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2014年04月20日

『アフター・テレビジョン・スタディーズ』伊藤守・毛利嘉孝【編】(せりか書房)

アフター・テレビジョン・スタディーズ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「新しいメディア理論に向けての待望の一冊」


 まさに待望の一冊である。


 本書は、早稲田大学の伊藤守、東京芸術大学の毛利嘉孝、両氏を編者とする、新しいメディア理論の探求を企図した論文集である。


 その名が示すように、メディアの中心をテレビが占めていた時代はすでに過ぎ去った。だがテレビは完全に姿を消したわけではなく、一定の存在感を保ちながら、インターネットやケータイなどとともに複合的にメディアが利用される時代となっている。 


 日本社会において、こうしたインターネットやケータイの本格的な普及が進んだのが1990年代の中盤であるので、それからすでに20年近くが経つことになる。だがその間にも、インターネットはより高速で常時接続可能なものへと、さらにケータイもスマートフォンへと、その姿を変えてきた。


 このような技術面での驚異的な進歩の一方で、それを社会現象として捉えるための理論的な検討は立ち遅れてきたと言わざるを得ない。評者を含めた研究者の怠惰として批判されれば返す言葉もないが、この点で本書は、新たな時代のメディア研究のための、理論化の試みとして高い評価に値しよう。


 序文でも触れられていることだが、本書の位置づけを理解するうえでは、やはり同じくせりか書房から2000年に刊行された吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』と対比することが重要である。


 同書は、それまでのいわゆる「社会心理学的なマスコミ研究」、すなわちテレビを中心にして、あくまで送り手と受け手の間の世界にばかり注視してきたメディア研究に対し、カルチュラル・スタディーズの視座から、文化的・社会的な文脈を持ちこみ、より発展的な研究を企図したものであった。


 だが『メディア・スタディーズ』がそれでもテレビを中心的な分析対象とせざるを得なかったのに対し、それから十数年を経た本書では、存分に新しいメディアが分析されることとなっている。


 本書の構成だが、大きく三部に分かれていて、まず第1部「デジタルメディア・デモクラシー」では、こうした新たなメディアに関する政治経済学的な分析がなされている。次いで第2部「デジタルメディアの物質性・媒介性」では、それまでのマスメディアとは違った、これらの新たなメディアのありようがまさにメディア論的に分析されている。そして第3部「身体・情動・デジタルメディア」では、メディアを利用する側に着目し、その身体性や権力の問題に着目しようとしている。


 文字通りの豪華メンバーによって執筆されていて、どの章も非常に興味深いが、しいて評者の個人的な好みから選びとるなら、やはり編者の伊藤氏が書かれた最終章「オーディエンス概念からの離陸」が興味深い。


 端的に述べるならば、そこで問われているのは、複合的なメディア利用状況の中で、もはや「テレビの視聴者」だけではなくなった、我々は一体何と名指されるべきなのか、という点である。


 先にも紹介したカルチュラル・スタディーズにおいては、それまでのマスコミ研究における「受け手」という概念を批判し、より広範な文化的・社会的文脈におかれた存在として捉えなおす「オーディエンス」という概念を設定してきた。


 だが、このカタカナ用語が適切な日本語訳も与えられないままに、メディアの状況は驚異的な変化を遂げてきた。今明らかなのは、それを利用する我々を呼び表すのに、少なくともこの「オーディエンス」という用語が、ふさわしいものではないということぐらいであろう(スマートフォンのオーディエンスという言い方はしないだろう)。


 この点について伊藤氏は、主としてタルドの模倣論に依拠しながら、さらにアーリの移動論などにも触れつつ、果敢に挑もうとしておられる。容易には結論の出ない探求だろうが、まさに今日のメディア研究における最重要課題の一つといえるだろう。


 あるいは本書全体を通しての感想として、こうした野心的な理論化の試みの著作を読んでいると、どうしてもそれと呼応した、実証的で経験的な調査の結果も読みたくなる。新たな理論化が進展するならば、それと呼応して、新たな調査も進展させ、それらの往復運動のもとに、メディア状況を捉えていくことが必要となろう。


 だがむしろこの感想は、本書の執筆者に向けられたものというよりも、それに大きな刺激を受けた評者自身の今後の課題とすべきものかもしれない。


 この刺激的な論集を、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。




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2014年04月19日

『ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会』松田美佐・土橋臣吾・辻泉【編】(東京大学出版会)

ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「モバイル社会はどのように成熟していくのか」

 日本社会でケータイの本格的な普及が進んだのは1990年代中盤以降のことである。すでにそれから20年近くがたとうとしており、今では大学生たちも、ほぼ100%がケータイを持ち、そのほとんどもスマートフォン(スマホ)となっている。

 こうした驚くべき技術的な進歩の一方で、その利用者である我々、あるいはこの社会はどのような変化を遂げてきたのだろうか。それは果たして、この新しいメディアを十二分に使いこなした成熟した社会といえるのだろうか。


 本書は、2001年と2011年に行われた全国調査の結果に基づいて、こうしたモバイルメディア利用と社会変化の実態について検討を行った論文集である。実証的な調査結果に基づき、手堅く経年変化をとらえた内容は貴重なものといえるだろう。


