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2014年04月19日

『友活はじめませんか?―30代からの友人作り』木村隆志(遊タイム出版)

友活はじめませんか?―30代からの友人作り →紀伊國屋ウェブストアで購入

「再帰化する友人関係」

 本書のタイトルに含まれている「トモカツ」という言葉。これは決して人の名前などではない。漢字をあてはまると「友活」、すなわち「友達活動」の略である。

 基となっているのが「婚活」という言葉であることは自明だろう。「婚活」が初めて世に出たのは2007年で、すでに世に広まった感があるが、その意味するところは、結婚するために自覚的になす活動や行動、というものであった。


 つまり「トモカツ」という言葉が意味しているのは、友人関係もまたあえてするもの、すなわちそれをするための努力を、自覚的になすべきものになりつつあるということである。あえて、自覚的になすべき友人関係とは、いうなれば「再帰化する友人関係」ということであろう。


 こうした物言いは、特にある世代から上の人々にとっては奇異なものに映ることだろう。友人関係にせよ、結婚にせよ、普通に人生を送っていれば、おのずとできるはずのものではなかったかと。


 だが、これまで「普通の人生」と思われてきたもの、そしてそれを成り立たせていた「普通の社会」と思われていたものは、大きく変わりつつあるのだ。社会の先行きや人々の日常生活すらも、不透明感が増しつつある。それは流動化の進展に伴って、自由な選択の幅が大きく広がっているからであろう。


 決められたコースに従い「普通の人生」を送っていれば、当たり前のようにできていたことは、もはや当たり前ではなくなっている。つまり、今まで当たり前であったことは、そもそもそれを「するのか/しないか」という自覚的な判断を伴うものになりつつある。その典型が結婚であり、友人関係というわけだ。


 このように本書は、その成立の背景を社会学的に読み解くだけでも楽しいが、やはりその内容も興味深い。社会学的な背景を意識しながら、列挙された「友人の作り方」のハウツーを眺めているといろいろと考えずにはいられなくなってくる。


 ありていにいえば、やはりある世代以上のものからすれば、その内容の「当たり前にすぎる当たり前さ」には拍子抜けするのだろうと思う。というのも、友人のメンテナンスの仕方、SNSの利用法(コメントの書き方の詳細なアドバイスなど)、あるいは「友人との主なトークテーマ一覧」など、人から教えられるまでもなく、おのずと実践してきたような事柄が本書では列挙されているからだ。


 だが、やはりこうした事態を「若者たちのコミュニケーションスキルの低下」「ハウツーがなければ何もできない世代」などと紋切り型の批判の対象としてはいけないのだろう。


 先にも記したとおり、こうした「あたりまえにすぎる」ハウツーが列挙されるようになったのは、それが「教えてもらえなければできなくなった」ということ以上に、「あたりまえだったことが自覚的にやらざるを得なくなった」社会の変化を表しているのであり、加えて言えば、本書はいわゆる若者向けではなく、主として、表紙にもあるように「アラサー&アラフォー」の30~40代向けのものなのである。


 この点で、一風変わった視点から友人関係を自覚的に見つめ直す機会を与えてくれる著作としても、読者の年齢を問わず、本書を興味深く読んでみることをお勧めしたい。


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2014年01月31日

『JR崩壊―なぜ連続事故は起こったのか?』梅原淳(角川書店)

JR崩壊―なぜ連続事故は起こったのか? →紀伊國屋ウェブストアで購入

「長期スパンで考えるべき重要な社会問題」

かつて山本七平は、この国の行く末に大きな影響を及ぼすような重要な選択が、しばしばその場の雰囲気(=空気)に流されて決められてきたことを指摘した(『空気の研究』)。

 思い返せば、国鉄民営化当時も、そうした「空気」が充満していたことを、子ども心に覚えている。特によく言われていたのは、国鉄職員の勤務態度の悪さであり、それが民営化によって競争原理を働かせることで、改善されるに違いないといった「空気」が充満していていたように思う。


 もちろん、一般的な利用者にとっては、そうした身近でわかりやすい話題も重要ではあるが、それ以上に、生活インフラとしての鉄道の存在、分割することの是非、とりわけ厳しい経営環境が見込まれるいわゆる三島会社(北海道、四国、九州)の行方など、他に問うべき視点はいくらでもあったはずなのに、それが十分に掘り下げられていた記憶はない。


 こうした「空気」の支配は、近年でいえば郵政民営化やゆとり教育からの転換、そして原発の再稼働、あるいは過去に遡れば、太平洋戦争の開戦や軍艦大和の特攻作戦など、例を挙げればきりがない。


 こうした点に鑑みて、本書をネーミングするならば、「30年前に欲しかった一冊」というべきだろう。


 すでにニュースでも知られる通り、JR北海道においては、特急列車の火災、脱線事故など、重大なトラブルが相次いでおり、2014年1月現在でも、特急列車の一部が運休または減速運転を余儀なくされている。


 昨夏に稚内市を訪れた際にも、特急列車の運休を知らせるために、「札幌へお急ぎの方は高速バスをご利用ください」という掲示が駅に出されていたのを見て、非常に驚いた。


 そして著者が言うように、こうした問題の根幹は、実は「1987(昭和62)年4月に断行された国鉄の分割民営化にさかのぼって」考えるべき問題点であり、かつそれは「JR北海道固有のものではなく、JR各社ひいてはすべての鉄道事業者にも当てはまるものではないか」という。


 詳しい内容は本書をお読みいただきたいが、もともとJR北海道は極めて厳しい経営環境に陥ることは目に見えていたはずであり、さらに今後北海道新幹線が開業することになれば、ますます負担が重くなることは明白となる。
その上で、現在一部では、もはや「地方に鉄道は必要はない」といった極論から、「JR東日本が救済合併すべき」といった議論が、沸き起こりつつあるようだが、まさにこうした選択こそ、一時の「空気」に流されることなく、数十年後、百年後の影響を視野に入れて、慎重になすべき問題といえるだろう。


 そして繰り返せば、これはJR北海道だけではなく、強硬にリニア新幹線の建設を推し進めようとする他の会社にとっても、他人事ではない問題のはずであり、あるいは鉄道だけでなく、日本社会全体にも通ずる重要な問題点のはずである。


 よって、できるだけ多くの方に、「他人事ではなく自分のこととして」そして「自分だけではなく子や孫たちの問題として」お読みいただきたい一冊である。


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2013年12月29日

『1995年』速水健朗(ちくま新書)

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「日本の現代史を語る上で、新たな必読の一冊」

 社会(科)学を学ぶ上で、現代史の知識は必須である。だが、大学で講義していても、年々その前提知識を持たない学生と接することが増えてきた。

 教えているこちらも歳を重ねているし、何よりも歴史は動いていくので、ある程度は当然と言えば当然のことなのかもしれない。だが10年前に教鞭をとり始めたころは、平成生まれの学生たちが、国鉄解体や昭和天皇崩御を知らないことに驚きを覚えていたのだが、最近では、オウム真理教事件や阪神・淡路大震災を知らない学生たちの出現に改めて驚かされるようになってきた。


 それもそのはずで、本書のタイトルでもあり、これらの事件が起こった1995年に生まれた若者たちが、いよいよ大学に入学する段階に入ってきたのである。


 本書『1995年』は、独自の視点からわかりやすい内容で現代の事象を切り取ることには定評のある、速水健朗氏の手によるものであり、そんな今どきの学生たちにこそ薦めたい、資料的価値の高い一冊といえる。


 『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』といった過去の著作のような、独自の視点から事例を掘り下げる手法とは違って、むしろ本書では、1995年の日本社会に起こった出来事をできるだけ網羅的に、それも淡々とした筆致で書き記しているのが特徴的である。具体的には第一章の「政治」に始まり、「経済」「国際情勢」「テクノロジー」「消費文化」「事件・メディア」といった章立てからなる。


 またこうして網羅的であるからこそ、むしろこの年が日本社会のあらゆる面における転換点であったことが改めて感じられる内容ともなっている。


 だが、一般的な『ニュース年鑑』とどことなく違いを感じるのは、やはり本書のどこか背後に、筆者自身のリアリティが垣間見えるからなのだろう。あとがきでも触れているように、速水氏自身は当時大学4年生で、まさにライフステージの転換点に立っていた。


 加えて、冒頭で記したような、80年代後半以降の徐々に変化しつつあった日本社会を代表する出来事の数々をリアルタイムに経験していたからこそ、1995年という年が転換点ではあるものの、そこで全てが突然のうちに変わっていったというよりも、むしろ「それ以前に起こっていた日本社会の変化を強く認識する機会」(P5)として感じられたのだという。


 この点は、速水氏よりも3年遅れて生まれた評者においても、ほぼ同じリアリティを共有するし、さらにいえば、1976年に生まれた評者の世代は、ちょうど高校卒業から大学入学へとさしかかる時期に1995年を迎えており、加えて、小学校の卒業から中学校への入学へとさしかかる時期に、昭和から平成への移り変わりを経験してきた。それゆえに、自らのライフステージと重なり合いながら、時代が変遷していくリアリティについては、非常に強い実感がある。


 本書は、速水氏や評者のような70年代生まれ世代が、後発世代に対して、日本社会の現代史を語り継いでいく上で、必読の一冊となっていくことだろう。


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『格付けしあう女たち―「女子カースト」の実態』白河桃子(ポプラ新書)

格付けしあう女たち―「女子カースト」の実態 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「女子カースト」に対する社会学的分析と処方箋」

 見つけた途端に、すぐにでも講義で紹介したくなる本というのがある。加えて、紹介した途端に、学生からも非常にいい反応が返ってくる本というのもある。本書はまさにそうした著作である。平易な書き方をしながら、その一方で、今日の社会における何がしかの本質的な点を指摘しているような著作というのは、なかなかお目にかかれないものである。

 さて、本書『格付けしあう女たち』は、家族社会学者の山田昌弘との共著によって、「婚活」というキーワードを世に広めたジャーナリストの白河桃子氏が、今日における女性たちのコミュニケーションの実態を社会学的に分析したものである。


 サブタイトルにおいて「女子カースト」と呼び表しているように、今日の女性たちのコミュニケーションにおいては、影に日向に激しい差異化競争が繰り広げられ、その結果を元にした厳しい「格付け」がなされていくのだという。冒頭でも取り上げられている「ママ友」の事例などはその典型で、「友」という文字とは裏腹に、場合によっては競い合う「敵」にすらなりうるのだといい、他にも「恋愛・婚活カースト」「女子大生カースト」「オフィスカースト」といった事例が取り上げられている。


 本書が優れているのは、こうしたコミュニケーションが生まれる社会的背景について、的確でなおかつわかりやすい分析がなされていることだ。すなわち「「女子カースト」が生まれる四つの原因」(P34~)として挙げられているのは、「ヒマがある集団」「狭くてぬるい均質な集団」「逃れられない集団(会社、ママ友など)」「「悪の種」が集団に紛れ込んだ場合」だが、ここからは、いわゆる集団主義的で、他に逃げ場のない同質的な集団において(例えば、管理教育の徹底された学校などを想像するとよい)、いじめが起こるのと類似した構造を見出すことができるだろう。


 だが、本書がさらに注目に値するのは、こうした実態をただ批判するだけではなく、さらなる深い分析に基づいて、建設的な処方箋を提示していることである。


 すなわち本書によれば、いじめが起こるのと類似した構造である、逃げ場のない同質性の高い集団は根強く残存していくものの、その一方で「格付け」競争がますます激化していく背景には、社会全体の流動性の高まりとともに、むしろ人々の間での多様性が徐々に高まり始めていることが指摘できるという。


 いわば「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、同質性の高い集団においては、少しでも異質なものが紛れ込むと激しい反発が生じうる。つまり本書によれば、今日において「女子カースト」が非常に過激になっているのは、「多様性社会への過渡期」にさしかかりつつあるからだというのである。


 こうした「多様性社会」の到来を前に、選ぶべき道はおそらく二つありうるのだろう。一つには高い同質性に固執して激しいバックラッシュ的な反応を見せることであり、もう一つには、流れに棹さして、時代の変化への適応能力を高めていくことである。


 そして白河氏が進めるのは後者の選択肢である。「女子のカーストをサバイバルするための三つの技術」(P180 ~)において、提示されているのは「複数の足場を持つこと」「問題解決能力を持つこと―集団の居心地に敏感になる」「自分を肯定すること―自分を嫌いな人とは仕事できない」といった内容である。


 こうした処方箋は、すぐにでも問題を解決し救われたい女性たちにとっては、即効性のある特効薬とはならないものかもしれない。だがむしろ社会学的な処方箋は、「対症療法」というよりも「気長な根治」に向いたものである。


 「女子カースト」に悩む世の中の多くの女性たちに対して、その実態を冷静に分析し対処していくために、本書を強くお勧めしたい。


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2013年10月31日

『n次創作観光―アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性』岡本健(NPO法人北海道冒険芸術出版)

n次創作観光―アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「新しいリアリティ、新しい観光の可能性」

 かつて、アメリカのダニエル・ブーアスティンは『幻影(イメジ)の時代』において、現代社会を批判的に捉えた「疑似イベント論」を展開した。その要点は、いうなればマスメディアが作り上げるイメージ(コピーされたもの)と、現実に存在するオリジナルとが混合し、時に逆転さえしてしまう事態を示したものであった。

 いくつもの事例が取り上げられる中で、われわれにわかりやすいものとして、「観光ガイド」に描かれたとおりの体験こそが、「もっとも現地らしい」体験のように感じられてしまうことなどが挙げられよう。観光客の期待するリアリティと、現地で暮らす人々のリアリティが大きくずれていることはよく見られることだし、後者が前者に合わせることで観光産業が成立するという側面もある。


 その一方で、今日の社会はさらにその先へと突き進んでもいるようだ。本書が取り上げている「アニメ聖地巡礼」は、まさにその典型例といえるだろう。

 宗教における「聖地巡礼」とは、唯一にして、まさに複製不可能な「聖地」だからこそ、人々が集い、巡礼が成立してきた。それと対比させるならば、「アニメ聖地巡礼」は、アニメという複製作品によって媒介された、どこにでもありそうな日常空間こそが「聖地」となり、そこに人々が集うところに面白さがある。


 本書のP45で取り上げられている埼玉県の鷲宮神社がそのはしりと言われているが、その後、郊外のニュータウンのような、まさに「入れ替え可能」な空間が、作品内容的にも「日常系」といわれるささやかな等身大の現実を描いた作品によって、「聖地」と化していく逆説的な動向が見られるのである。


 これを、「疑似イベント」ここに極まれり、と批判して見せることはたやすいだろう。だが、本書はむしろこうした現象に、「コンテンツツーリズム」の、さらにはこれからの時代の文化の可能性を見出そうとしている。


 宗教における「聖地巡礼」と対比させるならば、超越性の失効した成熟社会において、「あえて」日常的な取りに足らない空間に「聖地」としての意味を見出して、文化を盛り上げていこうとする動向は興味深いと言えるだろう。


 本書は、具体的な事例についても、多数の図表を用いながらわかりやすく解説しており、この点で「アニメ聖地巡礼」に関する格好の入門書となっている。


 また北海道大学大学院に提出された博士論文がもとになっているので、社会背景に関する分析もわかりやすくなされ、それが今日の社会においていかなる意味を持つのか、きちんと検討されているのも特徴的だ(しいていえば、理論的な検討がやや羅列的で、十分に事例とリンクしているかどうかという点に難がなくもないのだが、それは今後の課題というところだろう)。


 いずれにせよ本書は、新しい時代の現象を、新進気鋭の若手学者が果敢に分析しようとした著作として評価したいと思う。


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2013年09月30日

『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について―リキッド・サーベイランスをめぐる7章』ジグムンド・バウマン+デイヴィッド・ライアン  著 /伊藤茂 訳(青土社)

私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について―リキッド・サーベイランスをめぐる7章 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「道徳的中立化」され、「液状化」した監視社会」

 本書は、『リキッドモダニティ』などの著作で知られ、現代社会に鋭い批判の視線を送り続ける社会学者ジグムンド・バウマンと、監視社会論の第一人者として知られるデイヴィッド・ライアンとの対談を収めたものである。

 原著は昨年2012年に出されているが、この刺激的な内容の対談が、これほど短期の間に翻訳され、日本語でも読めるようになったことをまずは素直に喜びたいと思う。それほどに、本書は今日の監視社会を考えていく上での必須の著作ともいえる内容になっており、さまざまに新しい概念を駆使しながら、刺激的な議論が展開されている。


 この二人が組み合わされていることからもわかるように、本書が捉えようとしているのは、かつてのように巨大で固定化された権力があって、誰の目にも明らかな監視が行われているような社会のことではない。


それと対比させるならば、本書が対象としているのは、「液状化」した監視社会であり、原著ではそれをメインタイトルにも冠して「リキッド・サーベイランス(Liquid Surveillance)」と呼び表している。そして日本ではまだ耳慣れないこの概念について、翻訳者は、これまた訳書のメインタイトルにあるように「私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界」と訳している。


 この点で、「リキッド・サーベイランス」は、言葉としては耳慣れないけれども、今日の日本社会を生きる我々にとって、すでに幅広く浸透した現象であることが理解されるだろう。


 それは卑近な例で言うならば、ソーシャルメディアを通してお互いの日常生活をのぞき見ているような状況がまさにあてはまるといえるだろう。それまでとは違った意味深なやり取りの増加に、彼氏が彼女の浮気を感じ取ったり、前日深夜まで飲み会だったという投稿から、大学教員が学生の欠席の原因が仮病であることを悟ったり…といったように、枚挙には暇がない。


 そしてそこには、巨大な権力が背後にあるわけではなく、あくまで「道徳的中立化」されて、目立った悪意もないままに、いうなれば「誰得(誰が得をしているのか)」かわからないような状況が広まっていることがうかがえる。


 本書では、こうした状況を、これまでのソリッド・モダニティにおけるパノプティコン的な監視と対比させて、「ポスト・パノプティコン的な世界」(P26)と呼び表している。そして、先のソーシャルメディアの事例もさることながら、その詳細について、デイヴィッド・ライアンは「はじめに」で以下のように記している。

 各組織によって積極的に集められた個人情報の多くが、携帯電話を利用し、モールでショッピングを行い、休暇で旅をし、もてなしを受け、ネットサーフィンを行う人々によっても活用されるようになっています。私たちは自分たちのコードを読み取り、郵便番号を繰り返し唱え、自分たちのIDを日常的に、自動的に、積極的に提示しているのです。・・・善かれ悪しかれ、今日の監視が主に行っているものが社会的振り分け(social sorting)だからです。(P26~27)

すなわち、「リキッド・サーベイランス」が行っているものが、「物理的暴力」というよりも「社会的な振り分け」だという指摘は傾聴に値するだろう。


それゆえにこそ、こうした状況下においては、もはや人間は、バーコードの埋め込まれた「ヒューマン・ハイパーリンク」(P22)に過ぎない存在となっており、ソーシャルメディアは、そうしたハイパーリンクを仕分けしていくようなもの、すなわち「社会的断片化」を推し進めていく原因であり、結果ともなりつつあるのだという。


本書は、対談が元になっているので、読みやすいことも特徴的だが、しかしながら扱っているテーマは、決して軽く読み流せるような内容ではない。ソーシャルメディアのほかにも、こうした問題点を表す事例がいくつも取り上げられている。


 まさに今日の社会における重要な社会問題を考える上で、多くの方にお読みいただきたい一冊といえるだろう。


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『遊びの社会学』井上俊(世界思想社)

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「ゲーミフィケーションを考えるために、読み返したくなる名著」

 何度となく読み返したくなる名著というものがある。この社会の何がしか、本質的で重要な点を言い表しているような著作、評者にとっては、この『遊びの社会学』がそうした一冊である。おそらくは今後も古典として読み継がれていくことになるのだろう。

 本書は、社会学者の井上俊が文化という現象を分析したものであり、重要なのは、メインタイトルにもある「遊び」というパースペクティブである。第Ⅰ部では個別の事例に関する分析や議論がなされたのち(遊びへのアプローチ)、第Ⅱ部では、そもそも「遊び」というパースペクティブがいかなるものか、理論的な検討がなされている(遊びからのパースペクティブ)。もともと一つの著作として体系的に描かれることを意図したものというより、書かれたものを編み上げた論集といった著作だが、その分、興味の惹かれるどの章からでも読むことができる(また定評のある流麗な文体は、いつ読んでもわかりやすい)。


