« 2011年05月 | メイン | 2011年10月 »

2011年06月17日

『平行植物(新装版)』レオ・レオーニ 著、宮本淳 訳(工作舎)

平行植物(新装版) →bookwebで購入

「活版本の楽しみ方」

 久々に「印刷買い」をした。このブログで最初に書いた『池田学画集1』以来だから、ほぼ半年ぶりだ。
 書店で平積みになっている『平行植物(新装版)』のジャケットを見たとき、タイトル文字がギザギザした輪郭だったので、まさかグラビア印刷?と思わず手が伸びた。実際は現在主流のオフセット印刷だったので「まあそりゃそうだろう」と少しがっかりしつつ中を開くと、本文がいまどき珍しい活版印刷。これも何かの縁だと買うことにした。

 最初に少しだけ本の内容を紹介すると、これは名作絵本『スイミー』で知られるレオ・レオーニが書いた「幻想の博物誌」。平行植物という現実には存在しない植物を、架空の研究者による発見談や研究発表を通して描き出していく、というものだ。だいたい触ると崩れるわ写真にも写らないわという物体をどうやって研究すんだ?って話だが、ウソっぱちの話を徹頭徹尾真面目に解説していく、というところがとても面白かった。ただ、途中でちょっと疲れてしまった。
 普通は誰しも、研究書やハウツーものは「お勉強モード」で読み、小説やエッセイなんかは「お楽しみモード」で読んでいると思う。この本の場合、内容はフィクションで「お楽しみモード」用なのに文体が「お勉強モード」なので、頭が勝手に「学ぼう」として読んでしまう。「この辺はホントの話かな……やっぱり作り話だよな」という感じで、学ぼう→無駄→学ぼう→無駄……これを繰り返しているうちに、徐々に疲労がたまってくるのだ。
 この奇想っぷりなら100ページぐらいがちょうどいい分量なのに、と思いながらも一応300ページ最後まで読んだ。よく似たコンセプトの作品で『平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,』(石黒達昌、福武書店)なんかは、内容も分量もちょうどよかったんだけど。
 でも、この『平行植物』がとても魅力的な本であることは確かだ。珍妙だけど、この世にない物を描き切ろうとする著者の熱意がヒシヒシと伝わってくる本だった。


 ところで今回は、内容はさておき活版本の話である。
 活版印刷された本は、今でも詩集や句集などでは時々見かけることがある。その本のために一から金属活字を組んで作った、純然たる新刊本だ。あと、グラビア印刷(グラビアページの語源になったもの)も、雑誌ではたまに見かける。先日散髪屋で読んだスポーツ雑誌『ナンバー』も中身はグラビア印刷だった。
 ただ、この『平行植物』のような、30年も前(初版は1980年)の紙型を使った活版本とは、めったに新刊書店では出会えない。
 (もし若い方で、活字や紙型、鉛版についてよく知らないという人がいたら、烏有ブログ「欧文活字 その1」を参照ください。写真付きで説明しています。)

 職業柄、本のページを開いてまず見るのが、版面(はんづら=文字が印刷してあるところ)の黒みだ。これは活版印刷であろうと平版オフセット印刷であろうと同じだ。インキの着き具合でページごとに黒みにばらつきがあったり、ひどい時には見開きの左右で黒みが極端に濃いのと薄いのとが並んでいたりしたら、「プロの印刷人の仕事がこれではいかんだろう」と憤ってしまう。それが自分が編集した本だったりした日には、「刷り直しては紙がもったいない。うちは地球に優しい出版社です!」なんて言い訳しながら見なかったことにする……

 活版本だと、この版面の黒み以外に、個々の文字の黒みチェックが加わる。活字の高さがきれいに揃っていればいいが、一つでも飛び出た活字があると、その文字だけ太く黒く印刷されてしまう。活字の高さをきっちり揃える作業のことを「ムラ取り」というのだが、きれいにムラ取りされ、必要最小限の圧力で丁寧に刷られた印刷物を見ると、もうたまらない。そういう丁寧な仕事がなされた印刷本は、たいてい最初のページをパッと開いただけで「あっ綺麗だ」と感じさせるから不思議なんだよなあ。で、『平行植物(新装版)』の印刷は……まあまあかな。何十年も置きっぱなしだった紙型だろうから、贅沢はいいません。決して悪くはないし、十分楽しめます。

