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2014年04月10日

『ガリ版ものがたり』志村章子(大修館書店)

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「絶滅危惧印刷、ガリ版」

 ガリ版は謄写版印刷の通称で、版式でいうと孔版(こうはん)印刷の一種だ。文字どおり、印刷用の版に孔(あな)を空け、その穴からインキを通して印刷する。
 なんて書いても、実物を知らない人にはなかなかイメージできないだろうなあ。
 ざっくり言うと、プリントゴッコと同じような仕組みなんだけど……プリントゴッコも最後はインクジェットになっちゃったみたいだし、通じないかな。

 ガリ版って、何歳ぐらいまで通じる言葉なんだろう。
 私の通っていた小学校では、文集といえばガリ版印刷だった。ヤスリの上にロウをしみ込ませた原紙を乗せ、鉄筆でガリガリと文字を書いて(穴を空けて)版を作った。ガリガリと音がするから「ガリ版」。画数の多い漢字なんかを書いてると、すぐに原紙が破れて字がぐちゃぐちゃになった。
 同世代はみんなこんな経験があるはずだと思い、先週会った友人(3歳年下で東京出身)に聞いてみると、ほとんど記憶にないと言う。けっこう地域差があるのかもしれない。

 ガリ版=文集のイメージが強かったこともあり、文字にしろ絵柄にしろ、すべて1色刷りだと思い込んでいた。私がガリ版の奥深い世界を知ったのは、10年ほど前に神保町の古書会館で開かれた「本の街のガリ版展」でのことだ。展示されていたいくつかの作品は、何色もの色を刷り重ねて作られた、とても美しい芸術作品だった。
 そのとき、本書の著者、志村さんらが立ち上げたガリ版ネットーワークの方から話を伺ったのだが、志村さんは会場を出られた直後でお会いできなかった。
 ガリ版ネットワークのページ(http://www.showa-corp.jp/toshakan/garinet/garinet.html)を見ると、

ガリ版ネットワークの目的
1. ガリ版器材(謄写版、原紙、ローラー、ヤスリ、鉄筆、図書、ビデオ、その他)を、不要な人から収集、必要な人に手渡すこと。
2. 散逸、消滅しつつある史資料としてのガリ版器材、印刷物、孔版美術作品などの収集、保存をすること。
3. ガリ版関連情報の“核"としての活動。

とある。
 これらからもわかるように、ガリ版は今や絶滅しつつある印刷技術なのだ。

 本書は、そんなガリ版にまつわる歴史を30年以上追いつづけてきた著者が、これまでの調査の成果をまとめたものだ。
 大きく二つの章に分かれており、最初の「謄写器材の発展史」では、ロウ原紙、ヤスリ、鉄筆、ローラーといった器材の解説や発展の様子がまとめられている。
 つづく「ガリ版と共に」は、足尾鉱毒問題の田中正造をはじめ、宮沢賢治や武井武雄らとガリ版との関わり、また、第一次大戦時に日本の捕虜収容所にいたドイツ兵らの多色刷り新聞など、実際にガリ版を活用していた人々の足跡を追ったものだ。

 謄写版印刷の原型は1876年にトーマス・エジソンが発明したもので、それを参考にして堀井新治郎が1894年に鉄筆とヤスリを使うガリ版を開発した。しかしその6年前の1888年には、山内不二門という人物が毛筆を使う謄写版を考案していたようだ(p. 225〜「忘れられた〝もう一つ〟の謄写版」)。
 ガリ版が開発されてまもなく日清戦争(1894〜95年)が始まり、安価で持ち運びにも便利だと陸海軍から大量注文が入り、一気に波に乗った。
 もちろん学校でも、配布文書や学級通信、はては学生運動のビラなど、安価な簡易印刷器として一世を風靡した。教育現場から社会運動まで、それらを陰から支え続けたのがガリ版だっだのだ。
 しかし、ガリ版のピークは1970年ごろで、1970年代半ばから徐々に電子複写機(コピー機)に押されていった。そのため器材メーカーは、縮小する国内市場に見切りをつけ、東南アジア、中近東、中南米への輸出を伸ばしていったという。私の小学校時代は、ちょうど転換期に当たっていたようだ。

 もし今、コピー機やレーザ・プリンタがなかったら、会議資料一つつくるのも大変だろう。テスト前の学生なんかもっと大変かもしれない。コピー機やレーザ・プリンタができる前に、それらの役割を担っていたのがガリ版だった。
 実際、ガリ版印刷による最初のベストセラーは、東大の講義ノートだった。もちろん当時は、学生から借りたノートをコピーして一丁あがり、というわけにはいかない。おそらく出版元に雇われた筆耕者が、一文字一文字鉄筆でガリガリと書き写したものを印刷したのだろう。そんな筆耕者の一人に、宮沢賢治がいたのである。

 意外だったのはガリ版の耐刷力(一つの版で印刷できる枚数)だ。100枚程度かと思っていたが、名人の手にかかれば軽く数千枚は可能らしい。あのペラペラのロウ原紙で、いったいどうやれば数千枚も刷れるのだろう。
 また、鉄筆やヤスリにもたくさんの種類があり、描きたい字や絵柄に合せて使い分けられていたという。アートヤスリ、絵画ヤスリ、ゴシック体を書くためのゴシックヤスリ、宋朝体目などなど、色んな名称がでてくるが、字面だけではなかなか違いがわからない。「多色刷孔版画(十一色刷り)の「雪中美人」(昭和二七年制作の浮世絵工芸品)」のために考案されたヤスリもあったらしく、この「雪中美人」がどんな作品なのかも含めて見てみたいのだが、とにかく本書は図版が極端に少ない。そこだけが残念だった。
 とはいえ本書は、文献の調査、関係者からの聞き取りなど、よくもまあここまで調べ上げたものだ、と思うくらい、著者の記録に残そうという執念、そしてガリ版への愛情が感じられる本だった。

 最後に、本書で引かれているちょっといい話(国分一太郎『古い教科書』から)を紹介しよう。
 「舞台は東北の農村。当時、使い終わった教科書は、兄弟間で使いまわし、また、よその家の子に貸したり、金銭をもって譲り渡されたりした。(p. 188)」
 代々使い回されてきたお下がりの教科書には、名前を消したあとが何ヵ所も残っている。キミ子という名前入りの教科書を貰い受けた男の子は、友だちに「キミコちゃん」とからかわれ、くやしがった。
 そこで、みんなでオリジナルの教科書カバーを作ることになった。子供たちは大騒ぎをしながら本の寸法をはかり、タイトル文字や絵を描き、氏名欄をつくると、それをガリ版で刷って教科書にかけ、自分の名前を書き込んだ……。
 誇らしげに名前を書き込んでいる子供たちが、目に浮かぶようだ。
 今なら、それぞれが自分の思うままに文字やイラストを描き、それをそのままカバーにするかもしれない。いや、それは当時でも可能だったろう。紙が貴重だった時代、描き直しはできなかったかも知れないが。
 でもきっと、「印刷物」だからこそ、喜びも格別になる。
 自分のヘタクソな絵がカバーになっても、うれしくもなんともない(と私は思う)。みんなで知恵を絞ってカバーのデザインを考え、クラスで一番字のうまい子が題字を、絵のうまい子がイラストを描き、ガリ版で印刷する。代々受け継がれてきた公式の教科書は、やはり「印刷物」のカバーが似つかわしい。子供たちもきっと、そう思っていたに違いない。


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