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2011年03月10日

『スローカーブを、もう一球』山際 淳司(角川グループパブリッシング)

スローカーブを、もう一球 →bookwebで購入

「静かな、スポーツ・ノンフィクション」

 先日、箕島高校野球部の元監督、尾藤公氏が亡くなった。おそらく、私のようなアラフォー世代以上の和歌山県出身者にとって、「箕島」という言葉は、ただの校名以上の意味を持っている。それは思い出を喚起する、スイッチのようなものだ。
 1979年の甲子園、箕島に絶体絶命のピンチが訪れるたびに、私は子供心に挽回を祈ったものだ。そしてその祈りは “ことごとく” 叶えられ、箕島高校は春夏連覇を果たした。どんなピンチでも祈ればなんとかなるんじゃないか、なんて甘い考えが私の頭に刷り込まれたのは、あの夏の箕島のせいかもしれない。なんてね。
 甲子園で繰り広げられた数ある名勝負の中でも、「神様が創った試合」「最高試合」と呼ばれているのが、1979年夏の箕島×星稜戦だ。延長戦、ナイター、目を疑うような名手のエラー、隠し球、落球、2アウトランナーなしから起死回生の同点ホームラン×2。あの試合をリアルタイムで見られた私は幸せ者だ。そして、見られなかった人は、不幸だと思う。

 山際淳司氏の短編集『スローカーブを、もう一球』の冒頭を飾るのが、その箕島×星稜戦を描いた「八月のカクテル光線」だ。

 たったの「一球」が人生を変えてしまうことなんてありうるのだろうか。「一瞬」といいかえてもいい。
 それは真夏の出来事だった。
 夏でなければ起きなかったかもしれない。夏は時々、何かを狂わせてみたりするのだから。
 八月一六日。晴れ。気温は30度をこえるはずだとウェザー・キャスターはいっていた。

 なんてキザな文章だろう。でも「気象予報士」なんて言葉は当時まだなかったし、「お天気キャスター」じゃあサマにならないもんなあ。
 これが山際氏の文体だ。少しハードボイルドで、片岡義男氏や村上春樹氏を思わせる、クールで、泥臭くないスポーツ・ノンフィクション。印象的な場面を、けっして感動的に歌い上げることなく、スッと場面転換してしまう。だからといって、消化不良でやきもきすることもない。作品が、綿密な取材に基づいて書かれていることがわかるからだ。

 この、30ページほどの短編作品の登場人物で、山際氏が取材したとわかる人物は11人。主人公である星稜高校の二人、落球で悲劇のヒーローとなった加藤一塁手と18回裏に力尽きた堅田投手、その他、箕島の石井投手をはじめ両校の監督、ホームランや隠し球、タイムリーエラーの当事者、そして主審からも印象的なコメントを得ている。おそらくもっと多くの人々から話を聞いていたのではないか。
 作品を読みながら、「ここで監督はどう考えたんだろう」「あのエラーは辛かったろうな」なんて思うと、必ずその本人のコメントが挿入される。痒いところに手がとどく、とでも言おうか、こちらが知りたいことを、ピタッ、ピタッと押さえてくる。著者の思う壷にはまっているようで悔しいのだが、同時にそれが心地よかったりするのだ。

 もう一つ、山際氏の作品で特徴的なことは、時間がリニアには進まないという点だ。短いエピソードを積み重ねながら、時間が行きつ戻りつする展開は、慣れるまで少し戸惑うかもしれない。それが最も顕著に出ているのが、表題作の「スローカーブを、もう一球」だ。
 猛練習とは無縁、野球に関してはまったく無名の高崎高校が、エース川端投手の、打者をおちょくるような超スローカーブを武器に関東大会を勝ち上がる。創部以来の快挙。すぐに負けると思っていた監督は急いで旅館の宿泊を延長し、学校は宿泊費の捻出に走る。学校も、監督も、選手自身も、予想もしていなかった展開だ。
 そして迎えた決勝戦。川端投手は、対戦相手の3番打者、プロ野球のスカウトも注目する月山選手に、めずらしく対抗心を燃やす。

