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2012年01月12日

『『印刷雑誌』とその時代―実況・印刷の近現代史』中原雄太郎ほか(印刷学会出版部)

『印刷雑誌』とその時代—実況・印刷の近現代史 →bookwebで購入

「ニセ札の作り方、教えます」

 最近必要に迫られて古本ばかり読んでいるから、新本はほとんど読めていない。なので、むかし私が編集した、今でも新本で買える本について書いてみる。

 『印刷雑誌』という名前の雑誌がある。「デジタル雑誌」に対する「印刷雑誌」という意味ではなく、“印刷の技術・科学情報の紹介”を目的とした月刊雑誌だ。
 日本初の印刷専門誌として生まれた初代『印刷雑誌』の創刊は1891年。その後、誌名変更などを経て1918年に再創刊された2代目『印刷雑誌』は現在も印刷学会出版部から発行されている。
 本書、『『印刷雑誌』とその時代 — 実況・印刷の近現代史』(以下、『その時代』と略)は、第1部が監修者によるジャンル毎(「印刷と社会」「印刷技術」など)の解説、第2部が『印刷雑誌』掲載記事のベストセレクションになっていて、「当時の印刷人が同時代を記した臨場感溢れる掲載記事を年代順に掲載。117年分の印刷人の想いが詰まった本書を通読することで、日本の急速な近代化を追体験できる」というものだ。(ちなみに巻頭カラーページは 『池田学画集1』で紹介したFMスクリーン印刷。)

 ちょうどこの本を作っていたとき、ある印刷会社の人から、「10年以上『印刷雑誌』を読み続けているけど、あれが一番面白かったよ」と言われた記事があった。大島康弘氏執筆による「印刷技術の最高峰、偽札を作れ」(2006年11、12月号)という手記だ。もちろん『その時代』にも収録した(pp. 774-783)。

 普通なら、実際に偽札を作った人が雑誌に手記を書くことはないだろう(だってヘタすると逮捕されますから)。大島氏が例外なのは、ほとんど国策として偽札づくりにたずさわっていたことだ。
 第二次大戦中、日本陸軍の中国経済謀略作戦の一環で、中国紙幣の偽札を大量に作ってばらまいたのだが、その中心になったのが陸軍科学研究所登戸出張所だった。東京府立工芸学校を卒業したばかりの大島氏は、いきなりこの登戸出張所に配属される。いま明治大学生田キャンパスがあるところだ。

 極秘のうちに進められた中国通貨「法幣」偽造工作の本拠地、ニセ札製造工場に私は投げ込まれたかっこうである。これがはっきり分かるまでに約三ヵ月もかかった。自分の部屋以外絶対に入れない。隣は何をしているのかも分からない。絶対極秘であると上官はことあるごとに注意した。(p. 775)

 それから大島氏は、試行錯誤を重ね、技術指導にあたった内閣印刷局が「この技術だけは教えられない」といった黒漉き(すかし)の技術などを独自に研究し、偽札を完成させる。
 手記ではこのあたりの経緯がくわしく書かれているのだが、ただ綺麗に巧く刷るだけではダメだったようで、オリジナルの印刷品質が悪いために「下手な印刷の偽物を作るのも苦労した」なんてことが書いてあったりする。
 この偽札がいかに本物そっくりだったかは、「重慶側も日本が偽造しているのは分かっていたが、真偽の判定ができず、放置するよりほかに方法がなかったようである」という記述や、それを作った大島氏本人すら、戦後に香港や台湾で集めた紙幣が本物か偽物か「今となっては分からない」と書いていることからもわかる。

 ただし、間違っても、『その時代』を読んで自分も精巧な偽札を作ってやろう、なんてことは考えない方がいい。
 じつはこの手記を掲載するさい、某所にお伺いを立てたのだが、現在も偽造防止に使われている技術についてはストップがかかり、一部の記述を割愛したので、これを読んだだけでは完璧な偽札は作れないのだ。
 また、大島氏いわく、「陸軍が登戸に注ぎ込んだ資金は今の金額にして何百億にもなるだろうし非常に高度の技術を結集してやっとできたもの」であるから、「偽札は割に合わない」ということだ。
 実際に偽札を作っていた張本人の言葉だから、これは間違いのない話だろう。
 それに経済の根幹に関わる通貨偽造は、金額の多寡にかかわらず「無期又は三年以上の懲役」という重罪だ。くれぐれも変なことは考えないように。

 もちろん、『その時代』にはニセ札づくり以外にも面白い記事がたくさん収録されている。
 かなり分厚い本なんだけど、知り合いのグラフィック・デザイナーが「どのページを読んでも面白い!」と言ってくれたくらい、印刷好きなら読み出したら止まらない記事がずらっと並んでいる。
 とくに、活版から平版オフセット印刷への移行期や、スキャナが登場した前後の記事なんかは、今読んでもスリリングだ。
 1962年の「ドルーパに見た写真製版・電子機材」(p. 566)なんて記事は、ドイツで開かれた drupa という世界最大規模の印刷機材展のレポートで、一見ひたすら出展機材を紹介していくだけの内容なんだけど、本書第1部にある平野武利氏の解説「カラー印刷の一世紀」を読んだあとだと、記事の印象がまったく違って見えてくる。フィルムによるアナログ製版と、スキャナによるデジタル製版の覇権争い、せめぎ合いの様子がはっきりと見て取れてゾクゾクする。
 いまの電子書籍なんか比べ物にならないくらい衝撃的な最初のデジタル革命が、印刷業界では1960年代にすでに始まっていたのだ。

 19世紀末から21世紀初頭まで、丸々一世紀分の印刷史が詰まった本。通読するもよし、拾い読みするもよし、存分にタイムスリップを楽しんでほしい一冊だ。


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