 初版が1977年に出されたのち、新装版を含め、幾度も重版が続いてきたこの著作は、多くの人に読まれ、そして紹介や検討がなされてきた。それに屋上屋を架すのもおこがましいが、評者なりに、昨今の社会現象を理解する上で、本書が持つ価値について触れておきたいと思う。


 「遊び」というパースペクティブは、知られる通り、オランダの歴史学者ハイジンガやフランスの社会学者カイヨワらの著作をもとにしたものである。井上は、その要点を日常生活からの「離脱」とそれゆえの「相対化」機能にみる。そしてそうした特徴を、大衆文化や当時の青年たちの文化の中に見出していくのである。その頃においては、一見何の効用も持たないかのように論じられていた、低俗番組や青年文化の中に、社会的な存在意義を見出した著作として、本書は高い評価を得ることになった(第18回城戸賞を受賞)。


 また日常生活からの「離脱」という点において、「遊び」すなわち文化の領域は、そもそも「聖」なる宗教の領域から派生したものであるという。よって、井上が後の論考でも触れることになるのだが、「遊び」の文化が日常化し、遍く定着していくことは、むしろその「相対化」機能を低下させかねないことになるという。


 評者は、この著作を近年のゲーミフィケーションという現象を考える上で、再検討すべきだと考えている。ゲーミフィーケーションとは、この書評ブログでもいくつか関連する著作を紹介してきたが(例えば、『ゲーミフィケーション―“ゲーム”がビジネスを変える』井上明人(NHK出版)など)、「ゲームの現実化/現実のゲーム化」が折り重なって進むような、大きなリアリティ変容のことだ。


 具体的にいえば、若い世代を中心に、人生もまたゲームをプレイするようなものへと変わりつつある。それは、スマートフォンをゲームのコントローラーのようにして、そしてソーシャルメディア上のライフログ(自分の経歴や友人数など)を、あたかもゲームのステージのようにして、徐々にクリアしていくようなものである。


 「がんばっていれば人生なんとかなる」「日本の未来は明るい」といったような大きな物語に人々が駆動されていた時代とは、まったく異なったリアリティがそこにはある。


 そして奇しくも、本書『遊びの社会学』の冒頭で検討されているのも、実は「ゲームの世界」である。そこで中心的に論じられているのは麻雀であり、「遊び」の領域を日常生活から確固として分離できた時代の話ではあるけれども、「ゲーム」という「遊び」の効用を的確に分析している点においては、今日でも得るところが大きい。


 いうなれば今日は、「ゲームが日常化」してしまったというよりも、「日常をゲーム化」させていくことでしか、日々をやり過ごせないような、そんな時代になりつつある。この点をとらえて、これも以前の書評欄で紹介したように、中川淳一郎は『凡人のための仕事プレイ事始め』(文藝春秋)において、仕事も生活もすべてを「プレイ」するものと割り切るしかないと説いていた。


 まさに生活のすべてが、あたかも「ゲーム」を「プレイ」するかのように化していく、それこそがゲーミフィケーションの進んだ社会であり、すべてが「遊び」と化した社会なのだろう。かつてのように、仕事に本腰を入れながら、時々のレジャーに「離脱」して、リフレッシュする・・・のではなく、すべての生活に対して、時に入れ込み、時に「離脱」することを繰り返して、その場その場をやり過ごしていくしかないような時代になりつつあるのである。そのとき果たして「遊び」の効用はどうなっていくのか、そうした論点こそを今、じっくりと深めるべきであるように思う。


 本書は、こうしたこれからの成熟社会の生き方を前向きに考えていく上でも、改めて学ぶところが大きいように思う。かつて愛読した人々にも、そしてこれからの社会を担う若い人々にも、じっくりと読みなおしてほしい一冊である。


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2013年09月29日

『社会を超える社会学―移動・環境・シチズンシップ』ジョン・アーリ著/吉原直樹監訳(法政大学出版局)

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「「移動性(モビリティ)の社会学」への期待的な展望」

 本書はイギリスの社会学者、ジョン・アーリが2000年に出した著作“Sociology beyond Societies: Mobilities for the twenty-first century”の翻訳である。原著が出されてからすでに10年以上がたち、訳本が出されてからも数年が経過しているが、原著のサブタイトルに含まれている”Mobility(モビリティ=移動性)”というキー概念の重要性はますます高まっていると言えるだろう。

 アーリは、この概念の検討に特化した著作を、2007年にも”Mobilities ”というタイトルでPolity Pressから出しているが、和訳されたものとして、さらに今日の社会変動を踏まえつつ、その中での社会学の存在意義を見据えながら、このキー概念を提唱したものとしての本書の重要性は今なお変わることがないだろう(それゆえに、余談ながら評者は、本書を今年度前期の大学院ゼミのテキストとして取り上げた)。


 アーリはもともと観光旅行に関する研究から、この概念の着想を得たようだ。この点をパラフレーズするならば、観光旅行中、人は地位や役割のフィックスされた日常生活とは違って、身寄りのなさやアイデンティティの寄る辺なさを味わうことになる。そして移動性(モビリティ)の高まった今日の社会においては、いわば毎日の生活すら、観光旅行中のように寄る辺なく生きていかなければならなくなる(ガイドブックに頼って観光客がその寄る辺なさを埋め合わせていくように、今日のわれわれはその寄る辺なさを埋め合わせるために、例えばモバイルメディアのようなものが手放せなくなるのだともいえよう)。


 アーリは、こうした移動性(モビリティ)の高まりの表れを、たとえばグローバル経済の進展に見る。国境を越えたフローの広まる今日においては、国民国家の存在そのものが相対化されざるを得なくなる。こうした状況下では、19世紀以来、社会学がその存在意義を見出してきた「社会」という対象すら、流動化してあやふやなものになってしまいかねない。


 だが、アーリの着想が面白いのは、こうした状況を新たな社会のありようとして積極的にとらえ直そうとするところにある。いわば、バウマンのように、近代社会が液状化したものとして悲観的に捉えるのではなく、むしろ移動性(モビリティ)の高まった状況を、そのまま社会として名指すところに、新しい社会学の方法基準を求めようとしているのである。


 こうした新たな社会を記述するキー概念の中でも、地位や役割といったフィックスされたものにかわる、ハイブリッド(な存在)という捉え方が面白い。


 例えば、アーリは移動性(モビリティ)の高まりを示す事例として、(他の著作でも)自動車について検討しているが、そこでは自動車と運転手を別々の存在としては捉えていない。つまり、自動車と運転手というものが、固定化されて別々に存在しているのではなく、「自動車・運転手」というハイブリッドがネットワーク化されてうごめいているものと捉えるのである。


 こうした発想に基づくならば、さしづめ今日でいえば、「モバイルメディア・ユーザー」というハイブリッドな存在を思い浮かべるとわかりやすいだろう。これまでのテレビでいうならば、一方的に情報伝達してくるメディアとその受け手との区別はフィックスされていた。だが、たとえばLINEのようなスマートフォンのアプリケーションソフト(アプリ)を想定すると、それを介したコミュニケーションに時と場所とを問わずに追い立てられているとき、はたしてコミュニケーションしているのは、自分なのかアプリなのか、よくわからない感覚に陥った人も少なくないことと思う。


 このように、本書は近年の社会変動を捉えていく上でのヒントに満ち満ちた著作である。評者は、研究仲間とともに、メディア論における応用を構想しつつあるが、むろん本書の射程はそれにとどまるものではないだろう。


 ただ、発想の独創性が先立つためか、概念整理がやや雑だったり乱暴だったりする個所も見られるのだが(本書の所々でも、重要な概念が系統立てられないままに箇条書きになされた個所が見られるのだが)、この点は読む側が自らの社会のコンテクストに合わせて期待直していけばよいのだろう。


 また、いわゆる9・11同時多発テロ事件以前にまとめられた書物のため、やや国際社会の流動化の高まりに対して、あるいはそこで果たすEUの展望について、少し楽観的なのが気になるのだが、そのような批判は「後出しじゃんけん」のようなものとして差し控えるべきかもしれない。


 いずれにせよ本書は、これからの新たな社会をとらえるための、一つの重要な概念を提起した記念碑的な著作として評されるべきものと思う。


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2013年08月31日

『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』浅野智彦(河出書房新社)

「若者」とは誰か―アイデンティティの30年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「アイデンティティをめぐる問いの軌跡」

 本書は、若者のアイデンティティをめぐって、特に現代の日本社会におけるその変容について描き出したものである。

 そこで問われているのは、まずもって次のような2つの問いである。すなわち書名になぞらえて言うならば、「若者とは誰でありたいのか」という若者自身のアイデンティティへの探求の視点と、「若者とは誰でなければならないのか」という若者以外からの(往々にして上の世代からの)視点である。


 誰かでありたい若者と、あるべき若者像を押しつける上の世代とが激しく対立してきたという話ならばありきたりだが、本書はこの点をさらに深い問いへと掘り下げていく。


 そこでさらに問われるのは、「若者とは“誰か”であるべきなのか/そうではないのか」という対立する問いである。つまり、アイデンティティを何がしかの収斂した像を結ぶ統合したものとみなすべきか、それとも緩やかなものと見たほうがよいのかという視点である。


 本書では、こうした対立を、一方はエリクソンの発達論に端を発する統合的アイデンティティ論として、もう一方はリースマンの社会的性格論に端を発する多元的アイデンティティ論として整理しつつ、そもそもアイデンティティが両方の側面を兼ね備えたものであることを指摘して見せる。


 すなわち、アイデンティティには、統合的な側面と多元的な側面とがあり、この2つの視点は同時に併存する「理想と実態の緊張関係」のように議論を繰り広げてきたのだという。つまり一方的かつ全面的に、アイデンティティが、統合的なものから多元的なものへと変容してきたのではないということだ。


 だが著者の分析では、それでも大局的に見て、アイデンティティは緩やかに多元的なものへと移り変わりつつあるのではないかという。


 本書では、特に1980年代以降の消費社会化、あるいは1990年代以降の高度情報化の進展といった若者たちを取り巻く「場」の変化を追いながら、各種の実証的な調査データも示しつつ、この点が検討されている。


 言うなれば、「地域育ち」「学校育ち」だった若者が、「消費市場育ち」「ネット育ち」へと、より流動化した社会を生き抜いていかなければならなくなってきているのだとすれば、この変容には大きく頷かざるを得ないところがあろう。


 本書は、若者論・アイデンティティ論で定評のある著者が、これまでの経緯とともに先端的な議論を適切に整理しながら紹介しており、この点で、若者(論)の現状を知る上でも、そしてアイデンティティ論のテキストとしても興味深く読める一冊である。


 評者の主観的な物言いになるが、これだけの議論がバランスよくフォローされていて、1500円(税別)はお買い得な内容だと思う。ぜひ多くの方にお読みいただきたい。


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『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』近森高明・工藤保則編(法律文化社)

無印都市の社会学―どこにである日常空間をフィールドワークする →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「郊外化」空間における日常生活を記述する方法」

 この夏、とある地方都市の若者調査に出かけて、いろいろと驚きがあった。まず、驚いたのは、中心市街地の廃れた様子である。いわゆる「シャッター街」化は日本の至る所で進んでいるものの、この地方都市の廃れ具合は半端ではなかった。

港にも近い駅前では、数年前に大火事があったということもあって、もはやシャッターの下りた商店すら存在せず、さながら戦災後のように空き地ばかりが広がっていた。


 だが次に驚かされたのは、若者たちにその地方都市の現状を訪ねたときである。彼らの口からは「最近、だいぶ発展してきなって思います」「なんだか都会みたいになってきました」という答えが返ってきたのだ。


 一体どういうことなのかと思い、中心部から少し離れた、彼らの通う大学のキャンパスを訪れてみたが、そこで謎は解けた。彼らの住居もあるその一帯には、いわゆる「郊外型」の大型店舗が林立していたのである。近年では多くの人々が、この「郊外化」した空間へと移住しつつあり、旧来の中心部から、街の重心が移りつつあるのだという。


 つまり、この地方都市の若者たちにとって、“街”であったり、“都会みたいなところ”というのは、「郊外化」した空間のことだったのだ。


 なるほど、たしかに彼らの発想を外部からの視点で批判して見せることはたやすい。どこにでもあるような「郊外化」空間を追い求めるより、その地方都市の固有性、かつて漁業で栄えたというその独自の歴史や文化を大事にするべきなのではないかと。


 しかしその一方で、喪失ばかりを嘆くのではなく、現実に向き合って、実態を記述するところから、何かを始めることもまた重要なのではないだろうか。彼らが一定の満足を覚えている、「郊外化」空間における日常生活を、それに内在して記述していくこともまた必要なことだろう。あるいは、社会学とは一面においては、そうしたものだったはずである(この点において本書は、関西圏を中心とする現代風俗研究会的なものの流れに位置づく、良質な研究成果ということもできよう)。

 さて、本書『無印都市の社会学』は、まさにこうした問題意識に貫かれた著作であり、現在の都市をフィールドとした都市社会学、文化社会学、あるいは社会調査法についての格好のテキストブックともなっている。


 編者の一人である近森高明は、第1章において、本書が対象とする「郊外化」空間について、それが多分に批判的な色合いを持った言葉として使われていること、さらに居住と消費の空間とを区別して分析するのに不十分な概念であることから、「無印都市」という新たな呼び名を与えている。


 これは、建築家レム・コールハウスの議論を援用して、「ジェネリック・シティ」という概念を翻訳したものだが、これまた郊外型店舗の一例でもある「無印良品」を連想させる見事な訳語といえるだろう。


 続く第2章で、もう一人の編者である工藤保則によって、こうした「無印都市」の日常生活を記述するためのフィールドワークの方法論が検討された上で、「消費空間(コンビニ、ショッピングモール、家電量販店など)」「趣味空間(マンガ喫茶、パチンコ店、TSUTAYA/ブックオフなど)」「イベント空間(フリマ、ロックフェスなど)」といった順に、さまざまな事例が検討されている。

 評者自身の見解を記せば、こうした「無印都市」は、自分の感覚の全てを満たしてくれるとまで言えないのは事実だが、だが抗いがたい楽しさや便利さがあるのも事実である。


 そうした「無印都市」の実態を描き出した本書は、楽しく読み進めながら、現代社会の重要な変化について考えさせてくれる、まさに良書と呼ぶことができるだろう。


 若者に限らず、またさまざまな居住地の方に読んでいただきたい一冊である。


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2013年06月30日

『私とは何か―「個人」から「分人」へ』平野啓一郎(講談社現代新書)

私とは何か―「個人」から「分人」へ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ほどけゆく個人のゆくえ」

 本書は、作家の平野啓一郎が、2009年の小説『ドーン』の作中で描いた概念「分人主義」について、スピンオフ的に別の著作にまとめあげたものである。

 『ドーン』は近未来の社会を描いた小説であり、「分人主義」という概念も、われわれ人間存在のこれからのゆくえを説得的に描き出したものとして興味深く、何よりもネーミングセンスがよい。


 その内容についてパラフレーズしておくならば、「分人主義」とは読んで字のごとく「個人主義」と対置される概念である。元の英語で述べたほうが分かりやすいが、「個人」がin-dividual(それ以上分けられない存在)であるならば、「分人」とは、dividual(分けられる存在、複数のコミュニケーションの寄せ集まった存在)のことをいう。


 すなわち、人間存在を、「固定化された自己」や「かけがえのない自分」が中心に据えられたものと見なすのではなく、他者と織りなす複数のコミュニケーションの集合体と見なすというである。


 これは、社会学で論じられてきた2通りの概念と、似ているようで異なっている。2通りの概念とは、一つには「地位と役割」であり、会社では課長、家庭では父親としてふるまう「私」というとらえ方がある。近年ではさらに一通り、「空気とキャラ」という概念があって、ある場面では「オタクキャラ」を演じ、またある場面では「リア充キャラ」を演じるというような、より流動化したとらえ方もある。


 だが、「役割」にせよ「キャラ」にせよ、これらの概念が、それらを演じ統制する中心としての「自分」という概念をどこかで捨て去っていないのと比べて、「分人」はより徹底して中心を否定するのが特徴的である。かといって「多重人格」とも少し違うのは、それがむしろコントロールを失った異常事態と見なしがちなのに対して、「分人」はあくまで一つの正常な状態なのである。


 そして、もはや「自分」という中心を否定する代わりに、そこに存在するのは、せいぜい一人の人間の中の複数の「分人」を、積極的に混ざり合ったほうがよいと考える「分人多元主義」か、それらがきっぱり分かれている方がよいと考える「多分人主義」かという差でしかなくなっていく。


 さて、こうした「分人主義」に近い発想は、すでに1990年代において、若者のコミュニケーションに関する実証調査研究から提起されていた。社会学者の浅野智彦や辻大介らが論じていた「多元的な自己」と「選択的コミットメント」と呼ばれるような概念がそれであり、若者たちが複数の交友関係を選択的に使い分けながら、その場面ごとに出てくる「自分らしさ」を、どれも「本当の自分」ととらえるような現象をアンケート調査の結果から明らかにしていた。


 だが、そこに見られていたのは、100%全ての若者がそうなっていくというわけではなく、一定数において「多元的な自己」という現象が見られるという指摘であり、一方では依然として「ハッキリとした中心のある自己」をもった若者も存在していたのである。


 評者自身も、この社会の流動化がますます激しくなるにつれ、固定化された中心のある「自分」にこだわるよりは、「多元化した自己」や「分人」といったありようのほうが、むしろ適応的だろうと考えている。


 ただ、実態と対比させるならば、「分人」という発想はやや先を行き過ぎていて(近未来小説における概念なので、当然と言えば当然だが)、逆に言えばこの概念は、理論的に純粋化された概念、すなわち「理念形」であるともいえるだろう。そして小説という思考実験の中だからこそ、近未来の人間存在に起こりうる「理念形」が提起されてきたという点がやはり興味深い。


 社会学においても、理論と実証の軽やかな往復運動から、研究を深めていくことが重要視されるのだが、こうしたフィクショナルな作品世界との間の往復運動もまた、研究に有益な発想をもたらしてくれることだろう。
この点で本書は、新しい世代の若者たちのコミュニケーションやその展望を知りたい人には格好の入門書ともいえるし、研究者にとっても、ヒントの詰まった著作である。


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2013年05月31日

『UFOとポストモダン』木原善彦(平凡社新書)

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「UFO論と社会の変容をパラレルに追求した傑作」

 本書は、UFOやそれに乗ってくる宇宙人を題材としてはいるものの、その存在の真偽を問うことを目的としたものではない。

 むしろアメリカをフィールドとしながら、そうした「UFO論」とパラレルに、社会が変容していく様子を見事に描き出した傑作である本書は、「UFO論」論であるといったほうが的確だろう。


 第1章の末尾でもまとめられているように、実はUFOの目撃証言は、はるか昔から存在しているようでいて(少なくともアメリカにおいては)、第二次世界大戦後に限られた現象なのだという。そして1973年を境に激減し、今日ですっかりと衰えてしまったという。


 同じく第1章では、本書のイントロとして、UFOに関する時代ごとのイメージの変遷が簡潔に示されているが、以下に代表的なものを抜粋してみよう(P21~25の一部に加筆修正)。

① 1947~49年 円盤型の航空機が目撃される。米ソの秘密兵器、ないし外宇宙から来たもの。
② 1950~52年 空飛ぶ円盤はエイリアンの乗り物。
③ 1953~63年 特定の人々が宇宙人とコンタクトを取っているが、空軍やCIAは隠蔽。
④ 1964~72年 UFOが着陸痕を残す。異星人が来たのは人類を救うためでもある。
⑤ 1973~79年 UFOは家畜虐殺の原因。異星人に誘拐された人もいる。
⑥ 1980~86年 異星人は小さな体に大きな頭をしている。

 大きく見ると以上のような移り変わりがあるのだが、さらに筆者も述べているように、そこには大きくいって、1950年代をピークとして1970年代までにいたる、空飛ぶ円盤に代表されるような光り輝かしいUFOの時代があり、それが1970年代から90年代になると、おぞましいエイリアン(異星人)の時代になり、そして90年代以降は、UFOや宇宙人のイメージがなかなか共有されず拡散していってしまう時代へという区分が見出せるのだという。


 そしてこうした時代の変遷は、日本社会を題材に見田宗介が提示して見せた、輝かしき「理想」や「夢」の時代から、外部や先の見通し難い「虚構」の時代へという区分とも、ほぼパラレルなものだという。


