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2014年03月31日

『オタク的想像力のリミット―“歴史・空間・交流”から問う』宮台 真司【監修】/辻 泉/岡部 大介/伊藤 瑞子【編】(筑摩書房)

オタク的想像力のリミット―“歴史・空間・交流”から問う →紀伊國屋ウェブストアで購入

「再び「オタク・オリエンタリズム」を超えるために」

 本書は、2012年2月28日の書評空間でも詳細させていただいたオタク文化に関する論文集『Fandom unbound : Otaku Culture in a Connected World』(Yale Unversity Press)の日本語版にあたるが、大幅な加筆が施されており、ぜひ改めてここで評しておきたい。

 サブタイトルにもあるように、本書では今日隆盛を極めるオタク文化について、社会学的な理解を深めるため、「歴史」「空間」「交流(=コミュニケーション)」といった三つの視点からなるそれぞれパートを設けており、さらに日米の一線級の研究者たちの論文を収録したという構成については、英語版とあまり変わるところはない。


 だが、日本語での読者を特に意識して行ったのは、今、日本社会においてオタク文化を考えることの意義を強く訴えた序章を新たに記すとともに、監修者として宮台真司氏を迎え、オタク文化に至る歴史を総合的に紐解きつつ、今後を展望する1章および終章を加えたということである。


 評者と共編者の岡部大介氏が記した序章でも触れたことだが、オタク文化は、今日では一見人口に膾炙したかに見えて、未だにその深層についての理解は進んでいないように思われる。


 いわば日本国内においても、「『とりあえずアニメが好きです』って言っておけば、話のネタになる」といったように、表層的なコミュニケーションツールには成りえていても、その文化としての来たる由縁や、詳細な実態について知りえている人々は多くないだろう。


 また諸外国においても、いかにオタク文化がグローバルに評価されているとはいえ、その受容や研究のされ方を見ると、極端にいえば「ゲイシャ・フジヤマ・シンカンセン」といったものと同列に、珍奇なものとしてステレオタイプにまなざされているだけではないかという印象がぬぐえないのも事実である。


 こうした意味において、オタク文化は依然として国内外の両方面から「オリエンタリズム的な視点」にさらされていると言わざるを得ない。

 本書では、こうした状況を打破すべく、主として社会学的な視点を元にしつつ、先に述べた「歴史」「空間」「交流」という三つのパートから理解を試みようとしている。


 そして新たに加わった終章においては、その未来についても展望しており、いわく「オタク・オリエンタリズム」が乗り越えられるのは時間の問題で、それはオタク・コンテンツが持つ「文脈の無関連化機能」によるのだという。


 さらに本書には、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』、北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』、森川嘉一郎氏の『趣都の誕生』といった必読文献からもそのエッセンスが採録されており、まさに監修者の宮台氏をして、「さらなるオタク研究のために、考え得る限りで現在最良の論集」(2014年3月25日7:53のツイートより)と評した内容となっている。


 広くオタク文化に関心のある方に、ぜひお読みいただきたい一冊である。


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2014年01月31日

『雑誌の人格』能町みね子(文化出版局)

雑誌の人格 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「雑誌を元にした人格類型論」

 とにかく楽しい一冊である。

 『装苑』の人気連載が書籍化されたものだが、まえがきにもある通り、その内容は、女性向けの雑誌を中心としながら、その読者像を、著者の「独断と偏見で想像」したものである。雑誌については、著者が面白いと思ったものを選定し、一定量バックナンバーにも目を通して、想像される読者像(雑誌の人格)を「(雑誌名)さん」と呼び表したうえで、その「年齢、容姿、家族構成やら趣味まで勝手に考えて、一人のあるいは複数の人格として作りあげ」ている(まえがきより)。


カラフルなイラストもふんだんに描かれているので、眺めているだけでも楽しいが、その画力とキャッチフレーズ、的確な分析に基づいた文章が相まって、「あるある」と感じながら読むことのできる、説得力のある内容といえるだろう。


 個人的に気になるのは、女性向けに比べて、男性向け雑誌にやや辛口なコメントが目立つところだろうか。「スパ!さん」は「男性ホルモンと社会性の間でバランスを取りながら暮らす、独身サラリーマン」であり、「メンズノンノさん」は「上京したてのダサい18歳の後輩と、その前に颯爽と現れる大学デビュー後の先輩との関係性」と名付けられている。


もっともこれは、著者の考えというよりも、雑誌が表すような華やかな消費文化に、未だ十分に適応できていない、男性たちに問題があるのかもしれない。よって、むしろ女性向け雑誌では、楽しそうなライフスタイルが伺えるキャッチコピーが多く見られるのが対照的である。


 また私見に基づくならば、雑誌の人格には大きく2つの種類があるようにも思われる。一つは、個別細分化した差異化志向で少数派的な雑誌、もう一つは、同調志向の多数派で共通文化=最大公約数的な雑誌である。


 女性向けでいえば、前者は例えば、「小悪魔ageha」「KERA」などが、後者は「Seventeen」や「Sweet」「non-no」などが該当するだろうか。


 そして、当然のことながら、前者の人格のほうが、よりキャラが立っているように感じられたが、後者についても、多数派志向の人格であったり、これから細分化していく前の思春期の人格などが説得的に描かれていたのは評価に値しよう。


 実は、評者は本務校の授業で、こうした雑誌文化の研究を例年行っており、こうした読者像のプロファイリング作業は、学生たちへの主要な課題の一つとなってきた(本書の存在もその受講者の一人が教えてくれたものである)。


 この課題に、学生たちは毎年悩まされることになるのだが、本書は、こうした雑誌文化研究にも示唆深い参考書となろう。


 だがその一方で、こうした学生たちの悩みであり、雑誌人格類型論の困難もまた本書には示されているように思われる。


 というのも、掲載誌が『装苑』だったこともあるが、本書が取り上げている雑誌は、若者向けというよりも、やや年齢層が上のものが目立っている。そして、そのことが示すように、今後の世代に対しては、その購読率の低下もあって、雑誌が代表的な差異化のシンボルとしては機能しなくなる可能性があるからである。


 実際に、今日の若者たちに話を聞いていると、「どの雑誌を読んでいるか」ではなく、「(そもそも)雑誌を読んでいるということ」によって差異化が果たされることすらあるようだ。


 だが、そうした動向は決して、本書の価値を下げるものでは決してない。雑誌がその姿を消し始めているのだとしても、今後若者たちが皆同じようにtwitterとfacebookだけを使うというような状況にはおそらくならないだろう。


現在は過渡期であり、また新たなメディア利用の人格類型論が必要になる時代が来るはずであり、本書はそのための貴重な資料としても役立つ日が来るはずである。


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2013年12月29日

『ほつれゆく文化―グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ』マイク・フェザーストン著/西山哲郎、時安邦治訳(法政大学出版局)

ほつれゆく文化―グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「変化し続ける、プロセスとして文化をとらえること」

 本書は、イギリスの社会学者マイク・フェザーストンが、1980年代末以降、各所で記してきた現代文化に関する論考をまとめたものである。

 本訳書の出版当時、フェザーストーンはノッティンガム・トレント大学の研究教授であるとともに、『Theory, Culture & Society』誌の編集長を務めている。冒頭の「『ほつれゆく文化』の刊行によせて」で吉見俊哉氏も述べているように、本書はフェザーストーンの学識の広さが表れた、視野の大きな文化社会学の理論書ということができる。


 その全体を通して、本書が一貫して問うているのは、グローバリゼーションとローカリゼーションが進み、激しく変動する現代において、文化を研究することの社会学的な意義である。


 たしかに、グローバリゼーションの進展は、一見するとアメリカ一極集中型の政治的なパワーゲーム、あるいはマネーゲームであるかのように感じられなくもない。こうした状況下では、イギリスで新自由主義的な政策を推し進めたサッチャー首相が、かつて述べていた「もはや“社会”などというものは存在しない」という言葉にも、それなりのリアリティを感じてしまいかねない。


 だがフェザーストーンによれば、こうした見方はあまりにも一面的なものだという。


 そもそもグローバリゼーションは、単に政治、経済的なパワーゲーム、マネーゲームだけではなく、もっと多様なプロセスからなるものだからである。具体的には、仮に経済的な動向が、既存の国民国家の枠を超えてグローバルな規模に拡大していくことに先んじていたとしても、やがて人々のアイデンティティの遡及対象となる、新たな社会や文化のあり方が、問われざるをえなくなってこよう。またそれは、既存の国民国家内に限定されてきた社会や文化の概念とは違って、流動性の高い、変化し続けるようなものとならざるを得ないのだともいう。


 そしてこの点においてこそ、フェザーストーンは、文化を動的なプロセスとして、しかしながら一つの自律した領域として捉えていく意義を強く主張している。


 また、別な観点からすれば、グローバリゼーションが決してアメリカ一極集中的に進むものではなく、むしろ日本や中国に代表されるような複数の極に基づいて進むものという主張も注目に値しよう。いわばこれまでの社会像(≒国民国家)が、そのままに拡大して単一の国際社会となるのではなく、むしろ複数の極がそのままに存在し、それらがせめぎ合い続けるそのプロセスの中で、まさにアイデンティティや文化が、重要な問題として浮上してくるはずだというのである。


 フェザーストーンによれば、こうした状況下において、(文化を研究する)社会学に求められているのは、「グローバルな社会関係や創発するグローバル社会といった新しい指示対象を考慮するように、基礎概念を再考する」(日本語版序文より)ことだという。


 こうした主張は、『社会を超える社会学』などの著作において、「移動(モビリティ)」を中心概念に据えながら、新たな時代の社会学を構想しようとする、同じくイギリスの社会学者ジョン・アーリなどの研究とも大いに関連するものである(実際に、フェザーストーンとアーリは、『自動車と移動の社会学』などの共著がある)。


 このように、アジアにもその目を向けながら、グローバルな規模で現代文化を社会学的にとらえようとした著作は、残念ながら日本社会においては多くない。どちらかといえば、等身大のリアリティの記述にいそしむような成果が、多くを占めていると言わざるを得ないのが現状だろう。


 だがその一方で、フェザーストーンの著作にも、一つだけ不満が残る点があるとすれば、記述が抽象的で、わかりやすい具体例を欠く傾向があるという点である。


 評者は、本書を今年度の大学院ゼミの購読テキストに指定して読み進めてきたのだが、受講生たちとともに行ってきた作業の中心は、個々の記述に、その都度あてはまりの良い具体例を探し出していくことであった。そしてその際に、現代の日本社会における文化の事例が、驚くほどに数多く、それも実に適合的であることを学んできた。


 よって、フェザーストーンの著作に、抽象的で具体例を欠くという批判を向けるのは、そもそもが「後出しジャンケンのないものねだり」のようなもので不適切なのかもしれない。むしろ、80年代末から90年代にかけて書かれた論考の中で、すでに今日的な文化状況を見通していたその慧眼をこそ、評価すべきなのだろう。


 そして、本書の様な理論的研究を、実際の日本社会の事例に当てはめつつ、さらに新たな理論的な展開を進めていくことが、我々のような後進の研究者の努めなのだと思わされた次第である。


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2013年11月30日

『キャラクターとは何か』小田切博(ちくま新書)

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「キャラクターの/をめぐる社会史」

 本作は、キャラクターそのものの歴史と、それをめぐる社会背景とが手際よくまとめられ、かつハンディで読みやすい著作である。

 キャラクターについての著作はいくつかあるものの、その登場の歴史的背景にまで踏み込みつつ、かつ現状の日本における問題分析まで手広くフォローした著作は少なく、その点でも本書は貴重である。