 成熟という点でいえば、序章で筆頭編者の松田美佐も述べているように、ケータイに対する評価がこの10年間でようやく落ち着いたものとなってきたことが指摘できよう。


 「携帯電話の普及によって犯罪は増加した」「携帯電話の普及によって公共のマナーが悪くなった」といった項目について、「そう思う」「まあそう思う」を合わせるとかなり高い割合の回答が寄せられていたのが、2011年では10%程度の減少が見られた。


 だが「災害が起こったとき、携帯電話は役立つ」という項目についても、2回目の調査が行われたのが東日本大震災後であったこともあってか、大きな減少が目立っていた。つまり普及からしばらくの間寄せられていた、(肯定/否定の両面における)極端な期待は、まさに相対化されてきたといえる。


 しかしながらこうした評価面での「落ち着き」の一方で、この新しいメディアの利用とともに社会の成熟が増したのかといわれれば、やや心もとないところもあるようだ。


 例えば評者が記した8章では、こうしたメディアの普及とともに、コミュニケーションのチャンスは拡大し、特に友人数の増加など、パーソナルネットワークの変化と強く関連してきたことが示唆される一方で、それが互酬性の規範や一般的信頼といった社会関係資本の醸成とは必ずしも結びついていないことも伺えた(むしろ一般的信頼については低下の傾向すら伺えた)。


 さらに辻大介の記した3章においては、PCを中心とするインターネット利用が市民的な参与行動と関連する一方で、ケータイを中心とするインターネット利用においては、あまり関連せず、「民主主義デバイド」が拡大する危険性すら危惧されている。


 むろん、何をもって成熟した社会とするかという定義によっても話は異なってくるため、終章で土橋臣吾も指摘するように、我々の「社会に対する捉え方」そのものを相対化しながら、こうしたモバイルメディア込みの社会のありよう(モバイルな社会性=モバイルソーシャリティ)を考えていくことも今後は重要となってくるのだろう。


 その点でも貴重な成果といえる本書を、ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。


 また一点だけ、本書に参加したものとして追記しておくならば、今後におけるこうしたメディアの利用実態調査に関する困難についても触れておきたい。


 2001年の段階では、ケータイの普及率もまだ100%近くには達していなかったし、ケータイの利用とPCの利用とを明確に区分しやすかったのだが、今日では先ほども触れたように、スマホや各種のタブレットの普及なども進み、非常に複雑な状況にある。


 したがって2011年の段階ですら、こうした複雑なメディア利用状況を、質問紙で尋ねることには相当の困難が伴ったのだが、もし今後もこうした調査を継続しようと思うと、さらなる困難が待ち受けていることが予想される。


 この点は今後も課題とすべき点だろうが、そもそもこうした点が、困難な問題点として存在しているということ自体が記録として残され、語り継がれるべき知見であり、その点でも本書は、調査方法論上においても、貴重な成果といえるだろう。


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2013年05月31日

『メディアと日本人―変わりゆく日常』橋元良明(岩波新書)

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「実証的なデータからメディア社会の変容を読み解く」

 本書は、東京大学大学院情報学環橋元良明研究室を中心に、1995年以来5年おきに行われてきた「日本人の情報行動」調査の結果を元にして、メディア社会の変容を読み解いた著作である。

 「日本人の情報行動」調査については、東京大学出版会から、実施回ごとに結果をまとめた大部の著作が出されているので、詳細についてはそちらをご参照いただくとよいだろう。


 本書は新書版なので、いくつかの内容に絞った構成がなされている。1章で、各種メディアの歴史的な普及過程が論じられたのち、2章では1995年以降のメディア利用実態の変容を調査結果から読み解き、さらに3章、4章では、メディア「悪影響」論や、「デジタル・ネイティブ」論といった個別的なトピックが取り上げられ、そして終章で、これからのメディアの行方やそれに対する我々の向き合い方などが論じられて締めくくられる。


 過去から現在、そして未来に至るまで、バランス良くトピックが取り上げられており、かつハンディで読みやすい本書は、メディア論入門に格好の一冊といえる。実際に、評者も本年度の学部ゼミの購読テキストの一つに指定している。


 中でも、特におすすめなのは、やはり「日本人の情報行動」調査の結果がコンパクトにまとめられた2章であろうか。1995年以降という、インターネットや携帯電話のまさに本格的な普及過程以降の様子を丹念に記述したデータは、まさに雄弁というほかなく、読み進めるうちに、凝り固まっていた先入観や思い込みがいくつも吹き飛ばされていくようで、痛快でもあった。


 例えば、思っているほどには「テレビ離れ」が進んでいない(視聴時間は減少していても、行為者率=スイッチを一度はつける人の割合はさほど変わっていない)ということや、「活字離れ」「読書離れ」と喧伝されるほどには、読書の時間も行為者率も減少しておらず、しいて言うならば「雑誌離れ」のほうが目立っているという点などは特に興味深かった。


 またこうした調査結果の概要は、巻末の資料にもコンパクトにまとめられていて、そこだけを見ても、利用価値の高い著作となっている。まさに今のメディアについて、幅広い視点から考えたい人にお勧めしたい一冊といえる。


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2013年04月30日

『テレビという記憶―テレビ視聴の社会史』萩原滋 編(新曜社)

テレビという記憶―テレビ視聴の社会史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「歴史化されるテレビ」