 次に、実際に本文を読み始めてから見るのが、組版(文字の並べ方)だ。
 『平行植物(新装版)』では、目次内のページ数の誤植や活字の転倒(p. 146)、読点の位置のずれ(p. 292)などの誤植が、30年の時を越えてそのまま印刷されているのを見て、「活版っぽいから」と故意に残された可能性はあるにしても、当時の編集担当者の気持ちを想像して「きっと直してもらいたかっただろうなあ」と同情してしまった。以前私も目次内のページ数で誤植を出して、あまりの情けなさに死にたくなったことがある(一瞬だが)。そういえば、箔押しの背文字で綴りを間違えた猛者もいたなあ。元気だろうか。
 まあこれは極端な例として、淡々と文字が並んでいる部分でも、よく見ると色んな違いが見えてくる。金属の活字を一つ一つ並べていく場合、パソコンのワープロソフトのように字間を一行にわたって一律に詰めたり空けたりするのが難しいので、どっかに偏って無理が出てくるからだ。
 たとえば本書のp. 20、

 この4行目のように、読点( 、)の後に起こしのカギ括弧(「 )なんかがきたとき、どうしても二分(にぶん=半角)のハンパが出てしまう。二分ものの「読点」「スペース(字間を空けるための薄い金属板)」「カギ括弧」が並ぶと全部で全角半になるので、要は隣の行と文字が半角分ずれてしまうのだ。この二分のハンパの処理なんかに、組版職人さんの個性が出てくる。
 よく見かけるのは、上の写真のように行末の字間3ヵ所に六分(全角の1/6)のスペースを入れたり4ヵ所に八分のスペースを入れて行末を揃えているものだが、たまにスペースに気づかないぐらい細かく調整されていて、「丁寧な仕事だなあ」と感心することがある。
 逆に二分のスペースを省いて句読点と次の字がくっついていたりすると、「なんて乱暴な!」なんて憤ってしまうことも(これは現在のコンピュータ組版でもよく見かける。空けるも詰めるも自由自在のDTP時代に……信じられん)。句読点は文章にアクセントを付けてリズムを作りだす重要な記号なんだから、できればその後ろはちゃんと空けておいてほしいのだ。
 こんな調整の仕方というか、組版の流儀が本の途中でガラッと変わったりすると、「ここから違う職人さんが組んだのかな?」なんてことを想像し、また、同じページの中に違う組み方が混じっていると、「二日酔いでここは手を抜いたのか?」とか「著者の赤字が入ったがための苦肉の策か?」などと勝手に想像して組版職人さんに同情したり。
 活版本はこんなことを顕著に感じさせてくれるので、いま普通に並んでいる本とは違った楽しみ方ができるのだ。


 活版本のこんな楽しみ方を私に教えてくれたのは、欧文活版印刷の第一人者・嘉瑞工房の高岡昌生さんだ。
 高岡昌生さんは、印刷された紙面を見るだけで、原版の字間や行間に挟まれたスペースやインテルが、そしてそれらを組み付けている職人さんの手つきまでが思い浮かぶそうだ。だから、「私は印刷物を通して、200年、300年前の組版者と会話ができるのです」(『欧文組版 組版の基礎とマナー』高岡昌生、美術出版社。p. 170より)という。

 私なんかとてもそんな境地には至れないが、自分の好みの印刷、組版の本なんかに出会うととてもうれしくなる。
 たとえば、これは別の本だけど、

 この5行目、こんなのに出会うと、「ああ、これこれ」と思わずにんまりしてしまう。個人的に仮名や漢字の字間はベタ組み(スペースを入れずに活字をぴったりくっつけて組む)が好きなので、このように仮名と漢字はあくまでベタで、ハンパをカギ括弧の前後や読点の後ろのスペースを少しずつ空けるか少しずつ詰めて(ただし最低四分は空けたい)調整してあるのが私の好みだ。
 これは『和紙の旅 ─ 時と場所の道』(寿岳文章、芸艸堂)という本なんだけど、版面の黒みも、こんな細かな処理も、ホレボレするような仕上がりで、即「印刷買い」したものの一つだ。
 実は先日、たまたま『和紙の旅』を印刷した猪瀬印刷の猪瀬泰一社長と話す機会があった。この本のような細かな調整方法は、出版元の編集者からのリクエストによることも多いそうだ。また、このように大部数を見込めない本は、初版はまず原版で刷り、その原版から紙型を作って増刷に備えたのだという。そのとき猪瀬印刷で見せていただいた初刷りの数々、『障壁画巡歴』(水尾比呂志、芸艸堂)なんかはもう、「辛抱たまらん」というぐらい美しかった。

