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2012年04月17日

『装丁山昧』小泉 弘(山と溪谷社)

装丁山昧 →bookwebで購入

「本の品格は表紙にある」

 私の大好きなブックデザイナー、小泉弘さんの本が山と溪谷社から出版された。
 題して『装丁山昧』(そうていざんまい)。
 本と同じくらい山を愛する「紙のアルピニスト」小泉弘さんが、これまで装丁してきたたくさんの本の中から、とくに「山の本」に焦点を当ててまとめたものだ。

 ページをめくるたびに、ため息が出るような美しい本が登場する。どれも小泉さんらしい、清楚で、品のある装丁の数々。そして、それらの本について語られた文章が、またいい。たんに外周を飾る装丁ではなく、内容を深く理解した上で本を装おうとしている小泉さんの態度に、心が揺さぶられた。

 たとえば『立山のふもとから』(船尾美津子、山と溪谷社)について書かれた文章。

 毎日新聞の富山版に連載しているエッセイを本にしたいというお話だった。
 一読して文章の上手な方だなと思い、そして行間に漂う空気に、ああ、東京の人だなと思った。(p. 40)

 東京出身の小泉さんだからこそ感じられた、東京の匂いだったのかも知れない。でも、これを感じられるか、感じられないかで、装丁の仕上がりはまったく違うものになってしまうだろう。

 連載を読ませてもらい、本文の設計から始って、印象を素直にブックデザインした。
 後日、本が出来上がって、出版社から届いた包みをほどいた著者は、派手な山のカラー写真で装丁されていたら嫌だなと思っていたところへ、宣伝帯も巻いていない装丁を一目見て、涙が止まらなかったと教えてくれた。(p. 41)

 こんな印象的なエピソードが、自らが形を与えてきた一冊一冊について語られていく。
 「ラブレターを書くつもりで装丁をしてきた」という小泉さんの文章を読んでいて、著者と編集者と装丁家の幸福な関係に、嫉妬すら覚えてしまうくらいだ。

 小泉弘さんは、私にとってはとっておきの装丁家だ。仕事よりも個人的な付き合いの方が多く、もっぱら私は小泉装丁本を買う側の人間だ。ざっと自宅の本棚を眺めてみても、『月光に書を読む』(鶴ヶ谷真一、平凡社)、『魂の城 カフカ解読』(残雪、平凡社)、『書林の眺望 伝統中国の書物世界』(井上進、平凡社)、そして本書にも収録されている『宮沢賢治と西域幻想』(金子民雄、白水社)等々。
 これまで私が編集して小泉さんに装丁していただいた本は2冊。うち1冊は小泉さんの自著だから、実質仕事としてお願いしたのはたった1冊だ。その時は、企画から丸三年かけて編集した大切な本をお願いした。大切な本だから、小泉さんにお願いした。普段は内食で、何年かに一度、家族で食べに行く三ツ星レストラン。私にとって小泉さんの装丁は、そんな存在だ。だから烏有書林でも、いつの日か小泉さんにお願いできる本を作りたいと思っている。

 本書を読んでいて、やっぱり私と同じだ、と感じた記述がたくさんあった。

 しかし、たったワンカットだけ、空気感の違った写真があった。この一枚を見つけたとき、自分のなかでこの本のデザインはほぼ出来上がっていた。(p. 43)

 こんな経験が、編集者である私にもある。
 いい原稿に出会ったとき、それを読み終わったときにはもう、頭の中で製本まで終わっていることがある。本文の構成から使用書体、組版、用紙、造本、それらすべてがありありと目に浮かんで、あとはその頭の中にある完成形を目指してひたすら進んでいくだけ。こんなラクチンなことはない。
 その原稿に与えるべきベストな形はどれか。このイメージを共有できるかどうか。多分に相性もあるとは思うが、これが共有できていると、すべてがスムーズに進み、中身も外見も、間違いなくいい本になる。

 本書に収録されている本の多くは、山と溪谷社、茗溪堂、白水社、平凡社といった渋い出版社の上製本(ハードカバー)だ。どれも凛とした佇まいの装丁で、まったくブレがない。やっぱり上製本はこうでなくっちゃ、という私好みのものばかりだ。そして、いかにも小泉さんらしいのが、ジャケットだけではなく、表紙の写真もたくさん掲載されていることだ。
 