 つまりタイトルに倣うのならば、UFOとはすぐれてモダンなものなのだ。急速に近代化の進んだ、「理想」や「夢」の時代にこそ、科学技術の粋を集めた、まさしく近代的なUFOイメージが席巻したのだが、ポストモダンの今日では、もはやそのような表象にはリアリティがなくなってしまうのだ。


 この点は、鉄道やスーパーカーといったかつて少年たちが憧れていた乗り物たちの時代変遷を追及しても、ほぼ同じような結論に至ることができるだろうし、そうした比較研究も今後は期待したいところである。


 UFOを信じる人もそうでない人も、そしてかつて信じていた人も、そうでなかった人にも、お読みいただきたい一冊である。


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『検証・若者の変貌』浅野智彦(編)(勁草書房)

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「90年代における日本の若者の変容を振り返る」

 本書は、1990年代を中心とする若者文化における変容について、実証的な質問紙調査の結果に基づいて論じたものである。

 第1章で編者の浅野智彦も記しているように、1990年代は「失われた10年」とも呼ばれていた。主としてそれは、バブル期に至る1980年代までと比べて、著しい経済的な停滞が見られたことによるものであった。


 また別な言い方をすれば、それは、多くの先進社会が辿る成熟社会化の波が訪れつつあったということでもあったのだろう。近代化が急速に進められた時期(前期近代)を過ぎ、この社会の発展という点で言えば、もはやそれほど大きくは変わらない、どちらかといえば安定した時期(後期近代)が訪れつつあったということだろう。


 こうした点は、2010年代を迎えた今日においてなお、その思いを強くするところだ。しかしその一方で、後期近代の成熟社会とはいかなる社会であり、それをいかに生きていけばよいのか、という点については、まだ十分に理解が深まっていないように思われる。


 そしてその点の嚆矢は、これも第1章で浅野が指摘するように、1990年代に沸き起こった「若者バッシング」に見られるという。すなわち1980年代においては、各種のニューメディアを使いこなした先端的な消費者層として、華やかにかつ肯定的に論じられていた若者たちが、1990年代以降は急速に否定的な論調で語られることになる。つまり、そこに見られるのは、新たな社会の到来に対する強い不安感が、若者に対する批判へと形を変えて噴出したという現象であった。


浅野はこうした状況を、1990年代が若者論においても「失われた10年」であり、偏った状況からしか議論がなされなかったことを批判している。その上で本書では、1992年と2002年に実施された質問紙調査の結果に基づいて、友人関係(4章)や自己意識(5章)、メディア(3章)や音楽・文化享受(2章)、そして道徳意識(6章)といった側面から若者たちの変容について、実証的な検討がなされている。そこから明らかになったのは、一方的な「若者バッシング」で言われているような内容が、データに基づいて検討すれば、決して妥当なものばかりではないということであった(この点の詳細は、ぜひ本書をお読みいただきたい)。


「若者は社会のリトマス試験紙」という言い回しもあるが、本書は、若者たちの様子を、新奇なものとしてだけ面白がるのではなく、むしろ議論の前提から十分に自覚的に振り返りつつ、丹念にそして実証的に描き出しているところに価値があると言える。この点において、日本における社会学的な若者研究のスタンダードと呼ぶにふさわしいだろう。


 そして、2006年に出されたこの著作を、今ここで取り上げたことにも、もちろん理由がある。いまや2000年代を過ぎ、2010年代半ばに達しつつある今日において、成熟社会化はますます深まりつつあるように感じられる。若者たちが、もはや未来にはあまり希望を抱いていないのではないかということを「さとり世代」などと言い表したりもするというが、こうした2000年代以降の若者の変容についても、実証的な社会学的研究が待望されると言えよう。


 本書のもとになった調査は、青少年研究会(http://jysg.jp/)という社会学者を中心とするグループが行ったものだが、同研究会では、1992年、2002年に引き続き、2012年にも同規模の調査を実施している。実は評者もそのメンバーの一員であり、自らも関わる研究会の成果を評するには、やや躊躇するところがないわけではない。

だが、まさにこれからの、2000年代以降の若者を論じるにあたっては、本書は今こそ、改めて検討するに値する著作であると思われる。そして、若者論についても、その時々の新奇な現象だけを単発的に負うのではなく、こうした取り組みを通じて、ロングスパンで論じる視点を蓄積していくことが重要であると考える。


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2013年04月30日

『ビッグデータ時代のライフログ―ICT社会の”人の記憶”』安岡寛道 編(東洋経済新報社)

ビッグデータ時代のライフログ―ICT社会の”人の記憶” →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ライフログはいかに活用されるか=便利でお得で、安心安全な社会は築けるか」

 本書は、近年注目を集めつつある「ライフログ」に関する総合的な研究の成果である。ここでいうライフログとは、「人間の行い(Life)をデジタルデータとして記録(Log)に残すこと」あるいは「蓄積された個人の生活の履歴」のことをいう(本書P2)。

 具体的には、ケータイのアドレス帳であったり、SNS上の各種個人データ(友人数などプロフィールに関するもの、あるいは、やり取りの記録など)を思い浮かべるとわかりやすいだろう。あるいは、スイカやパスモといった電子マネーを利用した行動の記録などもこれに該当する(具体的には本書P6~7の図表のまとめが分かりやすい)。


 もちろんこうした記録は、いままでもアナログな形で残されてきたものである。ビジネス手帳であったり、保存された年賀状の束、あるいは家計簿などがそれに該当しよう。これら既存のデータと比べた場合に、今日のライフログの特徴は、デジタル化が進むとともに、言うなれば人々の記憶の外部化および一元化が進んでいるということができる。


 そして当然のことながら、こうした変化には功罪両面が存在する。


 人間の記憶力には限界があるから、外部化・一元化して保存しておくことで、便利になる側面はいくらでも存在する。それは、つい名前と顔を忘れがちな昔の知人であっても、顔写真入りで連絡先を保存しておくことができるというだけにとどまらない。たとえば、よく利用するオンラインショッピングのサイトが、自分の購入履歴をデータ化しておくことで、次に欲しい商品の発売予定が明らかになったとたんに、メールで知らせてくれたりもする。


 こうした変化は、効率の観点から言えば、企業などにとっても好ましいものだから、現金よりは記録が残りやすい、電子マネーであったりクレジットカードの利用がますます促されるようになっていき、さらには同種のサービス間での囲い込み競争も起こるようになる。


 一方で、人間の記憶が外部化・一元化されるということは、ひとたびそれが流出すると、以前とは比べ物にならないほど、大きな問題が起こるであろうことも想像に難くない。とりわけ、自分にとって好ましくない情報が流通した場合、人間の記憶ならば時間とともに薄れていくであろうところが、デジタル化されたデータは、理論上は半永久的に残り続けてしまうことになる。


 本書は、こうしたライフログを活用した便利でお得な社会のありようだけでなく(第2章)、そこで注意を払うべき個人の権利であったり(第3・4章)、技術的な基盤とその実状(第5章)、そして今後の展開(第6章)にまで視線がいきわたった、バランスの良さが特徴的な著作となっている。


 というのも、13名の専門家によって書かれた研究報告書が元になっているからだというが、ライフログという論点について、一方的に礼賛/批判するのではなく、バランスよく様々な視点に注意を払いながら、今後を建設的に展望していこうとする本書は、ぜひ関心のある多くの方に読んでいただきたい一冊である。



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2013年03月24日

『マンガでわかる社会学』栗田宣義/著  嶋津蓮/作画  トレンド・プロ/制作(オーム社)

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「日本初のマンガで読む社会学テキスト」

 本書は、おそらく日本で初めてのマンガで読む社会学テキストである。といっても、100%のページがマンガで占められているわけではないが、各章ごとにマンガでのイントロダクションや概略説明がストーリー仕立てでなされた後で、数ページの「フォローアップ」という文字ページでさらに理解を深めるような構成となっている。

 授業で使うか、自習用にするかは迷うところだが、ノリがいいクラスならば、講義時間の前半をマンガの読解およびそれを元にしたフリートークなどにあてて(あるいは、マンガは読みやすいので事前に読んでおくことを課題としてもよいだろう)、後半を文字ページの内容を中心としたまとめにあてるといった構成も可能だろう。


 著者の栗田宣義氏は、常に斬新な試みを続ける一方で、研究内容には定評のある社会学者ということもあり、「フォローアップ」の文字ページの内容もしっかりとしているので、「マンガで学ぶなんて・・・」と敬遠せずに、初学者は一度手に取って見るとよいだろう。


 評者も学部生のころから、より分かりやすい社会学テキストはないものかと思案を巡らせてきたこともあり、このような形で、なんとか社会学の魅力を初学者に伝えようとするその著者の姿勢については、拍手を送りたいと思う。


 ちなみに学部生の頃の評者は、大学受験参考書で定着しつつあった「実況中継」スタイルの大学の講義テキストができないものかと思案していた。だが最近では、語り口調の社会学テキストも増えてきたので、より分かりやすさを重視するなら、本書のように思い切ってマンガをメインにするというのも、「アリ」な選択と言えよう。


 その一方で、気づいた点を1つだけ記しておきたい。


本書は「マンガでわかる」という斬新なスタイルをとりながらも、内容においては、きわめてオーソドックスである。すなわち「規範」「行為」「役割」「集まり」「社会化」といった基礎概念にあたるものを順番に押さえたうえで、やや各論的な内容として「ジェンダー」に触れ、最後に付録として調査法が紹介されている。


 こうしたスタイルの著作である以上、おそらく専門的な研究書よりは発行部数を多くすることを求められ、その分、「最大公約数」的にオーソドックスな内容にすることが求められたのではないかと推察する。


 だがそのことが、わざわざ女子大学生を主人公とするマンガをメインにしたことと、どこまでマッチングしているかという点には、やや疑問が残るといわざるをえない。マンガは、今日では多くの人が読むメジャーなメディアではあるが、登場人物の心情を掘り下げつつ、ストーリーをより身近に思わせて感情移入を誘うメディアであるならば、もっと女子大学生の日常生活をメインにした内容に徹底してもよかったのではないだろうか。


 具体的に言うならば、第6章でのジェンダーに関するもの(バイト先のカフェの店長からセクハラを受けている悩みなどが事例)であったり、そのあとのエピローグで触れられている様々な社会問題とその解決(反原発運動など)といった内容を冒頭に持って行った方が、読者がより関心を持ちやすかったのではないだろうか。


 これは昨今において、社会学テキストを作るときには、ほぼ誰しもが通らざるを得ない悩みでもある。今までならば、学問の道具立て(基礎概念)を教え込んでから、応用編として各論に進んでいったものが、そもそも学生たちの社会問題への関心の乏しさゆえに、まずその関心を喚起するところから始めなければならない、という問題があるのである。


 マンガを生かして、なおかつ登場人物をせっかく女性に限定してストーリー立てているのだから、あえて「最大公約数」を狙わずに、「一点突破全面展開」的に女子大生の目から見た社会とその問題から話を始め、そのための社会学へと進んでもよかったのではないだろうか(現実的な言い方をすれば、その構成ならば「女性のことを理解したければこれを読め」と男子学生にも薦めやすいように思われる。なぜか逆は想像しにくいのだが)。


 いずれにせよ、これからの入学後のシーズンに社会学を志す初学者だけでなく、関心があるならば、高校生や中学生…あるいは小学生にも、チャレンジしてみてほしい一冊である。


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2013年02月28日

『若者はなぜ大人になれないのか―家族・国家・シティズンシップ (第2版)』 ジョーンズ,ジル〈Jones,Gill〉 ウォーレス,クレア〈Wallace,Claire〉【著】 宮本 みち子【監訳】 鈴木 宏【訳】(新評論)

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「卒業生の将来を考えながら、このシーズンに読み返したくなる一冊」

 上記のようなタイトルを付けたが、本書の内容は、決して甘酸っぱい学園モノなどではない。むしろイギリスの事例を基にした、非常にまじめな学術書だ。

 評者は、このシーズンが近づくと、卒業を控えた優秀な学生たちに対して決まって掛ける言葉がある。それは、「無理に卒業しなくてもいいんじゃないか」というものだ。もちろん、冗談半分なのだが、ということは、半分は案外本気だったりもする。


 すなわちその含意は、大学をたった数年間で「卒業」してしまうなんて、実にもったいないとは思わないだろうかということだ。勉学にスポーツ、趣味の活動と、若者たちの特権と思われてきた諸々の活動を、社会人になるからときれいにやめてしまうのは実にもったいない。


 大学卒業とともに、こうした活動をすっぱりと断絶し、それと同時に猛烈に仕事に打ち込むことが大人になることを意味していた時代は、もはや終わりつつある。


 むしろ昨今では、社会全体が「卒業しなくなる社会」へと変化してきたために、こうした言葉にも一定の「正当性」が出てきたようだ。


 「卒業しなくなる社会」とは、若者と大人の境界があやふやになる社会をいう。ここで述べたように、大人になっても若者の特権であったものを享受できるような文化的成熟がもたらされるならば、それはそれで歓迎すべきことなのだろう。(あるいは、本書でも「シティズンシップ」というキー概念によって探求されているように、旧来のものに変わる、大人になることの意味が新たに必要となってくるのだろう。)


 だが一方で、本書『若者はなぜ大人になれないのか』が注目したのは、もっと深刻な現象であった。それは、雇用の不安定化などによる、いうなれば「大人にさせてもらえない社会」の到来であった。雇用状況の変化によって、一定の年齢に達しても安定した職を得られないならば、親元に居続けざるを得なくなる。


 本書の監訳者である宮本みち子は、このように延長されていく、若者で居続けなければならない時期のことを「ポスト青年期」と呼び表し、『若者が社会的弱者に転落する』(洋泉社新書)などでその問題点を訴えてきた。
いわば本書はそうした著作の元になった研究として位置づけられる。イギリスの事例をもとに原著が出されたのがもはや20年以上前の1992年であり、日本での第一版は1996年に出されているが、宮本は2002年の「第二版によせて」の中で以下のように述べていた。

 本書の価値は、今後、本格的に認められるのではないかと感じている。というのは、日本の状況の変化にともなって、本書の枠組みが日本にとっても有効性があることが、以前より理解しやすくなったからである。(P297)

 これは、今振り返っても、まさに正鵠を射た指摘というほかないだろう。確かに1990年代であれば、それほど深刻ではなかったものが、今日では「ポスト青年期」のますますの長期化として注目されるに至っている。


 このように、本書は若者たちを取り囲む喫緊の問題点について、悲観的になるだけでなく、現実的かつ建設的に対応を考えていく上でも示唆に富む。卒業式のシーズンを迎えるたびに、読み返したくなる一冊である。


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『社会学ウシジマくん』難波功士(人文書院)

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「現代社会の「メディア・エスノグラフィ」として」

 本書は、マンガ『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平)を題材に、「社会学の成果を紹介しつつ、社会学の多面性や魅力」(P115)を伝えようとしたものであり、現代日本社会の様々な問題点が浮き彫りにされると共に、それらに対して社会学がどう向き合うことができるのかが示された著作である。

 プロローグで示されたリスク社会論(「今のこの時代に、この地球に生きるがゆえに、誰もが避けようのないリスク」―P27)に始まり、都市社会学、家族社会学、教育社会学、メディア論、ジェンダー論、感情社会学、労働社会学、社会病理学、福祉社会学、そしてエピローグの社会階層論にいたるまで、リアルな社会問題を入り口にして、社会学の多様性とその魅力を伝える入門書としての試みは、十分に成功しているものと思われる。


 あとは、主たる想定読者である学生たちが、マンガのウシジマくんを興味をもって読んできてくれるかどうかがカギだと言えよう。


 さてその『闇金ウシジマくん』とは『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で不定期に連載されているマンガだが、2010年にはテレビドラマ化、2012年には映画化もされた人気作品である。


しかしながら人気作品とはいっても、多くの人にとって読後感のよい作品ではない。というのも、その作中の登場人物は、様々な事情から困難を抱え、やむなく闇金に手を出すことになり、やがてその多くが人生の破滅を迎えていくことになるからである。評者もこのマンガの熱心な読者だが、読んだ後にはしばしブルーになることが多かった。


だが、著者の難波氏は、このマンガについて、次のような読後感を覚えたのだという。

「社会学って、こんなことだったんじゃないのかなあ・・・。」(P15)

 
 もちろん、誤解のないように記せば、社会学が人々の人生の破滅を好んできた学問というわけでは決してない。むしろ「21世紀初期のアンダーグラウンドシーンを活写した資料」(P15)として、そのリアリティの高さに惹かれたということなのである。


 この点について難波氏は、自身が社会学に惹かれる原体験ともなった著作として、シカゴ学派に代表されるエスノグラフィの数々を挙げている。それらに倣うならば本書は、『闇金ウシジマくん』という作品を通して現代社会の様相を描き出した、「メディア・エスノグラフィ」であると評することもできるだろう。

 さらにこの点で言うならば、いわゆる都市社会学のモノグラフやエスノグラフィに連なるものとしてだけでなく、関西圏の社会学者を中心に発展してきた文学の社会学の系譜に連なるもの、あるいはその現代版と位置付けてもよいのではないかと思われる。


 それも、文学からマンガへと、単純にその表現方法が文字からビジュアルなものへと変わったというだけではなく、前者がどちらかといえば社会的な自己の問題を取り上げることが多かったのに対して、後者が(他者や周りの風景を描きこまざるを得ないマンガのメディア特性もあってか)リスク社会論のような広範な社会背景に迫る議論へとつながっていくというその対比も興味深い。


 このように本書は、マンガを入り口に現代社会を考えるという、一見たやすそうに見えて、実は―著者の豊富な学識も垣間見せながら―奥深い探究へと読者をいざなう著作である。


 一つだけ惜しむらくは、実際のマンガのシーンの引用が少ないために、「あああの場面か」と思いだすのに少し手間がかかることだが、その点については、現物の『闇金ウシジマくん』を傍らに置きながら、本書を読み進めていただければよいのではと思う。


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2013年02月27日

『ドイツにおける男子援助活動の研究―その歴史・理論と課題』池谷 壽夫(大月書店)

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「男性問題としての社会問題を意図的に考え直すこと」

 昨年(2012年)の11月に、『男性不況―「男の職場」崩壊が日本を変える』 (永濱利廣著、東洋経済新報社)という著作を紹介した際、成績優秀者には女子学生が多いのだと述べた。そのことからも察せられるように、就職活動においても、同程度の学力であれば女子学生のほうが好結果を残すようだ。寡聞にして、私自身の学生指導経験からしてもそうである。

 むしろ逆な言い方をすれば、1社も内定が出なかったり、そもそも就職活動に真剣に向き合わず、いわゆる「就活浪人」になってしまうのは、圧倒的に男子学生ばかりである。


 こうした状況に対して、当の男子学生たちに、「君たちには気合が足りない!」とか、「男らしく歯を食いしばって耐えるんだ、がんばっていればきっといい結果に結びつく」などと力強く励ますのは、おそらく間違っている。


 というのも『男性不況』の中でも触れられていたことだが、そうした「男らしさ」自体が、社会全体でみれば、徐々に不要のものへと変化してきているからだ。


 別な言い方をすれば、新たな変化を遂げていく社会の中で、旧来の「男らしさ」が不適応を起こしているのだともいえるだろう。こうした不適応は、深刻な問題にも結びつくようだ。すでに言われていることだが、自殺者に占める割合は男性のほうが多いし、いわゆる「少年犯罪」についても、主だった事件の犯人はみな男性である。


 こうした状況から我々が学ぶべきなのは、深刻な社会問題のいくつかが、実は男性問題であるということだろう。いわば深刻な社会問題のいくつかについては、その対処を探る際に、意図的にジェンダーの視点を導入する必要があるのだ。


 本書『ドイツにおける男子援助活動の研究―その歴史・理論と課題』でも、特に第7章で中心的に取り扱われていることだが、2000年代以降のドイツにおいては、こうした「男らしさ」の不適応に関する問題点は、「男子=敗者論」として注目を浴びてきたという。


 さらに本書によれば、イギリスなどにおける先行の動向の影響もあるようだが、その結果として、先端的な教育学者を中心に「再帰的な男女共学」という理念が持ち上がり、その中から「女子援助活動」とともに「男子援助活動」の重要性が謳われ、すでに実行に移されているのだという。


 「男子援助活動」というのも、まだ日本においてはあてはめようのない新規の概念に対して、著者が作り出した訳語だが、本書では、ドイツにおけるその実態と問題点を紹介するだけでなく、実行に至るまでの歴史的・理論的な背景にまで深く分け入った分析が展開されており、非常に読み応えがある。