 本書のサブタイトルは、「テレビ視聴の社会史」であり、テレビを歴史的な視点からとらえようとする先鋭的かつ意欲的な論文からなる論文集となっている。

 評者は、まずこの、テレビという存在が歴史化されるという分析視角に、大いなる感慨を抱かざるを得なかった。それは、この社会における、一定年齢層以上の人々には共通するものであるだろう。それほどにテレビとは、いつもすぐそこの、身近な現実に存在するメディアだったからである。


 さて、テレビを歴史的な視点からとらえると言った場合、すぐに思いつくのは、番組の内容の変遷を追ったようなものや、あるいはテレビという受像機の技術的な歴史ではないだろうか。


 だがサブタイトルにもあるように、本書の視点はそれらとは異なっている。むしろ、この社会が、そしてこの社会の人々が、テレビというメディアをいかにまなざし、受容してきたのか、そしてそこからどのような記憶を紡ぎだしてきたのか。さらには、それが今後どのように変化していくのか。まさに今やっておかないととらえ損ねてしまうような重要な研究課題を、社会史という視点から描き出しているのが本書の特徴である。


 確かに、テレビがこの社会において、きわめて大きな位置づけを持ったメディアであったことは疑うまでもない。そして、今日ではインターネットの普及が大規模に進んできた。動画サイトを好むような若者たちは、テレビのことを「オワコン(終ったコンテンツ)」などと呼ぶこともあるが、主要なメディアの入れ替わりとは、きっとそんな単純に進むものでもないのだろう。


 かつてテレビの普及が進んだ後も、ラジオが一部で生き残ったように、メディアの勢力図の中で、なんらかの棲み分けが進んでいくのではないかと思われる。


 その点で、特に本書の後半で展開されている、若者たちやネットユーザーを対象にした、クロスメディア的な利用行動調査の結果は興味深い(7~10章)。そこからは、やはりテレビが単純に「オワコン」として姿を消していくのではない、これからのありようが、ほのかに垣間見える。


 そしてもちろんのこと、年長世代にはなじんだ話である、かつてのテレビ黄金期における視聴と記憶の形成に関する分析も興味深い(1~6章)。アイドルや、「仮面ライダー」などのヒーローに夢中になりつつ、やがてリモコンの登場とあいまって「ながら視聴」を覚えていった世代としては、まさに自分のことを分析されているような感覚がしてしまう。


 そして、終章では「「ポストテレビ時代」のテレビ」のありようまでが示唆された本書は、日本のテレビ研究において、今後も参照され続けであろう大きな足掛かりと呼ぶにふさわしい著作だと思う。


 今までのテレビにも、そしてこれからのテレビにも関心のある方に、広くお勧めしたい著作である。


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2012年10月31日

『雑誌メディアの文化史-変貌する戦後パラダイム』吉田則昭・岡田章子編(森話社)

雑誌メディアの文化史-変貌する戦後パラダイム →bookwebで購入

「雑誌文化の過去・現在・未来」

 本書は、新進気鋭のメディア論者たちによって編まれた、雑誌文化に関する論文集である。

といっても、単に雑誌メディアの現状に関する記述を寄せ集めただけではなく、むしろ幅広い視野の論文集となっているのが特徴的である。それゆえに、このメディアのこれまでの経緯と特徴、そして現状と問題点、さらにこれからの展望といったように、過去・現在・未来にわたって、実に見通しのきいた著作となっている。


編者の手による序章でも記されているように、日本社会において雑誌文化は独特な発展を遂げてきたと言ってよい。


それは、一つにはテレビや新聞といった極めて規模の大きいマス・メディアとは違って、読者との共同体を形成しつつ、適度な細分化によって、個性的な文化を育んできたということである。ファッション、音楽、スポーツ、その他の趣味・・・といったように、代表的な文化ごとに、それらを代表する雑誌の名前がすぐに思い浮かぶことだろう。


 さらに、マンガ雑誌などが典型的だが、編集者たちが多くの創作者予備軍を抱え、さらに適宜育て上げていくことで、一定水準のコンテンツが安定して供給されてきたという点もある。


 いわば、インターネット時代の今日において、おそらく最も大きな打撃を被り、すでにいくつもの大きな雑誌が姿を消しつつあるものの、それでも雑誌メディアは、コンテンツ産業に関するノウハウやスキルが集積された宝の山であり続けているのである。


 こうした宝の山が、ゆるやかな形でインターネットへと継承されていくことになるのか、それとも多くが途絶えてしまうのか、あるいは雑誌メディアが多少なりとも形を変えて生き残ることになるのか、それは実際に未来が訪れてみなければわからないというのが確かなところであろう。


だが、他のメディアとのメディア・ミックスであったり、海外進出の際の版権の問題等、雑誌メディアの新たな動向が掘り下げられている、本書第Ⅱ部が、評者にとっては新鮮で特に興味深かったということを記しておきたい。


 というのも、雑誌論というと、ともすると名物編集者の記したノスタルジックな読み物ばかりを連想してしまうのだが(それはそれで歴史的な資料として読みごたえはあるのだが)、そうした既存の著作とは一線を画して、バランスのいい学術的な論文集となっているところに本書の価値があるものと思われた。


 雑誌の新たな動向を探る著作という点では、仲俣暁生『再起動(リブート)せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)などと合わせて読みたい一冊である。