 これは小泉さんも書いているが、書店でジャケットのデザインに興味を持って本を手に取り、期待しながらそれをめくってガッカリ、ということが本当に多い。ジャケットで頑張りすぎて表紙で力尽きてしまったようなものばかりで、表紙を見てハッと息を飲むような美しい装丁とはめったに出会えない。
 なんか、逆のような気がするのだ。
 理解しやすく、読みやすいように整理された文章(あえて整理しないこともあるが)や図版を綺麗に印刷した本文があり、それに相応しい表紙がデザインされている。私にとってはここまでが本で、ジャケットと帯は包装紙とチラシ代わりという感覚だから、少々ジャケットが派手でどぎつくても気にしないのだが、まるで表紙がジャケットのオマケのように見える本のなんと多いことか。ふつうは扉や表紙をビシッと決めてからジャケットに取り掛かるものだと思うのだが、逆の順番で作っているとしか思えないものがけっこうある。とくにソフトカバーの単行本にその傾向が強い。
 小泉さんは「ポスターを巻いたような本ばかり」という一文のなかで、

 私は常々、本の品格はジャケットではなく、表紙にあると考えている。(p. 140)

と書いている。まったく同感だ。こんな考えが伝わってくるから、私は小泉さんの装丁が好きなんだろう。
 本書の中には、これぞハードカバーという装丁がずらりと並んでいて、どれも素晴らしいのだが、でも、あえていま見てもらいたいのは、31ページの『山こそ我が世界』(ガストン・レビュファ、山と溪谷社)のようなソフトカバーの装丁だ。ソフトカバーでこの佇まい。本物の装丁家の仕事だと思う。


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2012年04月03日

『紙と印刷の文化録 — 記憶と書物を担うもの』尾鍋 史彦(印刷学会出版部)

紙と印刷の文化録 — 記憶と書物を担うもの →bookwebで購入

「紙と人間の親和性は永遠か?」

 待ちに待っていた本が刊行された。『印刷雑誌』連載中から、本になるのをずっと待っていたものだ。紙と印刷について、文化、歴史、科学技術面からの考察をはじめ、9.11やWikiLeaks問題といった政治経済まで、じつに幅広い話題が採り上げられ、毎回読むのが楽しみな連載だった。

 本書は、前日本印刷学会会長であり東京大学名誉教授(製紙科学)である “紙の専門家” 尾鍋史彦氏が、月刊『印刷雑誌』に1999年から2011年末まで13年間にわたって連載した「わたしの印刷手帳」156編のうち、70編を抜粋し分野別にまとめたものだ。
 章立ては「第1章 印刷物の影響力」「第2章 情報と紙の関係」「第3章 産業としての印刷と紙」となっており、各章の終わりには書き下ろしで総括的な文章が掲載されている。

 著者が製紙科学の専門家だから、ひたすら紙を礼賛した内容だと思われるかもしれないが、それは違う。尾鍋氏はシャープのPDAザウルス(懐かしい!)の初代機からのユーザーであり、1999〜2000年に行われた電子書籍コンソーシアムによるブックオンデマンド実証実験に電子書籍リーダーのモニターとしていち早く参加するなど、情報を伝達するメディア全般に広く興味を持った好奇心旺盛な人物である。
 そんな尾鍋氏が、認知科学、メディオロジー、文化遺伝子理論などを援用しつつ、研究者ならではの冷静で論理的な語り口で紙と印刷を論じていくのだから、面白くないわけがない。
 たとえば、ブックオンデマンド実証実験にモニターとして参加したときには、ディスプレイでの読書が記憶に残りにくいという実体験を、情報処理、認知科学の視点から考察している。

人間が視覚を通して本を読む場合、脳内で生得および習得の情報の影響を受けながら知覚・認識という高次処理を経て内容を理解する。視覚に入った刺激情報は感覚登録器・短期記憶貯蔵庫・長期記憶貯蔵庫から成るモデル(二重貯蔵モデル)の内の長期記憶貯蔵庫に順番に格納されていかなければ一連のストーリーは理解できない。すなわち文章の理解には刺激が長期貯蔵庫へ格納される形でなければならない。また文字からなる言語情報と画像からなる非言語情報では脳内での情報処理形態が異なり(二重コード理論)、言語情報ほどコンテンツを支えるメディアのメッセージ特性は重要となる。」(p. 115)

 そして、読後に内容があまり記憶として残らない原因として、2000年当時の電子書籍リーダーにおける紙の本との違和感、液晶ディスプレイの視覚への刺激が長期記憶貯蔵庫に格納できるレベルまで進化していないことを挙げ、「標示装置は画面が読めても認知構造の中で記憶に貯蔵され、知覚・認識されなければ役割をなさない」としている。