 日本社会において、キャラクタービジネスが定着してすでに久しいし、それを用いた日常生活やコミュニケーションも我々にとっては、なじんだものとなっている。


 また指導する学生たちの卒業論文などでも、ポピュラーな題材として扱われることの多いテーマとなってきた。


 こうした傾向は、評者が大学に勤務するようになった10年前からも見られ始めていたことだが、当時であれば、香山リカとバンダイキャラクター研究所の共著による『87%の日本人がキャラクターを好きな理由―なぜ現代人はキャラクターなしで生きられないのだろう? 』(学習研究社,2001年)ぐらいが目立った著作であった。また当時は画期的だったこの著作も、今から振り返れば、キャラに癒しを求めるメンタリティやキャラクタービジネスの裏側の分析には多くの紙幅が割かれているのだが、当のキャラクターそのものの魅力については、あまり語られていないように見える。そこから振り返れば、その後のさらなるキャラクター論の盛り上がりには目を見張るものがあるといえよう。


 さて、筆者は先行の議論も踏まえながら、「キャラクター」とは「図像」「内面」「意味」の3要素からなる複合体であると以下のように指摘している。


「図像」は絵としてのキャラクターデザインであり、ここでは「図像」要素が支配的なキャラクターの例として・・・「初音ミク」を挙げた。
「内面」はアニメーションやマンガなどのコンテンツで語られた性格であり・・・「矢吹丈」をこの要素が支配的なキャラクターとして例示している。
「意味」はキャラクターの属性や類型として与えられた「意味性」であり、代表例としてはアメリカ合衆国という「国」の象徴として描かれたキャラクターである「アンクル・サム」を挙げた。(P119~120)

 この指摘はほぼ妥当なものといえるだろう。実際のキャラクターにおいては、それぞれの要素のどれかが目立って存在していることが多い。上述された3つの事例はまさにその典型とも言えるものだが、そのように特定の要素が強調されて存在しているところにキャラクターの特徴があるといえるだろう。


 だがその一方で、「初音ミク」にもあとから「内面」が読み込まれていくように、あるいは「アンクル・サム」にもそれにふさわしい「図像」が必要であるように、これらの要素は、それ単独で成立することは(不可能ではないにせよ)なかなか難しく、実際には複数の要素が絡み合って成立していることが多い。


 この点は、いうなれば我々人間の自己というものが、主として「外見」と「内面」(上述の三要素の「図像」と「内面」に相当)を気にしつつ、さらにそれが「他者との関係性」を保ちながらその中での意味づけにも基づきながら(ここでいう「意味」に相当)成立していることとパラレルだといってよい。


 まただからこそ、今日多くの人々がキャラクターを求め、それに自己の形成過程を重ね合わせながら日常生活を送っているのであり、それはもはや必要不可欠の存在といってよいだろう。


 そのようにキャラクターは、日本社会に生きる人々にとって、もはや切っても切れない存在となりつつあるが、かといって本書は特定のキャラクターに対する強い思い入れが長々と語られるわけでもなく、むしろそのビジネスの歴史が語られている章などは特に、淡々と冷静に語られている印象があり、その点で好感が持てる。


 キャラクターのことを学びたい人に、格好の入門書としてお勧めしたい一冊である。


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2013年03月24日

『ポピュラー文化ミュージアム―文化の収集・共有・消費』石田佐恵子・村田麻里子・山中千恵[編著](ミネルヴァ書房)

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「ポピュラー文化のミュージアム化/ミュージアムのポピュラー文化化」

 待望の一冊である。子どものころ、博物館に出かけて、いつまでも飽きることなく展示物を眺めていたような興奮に近い感覚を持って読んでしまう著作である。

 日ごろ、研究書に対してそのような感覚を持つことはあまりないのだが、本書は、ポピュラー文化に関する様々なミュージアムを題材にした、その情報量の豊富さからしても、多量な展示物を眺めるときの、あの楽しさの感覚を持って読んでしまう著作である。


 思えば昨今では、ポピュラーな題材を扱ったミュージアムが増えてきた。本書の第8章で取り上げられているマンガ関連ミュージアムなどはその好例としてすぐに思いつくものだが、その中には大学と協力関係にあるものや、著名なマンガ家を記念したものなどが、いくつも存在する。


 これは、日本社会におけるポピュラー文化がその歴史的な積み重ねの中で、一定の成熟に達し、アーカイブされるほどのものになってきたということなのだろう。いうなれば、「ポピュラー文化のミュージアム化」という変化である。


 その一方で、ミュージアムそのものがポピュラーな存在になってきたという変化も存在するようだ。評者が担当した第9章の鉄道ミュージアムなどはその典型例だが、かつては軍国少年に対する科学教育の場であったものが、今日では、ノスタルジックな文化を消費する場へと変わりつつある。博物館といえば、おしゃべりをしていると怒られたような厳粛な場であったのが、今日のポピュラーなミュージアムでは、むしろ子どもたちが走り回るレジャーランドのような場であることが多い。これはむしろ、「ミュージアムのポピュラー文化化」ともいえる変化だろう。


 こうした2つの変化を、編者の一人である村田麻里子は、第1章において「ミュージアム・コンテンツの<ポピュラー文化>化」と「ミュージアム体験の<ポピュラー文化>化」とより正確に言い表している。


 その第1章も含まれた第一部では、こうした新たな現象をとらえるための、理論的な視座および調査方法の検討が行われている。そして続く第二部では、化粧品(第5章)、音楽(第6章)、映像コンテンツ(第7章)、マンガ(第8章)、鉄道(=マニア文化、第9章)、エスニック文化(第10章)といった具体的な事例の検討が行われている。


 巻末のおすすめミュージアムリストとあわせて、これらの事例やコラムの数々を見ているだけでも十分に楽しいが、しっかりとした研究アプローチ法を検討した第一部だけでなく、今後の行く末までも見据えた第11章と合わせて読む込むことで、こうした文化現象に対する理解が間違いなく深まることであろう。


 自らも参加している著作を高く評価するのには、やや躊躇するところがないわけでもないのだが、それでも本書は、昨今の日本のポピュラー文化研究書の中でも久々の傑作といってよい一冊だと思う。


 研究者だけでなく、ミュージアム好きの方に広くお読みいただきたい。


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2012年12月28日

『ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争』松谷創一郎(原書房)

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争 →bookwebで購入

「女子コミュニケーションの通史として」

 女子会という言葉がある。男子抜きで女子だけで気ままに集まる会合を意味しており、今や多くの人が知ることとなった言葉だが、先日、ツイッター上でその裏側の定義ともいうべきものを見つけて、思わず笑ってしまった。すなわちそれは、「欠席裁判でいない女子の悪口をみんなで言い合う会」というものであった。

 この定義からも分かるように、女子のコミュニケーションにおいては、多数派(この場合、女子会の参加者)と少数派(同じく欠席者ないし非参加者)の間に線を引いて、前者は後者のことを「変だよね、変わっているよね」と噂することで同調圧力を保ち、後者も前者のことを「周りに流されてばかりでつまらない人たち」と批判することで独自性を担保するという、いわば批判し合っているはずの両者の「共犯関係」ともいうべき関係性が存在しているということが重要なのである。


 そして本書『ギャルと不思議ちゃん論』において、著者の松谷創一郎が看破したのは、女子コミュニケーションを理解する上では、その内容よりも、むしろこうした「共犯関係」ともいうべき形式の方が重要であるということであった。すなわち、「多数派VS少数派」という形式のほうが長らく保たれてきており、その間では、コミュニケーションの内容がまるで180度入れ替わってしまったりもしてきたのだ。


 具体的に言うならば、1980年代に至るまでは、前期近代的な良妻賢母思想がほぼ残存し、多数派の女子とは、非性的な存在としての少女のことであり、むしろ性的に目覚めていたものたちは少数派として「不思議ちゃん」扱いされていた。


 それが、性愛的な快楽が席巻する1990年代を迎えると、むしろ性的に目覚めた(コ)ギャルたちこそが多数派に、そして少数派の「不思議ちゃん」こそはむしろ非性的な存在へと入れ替わっていくこととなったのである。


 こうした「多数派VS少数派」図式は、きわめて強固に、それも本書のサブタイトル(「女の子たちの三十年戦争」)が示すように長きにわたって、女子コミュニケーションを規定してきた。


 だが今後の展開については、さらに興味が惹かれるところもある。たとえば、著者も最後に示唆しているように、最近注目されている、きゃりーぱみゅぱみゅなどは、どちらかといえば「不思議ちゃん」に分類されるものと思われるが、かといって、かつての「不思議ちゃん」ほどマイナーではなく、むしろかなりメジャーな存在だと言ってよい。


 このように、「多数派VS少数派」を線引きするような共通の価値観(例えば性愛至上主義など)が弱り、個別細分化が進んでいくと、果たしてこの図式がどこまで続いていくのかという点については、疑問が生じてこざるを得ない面もあるし、事実そうした象徴とも言うべき女子たちが出現しつつある。


 しかしながら、こうした先々への視線を見開いてくれる上でも、そしてこれまでの女子コミュニケーションの整理された通史という点においても、本書は一読の価値のある著作といえるだろう。


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2012年11月30日

『ジャニヲタあるある』みきーる【著】 二平 瑞樹【漫画】(アスペクト)

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「「キャラ化」するオタク 」

 本書は、いわゆるジャニヲタとよばれる、ジャニーズ系男性アイドルのファンたちの実態を、イラストを交えながら面白おかしくまとめたものである。

 勤務先の大学にもジャニヲタがたくさんいるのだが、その中の一人から、「とってもうなづける点が多いので、ぜひ」にと勧められて手に取ってみた。


 なるほど、読んでみると確かに面白い。冒頭にジャニヲタ特有のふるまいの例が50個挙げられているのだが、どれも「あるある」な感じがしてうなづけた。


 中でも、「お互いの担当をほめそやす」(P55)、「隣が誰坦か、横目でチェックする」(P20)、「「当たった」ツイートがクソうざい」(P15)などは、まさにジャニヲタのコミュニケーションの典型例である。


 ここでいう「担当」とは自分の好きなアイドルのことだが(誰坦とは、誰の担当か、ということだが)、ジャニヲタたちは、「お互いの担当をほめそや」して表面上は友好的にふるまいながら、内心では常に「横目でチェックして」いて、相手に自分よりも幸運が舞い込むと(例えばコンサートチケット等があたると)嫉妬に狂うのである。


 だが、こうした個別のふるまいに対する「あるある」という感覚以上に、本書にはさらに大きくうなづける点があるのだ。それは、本書(あるいはその全体的な構成と言ってもいい)が、「キャラ化」ともいうべき現在進行形の社会現象をうまく表現しているということである。


 それは本書の主たる内容が、「(こういう人)いるいる」ではなく、「(こういうふるまい)あるある」という形でまとめられているところに現われているとも言える。


 よく言われる対比だが、「キャラクター」と「キャラ」との違いとは、前者がある一つの像に収斂する統一的な人格であるのに対して、後者は場面ごとに異なりうるふるまいであるということだ。


 さらに噛み砕いて言えば、本書冒頭の50個のふるまいの例を読んでいて面白いのは、それぞれは個別に「あるある」な感じがするのだが、それを読み進めていても、頭の中では、ジャニヲタとはこういう人格だというような統一的な像がなかなか結ばないのである。


 実はそれも道理で、本書でも「ジャニヲタ図鑑」というコーナー(P80~)で、一応人格化されたイラストイメージが示されているのだが、実にそこにおいても8パターンものジャニヲタ像が提示されているのである。


 こうした点は一見些細なことがらに見えるけれども、20年近く前からこのフィールドに注目してきた立場からすれば、意外と見逃せない大きな変化と言わざるを得ない。


 というのも、ジャニヲタにせよ、いわゆるオタクにせよ、かつてならば、それは間違いなく統一された一つの人格としての像を結んでいたからである。


 それは、今でいうならば、非モテで非リア充の人々が、だからこそ虚構の世界の中に現実逃避のためのシェルターを求めているような文化であった。 


 しかし今やこの状況は変わっていて、彼氏がいてもジャニヲタであったり、オタクであるのに彼女がいたりもするし、あるいは一見リア充に見える若者が、ある場面ではとてもオタク的なふるまいをするようなこともある。