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2012年09月30日

『メディア文化とジェンダーの政治学-第三波フェミニズムの視点から』田中 東子(世界思想社)

メディア文化とジェンダーの政治学-第三波フェミニズムの視点から →bookwebで購入

「新たなジェンダー論からメディア文化をとらえた待望の一冊!」

 本書は、十文字女子学園大学講師の田中東子氏によって書かれたアンソロジーである。評者は、本書を著者よりご恵投にあずかったが、無論、それだからと言ってここで取り上げるのではなく、ほぼ同世代に属するメディア文化研究者の待望の一冊として、本書を高く評したいと思う。

 本書が描いているのは、主として今日の日本社会における(若年)女性たちが織りなすメディア文化の実態である。


 コスプレやスポーツファンなど、いくつものユニークな対象が取り上げられつつ、そうしたふるまいを当事者の視点に内在しながら、的確に描き出していく記述は、ざっと一読するだけでも十分に楽しめるものである。

 加えて評者は、本書を「二つの距離感」の絶妙なバランスの上に成立した著作として受け取った。それはすなわち、ジェンダー論であることを銘打ってはいるものの、かつてのようなラディカルなフェミニズムに全面的に与するものでもなく、またかといって、それに対する急進的な反発としての、いわゆるバックラッシュと呼ばれる動きに与するものでもないということである。


 だから本書は、ものすごくわかりやすいという人がいる一方で、ものすごくわかりにくく複雑だと思う人もいることだろう。


 評者のように、世代的な共感を強くするものにとっては、ものすごくわかりやすいのだが、上記した「二つの距離感」とそれらへの長々しいエクスキューズがわかりにくくて仕方ないという人もいることと思う。


 だが、複雑化する今日の社会において、説得力のある文化研究とはこういうものなのだろうなとも思わずにいられない。社会が複雑化し、多様な文化が入り乱れる状況において、まずもって聞き入れられやすい言葉とは、当事者性をもったものである。


この点で本書は、女性文化を対象に女性によって書かれた当事者性を持った著作ということができるが、かといってそれが、それ以前の女性たちとはまた違った立場取りによって書かれた(または書かれなければならない)著作であることも明確に述べられている。


それこそが、先に述べた「二つの距離感」に関するエクスキューズにほかならないのだが、多少面倒ではあっても、こうした立場取りを明確に言語化することが、今後生き残っていくための方策なのだと思うし、本書はそれをなし得た著作だと思う。


同じような立場取りに基づいて、今日の女性たちの文化を多様な視点から面白く記述したものとして、以前に『女子の時代』という著作を評価したが、本書はそれに加えて、こうした立場取りを理論的に詳細に検討し、明確化している点において(特に本書1~3章の内容)、さらに高く評価できるものといえよう。


先行するフェミニズムやジェンダー論のラディカルさ、あるいはその達成を知的財産として継承しつつ、さらにそれを使いやすくカスタマイズして、自分たちの世代の文化の記述に当てはめていくアプローチ、いわば「抑圧される女性」という立場から、「文化的な一クラスターとしての女子」という立場への変容に基づいた文化研究として本書は評することができると思われるが、今度は、男性文化についてこのような研究をしてみたいと、評者は強く思わされた。


ぜひ、女性男性問わず、文化に関心のある多くの方にお読みいただきたい一冊である。


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2012年09月29日

『メディアオーディエンスとは何か』カレン・ロス/バージニア・ナイチンゲール 著  / 児島和人・高橋利枝・阿部潔 訳(新曜社)

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「メディア論を通した、「われわれとは誰か?」という問いの軌跡」

 「われわれとは誰か?」という問いが、急速に重要なものになりつつある。それは、「日本人である」「労働者(サラリーマン)である」「○○党支持者である」「若者である」云々といったように、それまで当たり前のようになされてきた答えが、急速にその自明性を失いつつあるからだ。それは、この社会のありようが根本から大きく変化しつつあることの表れでもある。

 1980年代以降、急速に浮上してきたオーディエンス研究とは、メディア論の視点から、こうした問いに答えようとしてきた軌跡であったと位置づけることができる。そして、本書『メディアオーディエンスとは何か』は、まさしくそうした軌跡を、幅広くバランスよくまとめ上げた好著である。


 さて、オーディエンス研究とは何かと言われれば、端的には、それまで「受け手」と呼ばれ、マスメディアに隷属する存在と見なされていた人々について、対抗的な「能動性」を認めたり、あるいは多元的に現実社会を生きる存在であることを問い直していった研究であるということができるだろう。


 そもそも、メディア論という言葉自体が比較的新しいのだが、「マスコミ論(マスメディア論)」という言葉が主流だった時代には(あるいはいまでもその思考から抜けきっていない人も多いのだが)、マスコミ万能論がまかり通り、「受け手」と呼ばれた「われわれ」にはあまり注目がなされなかったという経緯がある。


 だが、1980年代以降、カルチュラル・スタディーズと呼ばれる研究の潮流の中で、こうした「受け手」の中に、マスコミに対抗する「能動性」であったり、あるいはその属性によるバリエーションの多様さが見出されてきた。


 今となっては、当たり前のように思われることがらだが、いわば日々メディアを利用する「われわれ」という存在が、単なる「受け手」ではないものとして注目されるに至ったということができるだろう。