 評者が特に印象に残ったのは、ドイツの事例を紹介しながら著者が唱えている「ジェンダーに公正な教育」という概念である。いわばそれは、「再帰的な男女共学」という概念とも対になるものなのだが、全ての性差を無くせばよいというような理想主義的な発想ではなく、より現実的に、男性に対しても女性に対しても、そして性的なマイノリティに対しても、公正な教育をすることを想定した考え方なのである。よって、間違っても男性が「敗者」となる現状に憤って、女性を攻撃対象とするような、いわゆる「バックラッシュ」といわれる動向に与するようなものではない。


 単純には比べられないかもしれないが、それでも日本と同様に、後発的な近代化を成し遂げると共に、その後ファシズムの嵐が吹き荒れ、「男らしさ」に独特の価値観が置かれてきたドイツ社会において、こうした先進的な取り組みがなされているということは、我々にとっても少なからず学ぶところがあると言えるだろう。

 昨今では、いくつかの自治体において、意図的に「“男性”相談」と名付けられた、男性たちの問題に関する相談事業が始められていると聞くが、その数はまだまだ圧倒的に少ないし、これまた聞くところによると、西日本と比べて東日本ではほとんど実施されていないのだという。


 こうした現状を踏まえても、本書は非常に高い価値がある著作だといって間違いないだろう。やや高価で、大部の学術書ではあるが、関心のある方にはぜひお読みいただきたい。(蛇足ながら、本書で書かれているようなことができるだけ多くの方に伝わるように、そのエッセンスをまとめた新書などが世に出ることを勝手に期待したくもある。)


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2013年01月31日

『東京高級住宅地探訪』三浦展(晶文社)

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「理想の住宅地のなれの果てを歩き回った記録」

 本書は、消費社会研究家の三浦展氏が、東京西郊のいわゆる高級住宅地について、いくつもの文献を参照しながらその成立の経緯を辿るとともに、実際に歩き回った記録に基づいてその現状を記したものである。歴史的なものだけでなく、実際の住宅の写真も含め、資料もふんだんで、大変興味深く読み進めることができる一冊となっている。

 田園調布に成城といった、誰もが憧れる東京の二大高級住宅地に始まる各章を読み進めていくと、不思議なことに「憧れ」や「欲望が焚きつけられるような感じ」ではなく、むしろ一抹のさみしさが読後感として生ずることになる。


 むろん、これらの住宅地が現在でも一定の人気を博していることは事実である。だが、かつてこれらが急速に成立した時期における人々の熱望や、あるいはそれを今に伝える当時の住宅は姿を消しつつある。場合によっては、広い宅地は代替わりに伴って、小さく分割されてしまっているところも多い。


 言うなれば、現在において、これらの住宅地を歩き回って見えてくるのは、かつての理想郷の「なれの果て」であり、それゆえに本書を読んでいても「もののあはれ」さすら感じられるのだ。


 改めて、本書を読んでいて感じたのは、日本における住宅地の開発が「ここではないどこか」あるいは「ないものねだりの憧れ」をずっと追いかけるかのように続けられてきたということである。これら西郊の高級住宅地は、住宅も過密で湿度も高い東京東部の低地から見た理想郷として、戦前から開発が進められてきた地域である。だが、その「ここではないどこか」を追い求める熱狂のベクトルは、現在ならば、タワーマンションの上層階に住みたがるようなものといったほうが近いのだろう。


 こうした移ろいやすさについて、三浦氏もあとがきで以下のように述べている。


 「つまり、郊外住宅というものは、近代化という特殊な歴史状況のなかで、ごく一時的に必要とされたものであり、これからの時代には主流たりえないし、家族を入れた住宅という箱も、ただ使い捨てられていっただけであると言うこともできるだろう。」(P218)


 いわば、「不動産」という文字とは裏腹に、こうした住宅は、まさに消費の対象として使い捨てられていったのだと言っても過言ではない。そして、「不動産」を消費する動向は今なお続いているのも事実であり、そこにはむなしさを覚えざるを得ないのである。

 私自身は、(各章末のグルメガイドなどは純粋に楽しみつつも)本書をどうしてもそのようなものとして読んでしまったのだが、むなしさだけではやりきれないと感じられる方々は、今後の三浦氏の研究動向に注目されるとよいだろう。三浦氏は、シェアハウスや中古住宅のリノベーションなどにも着目しつつあり、これまでとは異なった消費行動に関する成果を、遠くない将来に読むことができるものと思われる。


 あるいは、氏の他の著作と読み比べるという点では、かつて本書評欄でも取り上げた『スカイツリー東京下町散歩』(朝日新書)と対比するのも面白い。同じ東京とは思えないほどの東西の違いが、そこからは浮かび上がるはずである。


 あるいは、東京という都市を理解するという点で言えば、都市社会学者たちの手による重厚なデータブックである『新編 東京圏の社会地図 1975‐90』(倉沢進・浅川達人編 、東京大学出版会)などと対比させるのも面白いだろう。この著作は、いわゆる自然地理学的な地図ではなく、居住階層などの社会的属性に基づいた空間分布を図表化したものであり、まさに三浦が取り上げた西郊の高級住宅地は、この「社会地図」でも、はっきりとその傾向を見て取ることができる。


 「社会地図」を通して俯瞰的な視点から眺めるのと同時に、三浦氏の2つの著作を通してリアルな視線で見つめたならば、今日における東京という街を、より立体的に理解することができるに違いない。


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2012年12月29日

『第四の消費―つながりを生み出す社会へ』三浦展(朝日新聞出版)

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「個人化の果てに生まれた、消費社会の新たなステージ」

 現代は、個人化社会であるといわれる。人の手を煩わせずとも、ほとんどのことが自分一人でできるようになりつつある。ケータイやスマートフォンさえあれば、いつでもどこでも、好きな音楽を聴いたりゲームを楽しみながら、欲しいものを買うことができる。こうしたふるまいは、個人化した消費行動の典型例ということができるだろう。

 一方で、かつてボードリヤールが看破したように、消費とはコミュニケーションである。我々が消費をするのは、単なる欲求の充足としてではなく、記号的な差異化に基づいた連他的なコミュニケーションとしてである。


 とするならば、ここで一つの疑問がわきあがる。個人化が徹底された果てには、コミュニケーションとしての消費行動は一体どうなってしまうのかと。自分が欲しいものを自分のためだけに買って完結するならば、単なる欲求の充足に過ぎなくなってしまう。


 だが、本書で三浦展が示しているのは、それとは異なった見立てだ。三浦が主張するのは、むしろ個人化の極北においてこそ、新たな連他的コミュニケーションとしての消費行動が芽生えてくるのだという。それがかつての連他的なコミュニケーションと違うのは、あくまで個人に重点が置かれているという点だ。


 すなわち三浦の時代区分に従えば、戦前1912~1941年の第一の消費社会は国家のための、1945~1974年の第二の消費社会は会社や家庭のための消費の時代だったが、「滅私奉公」という言葉があったように、これらはあくまでも個人よりも集団に重きが置かれた時代であった。

 そして自分(個人)のための消費を行う、1975~2004年の第三の消費社会を経て、むしろ今日では、個人化した個人にあくまで重点を置きながら、新たな連帯が模索される時代が来たのである。


 その具体例として、本書では「シェアハウス」や「地域社会圏モデル」といった試みが取り上げられている。これらは三浦が現在力を入れて取り組んでいる試みでもあり、その点で彼のこれまでの業績を俯瞰的に眺めるという点からも本書は有用である。


 このように、今日の新たな消費社会状況をとらえるうえで、他の著作と違い、場当たり的に物珍しい事例だけを取り上げるのではなく、骨太な社会学的時代診断に基づいた分析がなされた本書の内容は説得的である。


 今日の社会状況に関心のある、幅広い読者にお読みいただきたい一冊である。


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2012年12月28日

『受動喫煙の環境学―健康とタバコ社会のゆくえ』村田陽平(世界思想社)

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「ジェンダー地理学の興味深い実践例として」

 ふと考えてみたのだが、タバコを吸う女性とタバコを吸わない男性とでは、どちらが肩身の狭い思いをするのだろうか。

 今日の日本社会で考えてみると、特に女性の若年層における喫煙者の割合は、10年ほど前まで一貫して増加し続けてきたという。最近ではやや減少傾向も見られるようだが、その背景には、女性の社会進出の影響もあるのだろう。もはや男性と同等かそれ以上に活躍するキャリアウーマンの姿はまったく珍しいものではなくなったが、それとともに彼女らが過剰なストレスを抱え、その発散に嗜好品を求めるのだろうということも想像に難くはない。


 そう考えると、女性がタバコを吸っても以前ほどは肩身の狭い思いをしないようになりつつあるのかもしれない。だが、空間に関する分析を得意とする地理学的な観点からするならば、やや異なった見解がもたらされる。それはすなわち、いわゆる「喫煙室」が、依然として男中心の「男らしい空間」であって、そこではタバコを吸う女性は相変わらずに、肩身の狭い思いをし続けているかもしれないということである。


 あるいは、これも本書が的確に指摘しているように、タバコを吸うというふるまい自体が、そもそも「男らしさ」と強く結び付いてきたものなのだといってよい。とりわけTVCMなどでも描かれているように、タバコを吸うことが「男らしさ」を演出するための重要なアイテムの一つとして位置づけられ、それゆえに、タバコを吸わない男性たちは、長きにわたって「男らしくない」存在として、肩身の狭い思いをさせられてきた。


 分煙化が進む前の、それも女性の社会進出が今ほど進んでいなかった頃の、オフィス空間に思いをはせるならば、それは隅々にまで、まさにタバコの煙と「男らしさ」の充満した空間であり、生存適応できないものを強烈に排除してしまうような空間であったと言えるだろう。


 またオフィス空間だけでなく、吸い殻が散乱し、歩行喫煙者が闊歩していたかつての路上空間もまた、過剰に「男らしさ」の充満した、排他的な空間であったともいいうる。いわばそこは、子どもたちのような「喫煙弱者」にとっては、決してやさしい空間ではなかった(同様の点で、かつてのタクシー車内もそうした空間であったと筆者は指摘している。この点は、まさに評者も、子ども時代にタクシーに乗るたびに気分が悪くなった記憶があるので、強く同意するところである)。


 このように本書は、今日の日本社会における受動喫煙防止に向けた取り組みとその立ち遅れている現状や問題点などを、ジェンダー地理学の観点に基づきつつ独自の視点から分析しているところに価値がある。


 タバコを吸う方も吸わない方も、お互いにより快適過ごせる空間を考えていくために、ぜひ読んで頂きたい一冊である。


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2012年11月30日

『男性不況―「男の職場」崩壊が日本を変える』永濱 利廣(東洋経済新報社 )

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「男の生きづらさを社会の変化から読み解く一冊 」

 いつ頃からかは失念してしまったが、大学で成績をランキング化すると、女子学生がほぼ上位を独占するような傾向が見られるようになって久しい。個人的な体験から言っても、少なくとも10年以上は続いている傾向と思われる。

 そのため、成績上位者の表彰を行おうとすると、共学であってもあたかも女子大であったかのような光景が繰り広げられることとなる。もちろん成績は公明正大につけられているのだから、そのこと自体には何の問題もないのだが、一方でいかに男子学生をエンパワーメントしたらよいのかという点は、大学教員のみならず、多くの方が頭を悩ませているところであろう。


 この点については、最近の女子学生はやる気のあるものが多くてよい、ということ以上に、おそらくは男性学生がやる気を出せるような社会ではなくなりつつあるという深刻な社会背景があるものと思われる。


 さて、本書『男性不況―「男の職場」崩壊が日本を変える』は、まさしくそうした男性たちが不要な存在となっていくような社会の変化を的確に描き出した好著である。


 著者は冒頭でこう述べる。「過去数十年間で、労働市場における日本の男性の価値は相対的に低下してしまったのです」と(P3)。


 具体的に言うならば、かつて男性たちには、「一家の大黒柱」という言葉があったように、高学歴層であればホワイトカラーとして、そうでなくとも製造業や建設業などで、広く活躍する職場が存在していた。


 しかし今日では、ホワイトカラーにおいては男女格差の縮小が進み、一方の製造業や建設業は産業の空洞化によって仕事そのものがなくなりつつある。一方で、少子高齢化の進む中で、医療や福祉といった対人サービスを中心とする、一般的には女性の割合の多い仕事はますます増えつつあるのである。


 こうした社会の変化について、本書は各種統計データなどを丹念に読み解きながら検証しているため、その内容には説得力がある。


 ただ一点だけ、惜しむらくは、「「女性の地位の向上」自体はよい変化ですが、その影響で男性には困った問題が生じて」(P5)いると記されていることであろう。果たして、女性の地位向上が独立した原因として存在し、その影響として男性に困った問題が生じていると言い切ってよいのだろうか。


 むしろ、何がしかの大きな社会の変化が生じていく中で、その中でたまたま結果的に適応できたのが女性たちで、不適応を起こしているのが男性たちなのではないだろうか。この点は、適切に原因と結果を見定めて、男女間に不必要な対立を招くような表現は避けるべきではなかったかと思われる。


 しかしながら本書は、上記したような興味深い分析が展開された内容だけでなく、末尾に記された「男性不況対策」も含めて、大いに読む価値のある一冊である。よって世の男性全般に広くお勧めしたい次第である。


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2012年10月30日

『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』土井隆義(ちくま新書)

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「友だちが地獄化するという“逆説”の面白さ~「現代社会論の古典」として」

 本書は筑波大学大学院教授で、社会学者の土井隆義氏による新書である。2008年に出された著作なので、今さら新著紹介として取り上げるべき対象ではないが、改めて「現代社会論の古典」としてここで取り上げてみたい。

「現代社会論の古典」とは、マーケッターの三浦展氏による言葉だが、なるほど三浦氏の著作にも、『下流社会』(光文社新書)など、エポックメイキングな社会現象を取り上げつつ、それが後の世でも面白く読めるような著作が多々存在する。


 そして、本書『友だち地獄』こそ、まさしく大学生たちにとってはそのような著作なのだろうと思う。事実、各地の大学教員から伝え聞くところでは、図書館の社会学書コーナーにおいて、おおむね多くの本はきれいなままに並べられているのだが、本書だけは繰り返し読まれてボロボロになっているのだという。


 あるいはそろそろこういう書き方をしても許されるタイミングだろうが、入試問題にも数多く使われた著作であろうし、評者も、推薦入学者たちのレポート課題の対象として本書を指定したことがある。

 さて、すでに多くの書評で指摘されてきたことだろうが、あらためて本書の一番の面白さを振り返るならば、それは元々、楽しいもの、心安らぐべきものであったはずの友人関係が、むしろ若者たちにとって極めてストレスフルなものへと変容を遂げているというその逆説的な内容に他ならないだろう。


 本書以前から、若者の友人関係をめぐっては、心理学的な研究と社会学的な研究との間で興味深い論争が繰り広げられていて、「希薄化説」対「選択化説」とも言われたその要点は、以下のようなものであった。


 すなわちメディアの発達などによって若者の友人関係が次第に希薄なものになっていくという、あたかも一般的な常識をなぞったような心理学的な主張に対し、浅野智彦や辻大介といった社会学者たちは、実証的なデータに基づきながら、若者の友人関係は希薄になるどころか、人数の面や満足度において増加傾向ないし高い水準にあり、むしろ選択的に様々な相手を使い分けているのだと主張していたのである。

 そしてさらに、本書で土井氏が指摘しているのは、こうした一見恵まれた友人関係こそが、若者たちのストレスへと転じていくという逆説的な状況なのである。


 若者を対象にした各種のアンケート調査が明らかにしているように、特に90年代の中盤から2000年代初頭にかけて、彼らの生きがいや熱中すべきことがらについて、ダントツのナンバーワンに挙げられていたのは、「友人といること」であった。


 だが、何か明確な目的を達成することとは違って、「仲の良い友人といることを楽しむために一緒にいる」というふるまいは、やがて自己目的化し、徐々に息苦しい閉塞的なものへと代わっていくであろうことが想像に難くない。


 「友だち地獄」とは、まさにこうした現象のことであり、本書では土井氏が長年積み重ねてきたフィールドワークの成果に基づいて、その実態が記されている。

 評者は、出版とほぼ同時期に本書を土井氏からご恵贈いただき、あっという間に面白く読んでしまったのを覚えている。


 このインパクトのあるタイトルについても、土井氏は当初あまり好まれなかったとも伝え聞くが、若者の友人関係をめぐる、まさにエポックメイキングな変容を記述する上では、的確なものではなかったかと思う。


 そして今日では、これまたいくつかのフィールドワークの知見からは、もはや若者たちがある意味で「ローテンション化」しており、友人関係を含む日常生活の全般的なことがらに対し、以前ほど強い期待を抱かなくなったがゆえに、無理に「空気を読」んだり、そこに「友だち地獄」を感じなくなりつつあるのではないか、といった仮説的な見通しも提起されつつある。


 こうした見通しが、どこまで正鵠を得たものかは、今後の検証を待たねばならないが、いずれにせよ本書は、若者たちの友人関係とその変容を理解する上で、今後も参照され続ける重要な著作と言えるだろう。


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2012年08月31日

『社会学の方法-その歴史と構造』佐藤俊樹(ミネルヴァ書房)

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「社会学のマージナリティ 」

 「社会学って何なの?」とは昔からよく聞かれる質問である。

 多くの社会学者が経験していることだろうが、「文学部社会学科」のような専攻に所属していると、「社会科学なのか、人文科学なのか、ハッキリしてくれ」と言わんばかりの質問を受けることがある。


 いわば、社会現象をお金の動きから解明する経済学、法律から考える法学、権力から考える政治学とも違うし、かといって文学や歴史学でもない。だがこうしたマージナリティは、それこそが社会学という学問の特徴なのだろう。


 そして、社会学が論じるのが得意で、かつ今日では重要な社会現象となっているものはいくらでもありうる。たとえば、家族や友人関係であったり、ジェンダーの問題、宗教やナショナリズムの問題等、これらはお金や法律の問題として割り切れる(説明ができる)社会現象ではない。
 


 さて、本書は東京大学教授の佐藤俊樹氏によって書かれた社会学史のテキストだが、まずもって面白かったのは、こうした社会学のマージナリティが、まさに「生まれながら」にして宿命づけられていたという点だ。


 それは本書で取り上げられた、何人かの「偉大な社会学者」に関するある共通点から理解することができる。


「マートンをのぞく五人がともに「ロタールの国」、すなわちライン川中流域の都市群、ストラスブールやハイデルベルグやフライブルグに縁があるのに気づいたときは、ぞくぞくした。」(P429)


 つまり、「アルザス・ロレーヌ(ドイツ語では、エルザス・ロートリンゲン)」地方として知られる、フランスとドイツとの、まさにマージナルな地域に、「偉大な社会学者」たちは深い縁を持っていたというのである。


 例えば、デュルケームが社会学を切り拓こうとした19世紀のフランスとは、市民革命や産業革命を経たのちに、そうした政治的経済的な進展だけによらない、新たな社会秩序が求められた時代であり、だからこそ、マージナルな学問としての社会学がそこで登場してきた。


 その際にデュルケームが、アルザス地方に縁持つユダヤ人(アルザス・ユダヤ人)であり、二重の意味でマージナルな存在で、アウトサイダーであったからこそ、今日の社会学につながる重要な出発点を記すことができたのではないかという。


 このように本書は、「偉大な社会学者」たちの学説を取り上げながら、「机上の空論」として並び立てて称揚するのではなく、むしろその人生や歴史的背景に分け入りつつ、かといってそこを不必要に掘り下げすぎずに、一貫したストーリーを持った社会学の歴史として描き出しているところに大きな魅力がある。


 著者に言わせれば、どうしても学説史のテキストや講義では、先達の学者を「偉大なる聖人」として扱ってしまいがちなのだが、「偉大」であるのはその学問的業績についてであって、むしろその個人としては、「人間くさい」背景を掘り下げてみたかったのだという。


 そしてその努力こそ、まさに本書を、人文科学的な視点(人生や歴史的背景の探求)と社会科学的な視点(社会学史)とのマージナルな魅力をもった一冊に仕立て上げているものと思われる。

 加えて本書の魅力を記せば、一人の社会学者によって、一貫して書かれた社会学史のテキストであるという点も重要である。というのも、専門分化の進む昨今において、こうしたテキストは共著で書かれることが多いし、「概説」の講義もオムニバス形式で担当されることが多いからだ。


