場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂、工学部2号館
    基調講演者
    フリードリヒ・キットラー/蓮實重彦/キャサリン・ヘイルズ/マーク・ハンセン/ベルナール・スティグレール/バーバラ・マリア・スタフォード
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    〈 愛好者 Amatorat 〉をめぐって
    モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み


    2007年7月11日(水)13:00~/東京大学教養学部 18号館 ホール
    パネリスト
    ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーセンター研究開発部長)
    藤幡正樹(東京藝術大学教授・大学院映像研究科長)
    石田英敬(東京大学教授・大学院情報学環副学環長) ほか
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2007年07月13日

『ドラキュラの遺言――ソフトウェアなど存在しない』フリードリヒ キットラー(産業図書)

ドラキュラの遺言――ソフトウェアなど存在しない →bookwebで購入

●「デジタル時代のエクリチュール」

 ブラム・ストーカー作の小説『ドラキュラ』への言及から始まる評論集。数々の評論を一貫する問題設定は、メディア環境における「人間」や「知」のあり方だ。著者はキットラー。これまで、情報技術とそれをとり巻く知を対象に、人間に関する社会的了解と技術の抜き差しならぬ関係を、本書評欄でも既出の『書き込みのシステム』および『グラモフォン・フィルム・タイプライター』で論じてきた、気鋭のメディア論者である。その著者が、コンピュータやマイクロチップなどの、いわゆるデジタル仕様のメディアを論じていく。

 よくキットラーは技術決定論者だといわれる。しかしよく見てみると、技術にまつわる社会的了解を随所に挟んでいるのが見て取れる。その社会的了解、および社会的了解の歴史性を表すために、キットラーは精神分析の論者やドッペルゲンガーの立ち現れ方を時代ごとに比較する、あるいはライター・詩作者によるテクノロジーへのメタレベルからの語りを扱っていく。こうした方法によって、データ処理機械としての人間の誕生と、記録・情報伝達メディアとしての文字がもつ独占的地位の凋落がコインの裏表であることが明らかにされていく。

 本論集は三部構成になっており、様々な言説を挙げながら技術と社会、それによって現象する人間性や知のあり方を見せつけられるたび、高揚感を味わうことしばしばだ。とはいえ――かく言う評者がそうだったのだが――デジタル仕様のメディアを本格的に扱うⅢの部分になると、やや事情が変わるように見えるかもしれない。というのは、そこではデジタル・メディアの理論的中核であるノイマンやチューリングの開発した技術そのものの説明に紙幅が費やされ、技術にまつわる(人々によって提出される)知の部分が、前の2つの部分よりも量的に少ないように見えるからだ。しかしこうした紙幅の割き方は、遂行的にある事態を読者に明らかにしてくれる。その事態とは、

一方でコードとアルゴリズムの知識の上では、原理的にアプリケーション・ソフトあるいは暗号を書くことが可能なままでありながら、他方の、ユーザー・フレンドリーと偽る面では、完成品からその生産条件を逆推理することも、その条件そのものを変えることも、徐々に不可能になってゆく(288ページ)

という事態である。デジタル仕様のメディアがもつ権力性が幅を利かす事態である、といってもいいだろう。

 こうした事態の背後にあるテクノロジカルな事実として、キットラーはデジタル仕様のメディアが自己言及的に作動する(命令とデータが同じフォーマットで作動する)ことを挙げている。もっともキットラーも指摘する通り、こうした自己言及性それ自体は、必ずしもデジタル仕様のメディアに起源をもたない。冒頭の論文にある通り、活字の導入とほぼ並行してスペースがメタ言語としても活用されたという事実にも見られるからだ。しかし、データの操作方法とその操作方法の指示が無差別に書き込まれるといった事態がデジタル仕様のメディアによって支配的になれば、生まれるものが膨大な量と形式化作用を経て旧来の姿と比べまったく異形なものとなるばかりでなく、生まれたデータのどこが命令でどこがデータなのかといった「メタ/ベタ」の区別が端的につけづらくなるからだ。著者キットラーは、自己言及的に作動していくデジタル仕様のメディアがシミュレーション・システムという(人間に代わる)新たな主体を作ること、また自己言及的なメディアの背後にあるテクノロジカルな事実と技術の社会的な了解の差異から膨大な利権――ソフトウェアにまつわる著作権――が生じていることなど、様々な論点を提出している。ひとつのテクノロジカルな事実からさまざまな論点が提出されること自体、デジタル時代のエクリチュールがさまざまな社会的領野に異なった形で作用することを示している。そしてそれゆえに、著者キットラーは、その複数性からデジタル仕様のもつメディアの権力性に対抗できる/すべしと考えているのだろう。

 メディアの星座は刻々変化している――行け!(169ページ)

ある論考でのキットラーの擱筆。私自身も、その困難さを自覚しつつ、この言葉を真摯に受け止めようと思う。

(田村謙典)

・参考文献
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford UP
佐藤俊樹,1996『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化時代を解体する』講談社選書メチエ
鈴木謙介,2007,『ウェブ社会の思想――〈遍在する私〉をどう生きるか』日本放送協会出版

・目次

序言
Ⅰ ドラキュラの遺言/象徴的なものの世界――マシンの世界
Ⅱ ロマン主義‐精神分析‐映画:ドッペルゲンガーの歴史/ベンの詩――「とびきりのヒットソング」/耳の神様
Ⅲ オペレーターの離脱/シグナル‐ノイズ補完距離/リアル・タイム・アナリシス、タイム・アクシス、マニピュレーション/プロテクト・モード/ソフトウェアなど存在しない
訳者あとがき
文献一覧



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