 川端は曲がりくねった道を歩いていきそうな自分を、感じることがある。夢がそのままの形で実現するようなことはないだろう。ヒーローになんて、なれるわけないんだと思う。人生、劇画のように動きやしない。
 川端は月山を見た。無性に抑えたくなった。

 そこから山際氏は、川端投手と月山選手との全4打席を順に描いていく。そして最終打席。

 キャッチャーの宮下はサインを送った。
 この直後、川端は月山を三振にうちとり、そこで力が抜けてしまったかのように4安打を浴び、県大会以来初めて敗戦投手になった。スコアは2—5であった。
 その結果が出てしまう前の、月山の第四打席三球目のシーンで、川端俊介の話を終わらせてみたい気がする。
 キャッチャーの宮下がサインを送ったわけだった。川端はその指先を見た。
 その指の形はこういっている──

 そして、川端投手が投球モーションに入ったところで、この作品は終わる。数行前であっさりと試合結果を告げておき、あえて時間を数分巻き戻す。まるでクライマックスの盛り上がりを拒否するような、静かなラストだ。

 この作品集には、広島カープ日本一の瞬間を描いた名作「江夏の21球」、モスクワ・オリンピックに出られなかったボート選手を描く「たった一人のオリンピック」、他にも、棒高跳びやスカッシュ、ボクシングの選手を描いたものなど、8つの短編が収録されている。そこには勝者もいれば、敗者もいる。
 暑苦しいスポ根ものではなく、もっとクールで淡々としたスポーツ物語を読みたい方には、ぴったりの短編集だ。


追記
 正統派の書評は他の方に任せて、私は編集・製作目線で本を紹介して行こうと考えていたのですが、ふたつ目にしてこんなことに。尾藤監督の訃報をきいて、抑えきれなくなりました。スイッチが入ってしまったんですね。照れ隠しにちょっとハードボイルド調で書いてみました。


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2011年03月07日

『池田学画集1』池田 学(羽鳥書店)

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 「ジャケ買い」や「装丁買い」といった言葉がある。作者や作品の内容ではなく、見た目のデザインに惹かれて思わずCDや本を買ってしまう、というものだ。それらとよく似たもので私がついついやってしまうのが、本の「印刷買い」である。今回紹介する『池田学画集1』もそんな本の一つだ。

 『池田学画集1』(羽鳥書店、2010年)は、画家・池田学氏初の作品集である。
 池田学氏の画の特徴であり最大の魅力でもあるのが、その描写の細密さだ。細部まで丹念にペンで描き込まれた細密画は、圧倒的な迫力で見る者に迫ってくる。
 本書のあとがきには、

筆を使えばひと塗りで済むような面積も、ペンとなるとそうはいかない。
わずか5センチ四方の面積でも、
細かいタッチで埋めていくにはゆうに1時間はかかる。
だがそこが僕の生命線でもある。

とある。

 本書の扉ページをめくるとまず目に飛び込んでくるのが、山水画を思わせる岩山を描いた「巌の王」(1998)だ。
 おそらく黒ペン1色で描かれたのであろう縦195×横100cmの原画を、29.7×21cmのページの中に圧縮して印刷しているのだが、一見モノクロ印刷に見えるこのページも、じつは通常のカラー印刷と同様CMYK(シアン、マゼンタ、イエロー、ブラック)の4色で印刷されている。そのためだろうか、モノクロ印刷では出せないような深み、奥行きが感じられる。(この「深み、奥行き」に関しては、本書のジャケットをひっぺがすと出てくる、モノクロで印刷された表紙と比較するとわかりやすい。)
 次ページからはその部分拡大図が続く。全体図では気づかなかった小動物や氷柱、人家らしきものまで、細部がくっきりと姿を現している。
 しかし、ここでもう一度全体図に戻ってみれば、最初は気づかなかった細部が、実はかなり細かな部分まで再現されていたことに気づく。一般的な印刷では、とてもこうはいかない。