 もし本当に美しい活版の原版刷りが見たい方は、一度古書店でこれらの本をご覧ください。感動します。
 それが面倒なら、ちょっと宣伝になっちゃいますが、ぜひ新刊書店(とくに紀伊國屋書店!)で新装版『欧文活字』(高岡重蔵、烏有書林)を手に取って巻頭付録をご覧ください。高岡昌生さんが丁寧に丁寧に原版で印刷した作品が見られます。そして巻末付録の高岡重蔵さん(昌生さんの父上)の作品もご覧あれ。きっともう、この本を手放せなくなります。


→bookwebで購入

2011年06月01日

『うつろ舟 ─ブラジル日本人作家・松井太郎小説選』松井太郎(松籟社)

うつろ舟 ─ブラジル日本人作家・松井太郎小説選 →bookwebで購入

「どこか投げやりで、潔い人々」

 不思議な小説集だった。
 日系ブラジル移民の作品集。一人の移民の苦労を描いた自伝的な作品だろう、なんてことを予想しながら読み始めたのだが、実際にはまったく違った。本書には表題作である中編小説「うつろ舟」と4つの短編作品が収められているが、すべて登場人物や舞台背景が違う。なかには日系人が登場しない作品もあり、あくまで小説、フィクションとして書かれたものであることがわかる。悲劇がそのまま悲劇となっていく出来過ぎのようなストーリーもあるが、描写には説得力があるし、移民文学云々抜きで十分楽しめる作品集だ。

 松井太郎氏はブラジル在住の日本人作家で、19歳だった1936年に家族とともにブラジルに渡り、農業に従事したあと、還暦・隠居を機に執筆を開始、90歳をこえた今も創作活動を続けているという。
 作品を読んで感じるのは、外国文学の翻訳とは違い、明らかに日本語を母語とする者の文章だということ。しかも日本人旅行者の手記とも違う、その地で生活する者の言葉だということだ。描かれる内容、スケールは日本離れしているが、ごく自然に日本の故事などが挟まれ、今の日本の若者でも知らないような奥床しい日本語が登場する。日本人が日本語で会話をしながら、大河をバックにズズズとすするのはコーヒー、みたいな感じかな(実際に話しているのはポルトガル語らしいが)。
 対岸まで数百メートルという大河が流れ、周辺には湿地が広がり、雨期には大洪水が、乾期には数ヵ月も日照りが続く土地。「うつろ舟」の冒頭を引いてみる。

 二日続いて尾鋏鳥の群れが南方に渡っていった。鳥たちの旅立ったどこか遠い地では、天候が変わりはじめているのかもしれない。部屋の土壁に貼ってある絵暦では、すでに冬の乾期は終わって、春を告げるさきがけの雨が来る季節であった。
 州境をなすP河の一支流を、奥深く遡行した果ての辺境では、九十日このかた地表を潤すほどの降雨は一度もなく、水気を含んだ湿原の泥土も罅割れはじめ、日を追うにつれて、喝に喘ぐ獣の口のように亀裂を広げていった。(p. 9)

 主人公は日系人のツグシ・ジンザイ(神西継志)、通称マリオ。
 マリオはちょっとした諍いがもとで妻の一族に家、土地、財産一切を奪われて追い出される。山間の農場に辿り着きその一画を借りて豚飼いをしていたが、農場全体の管理を手伝ってほしいとの誘いを人と関わるのがいやだと断り、山火事をきっかけにそこを逃げ出す。途中、偶然道連れとなった子連れの女と再婚するもすぐに死別、ピンタード(鯰)釣りの漁師になり、やがて養子には裏切られ……というような、日系移民社会から弾き出されたマリオの、河の上を果てもなく流されていくような人生を描いた作品だ。
 マリオをはじめ登場する人物すべてに共通しているのは、投げやりな、諦めにも似た潔さだ。
 たとえば、カヌーで子連れの女と農場を逃げ出したときのこと。マリオは女に巾着袋のなかの装飾品の鑑定を依頼される。それは女の全財産だったが、