 著者が、自分なりの一貫した視点で社会学の歴史をまとめる上で取り上げているキーワードは、「常識をうまく手放す」「社会が社会をつくる」(P4)というものである。


 これは、先にも記したとおり、社会学がマージナルな学問であるという点と大きく関連している。


 一見、主流の社会科学から外れているかに見えるからこそ、引いた目で「常識を手放す」ことができる。だが、結局のところ、社会学も完全に社会の外に出ることはできない。社会学自身も、あくまで社会の中で社会に影響を受けざるを得ないが、それでもそうした立場からも社会に影響を及ぼすことはできるのである(「社会が社会をつくる」)。


 デュルケーム、ジンメル、ウェーバー、パーソンズ、マートン、ルーマンへといたる流れをダイナミックに追いつつ、社会学的な思考の特徴をうまく捉えた本書は、できることなら、社会学を学び始めた大学生にはぜひ読んでほしい一冊である。ややボリュームのある著作だが、その文体はわかりやすく読みやすい。


 またタコつぼ化の進む今日にあっては、研究者が読んでも十分に読み応えがあり、面白く意義深い一冊だと思う。


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2012年07月31日

『インターネットの銀河系-ネット時代のビジネスと社会』マニュエル・カステル著/矢澤修次郎・小山花子訳(東信堂)

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「望ましいネットワーク社会を考え続けるために~ネットワーク社会論の新たな古典」

 本書は、南カルフォルニア大学教授であるマニュエル・カステルによって書かれた学術書である。インターネット社会を理解するための、あるいはインターネットを社会学的に理解するための基本書の一つといえるだろう。

 原著は10年以上も前に書かれ、本訳書が刊行されてからもすでに3年がたつが、改めて読み直してみても、その面白さには変わるところがない。カステルの著作としては、1996~98年にかけての「情報の時代」3部作が知られているが、まだ邦訳が出そろっていない現時点においては、その情報社会論の骨子を知るうえで、本書の重要性は言うまでもないだろう。


 むしろ、変化し続けるインターネット社会の諸問題について、その表層的な目新しさに惑わされず、本当に重要なことを見据えながら対峙していくためには、これからも読み継がれていくべき名著だと思う(余談ながら、それゆえに今年度の評者の大学院ゼミの購読文献の一つともなっている)。


 すでに原著も訳書も刊行されてからある程度の時間がたち、さまざまに書評されてきた著作なので、特に重要と思われる点、印象的な点に絞って記してみたい。


 評者にとって興味深かったのは、本書が社会学的にある意味で徹底的にオーソドックスという点だ。カステルはその他の著作も読みやすいが、それはこうしたオーソドックスさにもあるのだろうし、だからこそ時代を超えて読み継がれうるのだと思う。


 たとえばそれは、本書が徹底して論じている「ネットワーク社会」という社会の在り方、さらにインターネットこそがまさにネットワーク的な存在であるものとして論じられていくプロセスに表れている。


 やや意訳してのべれば、「ネットワーク社会」とは、社会学の基本概念でいうところの、「ゲマインシャフト(前近代的な共同体」とも「ゲゼルシャフト(近代的な組織)」とも異なった、いわば第三の社会の在り方である。前者が、地縁や血縁といった身の回りの人間関係をベースとして営まれるならば、後者は、むしろ合理的な目的とその遂行のための明確な役割分担に基づいて営まれる。そして、「ネットワーク社会」は、このいずれとも異なった新たな結びつきようであり、だからこそ、そこには、今までとは異なった新たな成果が実を結ぶことがありうる。


 そして、そうした成果の最たるものが、インターネットそのもの誕生であり、さらにはインターネットがもたらしてくれるものなのだ。


 この点は、インターネット誕生の歴史的背景を記した1章に詳しいが、とりわけ重要なのは、よく言われるように軍事的な技術の開発を一つの源流に持ちながらも(核攻撃に備えて情報をネットワーク上に分散しておくため)、それだけに限らず、むしろ普通ならば結びつき得なかったような諸要素・諸機関が、それこそ偶然にもネットワーク的に結びついたことで、今日のインターネットが形作られてきたということなのだ。


 もし仮に、それが軍事部門だけが関わって発展してきたものであるのなら、きわめて管理の徹底された、今よりもはるかにクローズドなメディアになっていたに違いない。


 だからこそ、インターネットという存在が、常に論争を巻き起こしがちで、解決の困難な問題点を多数抱えたような矛盾に満ち満ちたものであるのは、いわば必然なのだ。


 個人的な感想だが、ネットワーク社会のもたらす成果に対して、カステルの楽観的な文体には多少なりとも勇気づけられるところもあり、またこれもよくあるミスリーディングだが、技術決定論ではなく、あくまでオーソドックスな社会学的知見に基づいて進められる分析にはやはり大いなる説得力がある。


 近代的な縦割り型組織の専門分化の中では、結びつきようもなかった諸要素が、偶然にも結び付いた結果、あたかも「化学変化」のごとくに、奇跡的にもたらされた成果が、インターネットなのだと言ってもよい。


 いわば、ネットワークの「創発特性」としてもたらされた成果がインターネットであるならば、様々な問題が生じた際の対応としても、そもそもが多少の矛盾や問題点を含みこんだ存在なのだととらえ返して、基本的には管理統制を強めるより、自由で開放的なコミュニケーションを維持するほうがベターだということになる。


 インターネット、あるいはネットワーク社会のもたらしてくれる実りや成果を保持しようとするならば、それを忘れてはならないということを本書は教えてくれるし、いくつかの事例に見られるように、昨今の日本社会におけるインターネットへの規制強化の動きについて考え直していくためにも、本書はやはり読み継がれていくべき価値を有した、新たな古典ともいうべき一冊だと思われる。


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2012年05月31日

『孤立の社会学―無縁社会の処方箋』石田光規(勁草書房)

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「孤立をめぐる学際的研究の可能性」

 本書の魅力は、今日の日本社会における孤立という問題点をめぐって、その学際的研究の可能性を感じさせる点にある。言うなれば、孤立を社会的事実としてとらえたうえで、多角的にその背景を分析したうえで、現実的な処方箋の提示に向けた議論を展開している。

 孤立が「社会的事実」であるというのは、およそそれを深い悩みとすることが、他の生物に比して、社会生活を営む人間に特徴的なふるまいだと考えられるということだ。


 つまり、孤立という社会的事実、ないしそれを社会的な問題点たらしめている(あるいはそのように感じさせている)背景要因を的確に整理するところから、本書は始められている。


 そこで、取り上げられているのは、流行語ともなった「無縁社会」である。この語が流行したことについて筆者は、孤立という問題点に注目を集めさせたことには一定の評価を与えつつも、むしろ社会的な問題点を隠ぺいすることになってしまったのではないかと批判する(1章)。


 すなわち孤立という現象が、単に「最近、隣の人が冷たくなった」というような、個別な人間関係の希薄化として切り下げられることで、社会的弱者の排除や、家族構造の変化、中間集団の弱体化といった社会問題の探求へとは至っていないのではないかということだ。


 そこで筆者は、こうした広範な社会状況の変容に十分な目配りをしたうえで(2章)、客観的な質問紙調査のデータ(JGSS2003)を主として取り上げつつ、実際に孤立している人々がどのような特徴を抱えているのかを明らかにしている(3章~6章)。その結論を簡潔に述べれば、「孤立の問題は個人の保有資源の不平等ではなく、特定の属性の背後に潜む不平等にある」(はじめに、ⅲ)のであり、「すなわち、家族関係に問題がある人、男性、高齢者、地方生活者に孤立の傾向」(同、ⅳ)が目立つのだという。


 そのうえで、こうした孤立という現象の社会的な背景を踏まえたうえでの、現実的な処方箋に向けた議論を提起し、本書は締めくくられている(終章)。それは、伝統的な絆への回帰だけを目指すのではなく、また市民社会的な新たな連帯だけを目指すものでもない。いわば、家族関係を実存的なホームベースとして、一定の必要範囲において再帰的に営みつつも、基本的には新たな連帯の可能性へと開いていくための社会制度が求められるという、いわば第三の道を志向するものである。


 こうした一連の内容からもわかるように、本研究の内容は実に学際的である。それは、筆者の専門領域が、伝統的な連字符社会学の領域名ではなく、(パーソナル)ネットワーク論としか言い表しようがないという点にも特徴的に表れていよう。


 もともとこうしたパーソナルネットワーク論は、都市社会学などで進められてきたものだが、筆者の研究は、その範疇を大きく超えた射程を持つ。具体的には、家族社会学であったり、ジェンダー論や、あるいは社会福祉論ともかかわってこよう。


 それはこの孤立という社会問題が、まさに学際的であり、領域横断的にしか対処なしえないものであるということを示唆しているのだろう。


 この点で、多角的な視点から、孤立という問題の背景に取り組んだ本書の姿勢は高い評価に値しよう。

 その一方で、本書には問題点がないわけではない。


 一つには、中間集団の弱体化が論じられ、各種のデータに基づいたその議論にはおおむね首肯できる点も多いのだが、同じ社会問題でも、いじめを取り扱った議論などでは、むしろ違った視点も見られるという点である。例えば内藤朝雄氏などは、むしろ日本社会において、学校や職場が他に選択肢のない強大な中間集団として君臨していたがゆえに、そのストレスフルな状況がいじめの背景にあるのだという。いわば孤立というよりも、所属の強制的な中間集団における病理とでもいうべき問題点である。筆者はこの点を、どう考えるだろうか。


 また本書では、孤立の背景として個人化という大きな社会変動を指摘しているが、この点は、インターネットや携帯電話に代表される情報メディアの進展と深い関連があろう。他者と連帯しないライフスタイルを営む上で、これらのメディアは不可欠のインフラを成すものと考えられるが、本書ではこうした情報行動との関連はあまり論じられていない(ただしこの点は、筆者に期待するよりも、むしろ評者自身の問題関心によるものなので、共同研究のような形で深めていくべきかもしれないが)。


 だが、こうした点は、単に本書の問題点というよりも、むしろこれからの研究の発展と広がりを感じさせるものととらえるべきなのだろう。


 まさに喫緊の課題について、冷静な視点に基づき、客観的なデータを用いて実証的に検討し、幅広い可能性を感じさせる成果を導いた本書を高く評価したいと思う。


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2012年03月31日

『自動車と移動の社会学―オートモビリティーズ』M.フェザーストーン/N.スリフト/J.アーリ 編著   近森高明 訳(法政大学出版局)

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「移動研究(モビリティスタディーズ)の新たなる成果として」

 モビリティスタディーズという研究が注目されている。『Mobilities』という学術雑誌まで刊行されているこのジャンルを、日本語に訳そうと思うとなかなか難しい。おそらく、適切にあらわす訳語がまだ存在しないのだ(その点は、本書の原題が『AUTOMOBILITIES』であったのを『自動車と移動の社会学』と苦心して訳出した点にも表れている)。

 しいていうならば「移動研究」なのだが、その日本語が持つ意味と、”Mobility”という概念が含意するところはやや異なっている。


 日本で「移動研究」といった場合には、かつての集団就職のような「地域移動」であったり、「階層移動」を意味することが多かった。


 だが、ここでいう”Mobility”とは、そうしたリジッドな社会構造内において、ある定点から定点までを移動することを意味するというより、むしろ社会全体が常にゆるやかに変動しながらも、それでいて一つの社会として機能していくような状況を表す概念なのである。


 よってそうした状況下においては、それまで自明のものと思われていた、空間や時間といった概念が、ゆるやかにほどけていくことになる。


 この点でいえば、本書が中心的な研究対象としている自動車という乗り物はその典型と言える。比較対象として鉄道を取り上げるとよりクリアーだが、それが定められた駅から駅までの空間を、定められた時間通りに、リジッドに線路上を移動していくのと比べ、自動車は、各自の思うがままの場所から場所へ、思うがままの時間の中で移動することができるのである(もっとも、自動車の技術がそのようなものとして形作られてきた歴史的社会的な背景があったことは忘れてはならないが)。


 あるいは、乗り物に限らずとも、情報メディアでも同じような変化がありえよう。これまではテレビ番組を、決められた時間に決められた場所でしか見ることのできなかったのが、スマートフォンで動画サイトにアクセスすれば、いつでもどこでも見ることができる。いまや「送り手対受け手」といった、これまでのメディアに関する一方向的な図式は崩れつつある。


 だがこうした変化は、今までの近代社会の崩壊や融解として捉えるのではなく、むしろ流動化という近代の一側面がより徹底された状況と捉えるべきであろう(こうした主張は本書内の著者によっては、理解にズレがあるようだが、この点も含めてさらに議論を深めていくべきだろう)。


 その上で、こうした様々な“Mobilities”があふれた社会とはいかなるものか、あるいはいかにあるべきかを構想することが今、求められていると言えるだろう。


 本書は、この点について、自動車を事例として取り上げつつ、カルチュラル・スタディーズの論客として知られるイギリスの社会学者、マイク・フェザーストーンを中心に、モビリティスタディーズの先駆者であるジョン・アーリやデジタルメディア時代の音楽を論じるマイケル・ブルなど、一流の論者たちによって書かれた論文集である。


 まさに、移動研究(モビリティスタディーズ)のフロンティアと呼ぶにふさわしい一冊だが、今後は日本社会においても、自動車に限らず、他の様々な事例を取り上げながら、こうした方向の研究が進んでいくこととが期待されよう。

 なお、そのような新しいジャンルの研究ながら、近森高明氏の翻訳は、きわめてわかりやすく読みやすいし、末尾の、これまた適切にまとめられた、吉原直樹氏の解説も忘れずにお読みいただくと、本書の理解がより深まるものと思う。


(最後に、本書評を書くにあたって、『Mobilities』誌の情報をはじめ、移動研究に関してご教示頂いた、法政大学社会学部の土橋臣吾氏に御礼申し上げる。)


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2012年01月28日

『空間の男性学―ジェンダー地理学の再構築』村田陽平(京都大学学術出版会)

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「男性性研究の新たなフロンティア」

 やや荒削りだし、一つの書籍としてはまとまりの悪い部分が多少感じられなくもなかったが、それを補って余りある魅力のある一冊だと思った。

 本書は、「女性学的視点による研究が中心であった従来のジェンダー地理学に対して、男性学的視点から空間とジェンダーの問題を検討することで、ジェンダー地理学の再構築を目指すもの」である(序章より)。


 筆者によれば、これまで地理学においても、とりわけ第二派のフェミニズムの影響を受けながら、「性別による空間的格差の問題」を告発するような研究が盛んにおこなわれてきた。


 また、こうしたフェミニスト地理学はそれなりに大きな成果をもたらしながら拡大もしてきたが、依然として日本においては、空間とジェンダーの関わりを論ずる学術的な議論は盛り上がっておらず、ましてやフェミニストだけでなく、男性学的な視点から空間を論ずる議論となると、ほとんどなされてこなかったのだという。


 こうした問題意識は、社会学を専攻する立場からしても、非常によくわかるものである。フェミニズムの影響でジェンダー研究は大いに発達してきたが、それと比べて、男性性に関する研究は遅れがちであると言わざるを得ない。


 加えて日本においては、ジェンダーがコミュニケーションやアイデンティティーの問題としてとらえられがちで、空間と結びついた形での議論は、十分になされてこなかったというのは正鵠を得た指摘である。
あるいはこの点は、日本の社会学がコミュニケーションやアイデンティティーの問題にばかり関心を払って、空間に関する議論が不十分であったのだと言ってもよい。


 しかしながら、我々の実生活を振り返ればたちどころに連想されるように、コミュニケーションやアイデンティティーの問題は、空間のありようとは、決してきっても切り離せない問題のはずである。


 それは、本書が取り上げている女性専用車両などの「特殊」な事例に限られた話ではない。誰もが使うものであれば、男女別に設置されたトイレがたちどころに連想されるし、あるいはデパートやショッピングセンターでも、女性向けの商品売り場が入り口近くに配列されて、逆に男性向けは奥の方や上の階になっている。


 あるいは、夜の飲み屋街は、男性ばかりだから若い女性には近づきがたがったり、逆に、おしゃれなカフェやスイーツを出すお店ならば、中年男性には入りづらかったりもする。


 おそらく、このように我々が日常生活を営む空間は、幾重にもジェンダー化されており、逆にこうした構造が我々のコミュニケーションやアイデンティティーのありようにも、つよく影響を与えているはずなのだ。


 自戒を込めて言えば、社会学者はどうしてもこうした外的な規定要因を無視して、直接的にコミュニケーションやアイデンティティーそのものを論じてしまいやすい傾向があり、この点は本書を読んで深く反省させられた次第である。


 では逆に、本書に対して何かリクエストする点があるとすれば、それは以下のような点であろうか。


 すなわち、社会学的な男性性研究でも同様なのだが、フェミニズムに対する応答として男性学が勃興した経緯からして、研究内容が、どうしてもセクシャルマイノリティからの異議申し立てに偏りがちなのは事実であろう(本書も同様である)。


 もちろんそれはそれで重要な研究なのだが、それと同時に、マジョリティ男性が作り上げてきた空間と男性性の実態も正面切って堂々と記述してほしいように思われる。


 それは著者だけにではなく、他の研究者でも構わないのだが、我々が今まで当たり前だと思っていたものが、ようやく当たり前ではないと認識しやすい時代になりつつあるので、この現代社会が、いかにマジョリティ男性を中心として作られてきた空間であるのか、そのことを相対化しながら記述をしていく、そんなアプローチが今後も継続されていくと非常に面白いと思う。


 本書は、ぜひ学問分野をまたいだ共同研究を構想してみたくなる、そんな魅力ある一冊であった。


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2011年12月25日

『趣味縁からはじまる社会参加』浅野智彦(岩波書店)

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「中間集団論を日本社会でいかに考えるべきか」


 中間集団論と呼ばれる議論がある。中間集団とは、アメリカの政治社会学者コーンハウザーが『大衆社会の政治』などで用いている概念である。


 平たく言えば、個人と全体社会を媒介する集団のことをいう。すなわち、全体社会や国家といった大きな社会に対して、個々人が直接的に向き合うのには困難が伴う。そこで、地域社会や二次的な結社などを通して、ようやく全体社会や国家に介入を果たすことができるようになると考えられるのである。


 (コーンハウザーもそれに含まれるが)しばしば大衆社会論などの文脈で指摘されてきたのは、こうした中間集団が脆弱になると、個人は原子化してバラバラになってしまい、全体主義の波に飲み込まれてしまうのではないかという危惧であった。それゆえにこそ、中間集団の存在の重要性が訴えられてきた。


 だが日本社会の文脈で考えると、また違った側面も見えてくる。「空気を読む」といったフレーズに代表されるように、付和雷同しやすいこの社会の状況は、表面的には、まさしく中間集団が存在しないか、機能不全に陥った典型的な状況であるかのようにも感じられる。


 しかしその一方で、日本社会は、むしろ中間集団こそが個人の自立を妨げているのではないかと指摘するものもいる。おそらくそれは、中間集団があまた存在しているからというより、ごくわずかな(せいぜい1~2)種類しか中間集団が存在せず、その専制的な状況がもたらすものと考えられるのだが、教育社会学者の内藤朝雄が指摘するように、その代表が学校であり、もしくは成人ならば会社が該当しよう。


 あるいは戦前ならば、町内会を思い浮かべると分かりやすいかもしれない。少なくとも戦中におけるそれは、個人と全体社会を媒介する存在というより、上意下達の伝達機関として、軍国主義の共犯者となり果てていた。内藤は、日本社会におけるこうした状況を「中間集団全体主義」と呼び表している。


 日本社会におけるこうした状況を踏まえるならば、むしろオフラインの中間集団を介さずに、インターネットのアーキテクチャによって瞬間ごとの「民意」を捉えて、それを一部のエリートがモニタリングして政治を進めていってはどうかという、哲学者・小説家の東浩紀の問題提起(『一般意志2.0』)にも、傾聴の価値があると言わざるを得ない。


 しかしながら、それでもこの中間集団という概念を葬り去ってしまうのは、やはり口惜しい気がしてならないのも事実である。もし、学校と会社という選択肢「しか」ないことが問題であるならば、その専制的な状況を嘆く以上に、さらに中間集団のレパートリーを増やしていくという処方箋がありうるのではないだろうか。


 そして、前置きが長くなってしまったが、本書はそのような可能性として、何よりも趣味に基づいた連帯にこそ注視している。そして著者は、教育社会学者の藤田英典の定義にならって、それを“趣味縁”と呼び表している。