 いわば、オタクという文化が、もはや統一された人格としての像を結ばずに、場面ごとのふるまいのあり方へと細分化していくような変化、すなわち「キャラ化」という社会現象こそが、本書を通読すると見事に浮かび上がってくるのである。


 こうしたオタクの「キャラ化」は、リア充でありながらオタクといった存在からも伺えるように、オタク文化の底上げ化が成し遂げられた肯定的な成果のようにも見えつつ、一方で、現実から虚構世界へと向かう原動力とも言うべき、熱烈なルサンチマンが消失してしまうのではないかといった危惧をも抱かせるものである。


 このように、本書はその内容の「あるある」感だけでも十分に楽しめるものだが、一歩引いた視点から、ファンやオタク達の文化の現状とこれからを考える上でも、実は示唆に富む一冊なのである。


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2012年06月30日

『「女子」の時代!』馬場伸彦/池田太臣 編著(青弓社)

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「「女性学」から「女子学」へ」

 大学、あるいはその他の教育機関でも同様だと思うが、「男子よりも女子の方が元気がいい」という傾向が顕著である。例えば、成績優秀者をリストアップすると、決まって上位は女子が独占するといった傾向が見られるようになって久しい。

 いったい、いつ頃から女子の方が元気がよくなってきたのかと振り返って見た時、評者の経歴を振り返れば、すでにその少年時代からそうした傾向が見られた。


 評者は現在、いわゆるアラフォーとアラサ―の中間の年齢だが、同年齢層の女子たちは、いわゆる「アムラー」、あるいは「(コ)ギャル」と呼ばれたように、90年代の消費文化を席巻していたことを思い出す。あるいは、評者には10歳ほど年上の姉がいるが、ほぼアラフォーに位置づく彼女たちは、まさにバブルを謳歌し、就職活動も売り手市場だった。このように評者からしても、すでに元気な女子に囲まれて育ってきたことが思い出される。


 さて本書は、こうした元気のいい女子たちの文化に焦点を当てた論文集であり、主に関西在住の研究者で構成された「女子学研究会」の研究成果であるという。編者をはじめとして、ほとんどの著者が甲南女子大学に所属しているというのも興味深い。というのも、これも本文で触れられているように、同大学の学生は、『JJ』(光文社)が1975年に創刊された際に理想的な読者層として想定された対象だったからである(P58)。


 そして、ファッション雑誌だけでなく、マンガ、オタク、鉄子、K-POPと、今日活発化する女子たちの文化をとらえるための対象が適切に選択されており、どの章から始めても、面白く読み進めることができる。


 こうした女性たちの文化に注目した研究としては、ひと頃まではその社会的な地位向上を志向したフェミニズム的な「女性学」が中心を占めていた。本書にはその残り香が全く感じられない・・・、とまでは言わないものの、それでもそうしたこれまでの「女性学」とは一線を画しているところに、新しさと面白さがあると言えるだろう。


 海外でも、「ポストフェミニズム」の名のもとに、一定程度の地位向上を達成した女性たちの文化を、「被抑圧者」のそれとしてではなく、むしろ肯定的に評価すべきものとしてとらえ返していこうとする研究がなされつつあるという。本書は、一面ではそうした潮流に位置付けられるものであると同時に、さらにそれを日本社会の独特の文脈に位置づけなおしたもの(まさに“女子学”!)として、高い評価に値するだろう。


 強いて一点だけ問題提起するならば、こうした「“女子”文化」が、今後も下の世代の女性たちに受け継がれて続いていくものなのか、それとも一過性のものなのかという点については、今後の検討をさらに期待したいと思う。


 というのも、こうした元気のいい「女子文化」は、最初に記したように、現在のアラフォーやアラサ―たちといった、華やかなりし頃の消費文化の下で育った年齢層たち(=コーホート)に特有の文化に思われて仕方ないからだ。


 したがって評者からすれば、こうした文化は下の世代に継承されるものというよりも、現在のアラフォー、アラサ―たちの年齢層が上がるとともに、そのまま持ちこされていくものなのではないかと思いもする。逆にその下の世代では、専業主婦志向の高まりなど、「保守回帰」的な傾向も見られるだけに、なおのことそうした思いが強まるのだが、いずれにせよ、そうした先々の研究展開の可能性まで感じさせる興味深い著作として、本書を多くの方にお読みいただきたいと思う。



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『ヤリチン専門学校―ゼロ年代のモテ技術』尾谷 幸憲(講談社)

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「男性側から「性愛至上主義」の崩壊を描いたルポルタージュ」

 本書は、かの「東スポ」こと「東京スポーツ」紙に連載された記事が元になったものであり、その点からも、半分以上は「ネタ」として差し引きつつながら、面白がって読み進めるべきなのだろう。だが、それでもなかなか他書が踏み込めていないような現状が描かれた、興味深いルポルタージュとして評価に値するものとして紹介したい。

 まえがきでも記されているように、この本の本来の目的は、「彼ら(=カリスマナンパ師。※評者補足)が日々使っているモテ技術をあますことなく紹介していく」ことにあったのであり、いわゆるナンパ指南術的なマニュアル本を意図して行われたインタビュー集だったのだという。


 ところが興味深いことに、その意図とは裏腹に、むしろそうした高等なテクニックを必要としたような、「80年代あるいは90年代的な」性愛至上主義的な文化がすでに崩壊しつつあることが、結果的に記述されることとなってしまったところに、本書の最大の面白さがある。


 それは、今の若い女性たちが「高い店を嫌う傾向があり」、「オシャレな雰囲気を楽しむより、気楽に飲んでダラダラと話すのが好き」なため「居酒屋を支持する女性の方が圧倒的多い」(第四回 安い居酒屋はモテる!)ということや、「高いブランド物を着てればモテるなんて発想自体が古い」(第八回 ブランド信仰は終わった)ということ、あるいは、多数のクルマが乗り付けたナンパスポットがもはやクルマオタクの社交場と化し、女性たちには「車に対する思い入れがない」(第九回 車ナンパの時代の終焉)といった記述などに典型的に表れている。


 いわば、半ばゲーム感覚に記号的な消費行動を競い合い、その延長線上のゴールとして性愛行動が位置づけられていたような文化は、すでに遠い過去のものとなってしまったのだ。こうした変化を鮮やかに、それもリアリティをもって描き出したところに、本書の価値があると言えるだろう。
だがその一方で、本書が描き出しているのは、若者が性愛行動から完全に撤退してしまったということでもない。それはいうなれば、消費行動の先の至上のゴール(=性愛至上主義!)ではなく、もはや複数あるうちの一つの楽しみ(=ワンノブゼム)になったということなのだ。


 そしておそらく、こうした変化を先取りしているのは、男性よりも女性たちなのだ。だからこそ、しばらくの間、男性たちは「置いてけぼり」を食わされているのだろう(いわゆる草食系男子もこうした「置いてけぼり」の状態なのだと理解することができるのではないだろうか)。


 そして置いて行かれた男性たちが、女性たちとの新しい向き合い方を求めた取り組みの一つとして、本書が位置づけられよう。このように「講談社アフターヌーン新書」には、一風変わった視点から、新しい性愛や関係性を描いた好著が多い。そのタイトルからしても、誰もが手に取りやすい著作ではないが、新しい時代の性愛文化を考える一冊として本書をお勧めしたい。


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2012年05月31日

『文化のダイヤモンド―文化社会学入門   (原書名:CULTURES AND SOCIETIES IN A CHANGING WORLD)』ウェンディ・グリスウォルド 著 / 小沢一彦 訳(玉川大学出版部)

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「グローバル化する文化を記述するためのモデルの探究」

 現代社会はグローバル化の進展が著しいが、それは我々が日々享受するポピュラー文化についても例外ではない。

 一国あるいは一つの社会内だけでというよりも、幾重にも複雑化した状況下で文化を楽しむことが増えてきている。それは、歌詞が日本語の曲を歌うK-POPアイドルの現象であったり、あるいは、もともとはアメリカの影響を強く受けてきたジャンルである、日本製のアニメを通して日本語を学ぶ諸外国のファンがいたりというように、枚挙にいとまがない。


 このように、現代社会とともにますます複雑化するポピュラー文化の状況は、いかにとらえられるべきなのだろうか。


 この点について、旧来のモデルにきっぱりと別れを告げ、新たなモデルの提示とともに示唆を与えてくれるのが、アメリカの社会学者ウェンディ・グリスウォルドによって書かれた本書『文化のダイヤモンド』である。


 この和訳書は1998年に出されたものだが、原書は1994年に出されたのち、社会状況の変化とともに改訂を加えられ、2012年現在、第四版が出るまでに至っており、まさに文化社会学のスタンダードなテキストの一つといってよいだろう。


 さてその特徴は、まずもって、ポピュラー文化現象を単純な「説明」要因に帰属させるような旧来のモデルを明確に退けているところにある。


 ここでいう旧来のモデルとは、いわゆるマルクス主義的な下部構造決定論であったり、マスメディアのメッセージの効果を過剰に強調する強力効果論などを想定するとよい。社会成員が特定の目標を共有しやすい、近代過渡期の社会ならばともかく、後期近代の成熟社会においては、もはやそのように特定の要因から「説明」できるほど、ポピュラー文化現象は単純なものではなくなっている。


 あるいは、この現象は日常的に身近に楽しまれているものであるだけに、客観的にとらえることが難しいともいえるだろう。それゆえに素朴な「肯定論/否定論」であったり、あるいは「有益な文化/有害な文化」、もしくはもっと単純に「正しい/間違っている」「好き/嫌い」といった二分法的な議論ばかりがまかり通り、まっとうで深みのある議論がなされてこなかったのだと言える。


 こうした点を踏まえて、グリスウォルドが提示するのは、むしろポピュラー文化現象に関連する、主たる存在や社会状況相互間の関連を考慮した、「説明」というよりも「記述」することに重きを置いたモデルであり、それこそが「文化のダイヤモンド」なのである。


 日本語としては「ダイヤモンド」というよりも「ひし形」といったほうが正確なのだが、その左端に「(※文化の)創造者」を、右端に「受容者」、上端に「社会的世界」、下端に「文化的表象体」を位置づけて、これらをたがいに線で結んだ「ひし形」を描いた上で、グリスウォルドは「ある特定の文化的表象体を完全に理解するには、四つの点と六本の線をすべて理解する必要がある」(P32)と述べ、一定の複雑さを保持したままに、複数要因の絡み合った現象としてポピュラー文化を記述することを提言している。


 このことを通して、ようやく素朴な「肯定論/否定論」であったり、単純な「説明」要因に帰結させたりする議論を退けて、ポピュラー文化現象に客観的にアプローチすることができるのだという。


 同じようなモデル化の試みとして、他には、「表象」「アイデンティティー」「生産」「消費」「規制」という5つのプロセスの組み合わせから記述しようとするポール・ドゥ・ゲイの「文化のサーキュレーションモデル」なども挙げられるが、むしろ旧来のモデルとの対比のしやすさなどを考えると、評者は本書のほうに軍配が上がるように思われる。


 しかし、だからといって本書で提示された「文化のダイヤモンドモデル」が最終回答であるわけではない。それが記述のためのツールであるならば、ますます複雑化し発展していくさまざまなポピュラー文化現象へのアプローチの記述を通して、より適合的なモデルへとさらに洗練していく努力が求められるといえよう。


 実際に日本においても、社会学者の佐藤郁哉らによる、学術書の出版をめぐる文化現象の記述に用いられた前例があるが(佐藤郁哉・芳賀学・山田真茂留『本を生み出す力』新曜社)、今後もさらに多様な実用例を積み重ねていくことが期待されよう。

※補注は評者。


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『世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』辻田 真佐憲(社会評論社)