 そしてその背景には、マスコミ中心の時代から、インターネットのようなインタラクティブ性の高いものを交えた、複雑なメディア状況が到来したことも強く関係しよう。すなわち、来るべき次の時代へと向けて、メディア研究は今、極めて重要な問いのいくつかに直面しているのである。


それは、概略以下のようなものだということができよう。


まずもって、マスメディアやインターネットを交えた複雑なメディア状況における利用者のことを何と呼ぶべきなのか、あるいはどうとらえるべきなのか。そして、「われわれ」は、こうしたメディアをいかに使いこなすべきなのか、あるいはこれからの社会はいかにあるべきか、あるいはそもそも「われわれ」とは、いかなる存在であり、今後どうなっていくのか。


こうした重要な問いが浮上している中で、メディアを利用する「われわれ」に対して、いまだ和訳が定まらずに用いられてきた「オーディエンス」という概念は、いうなれば、マスコミ中心の時代からその次の時代へとこうした研究を橋渡ししていくための、仮の呼称なのだということもできるだろう。


また本書も、今後の社会を見据えたメディア論の大きな進展へとつながる、重要な橋頭保の一つとして、位置付けることができるだろう。


メディア論におけるこうした研究の方向性への台頭について、「オーディエンス論的ターン」と呼ぶこともあるが、本書では、それ以前のいわばマスコミ万能論の時代の効果研究の歴史にまでさかのぼりつつ、さらに経済、政治、文化的な複数の側面から「オーディエンス」という存在について検討を行っている。こうした多方面へと配慮の行きとどいたバランスの良さこそ本書の長所であるし、さらにそうした配慮は、来るべき新たな時代へのオーディエンス研究の展開を盛り込んだ最終の第7章にまで及ぶものである。


 本書のこうした特徴は、とりわけ共著者のバージニア・ナイチンゲール氏が、批判的なメディア研究の一潮流であるカルチュラル・スタディーズの論者として位置づけられつつ、その中にあっても一方的な批判に傾注することなく、むしろ「オーディエンス」を文字通り丹念に記述することを通して、その実態の正確な把握をすることを訴えてきたスタンスから来るものだということができるだろう。氏はこのほかにも、未邦訳なものを含めて、オーディエンス研究に関する重要なアンソロジーやハンドブックを刊行している。


 また翻訳書としての特徴を言うならば、本書は、こうした領域に関する国内でもトップレベルの研究者による翻訳がなされているため、非常に読みやすくわかりやすい。加えて、的確な「訳者解説」だけでなく、「用語解説」までついているので、初学者であっても十分に読み進めていくことができる。


 このように、これまでの状況を踏まえながら、来るべき新たなメディア社会を考えていくための重要な一冊として本書をお勧めしたいと思う。


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2012年06月29日

『21世紀メディア論』水越 伸(放送大学教育振興会)

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「メディア論テキストのニュー・スタンダード」

 本書は、放送大学の大学院向けに書かれたものであり、私も今年度前期の大学院ゼミでの購読テキストに指定した。だがそのわかりやすさと内容の濃密さからして、一定レベル以上の大学であれば、読み応えのある学部テキストとしても使ってほしいと感じた。

 さて、その内容だが、まずもってバランスの良さという点が長所として挙げられるだろう。著者が旧来専門分野としていた、メディアの生成段階に関する社会史的な記述に始まり、新たに普及の進むメディアや、あるいは日本社会における独特の問題点、さらに、メディアを考察する上で求められるべき理論的な視座の検討にまで及ぶ。


 その上で、近年著者が強い関心を寄せている、メディアリテラシーの実践的な取り組みに関する検討や紹介にも重点が置かれ、この先のメディア社会に対する提言も十分に含んだ内容となっている。


 日本社会において、これほど多岐にわたる内容をバランスよく取り上げたメディア論テキストは、寡聞にしてほとんど存在しないといってよい。伊藤守編著『よくわかるメディア・スタディーズ』(ミネルヴァ書房)も、本書を凌ぐ幅広い領域を取り上げている良書だが、本書は一人の著者によって一貫して書かれている点でも価値がある。


 実際に講義を担当する教員の一人としても痛切に感じることだが、(あるいは、この領域に限らず近年のアカデミズム全般にも言えることだが)タコつぼ化の進行は本当に顕著で、総合的な視点を教え込むのに、本当に苦労する時代である。


 メディアについて言えば、旧来からのマスコミ論だけでなく、新しいメディア(ケータイやインターネットなど)についても教えなければならないし、これからの時代を見据えるならば、机上の空論よりも、むしろ実践的な内容も織り込まなければと思いもする。


 だが、大学というのは意外に時代への適応が遅いところであり、出版論、通信論、放送論といったように、それぞれには重要であるものの、個別化した講義の設定がなされる一方で、これらの俯瞰する総合的な視点を学ぶ機会がなかなか存在しなかった。


 この点で、様々なメディアの動向を一つの生態系になぞらえてとらえようとする「メディアビオトープ」という著者の概念は、ユニークであると同時に、まさにこうした目的にかなったものと言えるだろう。


 さらにこの「メディアビオトープ」という概念が、単なる分析のためだけでなく、望ましいメディア社会を構想していくために、実践的に用いられている点からもしても、今後の研究や実践に関する展開可能性を強く感じさせる良書だと言える。