「ぜんぶ偽物だな、売れる品物は一つもない」
「えっ」
「かぶせ物で一文にもならないぜ」
 酷であったが、おれはそう言うより仕方はなかった。
「そう──」
 女の落胆ぶりは、風船の凋むのを見るようであった。必死に耐えているようであったが、顔色は蒼くなり、目は吊り上がった。
 女はおれの返した品を、ひとまとめにすると巾着に押し込んだ。その紛い物を彼女がどう処置するかについて、おれは好奇心を湧かしていた。すると巾着はあっさりポイと舟の外に投げられた。
「あっ──」
 おれの方が不意をつかれて軽い叫び声を上げた。波というほどのうねりもない水面に、ポトンと音がして飛沫が上がった。広がる波紋は舟べりを打ったが、すぐに流れのうちに消えてしまった。
「あっ、はっはー」
 女はさもおかしそうに白い歯並みを見せて笑った。
「ねえ、マリオ、万作の糞爺が本物よこすはずはないのに、なぜ今まで気がつかなかったんだろうね。これであんたにお礼もできなくなった」(p. 72)

 この潔さは、他の作品にも共通している。
 「堂守ひとり語り」という伝聞の形をとった短編は、ある男が母親に焚き付けられ、かつての恋敵である隣家の男を殺し、その娘をさらいにいく、という話だ。いよいよ娘を手に入れようと隣家に押し入った男は、娘がすでに縊れているのを見つける。その後何一つ仕事が手につかなくなった男に母親はこう言う。

──読みが狂ったで仕方がねえわさ。お前は極悪のことをしてでも、果たそうとした夢があったじゃないか。おっ母あはなあ、自分のできなかったことを、お前に叶えさせてやりたかっただけよ。諦めるだよ、お前は見てはならぬものまで見てしまったでな。好きなようにするが良い、ただ言っておくがな、虫の良い後生は願わんこったぞ──(p. 284)

 さんざん「極悪のこと」を焚き付けておいて「虫の良い後生は願うな」もなにもないのだが、妙な潔さを感じてしまう。すべて忘れて親子でやり直そう、とか、もう一度頑張ろう、ではなく、諦めがいいというか欲がないというか、なんだろう、この感覚。厳しい風土の中で生き抜くための知恵だろうか。
 とにかく、死が身近にごろごろ転がっているような土地で、あっけなく人が死んでいく。「うつろ舟」から象徴的な部分を引いてみよう。ピンタード釣りの師匠が、その土地の風土をマリオに語る場面だ。

おれたちの仲間で床の上で死ねれば極楽じゃ。たいていの者は旅で死んだ。その場で埋められて木の十字架は立っても、あとは雨や風に曝されるばかり、そして誰からも忘れられるんじゃ。牛の暴走に巻き込まれて、土と血でこねた肉団子のようになったアリンド、牡牛の角にかけられ三メートルも放り上げられ、腸を垂れ流して死んだジョゼ、酒の上で口論し決闘して二人とも死んだ奴らもいる。破傷風でひきつりもがいても手当ての法もない、無法者ぞろいが肩ひじをはり、思いのままのことをしておったが、みんな消えていきよったわい(p. 105)

 農場の管理者に、という申し出を断り、また、わざわざ海を越え日本からピンタード漁を取材にきた者を、日本語が通じない振りをして追い返す。そんな、他人との関わりを避け、良い誘いも悪い誘いも断り続けるマリオの姿は、無法者ぞろいの周りとは違い、一本筋が通っているようにも見える。
 しかし、やけになって無法に走る者も、かたくなに「筋を通す」マリオも、この風土の中では紙一重の違いに見える。どちらも投げやりで、潔い。

 日本からブラジルへの本格的な移民は1908年に始まり、現在日系人は140万人にのぼるそうだ。農業をはじめ政治や経済界などでの成功者も少なくないという。第二次大戦やその後の移民社会の動揺も大過なく切り抜けたという松井氏も、そんな成功者の一人だと思われる。しかし松井氏が描くのは、その陰で消えていった人々の姿だ。
 かつては日本語による文芸も盛んだったようだが、世代が進み今では日本語を読めない日系人も多いそうだ。そんな中、日本語で書き継がれてきた松井氏の作品が日本で刊行され、私たちはそれを翻訳ではなく原文のまま楽しむことができる。これってとても幸せなことじゃないだろうか。


→bookwebで購入