世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代 →bookwebで購入

「あの麻木久仁子氏もtwitter上で所望した貴重な網羅的資料集」

 はじめに、で書かれているように、本書は「軍歌の標本」となるべく、「世界各国の軍歌をひとつの素材として取り上げることで、各位の興味や趣向にあわせて随意に翫賞してもらうこと」を目的としたものである。

 よって取り上げる素材に比して、おどろくほどその内容はイデオロギッシュなものではない。国粋主義的な視点からそれを称揚するのでもなく、左派的な視点からそれを批判するのでもない。


 それゆえにこそ、バランスよく多様な軍歌がちりばめられた本書は、まずもってその網羅的な資料集としてのハンディな価値を評価すべきなのだろう。


 だが、ある意味で筆者の意図したとおりに、その資料集は私(=評者)の社会学的な問題関心を幾重にも刺激してやまないものであった。


 以下、箇条書き的にいくつか感想を記してみたい。


 まず本書を通して、軍歌というものの特徴を、一歩引いた目から改めてよく理解することができた。本書では書籍自体の内容と合わせて、動画共有サイトでの視聴が勧められている。そこでの動画視聴から感じられたことは、やはり軍歌はともに歌うものなのだということであった。(そのことの良し悪しは別として)リズムを共有させて一体感を増すことで、統率がとりやすくなるのは明らかであろう。


 この点について評者は、幕末から明治初期を描いた手塚治虫の名作『陽だまりの樹』において描かれている、急きょ集められた農民たちを統率するのに苦労していた指揮官が、いわゆる「農兵節」を歌わせることで、うまく統率できるようになったというエピソードを思い起こした。


 次に感じたのは、その勇ましい歌詞において、「敵味方モチーフ」がほぼ共通して存在しているという点である。(当然といえば当然であるが)共に歌う我々と、それに敵対する相手という二分法は、ほぼ各国の軍歌に共通するモチーフであり、この点でも、軍歌という音楽が、近代国民国家間の戦争とともに発達してきたジャンルであることが改めて思い知らされた。


 しかし、ここからがより重要なのだが、戦争の世紀とも言われた20世紀を過ぎ、21世紀の今日において、こうした軍歌という存在に象徴された「敵味方二分法」的なコミュニケーションが消えうせたのかといえば、まったくそうではないだろう。


 たとえば、戦争放棄をうたった日本国憲法下の戦後社会において、それはアニソン(とりわけ少年向けのそれ)に、受け継がれたといえるのではないだろうか。ヤマトしかり、ガンダムしかりだが、そのアップテンポなノリの良さと勇ましい歌詞という組み合わせに基づくアニソンというジャンルは、戦前の軍歌からの継続性の上に理解するべき文化なのではないかと思われる(実際に本書においても、軍歌を収集した代表的なインターネットサイトの中で、アニソンが同時に紹介されている事例が掲載されている)。


 そして、このアニソンというジャンルが、日本社会に特徴的な存在であるならば、他の社会では、どのように受け継がれているのか、という風に議論を展開することも可能だろう。具体的には、スポーツの応援歌などと比較検討することも興味深いし、社会主義圏と自由主義圏とでも事情が違ってくるだろう。


 このように、幾重にも議論の広がりが導かれていくところが本書の最大の魅力であるといえる。


 さらにここで筆を滑らせるならば、こうした国際社会的な深刻な問題点を、日常的で身近な文化的素材を切り口にして考えさせてくれる著作を出し続けている点において、出版元の社会評論社のスタンスもまた高い評価に値するものといえるだろう。

 本ブログでも、過去に2度ほど同社の著作を評したことがあるが(伸井太一『ニセドイツ』、曽我誉旨生『時刻表世界史』)、いずれも同じようなスタンスに貫かれた魅力的な著作であった。


 こうした著作群は、(失礼を承知で申し上げれば)決して爆発的なベストセラーになるようなものではないのだろうが、その一方で、「ロングテール」な熱狂的な読者を手堅く魅了するものでもあるだろう。


 この点で、この書評のタイトルは、いわゆるマスメディア広告的な安い売り文句に見えて、実はそれなりの含意を持っている。


 それは、先にも述べたとおり、帯文において動画共有サイトでの視聴が合わせて勧められていることと大きく関連するのだが、言うなれば、本書が「ソーシャルに楽しむ著作」、あるいは「ソーシャルメディア上のコミュニケーションを通して、より楽しむべき著作」ということだ。


 本年のNHK大河ドラマ『平清盛』が、大多数には不評である一方で、一部においては、その複雑な設定について、ネットでその背景を調べたり意見交換したりといった、「ソーシャルな視聴の楽しみ」が広まっているといわれるが、まさにこれと似たような楽しみ方が、本書のような著作においては、特にあてはまることだろうと思う。


 そうした「分かる人には分かる」ような「ソーシャルに楽しむ著作」が、今後も刊行されることを願ってやまない。


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2012年04月30日

『「世界征服」は可能か?』岡田斗司夫(ちくまプリマ―新書)

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「「男子的野望」を転換させるための特効薬」

 読後感が実に爽快な一冊である。期待以上の内容といってよい。当初は「?」のついた疑問形の書名が頼りなさげに感じられて仕方なかったのだが、まさに「どんでん返し」ともいえる結論を読んで、スッキリした。コンパクトで読みやすい本なので、ちょっとした時間の合間にでも、前から順に読んでほしいと思う。

 さて、「はじめに」において、「小さい頃、一度くらいは「世界征服」にあこがれたこと、ないですか?」(P15)と問いかけられているように、それはある時代までの男の子にとって、実にメジャーな野望(あるいは夢)だったといってよい。あるいは、これも本文中で触れられているように、アニメや特撮に登場する悪の組織の野望は、たいていの場合、「世界征服」であった。


 このように、ある時代までは当たり前のように語られていた「世界征服」という野望について、本書では、いくつものマンガ・アニメ・特撮作品の設定内容を事例として取り上げながら、丹念な検証がなされていく(このあたりは、まさにオタキングたる岡田氏の面目躍如という感じである)。


 具体的には、「世界征服」をすることの背景にはどのような目的がありうるのか、征服した際にどのような支配者になりうるのか、そしてそれはどのような手順でなしうるのか、といった点について検証が進められている。

 そして、これらの検証を経たうえで、第4章で書名と同じ問い、「世界征服は可能か?」が問われることになるのだが、この問いに対する岡田氏の答えは、「不可能と思われるが、可能でもある」というものである。


 すなわち、いわゆる旧来イメージされてきた「世界征服」についていえば、それは理論上は不可能なことではないという。確かに、強大な軍事力があれば、一時的に世界を支配下に置くことは不可能ではないだろう。


 だが、これだけ複雑化した現代の社会を、一人の支配者が独裁的に支配し続けることは、おそらくは不可能であろうことも想像に難くない。いわば、それは「世界という学級の先生」「世界の校長先生」(P158)のようなものであり、これだけ問題の多発する現代社会においては、「その労力に見合った「うまみ」」(P160)がなく、不可能であるというよりも、「かつてのイメージみたいな「世界征服」は無意味なこと」(P176)になってしまったのだ。


 しかしその一方で、岡田氏は「世界征服」は可能だともいう。「「その時代に信じられている価値観に反対すること」が悪の定義」(P183)であり、それに従えば、旧来イメージされてきたのとは、異なった「世界征服」がなしうるはずだという提言がなされている。


 以降の詳細は、本書をお読みいただきたいが、最後に岡田氏が提言している新たな「悪の定義」や「世界征服」については、特に、かつてそれを野望として描いていた男性たちに読んでほしいと思う。


 数年前、閉塞する社会状況を打破するには「戦争」にしか希望を見だせないという評論が注目をされたことがあったが、そのような幼児的な野望を乗り越えていくためにも、本書は特効薬的な効き目を持ち合わせた一冊だと思う。


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2012年03月31日

『Pop Culture and the Everyday in Japan : Sociological Perspectives』Katsuya Minamida & Izumi Tsuji eds (Trans Pacific Press)

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「本当の「文化の時代」を考えるために」

 「文化の時代」というキャッチフレーズがもてはやされたことがある。大平内閣のころ、1980年代の初めごろである。

 いわく、これからはお金では買えない満足感の時代、そういうライフスタイルが中心となる、というものだったが、内実はバブル絶頂期へと向かう「経済の時代」の余技のようなものでしかなかった。


 「企業メセナ」という言葉がもてはやされたのも1980年代だが、やがて90年代の到来とともに、企業は文化的活動から次々と撤退し、長期的な不況の続く今日に至るのである。


 だが、こうした状況こそ、本当の意味での「文化の時代」が到来したと言えるのではないだろうか。もはや右肩上がりの経済成長など、到底望めないような成熟した社会状況にこそ、文化的な快楽を中心にしたライフスタイルを構想していくべきなのではないだろうか。


 こうした現状に比して、この社会においては、文化を捉える視点があまりにも貧しかったと言わざるを得ない。


 一つには、過剰に否定的か、肯定的な議論に偏りやすいという問題点がある。かつての、大衆文化をめぐる議論を見ても、あるいは今日にまで至る若者文化に関する議論を見ても、そこには、外部からの一方的な批判と、内部からの自己肯定との対立が繰り返されてきた。いわゆるオタク文化に関する議論についても、同様の構造があてはまる。


 さらにはこの点とも関連して、議論のベースがその時々に輸入された学問に依拠しがちで、深みのある継続的な研究がなされてこなかったという点も指摘できる。


 例えば、バブル経済の崩壊した90年代以降、英米圏に端を発するカルチュラル・スタディーズと呼ばれる批判的な文化研究の潮流が日本においても広がっていったが、評者もこの潮流に対して、一定の評価をしつつも批判的な立場を取ってきた。


 それは、現代の文化を研究するチャンスを拡大してきたのがカルチュラル・スタディーズの貢献であることは否定しがたい事実であるとしても、アプリオリに前提とされがちな批判的な視点が、日本社会の状況を分析するのに適していると思われなかったからである。


 本書、『Pop Culture and The Everyday in Japan 』は、こうした経緯を踏まえて、現代日本社会における文化状況を、あくまで経験的・実証的にとらえることを企図して、編集された論文集である。


 その特徴を一言で言うならば、幅広い社会的文脈から文化を捉えなおそうとしている点にある。


 したがって、そこで扱われている事例も幅広い。オタク系のキャラ「萌え」の文化やアイドルファンの文化に始まって、若年層の労働問題やナショナリズムの問題にまで及ぶ。だが、一見バラバラに扱われたこれらの事例が、読み進めていくうちに、今日の日本社会を表す個別の断面として、徐々につながって感じられてくることだろう。


 また第Ⅱ・Ⅲ部の事例編に先立ち、第Ⅰ部においては、現代の文化に関するこれまでの議論を手際よく整理しつつ、日本社会の現状を捉えるために適切な視座は何かという点が提起されている。


 こうした本書を貫く視座は、文化に対する「文脈化した理解」にあるといってよいだろう。過剰に否定的、あるいは肯定的になるのでもなく、あるいはその場しのぎの分析をするのでもなく、あくまで経験的・実証的に、今日の日本社会における文化状況が、いかなるコミュニケーションとして営まれているのかを冷静に記述していくこと、を企図している。


 こうした作業の蓄積は、冒頭で記したような、本当の意味での「文化の時代」ともいうべき社会を構想していく上で、重要な知見をもたらしてくれることだろう。

 本書は、元々は、『文化社会学の視座―のめりこむメディア文化とそこにある日常の文化』というタイトルで、2008年にミネルヴァ書房から日本語で刊行された論文集だが、オーストラリアの出版社、Trans Pacific Pressのご厚意によって、日本語版から数年を経て、英訳版として刊行されたものである。