 強いて一点だけ述べるならば、この「メディアビオトープ」を繁茂させていくための原動力として取り上げられている「メディアリテラシー」や、あるいはその根底にある「メディア遊び」の実例について、いわゆるオタク文化やファン文化の事例が取り上げられなかったことが残念でならない。


 著者は、「メディア遊び」を「メディアと人間の関係性を批判的にとらえ直し、新たな可能的様態を探る営み」(P171)と定義し、いくつかの事例を紹介しているのだが、そのようなメッセージ性を持ったコンテンツの創造であったり、あるいは新たなコミュニケーション形態の発展については、日本社会では、まさにオタク文化こそがその先鞭を担ってきたと言えるのではないだろうか(たとえば、既存のマスメディアとは違った流通経路としての「コミケ」や「インターネット」、あるいはそこで新たに創造されてきた諸々のアニメやマンガ作品などを想起するとよい)。


 しかしながら、この点を差し引いても、本書は、現在の日本におけるメディア論のテキストとして、これまでとは一線を画した、新しいスタンダードに位置付けられるものとして高い評価に値するものである。ぜひ幅広い読者層に、読んで頂きたい一冊である。


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2012年03月31日

『仕事するのにオフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ 』佐々木 俊尚(光文社)

仕事するのにオフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ  →bookwebで購入

「モバイル社会の働き方を考えるために」

 メディアを研究している身ではあるが、恥ずかしながらその変化の速さについていけない思いをすることが多々ある。

 本書もそんな折に手に取った。著者は、ITジャーナリストとして著名な佐々木俊尚氏である。表向きはモバイルメディアを使いこなした仕事術のマニュアル本だと言ってよいだろう。氏の著作はいつもながらに読みやすい。


 いくつも即座に参考にさせてもらったポイントがあったのだが、読み進めていくうちに、本書は、「PC操作術」のような単なるマニュアル本を超えた、実に魅力ある著作として感じられた。


 もちろん、第5章のクラウドの使いこなし方など、いわゆるハウツーとして即座に役立つ内容も豊富なのだが、その前後に書かれた、副題ともなっている「ノマドワーキングのすすめ」ともいうべき、新しい働き方の提案が実に魅力的なのだ。


 これは、IT社会の働き方として、少し前に注目されたSOHOのような在宅勤務の形態とは異なる。それが結局のところ、オフィスではなく自宅という場所に縛られて仕事をするのに対して、モバイルメディアを駆使した「ノマドワーキング」では、気が向いたときにノートPCを持って外出し、気に行ったカフェを転々としながら、徐々に仕事を進めていくようなスタイルなのだ。


 未経験の方からすれば、本当にそんなことで仕事ができるのか、と思わずにはいられないだろう。オフィスにいなければ、仕事をするための資料もないし、そもそも気が散って仕方がないのではないかと。


 だが、モバイルメディアやクラウドコンピューティングの発達した今日では、多量の資料を物理的に持ち歩かずとも、どこにいてもそれを参照することができるし、また多数の人間が閉じ込められたストレスフルなオフィス空間にいるよりも、かえって街の雑踏の中にいたほうが、集中力が高まるものなのだ(評者にもそういう経験が多々ある)。


 著者は、こうした働き方こそ、「ノマドワーキング」と呼ぶ。「ノマド」とは、元々は遊牧民という意味だが、今日では、都市部のカフェからカフェへ、モバイルメディアを携えて、ふらふらとしながら、それでも生産性の高い仕事を成し遂げていく人々こそ「ノマドワーカー」と呼ぶにふさわしいという。


 そこからは、新しい時代に適応した働き方の変化、あるいはそもそも働くということの意味の変化を読み取ることができるだろう。


 いうなれば、満員電車に乗って、会議に出て、帰宅することが仕事なのではない。むしろ、どんなスタイルを取るにせよ、クリエイティブに成果を生み出すことこそが仕事なのだ。


 それは、筆者の言葉を借りれば、「会社に頼っていれば何とかなった時代から、自分自身で人生を切り拓かなければならない時代へ」(P6)の移行に際して、サバイバル術を考えていくことにもつながってくる。


 この点では本書は、表向きはハウツーのマニュアル本であるけれども、評者は、新たな社会の自己やコミュニケーションのありようを論じた、実践的な著作としても楽しむことができたし、授業で取り上げて、学生にもぜひ読ませたいとも思った。


 これからの時代を前向きに働いていこうと思う方に、お勧めしたい一冊である。


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2012年02月28日

『情報の呼吸法』津田大介(朝日出版社)

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「「ソーシャルメディアのフロンティア」にしか見えない風景」

本書は、ジャーナリスト/メディア・アクティビストの津田大介氏が、ソーシャルメディアについての現状に触れながら、今後の向き合い方や使いこなし方について、実践的な提案を行っているものである。

 文体も読みやすく内容も具体的なので、関心のある方々にとっては、格好のソーシャルメディア入門といえるだろう。


評者にとっては2章以降が抜群に面白かった。いうなれば、まさにソーシャルメディアの最先端にいるものでなければ見えない景色が垣間見える思いだった。いや、著作のタイトルになぞらえるならば、フロンティアにしか吸えない空気があるというべきだろうか。