 ここで下の写真を見てほしい。

amiten.jpg

 この写真のように、印刷物の階調(色の濃淡)は、色のついた点々の集まりで表現されている。通常、モノクロ印刷はブラック・インキ1色、カラー印刷はCMYKの4色なのだが、濃淡は点々の大きさや密度で、さまざまな色は4色の組み合わせで表現される。印刷しているのはたった4色なのだが、目の錯覚(たとえばシアンとイエローが入り交じればグリーンに見える)を利用することで、フルカラーに見せかけているのだ。
 写真左図が一般的なスクリーン線数、175線のカラー印刷物の拡大写真である。色のついた点々が網目のように等間隔に並んでいるのがわかる。これらの点々を網点という。
 スクリーン線数とは印刷の細かさを表すもので、同じ色の点を一直線に並べたとき、1インチ(2.54cm)の中にいくつの網点が並ぶか、を示したものだ。単位は lpi(line per inch)で、175線(175 lpi)は、1インチに175本の線を引いた間隔に網点が並ぶという意味だ。「網点」なのに「線数」というのは、昔、多数の細線を縦横に交差させたガラス・スクリーンを使って網点を生成していたことからきているらしい。日本の場合、カラー印刷では175線、モノクロでは150線が標準(ただし用途や紙の種類によって変わる)といわれている。
 真ん中の図は250線の網点の拡大図だ。当然線数が上がるほど細部まで印刷再現が可能になる。
 左図や中図のように、規則的に網点を並べ、網点の大小で階調を表現する方法をAMスクリーニング(Amplitude Modulation Screening)という。印刷業界では、AM300線以上で印刷されたものを、特に「高精細印刷」と呼んでいる。
 一方、右図のように一見ランダムに微細な点(ドット)を配置し、その疎密によって階調を表現する方法をFMスクリーニング(Frequency Modulation Screening)という。要はラジオのAMとFMの違いと同じである。
 これらAM、AM高精細、FMにはそれぞれ一長一短がある。私が持っているイメージを挙げてみると、通常のAMは、色も含めた印刷の安定性がある。AM高精細印刷は、細部の再現に加え微妙なグラデーションがじつに滑らかに出る。FMはとにかく細部の再現性に優れ、モアレも出ない、等々。印刷物を作るさいには、このような特性をふまえ、絵柄の内容や紙の特徴などに合わせて製版技術(印刷用のハンコを作る技術)を使い分けるのが望ましい。

 ここで『池田学画集1』の話に戻ろう。
 池田学氏の細密画を印刷で再現するには、どの方法がベストだろうか。ここまで読まれた方はもうおわかりだろう。
 この画集はFMスクリーニングで製版・印刷されている(ちなみに印刷会社は京都のサンエムカラー)。一般的なAM175線では抜け落ちてしまう原画の細かな階調まで、微細なドットの配置が拾い上げているのだ。
 たとえばp. 24の「再生」(2001)という作品を見てみる。海に沈みすっかり朽ち果てた戦艦とおぼしき物体が、色とりどりの珊瑚などで覆われ、その周りを様々な魚たちが泳いでいる。
 肉眼ではわかりづらい部分も、目を凝らして、それも7〜8倍の小型ルーペを使って見れば、ちょうど水中眼鏡ごしに海中の風景を見ているようで楽しさが倍増する。珊瑚の横を、寒流にいるはずのクリオネや、カバらしき陸上の動物までが泳いでいたり、なぜか洗濯物が物干し竿ではためき、なかには釣り糸を垂らす人も……。愉快な隠れキャラクターを次々と発見するようで少しも飽きない。

 『池田学画集1』の「1」は、「オンリーワン」という意味だそうだ。たしかにこの画集には、オンリーワンと呼ぶに相応しい作品45点が収録されている。奔放な池田氏の想像力をよりいっそう楽しむためにも、できればこの画集は、ルーペを使ってじっくりと「観察」することをお勧めしたい。



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