 とりわけ輸入学問のアリバイ作りのような浅薄な議論ばかりが繰り返されてきたジャンルの研究成果が、英訳されることの意義は決して小さくないものと思い、編者の一人ではありながらも、本書をここにご紹介させていただいた。


 諸外国において、現代日本の文化に関心を向けておられる方々は元より、多くの方に本書をお読みいただきたい。


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2012年02月28日

『FANDOM UNBOUND』Mizumo Ito, Daisuke Okabe, Izumi Tsuji(Yale University Press)

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「「オタク・オリエンタリズム」を超えて」

今日、われわれは「日本のオタク文化は海を越えて世界的に評価されている」と思っている。

ジブリに代表されるアニメ作品に対する評価や、あるいは海外出張の際に現地の書店に入ると「Manga」と記されたコーナーがあって、現地の言葉に訳された日本のマンガが並んでいる光景などを見ると、それもおおむね間違ってはいないのだろうと思ったりもする。


だがその一方で、なぜ日本のオタク文化において、これらの評価に値する作品が生まれてきたのか、さらに引いた目で見るならば、なぜ日本社会においては、これほどの想像力の豊かなオタク文化が成立してきたのか、といった社会的な背景については、十分に理解されていないように感じることもある。


寡聞にして評者の経験に基づくならば、海外からの日本のオタク文化に対する見方においては、一方では「ゲイシャ・フジヤマ・シンカンセン」とでも並べられてしまうような、珍妙なふるまいをする「オタクたち」が注目を集めながら、さらに一方では、あたかも文学的な評価に値する作品のように、一部の日本製アニメやマンガがもてはやされるという、そこには奇妙な切断が存在しているように思われる。


日本社会に注目が集まること自体は喜ぶべきことと思うのだが、結局のところ、珍妙な社会の珍妙な存在としてしかオタク文化が見られていないのだとしたら、それは本当の意味では理解されていないのではないかという思いを強くしたりもする。結局のところ、オタク文化に対しては、オリエンタリズム的な見方にとどまっているのではないかということだ。


そこで本書は、こうした「オタク・オリエンタリズム」を乗り越えようとすることを企図して編纂された論文集である。


社会学的な視点を中心にしながら、PART1~3までの3部構成を取りつつ、まずはオタク文化がいかにして日本社会に成立してきたのか、その歴史的な経緯をじっくりと掘り下げたうえで(PART 1.CULTURE AND DISCOURSE)、今日のオタクたちのふるまいや実践が、決して珍妙なものではなく、いかに理解可能なものであるかという点について、当事者たちの間に深く入り込んで記述がなされている(PART 2.INFRASTRUCTURE AND PLACEおよびPART 3. COMMUNITY AND IDENTITY)。


またアメリカにおけるオタク文化の事例についても、ふんだんな記述がなされた章がいくつもあるので、決してそれが日本社会だけの珍妙な現象ではないことが改めて理解されよう。


なお評者自身も、Chapter 1.Why Study Train Otaku? –A Social History of Imaginationにおいて、鉄道オタクの歴史を掘り下げながら、日本社会におけるオタク文化の成立と変容について論じているが、そのように自らのかかわった著作を取り上げることに対しては、若干のためらいもありながらも、前例のない野心的な論文集であるがゆえに、あえてこの書評で取り上げさせていただいた次第である。


近いうちに日本語版も筑摩書房から刊行される予定だが、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス)、森川嘉一郎氏の『趣都の誕生』(幻冬舎)といった、オタク文化を社会背景から理解するうえでの必読の文献(抜粋)も、そろって収録された本書は、まさにお得でお勧め一冊であるといえよう。



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2012年01月31日

『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』ドミニク・ストリナチ著/渡辺潤・伊藤明己訳(世界思想社)

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「ポピュラー文化研究の理論的なレビューに最適の一冊」

 いきなり私事で恐縮だが、本書は本年度大学院ゼミの購読文献の一つであった。評者のゼミにはポピュラー文化研究を志向して集まってくる海外からの留学生が多いのだが、その特徴の一つとして、彼らが自身の研究に用いる理論的背景についても多様でバラバラなものになりやすい傾向がある。

 もちろんポピュラー文化研究においては、その研究対象の多様さとも関連して、たった一つの一般理論に収斂していくようなこともあり得ないが、かといって、気を付けていないと理論的な水準での知見に乏しいものになりがちな研究ジャンルでもある。


 アイドルであれアニメであれ、研究対象がある程度知られているものである分、分析においても、一般的な常識をなぞっただけのような分析、具体的に言えば文学的な作品論(この歌詞がいいからこのアイドルはヒットした)や、心理学的なファン文化論(こうした心理特性を持つファンだから、このアニメが受け入れられた)だけで済まされてしまうことが少なくない。


 もちろんそれらの分析が重要であることは否定しないが、ポピュラー文化が、ある程度の規模で成立する社会的な現象であるならば、その時代ごとの状況を背景とした社会学的な分析こそ、欠かせないのではないだろうか。


 この点において本書は、社会学的なポピュラー文化研究の理論的な知見を、幅広くそしてバランスよくレビューした格好の入門書といえる。


 著者のドミニク・ストリナチ氏は、フィルムスタディーズなどを専門とし、イギリスのレスター大学に所属する研究者であり、それゆえに本書も、イギリスの文学研究から芽生えた大衆文化論を議論の端緒としている。そして、大衆文化論VS市民社会論といった、かつて日本でも見られた対立構図や、ドイツにおけるフランクフルト学派や、フランスにおける(ポスト)構造主義の隆盛、のちのカルチュラル・スタディーズへとつながっていくグラムシ派のマルクス主義の成果、さらには、フェミニズムやポストモダニズムといった比較的近年の議論などをバランスよく取り上げている。


 訳者も触れている通り、ストリナチ氏の淡々としたあまり価値判断をまじえない文体は、時に単調に感じられなくもないが、逆に先入観なくこれらの理論的成果を概観できる利点も与えてくれている。また、これも訳者がいうように、これだけの幅広さで、ポピュラー文化研究に必要な理論的成果を手際よくまとめている類書は、ありそうでいて意外と存在しない。


 加えてポピュラー文化研究に精通した研究者による訳文は読みやすく、巻末の文献紹介なども親切である。(同様に、主として渡辺潤氏を中心に刊行された、世界思想社の「学ぶ人のために」シリーズの『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』も本書と合わせると参考になろう)


 最後に、本書は主として欧米圏の研究成果を中心にまとめられているが、今後は、日本やアジアにおける同様の成果をまとめた著作などが期待されよう。


 日本における論文では、吉見俊哉氏による「コミュニケーションとしての大衆文化」(『メディア時代の文化社会学』所収)などが高水準だが、近年のニューメディアの状況などを合わせた成果も期待したい。


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2011年11月30日

『わが輩は「男の娘」である!』いがらし奈波(実業之日本社)

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「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的、『妄想少女オタク系』以上にリアル」


「男の娘」とは、「2次元用語であり、女の子のように可愛い女装少年を指す」言葉であり、本書は「無謀にもそんな次元の壁を越えようと日々努力する、二十代後半の、今でも「少年ジャ○プ」を愛読しているひとりの男の話」である(P5)。


 その「男」とは、実は、名作『キャンディ・キャンディ』で知られる漫画家いがらしゆみこ氏の息子であり、元ジャニーズJrでもあるという、いがらし奈波氏のことである。


 本書は、エッセイ風のマンガ仕立てで、元々小さいころから女装に関心のあったいがらし氏が、やがてオタク趣味の彼女と付き合うようになる中で、彼女の服を借りて本格的に女装にのめりこむようになり、その後、様々な人と出会う中で、現在の自分の立場を確立までを描いた著作である。


 マンガ仕立てで非常に読みやすいが、その内容は刺激的であり、読後の感想は、表題のとおり「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、『妄想少女オタク系』以上にリアルだ」というものであった。以下、この点を説明したい。


 『ジェンダー・トラブル』とは、いまやジェンダー論の古典とも呼ぶべきジュディス・バトラーの名著である。個人的なことを述べるならば、評者は大学院の修士課程に入学直後に、ゼミで輪読することになり、その難解さに頭脳がトラブルを起こしそうになったことを記憶している。それはさておき、バトラーが述べていることは大意以下のとおりである。


 すなわち、ジェンダー=社会的な性差とは、セックス=生物学的性差とは異なって、人為的、社会的に構築されてきたものと考えられてきた。だが、バトラーに言わせれば、セックス=生物学的性差と思われてきたものもまた、ジェンダーなのだという。生物学的な特徴を取り上げて、それを「男か女か」という分かりやすい二分法に落とし込んでしまうふるまいそのものが、社会的に構築されてきたものなのだ(いくつかの社会には、「第三の性」と呼ばれるジェンダーカテゴリーが存在することを思い起こせば、理解できよう)。


 とするならば、「女性だから・・・」「男性だから・・・」といったような、固定化された立場をあてにして社会的な性差の解消を訴えることは、非常に困難にならざるをえない。繰り返せば、「女性」「男性」といった立場そのものが、実は社会的に構築されたものに過ぎないからだ。


 よってバトラーの主張は、その書名にも表れているように、既存のジェンダー論にトラブルメイキングをなすことがその主たる目的であったといえる。さらにその後は、クイア理論と呼ばれるような、よりラディカルなジェンダー論の発展を導くこととなるが、その中で、「女性」や「男性」というより、もっと性的なマイノリティの人々から注目を浴びることとなっていった。


 だが私自身のことを振り返れば、『ジェンダー・トラブル』は、そのトラブルメイキングな内容とは裏腹に、長らく、濃密なリアリティを持って受け取ることができない著作であった。率直に記せば、それはバトラーを強く支持していた人々、性的マイノリティという立場を身近に感じることができなかったからである。


 そして、まさにこの点においてこそ、私には本書が『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、トラブルメイキングなものであると感じられるのだ。


 すなわち、あまり身近に感じることのできなかった性的マイノリティという存在が、本書を通して、実は、どこにでもいるごく普通の(というには、著者の育ちは多少特殊かもしれないけれども)存在なのだということが理解できたからである。


 では、なぜ本書を通してこそ、より身近でリアルに感じることができるのか。この点をあるマンガ作品と比較して述べてみたい。


 かつて評者は、この書評ブログの中で『妄想少女オタク系』というマンガを取り上げた。それは、腐女子である女子高生浅井留美と、彼女に行為を抱いてしまった普通の男子高校生阿部隆弘とのラブコメなのだが、いくら告白されても、隆弘とその親友のBL的なシーンばかりを思い浮かべてしまう留美や、あるいは隆弘の親友である美少年に好意を抱いてしまう硬派な柔道部の先輩など、正統派の少女マンガにはなかなか登場しがたい新しいキャラクター設定が魅力的なマンガだと評した。


 また、こうした思考実験が出来るのも、フィクションとしてのマンガの強みと言えるだろう(この点において、『妄想少女オタク系』が名作であるという評価は微塵も揺るがない)。


 しかしその一方で、マンガであるがゆえに(むしろそれがマンガのよさでもあるのだが)、登場人物には、キャラクターの一貫性が求められ、極力、矛盾のない振る舞いが求められることになる。その分だけ、結局のところ、実在はしないような理想化された存在になってしまうのが、マンガのキャラクターの宿命でもあるのだ。


 そして、この点においてこそ、事実を元にしたエッセイ風マンガである、本書のほうがリアリティにおいては勝るのだ。

 
 というのも、「男の娘」である、いがらし氏のふるまいは、一貫性を持っているどころか、むしろ矛盾に満ち満ちているからである。


 たとえば女装に関心があって、世の女性よりもきれいにそれを着こなしながら、セクシャリティにおいては、意外と男性としての保守的な一面も持ち合わせていたりする。ロリコンであったり、あるいは彼女の浴衣姿に欲情して、セックスしてしまうところなどはその典型と言えるだろう。