 “趣味縁”が、まさに趣味に基づいた連帯であるならば、なによりも個人の自発的な関心に基づくものであり、それゆえにこそ、学校や会社といった既存の集団の枠を超えつつ、さらに連帯の多様なレパートリーを期待することができるのではないかというわけである。


 著者はこの点について、近年注目を集めている社会関係資本論の議論を補助線として用いつつ、日本社会の状況を実証的な質問紙調査で明らかにしている。そして、そのプロジェクトの名称こそが、まさに「若者の中間集団的諸活動における新しい市民的参加の形(2006年度~2008年度、科学研究費補助金基盤研究(B))」である。


 詳細は実際に著作を読んでほしいが、特に2007年に行われた質問紙調査からは、興味深い知見がいくつも得られている。例えば、同じ趣味縁であっても、明確な組織だった集団への加入形態を伴うものを「趣味集団(への加入)」、そのような形態を伴わないゆるやかなものを「趣味友人」と呼んで区別したうえで、全体社会や公共的なものへのコミットの程度を比較検討すると、前者においては正の関連が見られるものの、後者においては残念ながら見られないのだという。


 あるいはそれとも関連するが、とりわけ若年層において、友人と知り合う場所は、圧倒的な割合を学校が占めており、同じ趣味を持つ友人と出会うのも、むしろ学校という場が圧倒的であるがゆえに、(しいて内藤の表現を繰り返すならば)全体主義的な中間集団である学校と、趣味縁が完全に独立していないというのが現状であるようだ。


 よって結論としては、少なくとも現状においては、趣味縁に対して中間集団としての機能を過剰には期待できない、ということを導かざるを得ないようだが、しかしながら、それでも本書からは、今後につながるヒントがいくつも得られるように思う。


 たしかに、若年層において学校集団と趣味縁が完全に独立していないのは事実であるとしても、学校集団に対するコミットの度合いが下がってきているのも事実であろう。そのことは、部活動の停滞や学級崩壊などの事例を思い起こせばよい。


 とするならば、むしろ当面の間の処方箋として、多様な趣味縁を養っていくためにこそ、学校という集団を使っていくという発想もありうるのではないだろうか。初めから、学校や会社といった集団に対抗するのではなく、むしろその内部から徐々にずらしていくような連帯の形成がありうるのではないだろうか。いわば、趣味縁の出会いの場として、学校や会社を見つめ直していくといった発想である。


 もちろん、それだけが答えのすべてではないし、むしろインターネットのオンライン上にも様々な連帯が形成されている今日においては、個々人の社会に対する関わり方について、もっと多様なありようが考えられていくべきなのだろうと思う。


 本書は、そうした関わりのありようについて、最新の議論とデータに基づいて、多くのヒントを与えてくれる著作である。研究者に限らず、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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2011年12月01日

『ナショナリズムは悪なのか』萱野稔人(NHK出版)

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「グローバル化に抗うため、あえてナショナリズムを擁護する」


 本書は、哲学者であり津田塾大学准教授の萱野稔人によって書かれた論争的な著作である。


 萱野氏には『権力の読み方』(青土社)など本格的な専門書の著作もあるが、いずれにおいてもその主張は論理明晰でわかりやすい。それゆえにこそ、本書の主張は際立って論争的なものとなっている。


 萱野氏は、「左翼」を自称する。しかし「左翼」でありながら(というよりもむしろ「左翼」であるからこそ)、ナショナリズムを擁護するのだという。


 こうした主張は、日本社会においては奇異なものとして受け止められやすい。共産党が戦前から一貫してナショナリズムの高揚に基づく侵略戦争に反対していたと唱えているように、あるいは、左派的な知識人たちによって、明治以来のナショナルな文化のありようが繰り返し相対化されてきたように、「左翼」とナショナリズムとは、水と油のように、全く相いれないものと考えられてきた。


 だが、萱野氏はこうした発想を内在的に批判していく。例えば、明治以来のナショナリズムやそれに基づいた文化の形成について、左派的な知識人たちは、それがフィクションであることを暴き、批判してきた。


 しかし、相対的な視点を学ぶためならばこうした発想に一定の有用性も認められるものの、「スクラップ&ビルド」という言葉で言うならば、こうした批判はただ単に「スクラップ&スクラップ」を繰り返していくだけで、実際の生活を考えていく上では、なんら有効な実践に結びついていないのではないかという。

 例えば、利益の再分配を求めるのならば、国家がフィクションであることを割り切ったうえで、あえてそのフィクションを維持し、そのフィクションに基づいて、再分配を成す以外にあり得ないのではないかということだ。


 つまり、この近代社会を生きていく上で残されているのは、ナショナリズムか否かではなく、よいナショナリズムと悪いナショナリズムのどちらを選ぶかしか、ないのではないかということである。


 同じような主張は、リスク社会論を唱えるドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックにも共通する。ベックはここ何年にもわたって「methodological nationalism」という概念を唱えている。直訳すれば「方法論的ナショナリズム」だが、私は「戦略的ナショナリズム」と意訳したほうがいいように思う。


 いわく、今日の国際社会における諸問題については、理想主義的にコスモポリタンで統一的な価値に基づく全会一致的な合意形成を求めるより、あえて各国の利害に基づいた調整をなしたほうが結局はうまくいくのではないかということだ。

 わが国の、TPPに対する賛成とも反対ともつかない(それでいて結局は賛成と取られてしまうような)参加に対する意思表明の様子を眺めていても感じることだが、これからますますグローバル化の進展が著しくなる中で、本書は長きにわたって読まれるべき著作だと思われる。


 末尾ながら、本書の内容をよりよく理解するためには、ビデオニュース・ドットコム(http://www.videonews.com/)によるインターネットニュース番組「マル激トークオンデマンド」の第550回 (2011年10月29日)『今こそナショナリズムを議論の出発点に 』(ゲスト:萱野稔人氏、津田塾大学国際関係学科准教授)も併せて視聴することをお勧めしたい。




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2011年10月31日

『スカイツリー 東京下町散歩』三浦展(朝日新聞出版)

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「「厚みのある再帰的近代」を生きるために」

 本書は、『下流社会』(光文社新書)などの著作で知られる三浦展氏が、東京の下町を丹念に歩きながら記した著作である。下町といっても、浅草や神田といった典型的な地域ではなく、むしろ、押上、向島、北千住、立石といった隅田川の向こう側に広がる地域に注目しているのが特徴である。

 これらの地域に注目した理由は、それが大正・昭和初期以降に発達した「新しい下町」だからという。この点について三浦氏は、序章で、東京の下町が4つの段階を経て拡大してきたという「下町四段階説」を展開しながら、本書ではあえて伝統文化が色濃い第一・第二下町(神田や浅草)ではなく、モダニズムを感じる第三・第四下町を取り上げる理由を説明している。


 たしかに、神田や浅草に関するガイド本は世にあふれているが、これらの地域を対象としたものとなると、いわゆる「ディープな散歩」本ぐらいしかない。また、これらの本が、ピンポイントに個別の特殊なスポットを取り上げがちなのと比べて、本書では、幾重にも興味深いストーリーが組み入れられており、それゆえに、つまみ食い式にではなく、つい冒頭から最後まで読み通してしまう著作になっている。


 たとえば、序章での下町の拡大に関する歴史的なプロセスの説明に始まり、続く第一章では著者自身の王貞治選手に対する思い入れから、王選手が少年時代を過ごした墨田川東岸から散歩が開始されている(「世界一の電波塔のスカイツリーの足元に、もう一つ世界一があった。」(P18))。そして、著者独自の観察眼から、有名な建築物というよりも、むしろそこここに存在するような些細な建築物の中に、かつてのモダニズムの残り香をかぎ分けながら記述が進められていくのである。

 この著作を読みながら、私は社会学者のアンソニー・ギデンズらが唱える「再帰的近代」という概念が頭によぎった。「再帰的近代」とは、ただ単純に近代化を進めていくような時代とは異なる概念である。いわば、ある程度の近代化が達せられた成熟した社会状況において、自己反省的にこれまでの近代化過程を振り返り、その問題点を認識しつつ乗り越え、さらに近代化を進めていくような状況を言う。


 すでに高度成長期がはるかに過ぎ去った日本社会は、まさにこの「再帰的近代」にあるといえるだろう。しかしながら、この概念の意味するところが頭の中では分かっていても、なかなか実感を持って理解するところまでは至っていないのも事実であった。というのも、日本社会における、自己反省的に振り返るべき「近代」とは何なのかが、(少なくとも私にとっては)これまで明白ではなかったからである。


 だが、本書に出会うことで、それが幾重にも積み重なった厚みのあるものであることを、はっきりと認識することができた。それは、東京という街の発展・拡大の歴史に色濃く表れていよう。今、日本の首都として、あるいはアジアを代表する大都市として時代の最先端を行くこの街は、一足飛びに、江戸から東京へと変貌を遂げたのではない。


 それは、序章で述べられていたような、第一から第四にまでわたる下町の段階的な拡大の過程、さらにはその後の、新宿から渋谷へと至るような山の手の拡大の過程をたどって、時代ごとに特色のある文化を積み重ねてきたのだ。


 つまり、いうなれば東京とは、時代ごとの街のありようが幾重にも展示された、巨大なフィールドミュージアムのような空間なのである。


 このフィールドミュージアムを十二分に見聞するためには、ケータイやインターネットに頼っていてはいけない。時代ごとの「展示物」の境界を、縦横無尽に横断しながら知見を広めていくためにこそ、散歩という、最もアナログな手法が必要となるのである。この点においても、各種の検索エンジンを駆使すれば、相当量の情報が手に入るインターネット全盛のこの時代において、あえて自分の足を使って情報を集めてきた、本書の価値が光るところである(また、あとがきにもあるように、本書はあえて手書きによって書かれたのだという。おそらくはそのことが、好きなところからつまみ食い的に読ませるのではなく、冒頭から一気にストーリー性を持って読ませる文章を生み出した秘密なのかもしれない)。


 また、私自身の体験談にひきつけて言えば、たしかに昨今の郊外化の中で発達する巨大なショッピングセンターについて、その便利さは認めつつも、どこかに無味乾燥さを感じ、もっと楽しい都市空間のありようはないものかと思い続けていた。だが、その対抗馬として、ショッピングセンターが駆逐した、かつてのデパートのありようをノスタルジックにぶつけたところで、説得力に乏しいというのも事実だと思っていた。しかし、山手線の左側の地域を往復するだけで毎日を費やしている私には、それ以上の想像力も働かなった。しかし本書を読み進めるうちに、下町のありようという新たな選択肢を見つけることができ、都市空間に関する考え方を大きく広げることができたのである。


 おそらくは、巨大ショッピングセンターの進出に伴う郊外化の進展と都市中心部の衰退は、日本全国に遍在する問題点であろうから、この点についても、本書と三浦氏のかつての著作『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)などを読み比べると、議論が深まるのではないかと思われる。


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『「反戦」と「好戦」のポピュラー・カルチャー―メディア/ジェンダー/ツーリズム』高井昌吏編(人文書院)

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「二重にメタレベル化する「戦争語り」に対する意欲的な論文集」

 私が小学生だった頃といえば、今から25年ほど前である。その頃は、「戦争体験」を伝えるテレビ番組が今と比べると随分多かったように思う。やや記憶が定かではないが、たしか毎年夏になるとNHKでは『戦争を知っていますか』と題して、「戦争体験」のある人々の語りを子どもたちに聞かせるという番組をやっていたように思う。

 私がそのことをよく覚えているのは、熱心に見ようと思っていたからではない。お盆にかけて母の実家に帰省した際、祖父とともに甲子園の野球中継を見た後で、他にすることがないのでテレビを見続けていた際にたまたまやっていたというだけである。だが、そうして何度も見ていくうちに、子ども心にも戦争に対するイメージが徐々に膨らんでいったのを覚えている。


 そして今、小学生の息子の父親となった身として、今度は自分の子どもに、こうした「戦争体験」をどう語り継いだものかと思う時がある。だが、自分が子どもの頃のように、それを扱ったテレビ番組はもはや多くはない。また、親や祖父母たちからも「戦争体験」を聞かされていた我々の世代と違って、今日の子どもたちに、そうした語りを聞かせたところで、どこまでリアリティを持ってもらえるか、やや心もとないところもある。


 間接的にしか体験しえなかった我々の世代から、さらに間接的な体験として、語り継いでいってもらうこと。そこにはどんな工夫が必要なのかと、考えていたころに、あるマンガ作品に出合って衝撃を受けたことがある。それは、こうの史代氏の『夕凪の街 桜の国』というマンガであった。この作品は、すでに映画化もされているが、やはりマンガを読んだ時の印象が忘れられない。大きく分けて2部構成になっていて、主人公も二人の女性からなる。一人は広島で被爆した後、1955年に亡くなる女性であり、もう一人はその姪にあたる若い女性で、自分の父が伯母の足跡を辿るところを尾行しながら、たまたまその存在を深く知ることになっていく。原爆を扱っていながら、『はだしのゲン』のような残酷な描写をあえてしない作品であることも印象的であった(そういえば、『はだしのゲン』も小学校のころに、教室の本棚に置かれていてよく読んだ記憶がある)。

 さて、前置きが長くなったが、本書は、このように「戦争体験」の語りが二重にメタレベル化していく状況を、ポピュラー・カルチャーの素材の中に読み取りながら、その実態や問題点について論じた意欲的な論文集である。
ポピュラー・カルチャーを対象としているため、実に対象が幅広いのが特徴的で、『ガラスのうさぎ』や『二十四の瞳』といったよく知られた作品から、上でも触れた『夕凪の街 桜の国』といった近年のマンガ作品、そしてミリタリー関連のプラモデルから戦艦大和にいたるまで、さまざまなものが取り上げられている。


 私と同じかやや上の世代にあたる若い著者たちの目論見通り、いわゆる「戦記もの」のような研究もそれはそれで重要なのだが、全く戦争を体験していない世代が多くを占める今日においては、「ポピュラー・カルチャーにおける戦争の表象・言説を対象に」して、「日常生活を生きる人々の戦争観」(P2)を明るみに出していくような研究の重要性はますます高まっていると言えるだろう。とりわけ若い世代の読者においては、本書を読んだ時に、ポピュラー・カルチャーの中の自分にとって身近な対象にまで、戦争が関連していたのかと驚きをもって受け取ることになるものと思われる。


 これらの点からしても、いまだ類書が数多くない現状において、本書は先駆的な試みとして高い評価に値するし、また文科省の科研費研究が元になっているようだが、さらに分析対象を広げつつ、広範な研究者をも巻き込みながら、体系的に研究が進められていくことを強く期待したい著作であると言える。


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2011年09月30日

『若者の介護意識―親子関係とジェンダー不均衡』中西泰子(勁草書房)

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「他人事では済まされない一冊」

 今日の日本社会では、少子・高齢化が進んでいて、老親扶養や介護が喫緊の課題であることは疑うまでもない。近年では、ようやく制度面での整備(介護保険など)も進められてはきたものの、対応が後手に回っている感は否めないだろう。

 そんな状況下で、本書はあえて、実際の老親介護現場の実態よりも、これからそれを担う若者たちの意識に注目している。


 というのも、変動期の社会に求められているのは、次世代の担い手が考えていることを明らかにしながら、未来を構想していくことだからである。


 この点において本書は、特に若い女性たちを中心に、若者たちの老親扶養に対する意識の実態を実証的に明らかにした本邦初の試みとして高い評価に値しよう。


 より具体的にいえば、本書の中で明らかにされているのは、老親介護の中心的な担い手が「嫁」から「娘」へと移り変わろうとしている中で、若い女性たちがそれをどのように受け止めているのか、あるいは、それが同世代の男性たちや親に当たる年長世代の意識とはどう異なるのか、といった点であり、時に、大都市郊外と地方都市といった地域差のような社会的な背景に関する分析をも交えながら議論が展開されている。


 特に興味深いのは、「娘」が老親介護の中心的な担い手になりつつある中で、その現象がはらむ両義性が指摘されている点であろう。


 すなわち、「嫁」も「娘」も女性であるという点においては、老親介護においても、相も変わらず性別役割分業が再生産されているとする批判的な議論が存在するのは確かである。


 しかしながら、「嫁」がイエ制度的な規範の中で「担わされる」状況であったのに対して、「娘」が愛情に基づいて「自発的に担う」状況に移行したことは、それ自体、女性のあらたな権利獲得とも言えるのである。


 いわばそれは、「制度から友愛へ」とも言い表されるように、集団としてのまとまりを尊重する家族から、個々人の自立を尊重する家族へと大きく変容を遂げつつあることの一つの表れとも言えるのだろう。


 だがさらに、本書の面白さが最も際立つのは、そうした、「個々人の自立を尊重した」家族における介護を通してこそ、既存のジェンダーが再生産されていくという、さらなる「どんでん返し」が待ち構えていることなのだ。


 これ以上の内容は「ネタバレ」になってしまうから、紹介しないほうがよいだろうが、しかし、幾層にも複雑化した現代家族のメカニズムを丹念に、かつ実証的に明らかにした意義は大きく、またそれを明らかにしていくプロセスは、あたかも「読み物」のようにスリリングですらあった。


 少子・高齢化がますます進むであろう日本社会においては、親世代においても、そして子世代にとっても、老親介護は目をそむけずにはいられない問題であり、本書はまさに、この日本社会を生きる誰にとっても他人事では済まされない一冊になるものといえる。


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2011年08月31日

『友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学』ロビン・ダンバー著/藤井留美訳(インターシフト/合同出版)

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「友達は無限には増えないもの?」

 本書は、進化心理学者として著名なオックスフォード大学教授、ロビン・ダンバーが専門的な見地を織り交ぜつつ記したエッセイ集である。

 論じている対象は、友人関係や言語に始まって、文化や倫理・宗教世界、そして科学や芸術に至るまで実に幅広い。ダンバーの基本的な視点は、こうした諸現象を、人間という動物の進化、あるいは環境への適応行動という観点から理解するというものである。


 原文もウィットにとんだ軽妙な文体で書かれているのだろうし、あるいはそのテイストを損なわない上手な翻訳によって、楽しく読める1冊となっている。科学に関心のある高校生、あるいは中学生あたりでも、十分に楽しめそうな内容である。


 さて、ダンバーが著名となったのは、本書のタイトルにもあるように、「ダンバー数」と呼ばれる、気のおけないつながりの人数について、定式化したことによる。


 その根拠となっているのは、とりわけ霊長類における集団の大きさが、その脳の新皮質の大きさと強い相関関係にあるということであり、別な言い方をすれば、その複雑な集団社会の形成が、他の生物に比して、霊長類における大きな脳の発達を促してきたのだという(社会的知性説)。


 そしてこの観点からすれば、人間の「ダンバー数」は150人程度なのだという。


 社会学者の立場からすれば、一見、この定式化は非常に乱暴なものに見えなくもない。気のおけないつながりの人数が、脳の新皮質の大きさによってのみ規定されているのだとしたら、なぜ友人の多いものとそうでないものとがいることになるのか。


 あるいは、高度にメディアの発達した社会とそうではない社会、もしくは集団主義的な社会と個人主義的な社会とで違いは生じないのか、といった批判がただちに頭を掠めることとなる。


 しかしその上でなお、この「ダンバー数」という定式化には、捨て去り難い魅力がある。というのも、本書の中でも触れられていることだが、高度にメディアが発達した社会においても、決して友人の数は無限に拡大していく傾向が見られないからである。


 例えば、携帯電話のアドレス帳であれば、おおむね最高で1000件程度の連絡先を登録することができるし、インターネット上のSNS(ソーシャルネットワーキングサイト)を使えば、友人の数はそれこそ膨大に増やしていくことができる。


 この点について、実は評者も若者を対象とする実証的な調査をいくつも積み重ねてきたのだが、たしかに、こうしたメディアの普及当初は、それ以前と比べて若者たちの友人数に増加傾向が見られていた。だが、近年にいたると、その傾向は明らかに鈍ってきたように思われるのである。


 何年かに渡って、アンケート調査で友人数を尋ねて比較してみても、そうした傾向が見られるし、インタビューなどをしていても、「ケータイのアドレス帳は、〇百人というキリのいい登録数じゃなきゃ、いやなんですよ。だから新しい人を登録して、キリのいい数を超えちゃったら、誰かを代わりに消します」といった回答が見られるようになってきた。


 こうした結果にもとづくと、メディア技術の発達は、人間のコミュニケーションに無限の広がりの可能性をもたらしてくれるように見えるけれども、使いこなす側の人間の能力にも限界はあり、必ずしも社会的な要因だけが、人間の行動を規定しているのではないのだという思いを改めて強くすることとなる。