 本書の中で、尾鍋氏が最も重要なこととしてたびたび挙げているのが、「人間の感覚との親和性、調和性」である。
 心地よく、快適に読書をするためには、なにが最も適しているのか。現状ではやはり紙だろう。
 しかし、先にも書いたように尾鍋氏は、「だから、やっぱり紙が一番」と単純には考えていない。

例えば生まれたときからゲーム機で液晶画面に接して成長してきた世代は、液晶画面に中高年層が感じる違和感を感じる割合が少なく、紙メディアと同じ、または近い形で使うようになる可能性がある。(中略)
 電子書籍が普及するかどうかは紙メディアと比較した場合の経済性が一つの要素だが、一番重要なのはメディアとしての人間との親和性である。言い換えると液晶ディスプレイとの違和感が生得のものか否かが重要なポイントとなる。(p. 111)

 「液晶ディスプレイへの違和感」が生得のものなのか、それとも経験からくるものなのか、正直なところ、私にはわからない。道を歩いている最中もひたすらゲームをしつづけているような子供たちにとっては、紙でもディスプレイでも同じように、書かれた内容が、長期記憶として貯蔵されるのかもしれない。
 この「違和感」が後天的な経験からくるものなら、「違和感」を感じない世代は増える一方だろうし、ディスプレイそのものも、より紙に近い形を目指して進化を続けている。
 それを踏まえた上で尾鍋氏は、電子ペーパー、ペーパーライク・ディスプレイなど、ディスプレイの紙への接近が加速する中で、はたして紙はこのままでいいのか、と問う。

果たして紙は地合(=均質性や平滑性など。引用者注)が良く、白色度が高いほど読書しやすいのか、それとも若干ランダムな文様が存在し、白色度が低い方が読書のストレスが少なく、疲れが少ないのではないかなどの問題を今一度考え直してみる必要がある。(p. 129)

 そして、地合の良さを追及してきた製紙技術の進歩は、必ずしも人間の感覚との親和性を増大させてきたとは限らず、むしろ逆だったのではないかとし、和紙の再評価にも触れている。
 白色度に関しては一部政治的な側面があってややこしいのだが、以前から本づくりの現場では、墨一色の文字ものには目に優しく疲れにくいとされるクリーム色の紙を、カラー写真集などには白色度が高く表面が平滑な塗工紙を使うことが多かった。
 しかしここ数年、普通の上質紙にカラーで写真を印刷している本が増えてきているように感じる。私は単純に癒し系ブームの影響だろうなどと考えていたのだが、もしかすると、電子ペーパーなどのディスプレイが塗工紙に近づく形で進化していることへの危機感、違和感が、どこかで働いているのかもしれない。
 一方で、紙がディスプレイに近づく形として、リライタブル・ペーパーのような例もある。何度でも書き換え可能な紙のことだ。

 一時的に頭に入ればいいものについては、電子ペーパーや電子書籍リーダーの利便性が「違和感」よりも優先され、紙の代替物となり得るだろう。すでに広報・広告物なんかはほとんどWeb媒体でこと足りているし、電子辞書なんか一度使いはじめたらもう手放せない。

 ディスプレイに映し出される、短期記憶に最適化された情報の氾濫の中で、従来の紙媒体が支えてきた長期記憶向けのコンテンツはどうなっていくのか。ディスプレイの進化と人間の順応性により、電子データからの長期記憶が可能になるなら、電子書籍は完全に紙書籍に取って代わることができるかもしれない。
 人間と紙の親和性をディスプレイが超えることはない、と言い切りたいのはやまやまなのだが、私が一番恐れているのは、結局「違和感」がぬぐい去れず、長期記憶向けのコンテンツがこの世界から消え去っていくことだ。数十年後、書物といえば電子書籍で、紙の書物が〈ウンチクの張り付いた骨董品〉扱いになっていないとも限らない。
 一方で、「電子書籍は無限の複製の可能性をもつために一冊ごとの価値は限りなくゼロに近づくと言える。(中略)電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。」(p. 38)という指摘なんかを読むと、はたして書籍の電子化が商売として成り立っていくのかと不安にもなる。

 しばらくの間は、紙の書籍で利益を確保しつつ、電子書籍で利益を出す方法を探っていくしかないのだろう。そのうちに、電子向き、紙向きという棲み分けが、もっとはっきり見えてくるかもしれない。
 いま書物はどこに向かっているのか、どう進むべきなのか。本書はそれを考える上で、とても興味深い手掛かりを与えてくれる一冊だ。


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