 こうした一貫性のないふるまいは、その周りの人々にも共通している。たとえば、ニューハーフのミヤちゃんは、これまたきれいな女性としての容姿を装いながら、氏の彼女であるクルちゃんに対して、好意を抱いているようなしぐさを見せる(作中には、どうもバイセクシャルらしいと記されているが)。


 いずれにせよ、新たなジェンダーを切り開いていくような存在に見えながら、意外と内面のセクシャリティは保守的だったりと、この矛盾に満ち満ちた様子が、かえってリアルなのだ。そもそも、人間とはそのような矛盾に満ち満ちた存在なのであろう。


 よって、本書を読み進めていると、たびたび頭を抱えてしまうことになる。


「あれ?この人のジェンダーは、男だっけ?女だっけ?セクシャリティはなんだったっけ?」とたびたび混乱に陥りながら読むことになる。だが、この体験は決して不快なものではなく、むしろ頭の中の固定観念を揺さぶる、心地良いものですらある。


 刺激的でありながらリアルでもある本作を、そんな心地良い混乱の感覚を味わいながら、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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2011年09月30日

『アンアンのセックスできれいになれた?』北原みのり(朝日新聞出版)

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「恋愛・性愛至上主義を相対化するために必読の一冊」

 本書は、フェミニストであり、女性のためのアダルトグッズショップの代表も務めている北原みのり氏が、雑誌『an・an(以下、本書にならって“アンアン”)』を、その創刊号から読み直した記録である。現代の女性文化の変遷を知る上で、格好の著作といえよう。直截にいえば、私自身は全ての内容に同意や共感ができるわけではないものの、現代の女性たちの文化を理解するためには、非常に資料的価値の高い著作といえる。

 氏が注目しているのは、アンアンの中でも名物特集といえる、セックス特集の記事である。冒頭にも記されているように、1989年4月に発売されたアンアンのセックス特集のタイトルは「セックスで、きれいになる」であった。


 結論を先取りすれば、本書のタイトルにもなっているように、著者の主張としては、女性たちは、「アンアンのセックスできれいになれた」わけではない。あるいは著者自身も触れているように、ただ単純に過去(のアンアン)を礼賛して、ノスタルジーに浸ることが本書の目的なのではなく、むしろセックス特集がピークを迎えていたと思われる1990年代の、異様なまでの「恋愛・性愛至上主義」を相対化することが、最大の課題なのである。


 本書によれば、そのピークは特に1997~98年の特集に見られるようだ。まず1997年には「(最高のセックス)は愛情と信頼と、すべてをゆだねられる一番好きな恋人とこそ」と記され、さらに翌年、キムタクこと木村拓哉のヌードが掲載されるとともに、「最高のセックスが、あなたを絶対にきれいにする」と、愛あるセックスが称揚されるようになる(P104)。


 だが、こうした愛あるセックスという称揚は、男性に主導権を奪われていた段階から、女性自身もセックスを謳歌することのできる自由へと歩を進めるには役立ったものの、むしろ、その後には、セックスには愛がなければならないという新たな呪縛をも生み出してしまったのだという(第5章)。


 いうなれば、女性たちが「セックスへの自由」を得た後で、「セックスからの自由」を得ることが課題として残されたということである。


 後者の自由を謳歌するということは、すなわち、先にも記したとおり「恋愛・性愛至上主義」を相対化して、より多様な快楽を追及したライフスタイルを謳歌できるようになるということなのだが、この点が、現代の女性たちにおいて、まだまだ十分に実現できてないことに、著者は苛立ちを覚えているようだ。


 この苛立ちについては、評者も大いに共感を覚える。ごく近年における若年女性の専業主婦志向の増加などといったような「保守回帰的」な傾向を考えると、「セックスからの自由」を得ることには、それなりのタフネスが要求されるとともに、そのタフネスに耐えられない若者が数多く出てくるだろうことも想像できる。


 しかし社会学者として発言するならば、おそらくそのタフネスはこれからも必須のものであるし、そうした社会になっていくものと予想される。残念ながら、そのタフネスを身につけるための処方箋までは、本書では明確には提示されていないし、評者にも名案があるわけではない。だが、しいて言えば、本書の著者のタフネスさに、継続的に触れ続けることで、徐々にそれに感化されることはあるのではないかとも思われる。


 (書評という内容からはやや外れるかもしれないけれども)具体的に言うならば、著者の北原みのり氏は、現在twitterを使って継続的に情報を発信しておられるが、これが実に興味深い内容が多い。実は、評者が本書の存在を知ったのもtwitterを通してなのだが、内容に興味を覚えた方は、ぜひtwitterで北原氏をフォローしていただきたいと思う。


 そうすることで、本書を読んだ体験が、一時のものとして忘れ去られずに、継続的に「セックスからの自由」を模索することにつながっていくのではないかと思われる。


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2011年07月31日

『島秀雄の世界旅行 1936‐1937』島隆 監修 ・高橋団吉 文(技術評論社)

島秀雄の世界旅行 1936‐1937 →bookwebで購入

「東海道新幹線のルーツを辿る紙上旅行」

 島秀雄といえば、十河信二とともに「新幹線の生みの親」として、鉄道好きでなくともその名が知られていよう。国鉄の技師長を務め、新幹線以外にも数々の名車や名機関車の開発に携わった技術者である。

 本書は、その島秀雄が1936年から1937年にかけて、鉄道省の在外研究員として、海外視察旅行に行った際に撮影した、膨大な枚数の写真の一部に説明を加えたものである。コラムなどの文章は、『新幹線をつくった男 島秀雄物語』(小学館)の作者でもある高橋団吉氏が担当している。


 1年9カ月に及んだこの旅行は、横浜から船で出発し、中国や東南アジアを経て、マルセイユに至り、1年近くヨーロッパ各地を視察した後に、南アフリカを訪れ、さらに南米各地を巡って、アメリカを経て帰国するという、文字通りの世界一周であった。


 帯文にもあるように、「第二次大戦前夜、そして機械文明絶頂期の記録」である本書は、ただ眺めているだけで、時がたつのを忘れてしまうほどの魅力がある。ベルリンオリンピックの開会式や、ニューヨークの摩天楼など、機械の息吹を感じるような時代の様子は、よくアニメでも描かれることがあるが、私にはこれらの写真の方がはるかにリアルに感じられる。また、高橋氏のコラムも実に説得力のある読み応えのある文章ばかりだ。


 実は、島秀雄はこの10年前にも海外視察に出掛けており、さらに父の安次郎も、20世紀初頭に3回ほど海外視察に行っている。だが、とりわけこの1936~1937年の海外視察が重要なのは、その途上で、後の東海道新幹線に至るアイデアを思いついたからだという。


 それは、1937年の4月、オランダのロッテルダムに船が寄港した際、ライン河岸を走る近郊電車が行き交う光景を眺めながら、おぼろげに浮かんだイメージなのだという。


 当時、あるいは今日に至っても、多くの鉄道においては、機関車が客車をけん引する「動力集中方式」が主力であった。だが、動力を機関車に集中させることで、そこに重さも集まるため、路盤の脆弱な日本の鉄道には不向きであった。そこでむしろ、全車両にモーター(M)を取り付ける「動力分散方式(オールM式)」が後の新幹線では採用されることになるのだが、その原点とも言うべき着想は、この旅行時に浮かんだものだという(島自身は、この方式を「ムカデ式」と呼んでいたという)。

この点について、高橋氏はコラムで以下のように記している。


ムカデ式すなわち「オールM式」は、いたって単純である。天才的な閃きが生み出した発明でもないし、複雑な思考と技術の集積でもない。合理性を率直に推し進めていけば、徹底的に考え抜くことさえできれば、誰でも辿り着くことのできる普遍性をもっている。
しかも、お手本は目の前に転がっていた。近郊電車や路面電車は世界中の主要都市で走っていたのである。(P188)


 このように、新幹線が「天才」による突然のひらめきや発明によるものではなく、地道な努力の積み重ねによって、半ば必然的に生みだされたものであるという指摘は、まさに正鵠を射たものだというほかないだろう。


 そして島秀雄が、余人を寄せ付けない驚異的な天才であったというより、むしろ実直な技術者であったことは、本書を読み進めればおのずから明らかとなっていく。例えば、この視察旅行は、後世からするならば、新幹線の着想を得た機会と評されるのだが、むしろ当時の島自身の考えの多くを占めていたのは、新型の蒸気機関車の開発であり、そのために同じ狭軌(1067㎜)でありながら、高性能の蒸気機関車を走らせていた南アフリカの鉄道の視察こそが最重点課題であったという。そのため、残された写真を調べていくと、ヨーロッパ各国の名機関車をほとんど撮影せず、むしろ南アフリカの蒸気機関車ばかりを撮影していたという。


 このように本書は、歴史的な資料としても一級品の価値を持つといえるが、ここに掲載されているのは、残された写真の一部に過ぎないという。また本書ですら、コストの面で見合わなかったために、幾度も刊行が見送られてきた経緯があるとプロローグ(P10)には記されている。


 巷では、鉄道ブームといわれ、関連するイベントや博物館などにも多くの人が集まっているというが、本書やあるいはそれに関連した未収録の写真、さらにはそのほかにも貴重な歴史的資料の多くは、十分な検討や保存をされないままになっていることが多い。


 だからこそこのブームも、一過性のものとして終わらせてしまうのではなく、むしろ今日の日本社会の来る由縁をじっくりと掘り下げていくための、きっかけになればと願わずにいられない。そしてそのためにこそ、鉄道好きもあるいはそうでない人も、本書のような著作と、向き合っていただきたいと思う。



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『カレチ』池田邦彦(講談社)

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「「リスク」だけでなく「キセキ」をも語ること」

 本書は、昭和40年代後半を舞台に、当時の国鉄大阪車掌区に勤務する新米「カレチ(長距離列車に乗務する客扱専務車掌)」の日常を描いたマンガである。

 鉄道ブームの昨今、それを題材にしたマンガは世にあふれているが、車輛のデッサンから運行する側の実態まで、きちんとディティールにこだわった作品はそう多くない。この点からも、作者の鉄道に対する造詣の深さがうかがえる。


 丹念に参考文献にあたりつつ、おそらくは実際にあったエピソードなどを下敷きにして作られたであろうストーリーの一つ一つは感動的であり、時に涙をこぼさずにいられない。


 また本書は、いわゆるノスタルジーもののマンガとは、はっきりと一線を画している。その点は、ノスタルジーものが昭和30年代を舞台にすることが多いのに対して、「少し前の社会」である昭和40年代後半を舞台としている点にも表れている。一つ象徴的なエピソードを取り上げてみよう。


 2巻に収録された第14話「列車指令」というエピソードがある。新大阪駅を出発する夜行列車に、翌朝分の新聞を積み込もうとしたトラックが途中で事故に巻き込まれてしまうという話である。発車してしまった列車をトラックは必死で追いかけるが間に合わず、ついに誰もがあきらめかけてしまう。だが、主人公の「カレチ」が思いついた妙案でどうにか積み込むことに成功し、新聞は無事に届けられる。そしてトラック運転手が帰宅後に、自宅に届けられた新聞と牛乳を手に、次のようなセリフをつぶやく。

「当たり前ってのは……実はすげえ事なのかも」(P147)

 おそらく、こうした「少し前の社会」が懐かしいのは、今よりも科学技術が未発達で人情味のあふれる時代だったから、だけではない。むしろ、科学技術の進歩を肌身に感じつつ、その恩恵をリアルに感じられていたからではないだろうか。


 確かにこのエピソードも、人情ものとして読むことができないわけではない。与えられた職責を超えて、なんとか新聞を積み込もうとするトラック運転手、そしてそれを待ち望んで奮闘する「カレチ」や列車指令の国鉄職員たちの姿は感動的である。