「フォロー数は300~500人くらいが最適」(P67)といったように、経験に基づいたアドバイスやエピソードが目白押しなのだ。


 他にも、情報はストックからフローになる(P80)といった指摘も興味深かった。これは、私の専門であるファン文化・オタク文化の領域でもよく感じる変化である。

最近、韓流アイドルのファンにインタビューをしたところ、彼女らの主たる情報収集手段は、やはりツイッターなのだという。それも蓄積(ストック)していくというよりも、とにかくいちはやく最新の情報をチェックすることに重きを置いているので、この点で、流れゆくツイッターの情報が役に立つのだという。


「ツイッターは『シャー』という音を立てて情報が流れていくみたいなもの」だと語っていたが、かつてのオタクたちがむしろひたすらに「ストック」に重きを置いていたことを考えれば、そこには隔世の感がある。


 また第3章のタイトルであり、本書の骨子でもある「情報は発信しなければ、得るものはない」という主張も非常に興味深い。


「ストック」に重きを置いていたのは、かつてのオタクだけでなく、むしろ優等生のガリ勉スタイルも同様であったが、著者に言わせれば、情報はインプットして「ストック」するだけではダメなのだという。


具体的に言うならば、新聞を5紙読み比べて自己満足するくらいならば、むしろ両極端の2紙に絞るくらいでいいのではないかという(P79)。そうでなければ、刻々と変化する膨大な量の情報を、新鮮なうちに入手して、かつ適切な発信に結びつけていくことができなくなってしまうのではないかという。


 このように、本書を読み進めていると、ソーシャルメディアのフロンティアの雰囲気に触れながら、我々がこれまでに抱いてきた「情報」という概念そのものが、根本から覆ろうとしている可能性すら感じられてくる。


 加えて、更に示唆深かったのは、こうした「フロー」化がますます進むメディアに立ち向かう、強靭なタフネスさを著者が垣間見せてくれることだ。


「人生で大切なことは、全てエゴサーチで学んだ」(P91)とあるように、普通ならば、人目を気にしてビクビクとしてしまうエゴサーチ(=インターネット上で自分の名前を検索すること)についても、むしろ著者は、自分が発信した情報への反応を確かめるマーケティング戦略の一環としてやっているのだという。


 こうした「タフネスな再帰的自己」とでもいうべきものがなければ、フロー化する高度情報化社会は生き残っていけないのだろう。本書は、まさにこれからの時代を生き抜いていくために、必読の一冊といえる。


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2011年08月31日

『電子書籍の衝撃―本はいかに崩壊し、いかに復活するか?』佐々木俊尚(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

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「ソーシャル系メディアはコンテンツ系メディアの救世主となりうるか」

 本書については、やや批判的な書評などもネット上では散見されるようだが、評者はその内容を概ね肯定的に評価しているし、電子書籍をめぐる状況の進展(あるいはその遅さ!)に鑑みても、初版の発行から一年以上が経過した今でも、十分に紹介するに足る著作として、ここで取り上げてみたい。

 本書が評価に値するのは、状況の本質を客観的な視点からきっちりと押さえ、その上で、今後に対する指針(処方箋)まで提示しているということである。論じているのが新しい現象であればあるほど、こうしたバランスのいい著作というのはそう多くはない。


 前者について言えば、電子書籍の普及は、あたかも出版文化の破壊であるかのように喧伝されることが多いが、この点を氏は明確に否定している。少し考えればわかることなのだが、今日においても、われわれはやはり本が大好きなのだ(さもなければ、このような書評サイトなど存在するはずもないだろう)。


 あるいは、もう少し正確に言うならば、今日ではそうした形をとっている、コンテンツ(著作物や文化作品)を楽しむことが大好きなのだ。よって、電子書籍の普及で揺らぐものがあるとするならば、それは紙という媒体に印刷された「本」という物体を、再販制度に支えられて安定して販売してきた旧来の流通ルート、それだけであり、コンテンツを楽しむという振る舞い自体に対しては、おそらくほとんど影響はないはずなのである。


 だが一方で、氏はコンテンツの楽しみ方が代わるのではないかという指針をも示している。それは、東浩紀氏の用語に倣えば、コンテンツ系メディアがソーシャル系メディア(SNSやブログなど)と融合していくということである。


 これまでのコンテンツ系メディアは、大まかに言ってマスメディア型のモデルをなしていたといっていい。テレビが象徴的だが、いうなれば「上意下逹」、一方向的に送り手から送り届けられてくるだけだった。


 だが、ソーシャル系メディアの中にコンテンツ系メディアが組み込まれるような取り組みはすでに始まっている。Facebookにおいて、youtubeで見つけたお気に入りの動画を紹介し、友人と意見を交わすといった振る舞いはその典型だろう。本書が取り上げている電子書籍も、こうしたソーシャル系メディアとの連携が、今後ますます強化されていくだろう。


 そして、コンテンツの創作や発信においても、旧来のように一方向的になされるのではなく、むしろこうしたソーシャル系メディアの中から、「自然発生的」に芽生えたものが緩やかに共有されていくような、新たなあり方が起こってくるのではないかと本書では示唆している。


 著者の佐々木俊尚氏は、定評のあるジャーナリストであり、本書も氏の特徴がよく出て、満遍なく目線の行き届いたバランスのよい著作となっていると思う。たとえて言うならば、大学で電子書籍について講義する際には、格好のテキストである。