 かといって、社会学者である身からすれば、本書全体を通してその主張をすべて首肯できるかといわれれば、留保をつけざるを得ない部分はもちろん存在しており、例えば男女の性差を本質的なものとして捉えてしまっているところなど、ジェンダー論に代表される社会学的な観点に基づけば、批判すべきところがあまたあるのも事実ではある。


 だがもし、自分自身の「ダンバー数」にももし限りがあるのなら、その限られた数の中で、できるだけ多様性を確保しておきたいとも思う。そうした意味において、新鮮な刺激を与えてくれる本書は、読みやすさもあって大変面白い著作であった。



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2011年07月31日

『プロフェッショナルパイロット』杉江弘(イカロス出版)

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「「想定外」に対応できてこそプロフェッショナル」

 飛行機に乗っていると、着陸がスムーズにいく場合とそうでない場合とがある。天候に左右されることもあるが、さしたる風も吹いていないのに「ドスン」と大きく弾んで着陸するときもあれば、悪天候でも比較的スムーズに着陸するときもある。

 本書によれば、これはパイロットの力量による違いであるという。いかなる状況でもスムーズに着陸させることのできるパイロットは、しばしば「天才」としてもてはやされるが、著者はこうした力量はむしろ後天的なものだと主張している。

 「そもそも飛行機が出現したのは、六〇〇万年の人類の歴史の中でもごく最近の出来事で、その操縦に関して持って生まれた天性のものなどあるはずがない。自分自身の経験から言っても、同期入社の仲間で最初から最後まで操縦がずば抜けて上手な者はおらず、個人の訓練での努力や日常フライトへと姿勢の差から、ある時期から能力差として固定される性格のものである。また、訓練やラインフライトでプロフェッショナルなパイロットとの同乗によって突然開眼することも少なくない」(P153)

 だが一方で、こうしたプロフェッショナルなパイロットの育成は、近年おろそかにされつつあるという。というのも、最新鋭の飛行機においては、ますますオートマチック化が進み、ある程度の訓練を積んだパイロットであれば、誰もが同じように操縦できるようになりつつあるからだ。


 しかし著者に言わせれば、こうしたオートマチック化は、トラブル発生時においては、むしろ逆説的に、より重大な決断や判断をパイロットに迫ることになるのだという。


「一昔前の航空機では、高度計や速度計の一つに異常が発生しても墜落するという事態にまでは至らなかった。しかし現代のアドテク機(=アドバンスト・テクノロジー航空機 ※補足評者)では、一つのトラブルが自動操縦システム全体を異常な状態に陥れる……。そこで飛行マニュアルに書かれていないことや、訓練では経験していなかったことが発生するとパイロットは混乱し、天候やエンジン等が正常であっても、機をアンコントロール(操縦不能)状態にしてしまうことになる。」(P235~236)

 いわば、システムが発達しオートマチック化が進めば進むほど、一見、人の手を要する領域は減り、プロフェッショナルという存在も用済みであるかのように感じられる。しかしながらその一方で、万が一の非常時に対応するためにこそ、むしろプロフェッショナルの存在が、本当は重要度を増しているのだという。


 筆者は、総飛行時間が2万時間を超え、機長としても1万時間無事故表彰を受けている現役のパイロットであり、まさに日本を代表するプロフェッショナルであるだけに、その言葉は説得力に富む。


 また、本当はプロフェッショナルという存在が必要であるにもかかわらず、システム化や合理化が進むほどに、その存在がおろそかにされているという問題点は、まさに複雑化した今日の日本社会にもあてはまろう。


 例えば、東京電力の原発事故に関する報道を耳にするたびに、まさしく不在であったのは、原発に関するプロフェッショナルではなかっただろうか。本来、そうあるべきであり、また監視をする役目を担っていたはずの原子力安全・保安院などは、省庁内部でのたらいまわし人事のすえに、専門外とも言える人物が担当している始末であったのは、周知のとおりである。また、非常事態に対応できてこそのプロフェッショナルであるにも関わらず、今なお繰り返され続けている言葉は「想定外」である。


 その一方で、その危険性を数十年も前から察知し、一貫して警鐘を鳴らし続けてきた研究者たちは、長らくまともに相手にすらされてこなかったのだという。強いて言うならば、この人たちだけが、原発のプロフェッショナルと呼びうる存在であろう。


 本書は、現代社会のシステム化・オートメーション化が進むほどに、むしろ逆説的に、プロフェッショナルな人間が必要になることを説得的に述べた著作であり、もし航空会社が運行される便の機長を事前に知らせるサービスを導入したなら、まちがいなく「この人が操縦する飛行機に乗りたい」と思わせる著作である。


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2011年06月30日

『災害ボランティアの心構え』村井雅清(ソフトバンク新書)

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「ボランティアの背中を押してくれる良書」


 いい新書だと思った。


 新書ブームの昨今、新しい事象に関する手短な分析を手軽に読むことの恩恵をこうむってきたのも確かだが、安直な著作の多さにうんざりしかけてもいた。

 だが本書は、まさに新書にふさわしい内容だと思う。


 あえて述べるならば、3・11の大震災の直後に本書を読みたかった。そうすれば、もっと多くのボランティアが被災地の手助けをすることができたのではないかと思う。

 だが、もちろんそれは100%不可能である。というのも、本書は2011年6月25日に初版が刊行されたばかりであり、むしろ3・11以降の災害ボランティア活動の実態を克明に記録しつつ、そこから得た知見に基づいて、これからのボランティア活動に求められることを提言している著作だからだ(著者の村井雅清氏は、被災地NGO協働センターの代表を務めておられる)。


 最も心に残った提言は「ボランティアは押しかけていい」(P54)というものだ。


 震災発生当初、あまりの被害規模の大きさに、被災地以外の人々が一体何からどう助けたらいいのかと呆然としていたのは事実である。そのうちやがて、「ボランティアが殺到するとかえって現地の食糧不足を招いたり迷惑になる」といったまことしやかな情報が流布し始めていった。そして、「支援金を送ったほうがいい」「いや、食料品などの現物のほうがいい」といったように、支援の仕方をめぐっても混乱が続いていった。


 だが著者がいうには、「ボランティアは押しかけていい」のだという。むろん、上記した様な問題点が多少は生じるのかもしれないが、それよりも「行き控え」のような現象が起こって、慢性的に人手不足になってしまうことのほうが恐ろしいという。


 あるいはこれと関連して、社会学的に言うならば、ボランティアをめぐる「意図せざる結果」のような現象が起こっているという記述も興味深かった。


 すなわち、阪神・淡路大震災の経験が元となって、震災時にはボランティアを有効活用すべきだという認識は広まりつつある。だが、そうしたボランティアをめぐる一定の「成熟」した状況が、むしろボランティア活動のマニュアル化であったり、あるいは「指揮をするコーディネーターがいないのならば、かえって混乱するだけだから行かないほうがよい」といった思考を招いてしまっているのだという。


 それに対して著者は、「ボランティアは何でもありや!」だとして、以下のように述べている。

 「非常時に行政がやることのすき間を埋めるのがボランティアだから、ボランティアは「十人十色」「多種多彩」であるべきで、自発性・独立性・創造性を併せもつ存在でなくてはならない」(P27)


 つまりボランティアとは、マニュアル化された行動を、誰かに統括されてやるようなものでは決してなく、むしろ現場の状況に応じて臨機応変に、その場その場での支援をしていくものなのだろう。だから、「これが絶対の正解だ」といえるようなものは存在せず、常にトライアンドエラー方式の試行錯誤をやっていくしかないものなのだろう。

 それゆえ本書には、成功談ばかりではなく、失敗談も合わせて織り交ぜられており、だからこそ今後の支援活動を考えていく上で非常に学ぶところが多くなっている。

 震災以降、(当然のことながらボランティア活動をしながらと思われるが、)これだけの短期間で重要な著作をまとめられたことに敬意を表しつつ、このコンパクトな書籍を、通勤・通学の電車内であれ、家の中であれ、それこそボランティアに向かう途中でもいいので、できるだけ多くの人に読んでほしいと願わずにいられない。

 私自身も、遅ればせながら今夏には被災地を訪れる予定である。



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『必要か、リニア新幹線』橋山禮治郎(岩波書店)

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「今、求められるべき思考法を教えてくれる良書~リスク社会論の実用的な好例として」


 いい本に出会ったと思った。論ずべきテーマについて、今まさに求められるべきスタンスから論じている良書だと思った。

 昨今、ワンショットのテーマについて、面白おかしく極論めいた結論だけを抜き出したタイトルの新書が巷にあふれている。それらの多くは、新しいテーマを分析しているという点では価値があるものの、見方が偏ってしまっていることが多い。いわば、結論ありきなわけだ。それに対して本書は、筆者の主張を明確に打ち出してはおらず、むしろ以下のように記されている。


「本書はリニア中央新幹線の建設構想に対して、一義的に「賛成」とか「反対」を主張することを意図したものではない。筆者の強く望みたいことは、国民にとって最善な判断がなされることである。」(はじめに)


 むろん読み進めていけば、その立場はおのずと明らかになっている。だが、本書においては、それが「明言」されることはなく、徹底的に賛否両論を併記し、それぞれの可能性を十分に比較検討したうえで、そこはかとなく自らの主張を提示されているのである(もちろん説得的な理由を添えて、である)。


 翻って、いつの頃からかこの国の社会(科)学者たちは、マックス・ウェーバーのいう「価値自由」の意味を取り違え、「学者たるものは自分の意見を入れずに、淡々と事象のみを観察すべきである」と思い込んでしまってきた(事実、私もそうした教育を受けてきた)。


 いまだにそう思い込んでいるものも多い中で、本書は、今日の数々の社会問題に対して、社会(科)学者がまさに取るべきスタンスを教えてくれている。


 
 さて、肝心のリニアの問題である。この文章を記している2011年6月末の段階では(そしてそれは本書が書かれた段階でも同じだが)、もちろんまだ本工事は始まっていないものの、すでにJR東海が建設費の自己負担を打ち出したことで実現に向けて動き出しているといった状況である。


 本書を手に取った本当の理由が、鉄道に関する書籍なら何でも一度は立ち読みしてしまうというファン心理であったことからしても、あるいは、新幹線に代表される高速鉄道が戦後日本のナショナルシンボルであったことからしても、リニア新幹線の開通に心躍る気持ちがするのは事実である。
 

 だが日本社会は、「もう一度、世界一の技術力を見せつける機会だ!」といったロマンティックな夢を抱く段階から、現実的な選択肢を冷静に比較検討するような、成熟した段階へとすでに突入しているのではないだろうか。
もちろん、徹底的な両論併記をなした上で、本当に必要だと思われるものならば堂々と作ればよい。だが、高度成長期もバブル経済もはるか昔に過ぎ去った今日においては、よりシビアにその「費用対効果」を検討する視点を多くのものが持ち合わせていなくてはならない。

 この点では、本書で取り上げられているいくつものデータが役に立つし、さらに重要なのは、原発事故以来、ようやく人口に膾炙し始めた「リスク社会論」の思考法である。

 すなわち、高度な科学技術や複雑な社会システムが発達した近代成熟期の今日において、われわれが直視すべきは「危険」よりも「リスク」である。前者は科学技術の発達においてゼロにできるかのように思われてきたものだが、「リスク」はいかなる選択をした後においても付きまとう潜在的な可能性のことである。

 リニア新幹線の例で言えば、それを建設しようがしまいが、ネガティブな結果が持たされる可能性は潜在的には存在し続けるのだ。


 仮に建設したとしても、当初の需要見込みどおりに旅客数が伸びなければ、大幅な赤字に陥り、やがて利用者の料金が上がったり、その分を補填するために、地方における在来線が廃止されたりすることもありえよう。仮に、現在、東海道新幹線を利用している旅客数を全体として維持できたとしても、新しいリニア新幹線と既存の新幹線とを同時に維持していくコストがかかり続けることは代わらない。
 
 だが一方で、もちろん建設しなかった場合にも「リスク」がつきまとう。静岡県は近い将来に東海地震の発生が予測されており、もし東海道新幹線が長い間不通になれば、東京と大阪を結ぶ大動脈を失うことで日本経済は大きな打撃がこうむることは間違いない。

 あるいは妥協策として、中央新幹線をリニアではなく現状と同じ新幹線方式で建設することも考えられるが、この場合とて、最先端の鉄道技術の開発から徹底する覚悟が必要となる。


 本書は、「100%絶対の正解」を提示するのではなく、それぞれの選択肢が抱えた問題点を比較検討した上で、「まだまし」なベターな結論を志向しようとする点において、まさに「リスク社会論」のすぐれた実用例と言える著作と思う。

 ただ一点だけ、社会学者として気になるのは、以下の記述である。

「筆者が確信を持って言えるのは、
▼目的と手段が両方とも正しければ、必ず成功する 
▼しかし目的と手段のいずれにか欠陥や誤りがあれば、必ず失敗する
という経験則が存在することである」(はじめに)


 もちろん、一般読者向けにあえてわかりやすくした記述であろうことは差し引くとしても、やはり社会現象に「必ず」はないのではないかと思う。むしろそのことが「リスク社会論」の根幹でもある。社会学者の立場からするならば、社会現象は押しなべて「意図せざる結果」なのであって、むしろ人智を超えた社会的なメカニズムが思わぬ結果をもたらしてきたからこそ、社会学者は社会を研究し続けるのだと思う。

 リニア新幹線もそして原子力発電所の問題も、今、日本社会にいる人々が、突きつけられている重要な問題であり、「100%絶対の正解」もないが、いずれ何がしかの決断をしなければならないことになろう。本書は、こうした重要な決断をする際に、大いに示唆に富む一冊だといえよう。


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『鉄道と日本軍』竹内正浩(ちくま新書)

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「鉄道は国家なり」


 学問上の恩師とも言うべき人にこう言われたことがある。「社会(科)学を学ぶものは、一度は軍隊と戦史について学んでおくべきだ。なぜなら、軍隊は合理的な近代組織の一つの典型であり、戦史はその実地における活動記録に当るものだからだ」と。その方は、かの小室直樹氏からそう言われたのだという。


 しかしながら今日の日本社会では、軍隊や戦史に詳しい者といえば、「ごく一部のミリタリーマニアのことだろう」といったイメージしかもたれないかもしれない。希有な例外として、東京工業大学の橋爪大三郎氏が「軍事社会学」の講義をされているという話を聞いたことがあるが、そのシラバスにも「おそらく日本で唯一の講義」と記されていた記憶がある(橋爪氏も小室門下のお一人だ)。


 だからこそ、この社会では、組織が非合理的な方向に突っ走ったおかしな失敗が、いまだに後を絶たないのではないか、といったら言い過ぎだろうか。昨今の原発を巡る失敗が、第二次世界大戦時の軍部の動きになぞらえて語られるのも、決して故のない話ではない。

 さて、敗戦後、軍が解体された後に、もっとも軍隊らしい組織として残されたのは、実は鉄道ではないかと思う(もちろん自衛隊は今日でも存在しているのだが、人々により日常的でなじみがあるのは鉄道だろう)。別な言い方をすれば、日本ほど、鉄道に携わるものたちが軍隊のように行動する社会も珍しいといえるだろう。制服・制帽をきっちりと着用し、時間には秒単位で正確で、すれ違う時には敬礼をする・・・といった様子は、日ごろは当たり前に感じていることである。

 だが、他の国の鉄道に乗ると、例えば鉄道先進地のヨーロッパでも、鉄道員たちがラフな格好やフレンドリーな対応をしていることに驚くことがしばしばある。


 こうした点からも伺えるように、そして本書がその中心テーマとしているように、少なくともある時期までにおいては、軍隊と鉄道にはきわめて深いかかわりがあったのである。


 例えば本書でも記されているとおり、日清戦争後の陸軍に、鉄道大隊が創設されたことや、その後の日露戦争が実は鉄道をめぐる争いであったことなどは、今日では忘れられがちかもしれない。特に後者については、日本海海戦ばかりがクローズアップされがちであろう。


 さらには、それ以前においても、国内の幹線鉄道を敷設する際には、比較的平地が多く建設コストを抑えられる海岸沿いを通るか、それとも建設コストはかかっても艦砲射撃にさらされるリスクを避けられる山中を通るか、といった議論が真剣に交わされていた。


 この点に鑑みると、レールの幅だけが異なる中途半端な「ミニ新幹線」があちこちで作られたり、平行する在来線が廃止されたり第3セクター化されて、全国を結ぶ鉄道網がズタズタになっていく今日の状況は、もし明治の元勲が生きていたならばどう思うのだろうか。また国防や安全保障だけでなく、防災という観点からしても、日本経済の大動脈とも言える東海道新幹線のすぐそばに、浜岡原発が立地している現状はどう見えるのだろうか。


 このように、過去を学ぶことの意義は、ただ単に知識を増やすことだけではなく、現状を反省的にとらえ返すための貴重な視点を与えてくれることにあるといえるだろう。


 鉄道と日本社会との深いかかわりが、これまで十分に掘り下げられてこなかったという点は過去の書評の中でも繰り返し述べてきたことだが、本書はさらに進んで、鉄道と軍隊の深いかかわりについて、特に近代化初期段階の明治期に焦点を当てて論じた貴重な著作であり、今日の問題を考える上でも示唆に富むものである。


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2011年06月29日

『「モノと女」の戦後史―身体性・家庭性・社会性を軸に』天野正子・桜井厚(有信堂高文社)

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「ジェンダーを「立体視」する先駆的試み」

ある時期、ジェンダー論とはなんてつまらない学問なのだろうかと思っていたことがある。自分が浅学であることも大きいが、その内容が、とても平板に感じられたのだ。

 例えば、「男は仕事、女は家事」といった性別役割分業に対する批判である。もちろん、改善が進んだとはいえ、それらが未だに解決していない重要な問題でありつづけているということは言うまでもないのだが、正直に言えば「男が悪い」式のありきたりな結論を聞くのに飽き飽きしていた時期があった。


 大学で学び始めた当時は、むしろこうした議論が見開かせてくれる新しい社会問題への視座の気づきに心躍ったものだが、それ以上の目新しい知見を感じることができない日々がしばらく続いていた。そんな折に本書と出会ったのである。


 本書の内容は、さまざまな「モノ」とのかかわりを通して、戦後の女性たちが、いかに自己や他者、そして社会全体とかかわり合いを持ってきたのかを歴史的に描いたものである。「自己/他者/社会」といった3次元から、社会を捉えようとする視点は、はるか昔のドイツの社会学者ゲオルグ・ジンメルにまでさかのぼりうる、オーソドックスなものといえるが、むしろだからこそ確固たるものとなっている。


 本書ではこれを、「身体性/家庭性/社会性」に置き換え、たとえば身体性については、下着類や生理用品、家庭性についてはいくつかの家事用品、そして社会性については、手帳やタバコといった「モノ」を介して、女性たちがいかにそれぞれの社会次元とかかわり合いを持ってきたかという点について、克明に記述している。


たしかに、女性が女性らしく振る舞い得るのは、生得的にその人が女性だからというよりも、こうした「モノ」を介して、それぞれの次元において、女性らしいかかわりを持っているからだといったほうが説得的である。加えて本書が魅力的なのは、こうした「モノ」が一方的に女性らしさを規定していると捕らえるのではなく、むしろそうした規定力と女性たちの意味づけとの相互交渉を克明に記述しているところにある。そこからは、より現実的な手法で、既存のジェンダーを少しづつずらしていくための、建設的な処方箋にもつながっていくことだろう。


これらの点において本書は、これまでの平板化しがちだったフェミニズムやジェンダー論とは、明らかに一線を画す著作となっている。しいて言えば、「家庭性」という次元の設定について、実態に寄り添ったためにそのようなネーミングになるのは理解できるとしても、「(他者との)関係性」「親密性」といったより抽象的なタームにしておいたほうが、この分析概念の応用範囲をより広めることができたのではないかと思われる。


 なお続編にあたるものとして、『モノと男の戦後史』『モノと子どもの戦後史』(いずれも吉川弘文館)もあるのだが、読み比べると、やはり抜群に面白いのは本書である。その理由として、特にひと頃までの男性たちには典型的だが、天下国家や社会のことばかりを考えて、身だしなみや他者との関係性に無頓着でいるような人々については、この立体視のための3次元図式が不要になってしまうからかもしれない。