 だが、彼らの努力に見合うだけの成果がもたらされた背景には、科学技術が作り上げた精緻な運行システムがあったことを忘れてはならない。


 「○○駅で積み込めなかったら、××駅に△△時までに到着して下さい」といった指示が出せたのは、数分と違わない正確なダイヤで列車が運行していたからであり、そしてそれを支える精緻なシステムが存在していたからである。つまり列車が遅れてくるのが常態化しているような社会では(そしてそのほうがはるかに多いのだが)、このエピソードは成立しなかったのである。


 言うなれば、この「少し前の社会」とは、人間の力で引き起こされた「キセキ」がいくつも存在していた時代だったと言えるし、そうした「キセキ」がリアルに体感しえた時代だったとも言えるだろう。


 さて、ここでいう「キセキ」とは、神が引き起こしたりするものや、あるいは自然界において偶然生じるような「奇跡」とは区別して考えなければならない。そうでなくて、人間が起こす「キセキ」とは、人智を積み上げた上で、それを完全にマニュアル化しないで、時に自分の判断をまじえながら主体的に使いこなしていくときに生じるものである。


 よって本書が描きだしているのは、時に上司や同僚に怒られながらも、主人公の新米「カレチ」荻野氏が引き起こしていく「キセキ」の数々である(ネタばれになるから、これ以上のエピソードの紹介は差し控えよう)。


 翻って、今日の日本社会では、科学技術が進歩しすぎて複雑になったせいもあって、一体、何がその恩恵で、何がそうでないのかといったことが分かりにくくなっている。


 確かに、科学技術が全てを解決してくれると言った、盲目な科学技術信仰や万能論を退ける上では、思想的な成熟のためにも、肯定的にとらえるべき状況なのかもしれない。
 

 これと関連して、原発事故以降、いわゆるリスク社会論が人口に膾炙し、いかなる選択を行っても、潜在的な「リスク」は存在し続けることが自明のものとなりつつある(原発の存続も全廃も、いずれかが100%の正解ということはなく、それぞれに「リスク」は存在しつづけるため、それを比較検討するしかないということが明らかになりつつある)。


 だが、「リスク」だけを考え続けるというのは、どうにも暗くなってしまう。もっと希望あふれる話を、科学技術については考えてみたいとも思う。今日的な問題にひきつけて述べるならば、「リスク」を語る思想的な成熟がもたらされたのは喜ぶべきこととして、それを適切に使いこなした時に、人間は「キセキ」をも引き起こすということを忘れないでおきたいと思う。


 どうにも暗くなりがちな昨今において、本書に描かれた「キセキ」の数々には、本当に心が温まる思いがした。鉄道好きだけでなく、幅広い方々に、今この状況の中でこそ、ぜひお読みいただきたいと思う。


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『ニセドイツ<1>』伸井太一(社会評論社)

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「面白うて やがて悲しき ニセドイツ」

 本書は、かつての東ドイツ(ドイツ民主共和国)社会について、工業製品の紹介を中心に、ユーモアたっぷりに記したものである。

 ドイツといえば、カメラでいえばライカ、クルマでいえばBMWといったように、われわれが憧れてきた工業製品の多くを作りだしてきたことで知られていよう。さらに、日本社会との共通点として、人々の勤勉さや技術力の高さ、それゆえの工業製品のクオリティの高さなども知られていよう。


 このように、我々の多くが半ば当たり前のように抱いているドイツに対するイメージを、本書はいい意味で裏切ってくれる。まず、『ニセドイツ』という書名からして、ユニークだが、その由来について、著者は以下のように記している。


 『ニセドイツ』は西(ニシ)ドイツをもじった言葉で、東ドイツ製品の 「妖しい」雰囲気を強調する効果を狙った題名である。
 東西に分裂した国家ドイツ。それぞれが一国家としての自国アイデンティティを形成しながらも、同根であるがゆえにドイツ的アイデンティティも追及した。つまり、東独は新生・社会主義国家としての自国アイデンティティを新たに創出しようとしたが、結局は多くの部分で過去のドイツの伝統にも頼らざるをえなかった。この未来志向と過去重視の二つのアイデンティティ形成が、製品において微妙に重なったり、ズレたりしたときに、東独製品は独特の魅力を放つのである。(おわりに)

 つまり、先に記したような勤勉なドイツという伝統と、怠惰にならざるを得ない共産主義社会という実態とが、真っ向からぶつかったのが、かつての東ドイツ社会であったのである。それゆえ、東ドイツの製品は、他の共産主義社会と違って、単に技術的に遅れていると言うだけではない、独特の「魅力」を持つのだという。


 本書では、自家用車トラバントを始めとして、いくつもの工業製品がカタログ形式で紹介されており、気の向くままに、好きなところから読み進めることができる。また、製品ごとに付された、ダジャレまじりの小見出しとあいまって(ちなみに、トラバントは「共産主義車の代表格」と紹介されている)、笑い転げながら読むことのできる楽しい著作である。


 だが、笑い転げた後で、ふと我に返ったとき、言い表しようのないさみしさがつのってくるのは、おそらく本書が単なる歴史的事実の記録ではなく、まさに今日の社会に通底する問題を描き出しているからだろう。


 例えば、第二次世界大戦末期、もしも無条件降伏をするのが遅かったならば、ドイツと同様、東日本と西日本に分かれていたかもしれず、「東日本」製の工業製品の特徴を記した『ニセ日本』なる著作が世に出ていた可能性もある。

 あるいは、全体社会のアイデンティティ形成が、二つの方向性の間で揺れ動いてきたという点も、日本社会と共通していよう。今日でこそ先進社会の仲間入りを果たしたような顔をしているが、明治期以来、イギリスやフランス、アメリカといった先進的な近代社会を目標としながらも、長らくは、それになかなか追いつけない後発的な近代社会であったわけだし、と同時にこの点は、欧米とアジアとの間でアイデンティティの居場所が揺れ動いてきたということでもあった。

 このように本書の内容は、単なる過去の記録にとどまらず、むしろドイツ社会に内在する「東ドイツ」という問題点、あるいはそこから連想される今日の日本社会の問題点にまで、射程が及ぶものだと言えよう。


 この点からして、ドイツの現代史、とりわけ「東ドイツ」に関する現代史的な研究は、重点的に探求がなされるべきテーマの一つに思われてならないが、少なくとも日本においては、あまり研究が進められていないとも聞く。

 こうしたニッチなジャンルの実態について、一般読者に対しても分かりやすく、そして面白く記述したところに本書の価値がある。ぜひ続巻の『ニセドイツ2』と併せてお勧めしたい。


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2011年05月30日

『ブスがなくなる日―「見た目格差」社会の女と男』山本 桂子(主婦の友社)

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「驚くほどわかりやすい「ブス論」」

 あまりに、ひねりがない書評のタイトルをつけてしまった。だが、それほどに本書の記述は明確で、その主張は分かりやすい。
 ブスとは一体何か。 「常識」にしたがうならば、物理的に顔の造作の美しくない女性をブスと呼び、美しい女性を美人と呼ぶものと考えられる。そして男性ならば、前者がブ男、後者がハンサムないしイケメンと呼ぶのだと。

 だが、こうした発想を著者は覆していく。むしろ、メイクの進化によって、こうしたブスは、絶滅しかかっているとすら言うのだ。このことが著作のタイトルにも表れている。

 実は、評者も長年のフィールドワークの中で、うすうすと同じような変化を感じていた。しかし、思いつきにすぎないような概念を温め続けるだけだったのだが、本書に出会って、そうした思いつきがこれほどに明瞭に言語化されていることを知り、思わず、読書中の電車内で「これだ!」とひざを打ってしまった。

 評者がフィールドワークをしてきたのは、男性アイドルの女性ファンたちである。1990年代から継続して行ってきたのだが、よく言われていたのは、「男性アイドルとは、彼氏ができない女性たちが代替として求める疑似恋愛の相手に過ぎない」という解釈であった。もっと、ストレートにいえば、「追っかけにはブスが多い」といった物言いであった。

 だがこの物言いは、フィールドに出てみることで、覆されていくことになった。先のブスの定義に倣うならば、当時の追っかけたちは、物理的にはブスではない女性が多かったのだ。むしろ「顔の造作は悪くないんだから、もうちょっとメイクをがんばったら、きっと美人に見えるのになあ」とか「しゃべり方をもうちょっと明るくしたら、かわいくなるのになあ」という感想を覚えることが多かった。

 そこで、論文や著作には記さなかったのだが、私が心のうちで思いついた概念というのは、「物理的ブス」と「社会的ブス」は違うというものだった。前者は、物理的に造作が美しくない場合だが、後者は「自分がブスだと思い込んでいる(ないし、周囲から思い込まされている)」場合である。

 私が1990年代にフィールドワークをしていたころの追っかけには、実は後者が多かったのである。例えば、「追っかけも楽しいけど、クラスの男の子とデートしたり、遊んだりしたいと思わないの?」と聞けば、「う~ん、なんかそういう“自信”がないから。同じお金だったら、デートより、コンサート代に回した方がいいかなって思う」と答えていた。つまり、「きっと自分はリアルの男子には相手にされない」、「きっと自分はかわいい女の子じゃない」と、思い込んでしまうがゆえに、結果としてブスとしてふるまってしまっていたのである。
 したがって、ふとしたきっかけで「社会的ブス」ではなくなる場面にも多く遭遇してきた。たとえば、生活時間のほとんどをつぎ込むほどに熱心であったのに、彼氏ができたら、たちまちに追っかけを「卒業」していくようなことも多かった。

 近年では、追っかけのフィールドワークに出向いても、あるいは、普通に街中を歩いていても、ブスが本当にいなくなったと感じる。著者も指摘するように、メイクの進化によって、「物理的ブス」はもはや絶滅しかかっているのだろう。
 だが、「社会的ブス」の問題はまだまだ根深いようだ。著者も言うように、100%生まれ変わるかのような変身を遂げずとも、「従来品より20%アップ(当社比)」(P191)するだけで、十分にきれいに見えるようになるはずなのだが、なかなかそう気持ちが切り替えられない場合も多いようだ。ましてや、これだけ世情が暗い社会においては、それも無理ない話なのかもしれない。


 あるいは、少し筆を滑らせるならば、「物理的ブス」が本当に絶滅してしまったならば、その先にはどんな未来が待っているのだろうか。誰しもが美人という社会はあり得るのだろうか。

 もしも、美人という存在が、その希少性においてもてはやされる存在なのだとしたら、絶滅しかかっているという「物理的ブス」こそが、未来においては、美人にとって代わることもあり得るのではないだろうか(そのように考えると、実は、「物理的ブス」という概念も、引いた目で見るならば、「社会的ブス」に含まれると言えなくもない。なぜならば、美醜の概念もまた社会的に異なるし、変化もするからである)。

 なお、最後にお断りしておくが、評者はルックスには全くと言っていいほど自信がない(書評ページの顔写真をご覧いただければわかるだろう)。むしろ、近年でいうところの「非モテ」人生をまっしぐらに突き進んできたくらいだから、人様のルックスについて、あれこれいう資格などないと言われればそれまでかもしれない。よって、ここでに記した内容については、いかようなご批判をも甘受する。だが、そうした批判を想定してもなお、本書は紹介するに足る、面白い著作である。



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『可視化された帝国-近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房)

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「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」」

「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、私にとって、本書を読んだ時の感想もそれに近いものがあった。
 本書の骨子は、ベネディクト・アンダーソン流の「想像の共同体」論を、近代日本の実情に照らし合わせながら、批判していくところにある。 アンダーソンの『想像の共同体』は、近代史や歴史的な文化研究を志す者にとって、いわばバイブルの一つだが、その内容とは、国民国家の成立にメディアが果たした役割を指摘したものといえるだろう。

 すなわち、それまで時空間的に独立していた国内の各地方が、新聞や書籍といった出版メディアが登場したことで、共通の言語を用いて、あたかも一つの問題関心を共有するような感覚を覚えるようになり、それが国民国家としての統一につながっていった、というものである。日本においても、明治期の近代国家の成立過程を批判的にとらえる立場から、よく引用されてきた文献である。