 ただ最後に、一点だけ付け加えるのならば、これは著者に対する要求というよりも、今後に向けての課題として記しておきたいのだが、ソーシャル系メディアに対する期待について、日本社会においてはあまり過信をしてはいけないのではないかとも思うのが正直なところである。


 というのも、やや「上から目線」の物言いとなるが、日本社会では、いわゆる「中間集団」が十分に発達していないのではないかと思われるからだ。
「中間集団」とは、個々人と社会全体をつなぐ橋渡し役を担う中規模の社会集団をいう。例えば、地域共同体などがその例だが、「お上」の主導によって急速に近代化を果たしてきたこの社会では、こうした「中間集団」の形成が十分ではないのではないかという危惧がぬぐいきれない。


 だからこそ、戦時中に結束が強められた町内会などは、個々人と社会全体をつなぐどころか、個々人を社会に縛り付けるための「上意下達」の伝達組織と成り果ててしまったのではなかっただろうか。


 今日のソーシャル系メディアにおける人々の連帯が、コンテンツを「民主的」に楽しむ新たな社会を作るために本当に役立ちうるのか、それとも、結局はマスメディア型の一方向的な「上意下達」の情報を、より効率的に伝えるための経路に成り下がってしまうのかどうか、研究者としても、今後の変化を見据えて行きたいと考えている。



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2011年05月31日

『放送禁止歌』森達也(光文社)

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「「思考停止」に陥らないための一冊」


「バカ! どんな理由があろうとなあ、歌ったらアカン歌なんて、あるわけないんだ!

 この銀河系のどこ探してもなあ、天体望遠鏡で見渡してもなあ、そんなものはどこにもないんだよ!」~映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)より


 本書は、映画監督・ドキュメンタリー作家である森達也氏が、とあるドキュメンタリー番組を取材・制作した過程を1冊の本にまとめたものである(当初は、2000年に解放出版社から、デーブ・スペクター監修で刊行されたが、2003年に文庫化された)。

 そのドキュメンタリー番組の名は、書名と同じ『放送禁止歌』、1999年5月22日の深夜、それも関東ローカルのみで放送された。しかしながら、このドキュメンタリー番組の地味さとは対照的に、扱われているテーマはきわめて重大である。


 森氏の主張は一言に尽きる。「思考停止することなかれ」。人間は考えることをやめてはならない。この主張は、現代を生きる全ての人にとって重要だ。なぜなら現代社会は、むしろ人間に思考停止を強いるように変化しつつあるからだ。一言で言えば、「より便利に、しかし考えるのは面倒くさい」社会になりつつある。


 身近な例を挙げよう。例えば街の至る所に設置されている「防犯カメラ」である。寝ずの番をせずとも、365日24時間、カメラが見張りをしてくれる。

 だが、ちょっと考えてみれば、それが我々自身を見張る可能性があることに気づくのは難しくないだろう。いわば、犯罪者に向けられた「防犯カメラ」とは名ばかりで、たちどころに、われわれ自身に対する「監視カメラ」に転じうるのだ。

 しかし、そのちょっと考えてみる・・・のが面倒くさい、という人が多いのはわからなくもない。

 さて、森氏のドキュメンタリーの手法も一言に尽きる。「面倒くさがらないこと」。我々からしてみれば、「えー、そんなこと、不思議に思ったこともなかったよ」というようなことでも次々に追求する。その様子には、思わず「この人、頭悪いんじゃないの?」とでも言いたくなってしまうほどの「物分りの悪さ」を感じもする。でも時にそれが大事なのだ。


 本書が取り上げる「放送禁止歌」とは、マス・メディアが取り上げない歌のことだ。冒頭の台詞は、特A級「放送禁止歌」と呼ばれる「イムジン河」を、ハウンド・ドッグの大友康平演じるラジオ・ディレクターが放送しようとして止められた際、叫んだものだ。実は、森氏が取材から明らかにしたことは、ほぼこの台詞に言い尽くされている。


 「放送禁止」される以上、我々はつい何か原因があるのだろうと思ってしまう。「きっと何か悪い歌だから、知らないほうがいいんだ」と思い込んでしまう。だが、まさにこれこそが森氏の危惧する思考停止なのだ。


 取材で明らかになったのは次のようなことだ。つまり、個々の「放送禁止歌」について、クレームがついた事実はあるかもしれないが、それを「放送禁止」にする公的な根拠などどこにも存在していなかったということだ。しいて言えば、民放連が作成した「要注意歌謡曲リスト」があるが、これとて法的な拘束力はなく、1983年を最後に更新されず、ほぼ効力はないという。

 つまり「放送禁止歌」は製作者側、視聴者側のいずれもが「放送してはいけないと思い込んでいた」だけの共同幻想だったのだ。いわば社会全体が思考停止する中で、いくつもの歌が正当に評価されずに葬り去られていったのだ。

 もちろん「放送禁止歌」の全てが名曲であるわけではない(それもまた新たな思考停止だ)。だが、知らず知らずのうちに、理由もないのにタブーを作り上げ、表現や想像力の広がりを狭めてしまうことは、最終的に我々の得にはならないはずだ。


 こんな時代だからこそ、読んでおきたいおすすめの1冊であるとともに、可能ならば、実際に放映された映像も、あわせてご覧になることをお勧めしておきたい。


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