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2014年04月20日

『テレビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス』林香里・谷岡理香【編著】(大月書店)

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「「何を伝えているか」だけでなく、「誰がどのように伝えているか」を問うこと」


 数年前まで地方の私大に勤務していたころ、報道関係の方々とお話しする機会がよくあった。大学は県庁所在地にあったので、各新聞社の支局も中心部に集まっており、時にその内部も見学させてもらったことがある。大手新聞社といえど、地方支局はそれほど大きいものではなく、在籍する数名の記者用の机が並び、あとは応接セットに、仮眠用のベッドがたしか1つあったぐらいではないかと思う。


 想像されるように、新聞社もまた「男の世界」なのだが、本社のように大きな空間ならばまだしも、このような小さな支局だと、女性記者は大変だろうなあと思った記憶がある。実際に、私の取材に来てくれたある大手新聞社の女性記者も、そのような愚痴をこぼしていたのを思い出すし、結局、その方は退社されてしまったという話を聞いた。

 
 さて、本書『テレビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス』は、ジェンダーの視点に基づいたテレビ報道職の研究である。


 いうならば、これまでのニュース研究の中心を、「何を伝えているか」を問うことが占めてきたとするならば、そこに「誰がどのように伝えているか」を問う視点を切り開こうとする野心的な研究だといえる。


 具体的には、2009年に国際女性メディア財団が行った国際調査の一環のプロジェクトをベースにしつつ、さらにそれを発展させ、公共放送や在京キー局そしてローカル局なども加えた合計13局、30名の報道職社員を対象に、2010~2011年にかけてインタビュー調査を行っている。


 30名の内訳としては、「報道局長」経験者を中心としながら、比較対象として30代の比較手若い世代にも調査を行っている。だがそもそも前者については、その職位にまで上りつめる女性が圧倒的に少ないことから、調査上もさまざまな困難があったようだ。


 さらに、調査方法論上において興味深いのは、各対象者に対して丹念にライフコースに関するインタビューを行ったことだろう。ある特定のニュースに関して、それを伝える報道職としての意識を一時点においてとらえるのではなく、むしろ報道職社員たちのライフコースを丹念に掘り下げながら、どのような経緯をたどった人々がニュースを伝えているのかを問うているのである。


 いくもの貴重な知見が本書にはちりばめられており、特にP30の図1のようなライフコースシートを図表化したものも端的に結果が分かって興味深いし、P26以降の資料1にあるような具体的な質問項目は、今後も研究を進めていく上で参考になる、資料的価値の高いものといえる。


 だが全体を通して、やはり愕然としたのは、当たり前といえば当たり前だが、やはりテレビも圧倒的な「男の世界」であったということだろうか。序章でも触れられているように、世界平均をはるかに下回って、日本では報道職に携わる女性が少ないという。


 影響力が落ち始めているとはいえ、それでも大きな存在感を持つマスメディアが、そうした「ジェンダー・アンバランス」な状況のもとに、多くの人にニュースを伝えているのだとしたら、それはやはり大きな問題点といわざるを得ないだろう。


 将来、報道職やメディア関係の職に就くことを志望する学生諸君にはぜひ読んでほしい一冊だし、それ以外の方にもぜひ広く読んでいただきたい一冊である。


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『アフター・テレビジョン・スタディーズ』伊藤守・毛利嘉孝【編】(せりか書房)

アフター・テレビジョン・スタディーズ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「新しいメディア理論に向けての待望の一冊」


 まさに待望の一冊である。


 本書は、早稲田大学の伊藤守、東京芸術大学の毛利嘉孝、両氏を編者とする、新しいメディア理論の探求を企図した論文集である。


 その名が示すように、メディアの中心をテレビが占めていた時代はすでに過ぎ去った。だがテレビは完全に姿を消したわけではなく、一定の存在感を保ちながら、インターネットやケータイなどとともに複合的にメディアが利用される時代となっている。 


 日本社会において、こうしたインターネットやケータイの本格的な普及が進んだのが1990年代の中盤であるので、それからすでに20年近くが経つことになる。だがその間にも、インターネットはより高速で常時接続可能なものへと、さらにケータイもスマートフォンへと、その姿を変えてきた。


 このような技術面での驚異的な進歩の一方で、それを社会現象として捉えるための理論的な検討は立ち遅れてきたと言わざるを得ない。評者を含めた研究者の怠惰として批判されれば返す言葉もないが、この点で本書は、新たな時代のメディア研究のための、理論化の試みとして高い評価に値しよう。


 序文でも触れられていることだが、本書の位置づけを理解するうえでは、やはり同じくせりか書房から2000年に刊行された吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』と対比することが重要である。


 同書は、それまでのいわゆる「社会心理学的なマスコミ研究」、すなわちテレビを中心にして、あくまで送り手と受け手の間の世界にばかり注視してきたメディア研究に対し、カルチュラル・スタディーズの視座から、文化的・社会的な文脈を持ちこみ、より発展的な研究を企図したものであった。