 しかしながら、著者の原武史に言わせれば、明治期における近代国家の成立に、「想像の共同体」論を直輸入するのは、あまりにも当てはまりが悪いという。というのも、アンダーソンの議論は、メディアの中でも特に出版メディア(聖書や新聞など)に着目して、それによる「想像の共同体」の成立が国民国家の制度化に先行していたとするものだが、日本社会においては、それに相当するメディアは存在しなかったのではないかという。

 たしかに近代日本において、新聞の発行部数が急伸していくのは、はやくても1877(明治10)年の西南戦争、もしくはその後の日清・日露戦争時の戦勝報道を欲してのこと、といわれており、やや時代的には後のことのように思える。

 では、何が日本の近代国家の成立に貢献したメディアであったのか。この点について原は、西南戦争時に兵員の輸送手段として注目され、日清・日露戦争時にはさらにその路線網を伸ばしつつあった鉄道に注目をする。

 近年では、メディアといえば、情報を伝達する手段と捉えられることが多いため、鉄道がメディアというのはやや違和感を覚えるかもしれない。だが、かつては、新聞輸送列車や郵便車というものが存在していたように、鉄道も情報を伝達する手段のひとつであったし、そもそも「人々を結びつける技術的な手段」という点においては、鉄道もメディアの一つである(余談だが、メディア論の古典ともいえる、マクルーハン『メディア論』の冒頭にも、鉄道がメディアであるという説明が登場する)。

 その上で原は、鉄道を用いた天皇の行幸啓が、明治期の国民国家成立に果たした役割を分析している。いわばそれは、出版メディアの受容が「想像の共同体」の存在を人々に知覚させたというよりも、むしろ天皇の「お召し列車」が通過する際に、「地元の人々が動員されてきれいに整列し、決められた時間どおりに走る列車に向かって、いっせいに敬礼する」(P68)ようなふるまいが拡がっていくとともに、「帝国」が「可視化」されながら成立していったのではないかという指摘である。
 
 明治期の日本においては、後発的な近代化を急速に成し遂げる必要があったという点からすれば、「想像の共同体」に先行して「可視化された帝国」の成立が急速に進められていたという主張の方が理にかなっているといえるだろう。


 本書では、さらに大正期、昭和期の行幸啓にまで焦点が当てられており、「常識」に従えば天皇制論、あるいは政治学の文献として読むべき著作なのだろうが、私は「鉄道文化論」として興味深く読んだ。著者の原武史氏も本業は政治学者だが、近年では、「鉄道に詳しい大学の先生」ということで有名だろう。

 あるいは、政治学者と鉄道ファンであることが、別々のこととして語らなければならないような今日の社会の方が、どこか間違っているのであって、実はそれほどに、この社会と鉄道との関係が根深い(にもかかわらず、そのことが驚くほど知られていない)ということを教えてくれる一冊でもある。


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2011年04月30日

『中央モノローグ線』小坂俊史(竹書房)

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「鉄道マンガの新しい可能性として~見事にキャラ化された中央線の各駅」

 空前の鉄道ブームが起こっている、と言われて久しいが、そうした中で、これまでにあまり関連を持たなかったようなジャンルにおいても鉄道の姿を目にすることが多くなった。その一つがマンガであろう。鉄道ファンの一人として、つい鉄道に関するものがあると、それが何であれ手にとってしまう癖が抜けない。

 果たして、そのようなジャンルが成立しているのかどうかは別として、鉄道マンガには、おおむね2つの種類があると言えそうだ。

 一つには、たまたま鉄道が素材として取り扱われたマンガ(あるいは小説がマンガ化されたもの)である。紀行ものなどがその代表といえるだろう。

 そしてもう一つは、これまでの鉄道趣味の世界にマンガが取り込まれていった、あるいは影響を与えていったようなものである。その代表として、恵知仁氏らを中心とする「鉄道擬人化」の動きを挙げることができるだろう。

 それまでにも、先頭車の前面を顔に見立てて、目や口を付け足すようなイラストは、江頭剛氏などによっても描かれてきたが、近年の「擬人化」は、まったく一人の人間そのものの姿として鉄道車両を表現するところに特徴がある。こうした動きは鉄道にだけ見られるものではないが、その意外さからすると、やはり「鉄道擬人化」のインパクトは相当に大きかったと言わざるを得ない。


 さて、こうした「鉄道擬人化」のインパクトの大きさを説明するならば、おそらくは鉄道に対する、まなざしがあたかも真逆を向くようになった変化にあるといえるのではないだろうか。というのも、ある時代までの鉄道とは、まさに超越的なシンボルであったからである。

 古くは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に代表されるように、それは未知なる空間へとつながっていく存在であり、あるいは戦後においても超絶的な速度をもった新幹線のように、やはり特別なあこがれをいだくような存在であった。


 しかしながら、「擬人化」され、キャラ化されるということは、超越的な存在どころか、一人の人間のような存在として、対等に関係性を構築しうる存在となったということである。いわば、友達や恋人のように、その性格や好みに合わせて、やり取りをすることになったということである。こうした鉄道に対する新たな接し方の局面を切り開いたという点で、「擬人化」の動きは今後も注視していく価値があるといえるだろう。

 さて前置きが長くなったが、本書は、JR中央線における各駅を「擬人化」しているという点においては、後者のジャンルと近い点をもつものといえる。しかしながら、正確にいえば、どちらにも属さない新しさを持っているという点において、本書は、新たな魅力を持った鉄道マンガの境地を切り開いた一作といえると思う。

 というのも、これまでの「擬人化」は、どちらかといえば性愛の対象として、男性向けに美少女の姿にキャラクター化されるか、あるいは女性向けに美少年の姿にキャラクター化されることが多くを占めてきたといえる。

 だが、本書においては、中央線の中野から武蔵境までの各駅を、いかにもその駅周辺に住んでいそうな普通の(どちらかといえばさえない)女性たちの姿に表現しているという点で、これまでの「擬人化」とは明らかに一線を画しているのである。

 たかが鉄道のひと駅ごとに、違ったキャラクターが設定できるものかと思うかもしれないが、これが中野在住のイラストレーター「なのか(29歳独身)」に始まり、武蔵境在住の「キョウコ(15歳中学生)」にいたるまで、実に見事に振り分けられているのである。

 もちろんそれは、「中央線文化」という言葉もあるように、学園闘争の時代以来、様々なサブカルチャーが発達してきたこの路線の特徴に負うところも大きいかもしれない(余談だが、評者がこのマンガを購入したのも、実はその代表の一つとも言える、中野ブロードウェイ内の書店であった)。実際に乗車していても、「中央線が好きだ」というメッセージの含まれた広告を、鉄道会社が自ら流すような路線は、寡聞にして他には知らない。

 このように、かつての時代のように鉄道を超越的な存在としてまなざすのとも違い、かといって、特殊な思い入れを持つために美少女や美少年にキャラクター化するのとも違って、ごく普通の女性の姿に「擬人化」したところに本書の特徴がある。そしてそれゆえに、本書は、特別に盛り上がったりも、ハラハラドキドキのスリル感もないが、肩肘を張らずにリラックスして読むことができ、どことなくさわやかで安心した読後感が残る一作となっているのである。

 ぜひ中央線に乗りながら、読んでみることをお勧めしたい。



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2011年03月31日

『妄想少女オタク系』紺條夏生(双葉社)

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「女子も男子も楽しめるマンガ~少女文化のゆくえを考えるヒント」

 面白いマンガである。しいてジャンル分けをするのならば、少女マンガというカテゴリーに位置づくのだろうが、およそそうした既存のカテゴリーを大きくはみ出した作品である。

 恋愛や性をテーマにしたマンガでありながら、女子が読んでも男子が読んでも楽しめるというところに、この作品の最大の特徴がある。そうしたマンガは、これまでなかなかありそうでなかったように思われる。その理由はマンガがジェンダーディバイドの最もはっきりとしたメディアの一つだからであろう。稀有な事例として克亜樹氏の名作『ふたりエッチ』などが思い浮かぶが、それであっても、男性向けと女性向けは別々のシリーズとして刊行されている。

 これは、いわゆる「お色気サービスシーン」がどちらに対しても用意されているというだけではない。性愛をめぐる様々な関係性のパターンが面白く紹介されていて、さまざまな立場の人が読んでも、楽しみながら関係性に対する理解を深めることができるのだ。

 ストーリーは、ある平凡な男子高校生、阿部隆弘を中心に展開する学園ラブコメディもの、といえばありきたりな設定に思われるかもしれない。しかし、彼が恋心を寄せる女子高校生、浅井留美は実はディープなオタクで、クラスの男子たちのじゃれあいを見つめながら、いわゆるBL(ボーイズラブ)系と呼ばれるような、男性同性愛的な妄想を膨らませてばかりいるのである。

 したがって、隆弘が留美に告白した時も、「でも、やっぱり阿部君は千葉君とのがお似合いだと思うの」(第1巻P28)と、筋違いの回答を返されてしまう。というのも、留美にとっては、「「つき合う」とかよくわかんないし「彼氏」とか「恋人」とか想像つかない」(同P140)のであり、さらに「あたしが男子だったら想像出来んの」(同P141)といって、ひたすらBL系の妄想の中に関係性の理解を当てはめようとする。


 かつて、男は「見る性」、女は「見られる性」だとして、メディアにおいて一方的に見世物のように扱われている女性に関する表象を批判的に議論することが盛んであった。もちろん今でもそうした内容を扱うメディアがあることは否定できない。

 しかし、このマンガが面白いのは、女性である留美が、隆弘と美男子の同級生千葉との間に性的な関係を妄想的に見だして、「見る―見られる」関係を逆転させているということだけにとどまらず、一方で、読者にとっては、そうする留美のふるまいそのものが今度は「見られる」対象になっていたりと、「見る―見られる」関係が幾重にも複雑化しているところなのだ。


 もちろん本作はマンガであるため、多少は戯画化されている点を差し引いて考えなければならない。しかしながら、女子学生たちと日頃話をしていると、ここで描かれている実態は決して大げさなものではないように思われてくる。


 先月の書評では、藤本由香里氏の古典『私の居場所はどこにあるの?』を取り上げながら、それと対比させる中で、今や若い女性たちは恋愛の当事者から傍観者へと移行しつつあるのではないかと述べたが、そのことを最もよく表しているのは、やはりBL系のマンガを愛好する腐女子と呼ばれる女性たちの存在だと思われる。

 特に近年の若い女性では、少女マンガや男性アイドルといった疑似恋愛の体験を通して、その後の思春期にBL系へと移行するのではなく、むしろ小学校高学年頃といったかなり早い段階からBL系に接していることも多いらしい。

 つまり、かつてならば、少女マンガや男性アイドル文化などを通して、恋愛の当事者、あるいは実際の恋愛に移行する前の「練習」をしていたのが、むしろBL系を通して初めから恋愛関係を傍観者として見ることを学びつつ、そのままに思春期を迎えるというパターンが増え始めているらしいのだ。本作品のヒロイン留美はまさにそうした典型例といえよう。

 では、疑似恋愛を経ることなく思春期を迎えてしまった少女たちは、果たしてその後、どうなっていくのだろうか。恋愛関係を傍観者としてまなざすことを先に学んでしまった少女たちは、恋愛の当事者になりうるのだろうか。

 まさに、これからの少女文化のゆくえをうらなう意味でも重要な、これらの問いに対する答えは、本作品の最終話において、ある程度示されているとだけ言っていこう。それは、単純に、恋愛の当事者から傍観者になったり、あるいはまた当事者に戻ったりといったようなものではなく、当事者でもあり傍観者でもあるような、新しい関係性のありようを感じさせる興味深いエンディングである。
 

 全7巻、ぜひ最後まで読み通されることをお勧めする。


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