2016年04月24日

『読む時間』アンドレ・ケルテス(創元社)

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「本を読む人々」

(この「書評空間」の更新が停止になって2年が経ちました。停止のお知らせをもらった時点で私は18本の書評を載せていて、最後までに切りのいい20本にしようと思ってたんですが、結局(19)どまり……。それがずっと気になっていたので、下書きだけでボツにしていた1本を、そっとアップしてみます。
 ほとんど箇条書きの状態で、書評というよりエッセイ風すぎると思ってボツにしたものなんですが、まあこれで(20)になってくれたら良しとするか、という程度の軽い気持ちでコピペしますので、読み飛ばしていただければ幸いです。)


 最初、この本をどう紹介しようかと考えた。印刷寄りの、ダブルトーンや線数の話もできないことはなかったけど、やめた。とてもいい写真集だったからだ。(一つだけ注文をつけるなら、私は、優れた写真集は写真だけで十分で、わざわざ言葉を付け足す必要はないと思う。優れた詩に写真やイラストがいらないように。)
 最初から最後まで、本や雑誌、新聞など、文字を読んでいる人の写真が、ただ続くだけ。なのに、ジーンときた。写真の中の「読む人」に、いつのまにか自分の姿を重ね合わせていたのだ。

 物心がついてから今まで、ずっと本を読みつづけてきた。
 いったい、読書って、なんなんだろう。
 昔、あまり本を読まない友達から、「お父さんが読書は現実逃避だと言ってた」と言われたことがある。間違いではない気がしたけど、どうもピンとこなかった。で、あるころから、読書とは他人の人生を生きることなんじゃないか、と思うようになった。

 読書をしている人は、一見、孤独に見える。
 笑い合っている友達の間で、一人下を向き、読書に没頭している子供がいれば、孤独な作業を黙々と続けているように見えるかもしれない。
 でも、じっさいには、彼はまったく逆の状態にあるのだ。

 たとえば小説。独りぼっちに見える彼は、これまで会ったこともないような奇妙な人々と、たったいま出会っている最中だ。
 普通に生きていれば、経験できるのは自分の、たぶん平凡な人生だけ。でも、本を読めば、家にいながら月にも海底にも行けるし、男にも女にも、善人にも悪人にもなれる。
 ロールプレイングゲームとはちょっと違う。主人公がなにかの岐路に立っても、読者に選択の余地はない。それに、だいたい主人公は、そこで間違った選択をする。で、その選択がどんなに理不尽な結果をもたらそうと、読者は黙って従うしかない。

 たとえば実用書。それが技術指南書のようなものなら、著者が長い年月をかけて得た知識と経験を、たった数時間で知ることができる。著者が苦労を重ね、数十年かけて辿り着いたその場所から、いきなり私たちはスタートできるのだ。もちろん、まったく同じ場所ではないけれど、こんなありがたい、効率のいいことはない。

 年齢と経験を重ねるに従って、短慮極まりなかった私も、多少は思慮深くなってきたように思う。本を読み、様々な他人の生を生きることで、少しだけその成長のスピードが早まったような気がするのだ。それは、自分の人生プラスアルファのものを、一冊一冊の書物を通して、擬似体験してきたからだろう。

 そんな体験をしている最中の人々が、この写真集にはたくさん収められている。とくにそれを感じたのが、42〜43ページの見開きにある2枚の写真だ。
 左には、片手をついて新聞のマンガに読みふける子供。右には、古本屋の店先でルーペごしに本を覗き込んでいる老人。この見開きの間に、50年という歳月が横たわっている。その間のどこかに、今の私がいるような気がした。


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