むしろ、抑圧的な立場におかれてきた女性たちのほうが、それこそ発明王となるカリスマ主婦のように、さまざまに「モノ」とのかかわり合いを工夫しながら、自らの生活を満たされたものとするための着実な知恵をふんだんに蓄積してきたのだともいえるだろう。今後もこうした生活の知恵を克明に記述していく、着実な研究成果が期待されよう。


 本書は平易な文体で読みやすいが、事例が豊富で読み応えのある一冊である。それこそ男女を問わずに、幅広い世代の方に読んでいただきたい。


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2011年05月31日

『一匹と九十九匹と』うめざわしゅん(小学館)

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「2000年代を代表する「生きづらさ系マンガ」」

 久しぶりに凄いマンガを読んだ。知り合いの編集者に勧められたのだが、ただちに他の作品を読みたくなった。だが、まだ2作しか刊行されていないという(単行本としては、本作とデビュー作の『ユートピアズ』の2作だけが刊行されている)。

 私個人の受け取り方としては、「生きづらさ系マンガ」として「ポスト岡崎京子」に位置づけられる気がした。

 ここでいう「生きづらさ系マンガ」とは、絶望感を緩和して、生きづらさと向き合うマンガのことをいう。この絶望感との向き合い方について、うめざわしゅんのそれには、今までの作家との明確な違いを感じた。また、そこに日本社会の変化も感じられるように思われた。

 「生きづらさ系マンガ」として、岡崎京子は1990年代を代表する存在だったと思う。そのスタンスは、希望の中に潜む絶望に気がつきつつも、あえてその希望を生きるというものである。周知の通り、初期の作品である『東京ガールズブラボー』で描かれていたのは、消費社会の記号と戯れることの楽しさであるとともに、どこかでそのはかなさに気づく少女の姿であった。だが少女たちは、それでもあえてそのはかない楽しさを生きていくのだ。宮台真司氏がよく指摘していたことだが、彼がフィールドワークをしていたブルセラブームのころ、女子高生に岡崎京子の読者が多かったというのも、うなづける話である。

 だが、後の『ヘルタースケルター』へと至っていくのに従って、その作品世界は段々と暗さを増していく。いわば、絶望の方が希望をのみこんでいってしまうのだ。この変化は、「失われた10年」とも言われた、1990年代の日本社会ともシンクロしよう。

 この点で、うめざわしゅんの絶望への向き合い方は、岡崎京子の真逆に位置づくように思われる。いわば、岡崎が希望と向き合いつつ、その中に実は絶望が存在していることに気づいていたのだとしたら、うめざわは、初めから絶望と向き合っている。むしろ、絶望感あふれる今日の社会と正面から向き合うことで、その中に希望の一筋を見出そうとしているように思われる。

 だから、本作も大変に暗いマンガだ。援助交際、監禁、校内暴力、不登校、コンビニ強盗、殺し屋・・・と、これだけを列挙すれば、なにもいいことがないような、そんな今日の社会の雰囲気を現したマンガであるように思われる。だが、絶望と正面から向きあうがゆえに、「これ以上、悪くもならない」という開き直りのように、どこかに希望も感じられるのが、本作におさめられたエピソードに共通する読後感なのだ。

 こうした2000年代の「生きづらさ系マンガ」としては、以前にも『ソラニン』を評したように、私は、あさのいにおが「ポスト岡崎京子」の一番手だと思っていた。だが、人によっては、うめざわしゅんのほうを高く評価する場合もあるかもしれない。実は、知り合いの編集者にも、「あさのいにおを面白いと感じるなら、こっちも試してみては・・」と勧められたのだ。


 扱う題材の暗さに、万人向けとは言い難いが(とっつきやすさという点では、あさのに軍配が上がるが)、「生きづらさ」を感じる人たちに、ぜひ一度、お勧めしたいマンガである。


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2011年04月30日

『若者のトリセツ』岩間夏樹(生産性出版)

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「社会学的なマニュアル本~若者を使いこなすために」

 本書のタイトルにある「トリセツ」とは、取り扱い説明書の略である。だが、本書を読めば、たちどころに若者たちを取り扱うのがうまくなるかといえば、そうではないだろう。むしろ、そうした速攻の特効薬を当てにするような発想を戒めるところにこそ、本書の狙いはある。
 もちろん、本書を手に取ったり関心を寄せる大人たちが、日々、「使えない(と感じてしまうような)」若者たちを相手にしていることは想像に難くない。一人ひとりの名前と顔も具体的に思い浮かんでしまうほど、その悩みが根深いことも多いだろう。

 だが、ミクロな人間関係的というか、あるいは心理学的な対策といえばよいのか、そうした名前と顔が思い浮かぶような、個々の若者への対処法を本書は教えてくれるわけではない。そのような期待をする向きからすれば、本書は隔靴掻痒、遠回りなものに感じられて仕方ないだろう。

 というのも、あくまで本書は社会学的に、時代時代の変化を背景にして、なぜ若者たちが変化をしてきたのか、いうなれば、なぜ今の若者たちは大人たちから見ると「使えない」ように思われる存在になってきたのかを、論じているからである。

 なかなか飲み込みにくい視点かもしれないが、だがその一点さえ理解できるならば、本書は極めて明快な論理と文体で書かれたわかりやすい一冊であることが理解されよう。


 例えば、冒頭で西武ライオンズの渡辺久信監督の著作に触れながら、管理を強めるよりも若者たちの自主性を重んじた選手の起用法が触れられている。渡辺監督の著作によれば、それは「寛容力」と呼ばれ、いうなれば、しかるよりもほめて伸ばすような起用法である。野球で言うならば、驚くべきことにかの闘将星野仙一氏ですら、今年から東北楽天イーグルスの監督に就任するに当たっては、かつてのような鉄拳制裁は影を潜め、むしろ物分かりの良い監督でいることが多いと聞く。

 だが間違えてはならないのは、ただ単純にこれを読んだ大人が、身近な若者と接するときに「寛容力」をもって、自主性を重んじた接し方をすればよいという話ではないということだ。時代とともに、若者という存在のありようが変化してきたのならば、むしろそれに合わせて変えるべきなのは、個々人の心がけではなく、むしろ会社や組織のありようなのである。

 つまり、時代遅れの会社や組織のありようを、大人たちが若者たちに無理やりに当てはめるようなことがあってはならないのである。


 その点でいえば、時代の変化に適切に対応するためならば、自主性を重んじるどころか、逆にマニュアル化を強めるような対策も時に有効ではないかと筆者は述べている。

 というのも、ライフスタイルの多様化が進み、異なる世代間どころか、同じ世代内ですら価値観を共有できないことが増えている昨今においては、むしろ個々人の自主性に任せるよりも、企業の経営目標を「誤解のない正確で簡明な文章に置き換え」ておくことで、共通の目標設定をすることが必要と考えられるからである(p214)。

 もちろんそれは、中身のない理念を精神主義的に叩き込むようなことでは決してなく、あくまで戦略的に、機を見ながら、置きかえられていくような目標でなければならないだろう。

 このように、本書はマニュアル本といえばマニュアル本だが、これまでのとは一味違った、いうなれば、社会学的なマニュアル本ともいうべき一冊である。ぜひ、若者が「使えない」とお嘆きのあなたに薦めたい一冊である。



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2011年02月28日

『私の居場所はどこにあるの?』藤本由香里(朝日文庫)

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「今こそ読み返すべき、少女マンガ論の古典として」

 本書は、いまさら改めて紹介するのも戸惑われるほどによく知られた少女マンガ論の名著である。
 個人的な思い出を記せば、1990年代中盤に、私が在籍していた北海道の大学で、女性とメディアに関するシンポジウムが開かれた際、登壇者であった上野千鶴子さんが、少女マンガに関する女性のリアリティを的確に描いた著作として紹介されていたのを思い出す。それからすでに15年ほどが経とうとしているが、今、この著作を取り上げるのは、その後の少女マンガや文化の変遷を捉えるために、あえて古典として読み直す必要を訴えたいからである。


 そのタイトルにも触れながら著者が主張していたのは、「少女マンガの根底に流れているのは、「私の居場所はどこにあるの?」という問い、誰かにそのままの自分を受け入れてほしいという願いである」(P143)ということであり、親密な他者との関係性による自己肯定への希求を満たすために、その2次的な代替物として少女マンガというメディアが発達してきたということであった。
 

 そして、そこでいう親密な他者というのは、もちろん家族である場合も少なくはないが、少女にとっての中心はやはり異性(男性)が占めることになる。いうなれば、「はじめに」において、橋本治の指摘を紹介して述べているように、「少女マンガのモチーフの核心」というのものは「自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、「そんなキミが好き」だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある」のだという。


 つまり、少女マンガの登場人物の中でも、「ブスでドジでダメだと思っている女の子」に自分を投影しつつ、2次元ゆえに理想化された素敵な「男の子」との関係性に、安心する「居場所」を見出すというわけである。この点において、少女マンガの読者は、まさしくマンガの世界、ないし、そこで描かれた恋愛関係の「当事者」と化していると言える。
 

 だが、近年、少女たちが読んでいるマンガや、あるいは彼女たちの文化を観察していると、どうもここで述べられている主張が当てはまらない事例もみられるのではないだろうか。


 たとえば、やおいやBLと呼ばれる男性の同性愛を描いたマンガが少女たちに人気だという。これらについても、かつては、その同性愛関係のいずれかの男性に少女が自己投影して(いわば「当事者化」して)読み解いているのだ、という解釈が一般的であった。しかし近年では、もう一歩引いた目から、その関係性のバリエーションを楽しむ動きが中心化しているらしい(東園子はこうした動きを「相関図消費」と呼んでいる。詳細は、東浩紀・北田暁大編『思想地図vol.5』(2010、NHK出版)所収の論文を参照のこと)。


 いうなれば、少女たちのマンガを読む立場が、そこで描かれている関係性における「当事者」としての立場から、むしろ一歩引いた「観察者」としての立場に変容しつつあるらしいのだ。


 別な例を取り上げてみると、私自身がフィールドに出向いていた1990年代後半ごろのジャニーズファンの文化で言えば、SMAPの木村拓哉は疑うまでもなく擬似恋愛の対象であった。いうなれば、「あわよくばお付き合いしてほしい異性」であった。しかしながら、近年で言えば、嵐のメンバーは個々人が擬似恋愛の対象というよりも、むしろメンバー5人が全員そろってじゃれあっている姿、その俯瞰図を見ることのほうが楽しいのだという。やはり、擬似恋愛の「当事者」としてファンであるというよりも、関係性の俯瞰図を眺める「観察者」としてファンであることのほうが楽しいのだという。もちろん、こうした動きは、今後さらなるフィールドワークや調査を繰り返していく中で検証を深めていくべきことだとは思う。


 またその中で、仮に少女マンガの読者が「当事者」から「観察者」へと変容を遂げていることが明らかになってきたとしても、そのことは本書の価値を下げることには決してならない。むしろ、本書は貴重な過去の実態を描いた著作として評価すべきであり、その後の変化をこそ、今捉えて行くことが求められているのだ。本書を、古典として再評価すべきだという私の主張の根幹はそこにある。


 いったい、いかなる原因があって、このような少女マンガの変容が起こっているのか。その詳細まで触れている紙幅はないが、おそらくは恋愛に関する価値観が、かつての若者と現在とでは違うのではないかと思う。いわば、(私を含めて)かつての若者が、至上の価値を見出していた恋愛に、今はそれほどの価値が置かれていないのではないだろうか(だが、これももちろん仮説的な見通しに過ぎないので検証は必要である)。


 いずれにせよ、日本社会において、少女マンガを始めるとするポピュラー文化については、十分な歴史的な厚みのある分析があまりなされてこなかった。しかしながら、もし私がここで示唆したような変容が本当に見られるのだとしたら、本書はそうした歴史的変遷を描くための貴重な橋頭保となりうるだろう。

 この点において、過去のポピュラー文化を描いた著作は、これからもっと見直しをすすめて行くべきだし、本書はまさにその代表ともいえる一冊だと思う。


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2011年02月24日

『ソラニン』浅野いにお(小学館)

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「「終わりなき日常」から文化を創造する可能性、あるいは「若者=格差社会論」へのオルタナティブとして」

 本書は、映画化もされた浅野いにおの代表作である。1巻と2巻からなる短い作品だが、今日の若者文化を描いた作品としては、屈指の傑作である。

 ストーリーは、主人公である「東京のどこにでもいるようなOL」(P7)、井上芽衣子のアパートの一室から始まる。芽衣子は、「大学卒業して」「ちょっとブラブラ」(P8)している彼氏、種田成男と同棲中であり、バイトで徹夜明けの彼氏と入れ替えに出勤する。一方の種田は、大学時代の仲間とバンドを結成していて、いつかデビューすることを夢見ているが、やがて社会の波に飲まれていく。そして、夢を断念しようとしたときに「事故」が起こる・・・。

 以降のストーリー紹介はネタバレになってしまうため差し控えるが、全体を通して、とにかく読んでいて切ない作品である。種田の代わりに、芽衣子がボーカルとなってバンドを再結成し、ひたすらに練習に励むシーン、ライブに参加し最後の曲の演奏が終わるシーン・・・などなど、とにかく切ない。個人的な体験で恐縮だが、私はアジアンカンフージェネレーションの名曲『ループ&ループ』を聞きながら、本作のエンディングを涙して読んだ。
 


 切なさのゆえんは、「失われた10年」と呼ばれた1990年代以降、未来の夢も希望も失われた「終わりなき日常」(宮台真司)と呼ばれる日本社会の、その先行きの不透明感の中を、それでも懸命に生きようとする若者たちの姿にある。


 かつて、とりわけ1980年代までの若者文化といえば、ニューメディアの受容や華やかな消費文化の実態など、「時代の最先端」を論じるための格好の対象であった。しかしながら、いまや格差社会やフリーター・ニート問題など、中心的なアジェンダはすっかり移り変わってしまった。


 本作とて、彼氏である種田は大学卒業後も定職につかず彼女の部屋に同棲しており、まわりの仲間たちの社会階層を想像してみても、「格差社会の中で虐げられる若者たち」という読み解きは不可能ではない。


 だが、近年流行のそのような若者論に本作を押し込めてしまうのは、大きな過ちといわざるを得ないだろう。むしろ、格差が拡大し、先行きが不透明化しても、若者文化の創造性それ自体には変わりのないことを本作はまざまざと教えてくれる。やや、引いた目からの解釈になってしまうが、浅野いにおのマンガそれ自体に、そうした創造性が通低しているといってよい(あるいは、アジアンカンフージェネレーションについても、同様のことが言えると思う)。


 『ループ&ループ』の歌詞になぞらえて言うならば、今の若者たち(もちろん、浅野やアジアンカンフージェネレーションもここに含まれる)は、この社会の未来の「最終形のその先を担う世代」にあたる。この社会では夢も希望も失われ、もはや「ペンペン草すらも生えない」ほどに何もなさそうに見える。だがむしろ、そうした社会を生きるという行為そのものを描写することに、浅野は創造性を見出している。いわば、何もかもが失われたかに見える、その現場そのものを描写するということが、何かを生み出す、創造的な営みなのであり、そのことに気づくこと自体がなんとも切なく、それとともにどこか励まされる感じがするのである。 


 本作の紹介として、これ以上、稚拙な筆を走らせるべきではないかもしれない。だが、社会学者としての私の問題関心から、もう一言だけ、述べておきたい。「若者文化は社会のリトマス試験紙」という言い回しがあるように、若者には社会の変化そのものがダイレクトに現れやすい。それゆえに時代時代によって、若者を論じるアジェンダはめまぐるしく移り変わってきた。


 だがそのことは、ともすると若者文化を「落ち着いてきちんと論じること」から遠ざけてきたのではないだろうか。あるいは若者文化を「移ろいやすくて軽薄なもの、真剣に論じるに値しないもの」としてきたのではないだろうか。


 だとするならば、もちろんその時代における中心的なアジェンダはあるだろうが、それだけにとらわれずに、多角的に若者文化を論じる必要がある。今日において、フリーター・ニート問題は看過すべからざる重大な問題だが、それだけにとどまらずに、若者文化の他の可能性を掘り下げる視点があってもいい。


 本作は、私にそうしたオルタナティブな可能性を感じさせてくれた好作でもある。



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『定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』三戸 祐子(新潮文庫)

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「「あたりまえ」を疑うところから社会を見つめなおす」

 「この列車、ただいま○○駅を1分遅れて発車いたしました。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけいたしますことをお詫びいたします。」
 これは、ある日の帰宅時に、私が実際に聞いた車内アナウンスである。耳慣れたものとはいえ、この日の内容にばかりは驚きを隠せなかった。  「1分遅れただけで、謝らなければならないものか。仮にこの電車が1分遅れたとして、それでどれだけの人に迷惑がかかるものだろうか」  もちろん、遅れないに越したことはないだろう。しかし、逆に言えばこのアナウンスは、日ごろ、日本の鉄道がほとんどの場合において、“1分”たりとも遅れずに運行しているということを示しているといえよう。

 なぜ日本の鉄道は、これほどまでに正確な運行が可能なのか。誰しもが当たり前のように享受している日常的な事実でありながら、あえて本格的な検証がなされてこなかったこの疑問点に本書は挑んでいる。
 特に高い評価に値するのは、技術的な面だけでなく、社会的な背景にまで踏み込んで検証したという点であろう(ちなみに本書は、第3回フジタ未来経営賞および第27回交通図書賞を受賞している)。

 技術的な面だけで言うならば、遅れが生じ始めたとき、運行するシステムの複雑性を縮減すれば、回復を早めることができる。具体的に言えば、特急や急行などの優等列車の運転を取りやめたり、相互乗り入れを中止したりして、なるべくシンプルな運転パターンにするということである。

 だが、本書がさらに興味深いのは、そもそも鉄道開通以前の江戸期において、日本社会には共有された時間感覚と、それに伴った規則正しい生活パターンがすでに成立していたのではないか、と指摘している点である。いわば、鉄道が開通したことで、標準的な時間感覚と規則正しい生活が広まっていったという通説を否定し、むしろ、鉄道を受容しうる「土壌」がすでにそれ以前の日本社会に存在していたからこそ、今なお正確な運行が保たれているのでないか、という説を展開している。
 事実、鉄道が開通したからといって、どこの社会でも時間に正確になるかといえば、そうではない。よく聞く話だが、日本よりも先に鉄道が発達したヨーロッパ諸国においても、数分程度は遅れのうちに入らないという。あるいは、遅れるのが当然のため、到着する番線もその日によってコロコロと入れ替わるし、駅の案内板には「何分遅れ」かを示すための欄があらかじめ設けられていたりもする。それはそれで、当然のこととなれば、現地の人々には困った様子も見られないものである。

 繰り返せば、こうした事実からも示されるように、鉄道にまつわるテクノロジーの普及によって正確な時間感覚が広まっていったという通説は誤りであり、むしろ、各々の社会に、それぞれに異なった時間感覚が備わっているということなのだろう。

 さて、ではこれからの日本社会はどうなるだろうか、これからのわれわれの時間感覚はどうなっていくのだろうか。具体的な話で恐縮だが、私が日ごろ、通勤で使うJR中央線は、近年よく遅れることで有名である。また、首都圏の鉄道では相互乗り入れをする線区が増えてきて、そのこともまた、各地で遅れやすさの原因ともなっているようだ。
 こうした点と関連してかどうかはわからないが、近年首都圏では、ドアの上部にカラー画面の車内掲示板を備えた車両が増えてきた。他の線区も含めて、遅れが生じたときにはひっきりなしに情報を提供している。
 電車が遅れたとき、われわれが苛立ちを感じるのは、原因および先の見通しの不明さにあるといってよいが、こうした車内掲示板が増えていけば、われわれの苛立ちは解消されるのだろうか。1分遅れただけで、車掌が謝らなくても済むような、ヨーロッパのような社会になるのだろうか。

 あるいは、鉄道と離れてしまうが、近年では時間や場所にとらわれずに利用ができる、ユビキタスな情報メディアの進展も著しい。こうしたメディアの普及が進めば、またわれわれの時間感覚も変化していくのだろうか。それとも、こうしたメディアの普及にもかかわらず、現在のわれわれの時間感覚が「勝って」、むしろそれを時間に正確に使いこなしていくようになるのだろうか(それがどのような使い方かはなかなか想像できないが、例えばツイッターのように、まったく同じ時間を共有することの楽しさに特化したメディアも登場している)。

 いずれにせよ、時間感覚は今日の社会を考える上での一つのホットなテーマであり、本書はこの点について、重要な示唆を与えてくれる一冊であるといって間違いない。



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