 だが『メディア・スタディーズ』がそれでもテレビを中心的な分析対象とせざるを得なかったのに対し、それから十数年を経た本書では、存分に新しいメディアが分析されることとなっている。


 本書の構成だが、大きく三部に分かれていて、まず第1部「デジタルメディア・デモクラシー」では、こうした新たなメディアに関する政治経済学的な分析がなされている。次いで第2部「デジタルメディアの物質性・媒介性」では、それまでのマスメディアとは違った、これらの新たなメディアのありようがまさにメディア論的に分析されている。そして第3部「身体・情動・デジタルメディア」では、メディアを利用する側に着目し、その身体性や権力の問題に着目しようとしている。


 文字通りの豪華メンバーによって執筆されていて、どの章も非常に興味深いが、しいて評者の個人的な好みから選びとるなら、やはり編者の伊藤氏が書かれた最終章「オーディエンス概念からの離陸」が興味深い。


 端的に述べるならば、そこで問われているのは、複合的なメディア利用状況の中で、もはや「テレビの視聴者」だけではなくなった、我々は一体何と名指されるべきなのか、という点である。


 先にも紹介したカルチュラル・スタディーズにおいては、それまでのマスコミ研究における「受け手」という概念を批判し、より広範な文化的・社会的文脈におかれた存在として捉えなおす「オーディエンス」という概念を設定してきた。


 だが、このカタカナ用語が適切な日本語訳も与えられないままに、メディアの状況は驚異的な変化を遂げてきた。今明らかなのは、それを利用する我々を呼び表すのに、少なくともこの「オーディエンス」という用語が、ふさわしいものではないということぐらいであろう(スマートフォンのオーディエンスという言い方はしないだろう)。


 この点について伊藤氏は、主としてタルドの模倣論に依拠しながら、さらにアーリの移動論などにも触れつつ、果敢に挑もうとしておられる。容易には結論の出ない探求だろうが、まさに今日のメディア研究における最重要課題の一つといえるだろう。


 あるいは本書全体を通しての感想として、こうした野心的な理論化の試みの著作を読んでいると、どうしてもそれと呼応した、実証的で経験的な調査の結果も読みたくなる。新たな理論化が進展するならば、それと呼応して、新たな調査も進展させ、それらの往復運動のもとに、メディア状況を捉えていくことが必要となろう。


 だがむしろこの感想は、本書の執筆者に向けられたものというよりも、それに大きな刺激を受けた評者自身の今後の課題とすべきものかもしれない。


 この刺激的な論集を、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。




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2014年04月19日

『ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会』松田美佐・土橋臣吾・辻泉【編】(東京大学出版会)

ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「モバイル社会はどのように成熟していくのか」

 日本社会でケータイの本格的な普及が進んだのは1990年代中盤以降のことである。すでにそれから20年近くがたとうとしており、今では大学生たちも、ほぼ100%がケータイを持ち、そのほとんどもスマートフォン(スマホ)となっている。

 こうした驚くべき技術的な進歩の一方で、その利用者である我々、あるいはこの社会はどのような変化を遂げてきたのだろうか。それは果たして、この新しいメディアを十二分に使いこなした成熟した社会といえるのだろうか。


 本書は、2001年と2011年に行われた全国調査の結果に基づいて、こうしたモバイルメディア利用と社会変化の実態について検討を行った論文集である。実証的な調査結果に基づき、手堅く経年変化をとらえた内容は貴重なものといえるだろう。


 成熟という点でいえば、序章で筆頭編者の松田美佐も述べているように、ケータイに対する評価がこの10年間でようやく落ち着いたものとなってきたことが指摘できよう。


 「携帯電話の普及によって犯罪は増加した」「携帯電話の普及によって公共のマナーが悪くなった」といった項目について、「そう思う」「まあそう思う」を合わせるとかなり高い割合の回答が寄せられていたのが、2011年では10%程度の減少が見られた。


 だが「災害が起こったとき、携帯電話は役立つ」という項目についても、2回目の調査が行われたのが東日本大震災後であったこともあってか、大きな減少が目立っていた。つまり普及からしばらくの間寄せられていた、(肯定/否定の両面における)極端な期待は、まさに相対化されてきたといえる。


 しかしながらこうした評価面での「落ち着き」の一方で、この新しいメディアの利用とともに社会の成熟が増したのかといわれれば、やや心もとないところもあるようだ。


 例えば評者が記した8章では、こうしたメディアの普及とともに、コミュニケーションのチャンスは拡大し、特に友人数の増加など、パーソナルネットワークの変化と強く関連してきたことが示唆される一方で、それが互酬性の規範や一般的信頼といった社会関係資本の醸成とは必ずしも結びついていないことも伺えた(むしろ一般的信頼については低下の傾向すら伺えた)。


 さらに辻大介の記した3章においては、PCを中心とするインターネット利用が市民的な参与行動と関連する一方で、ケータイを中心とするインターネット利用においては、あまり関連せず、「民主主義デバイド」が拡大する危険性すら危惧されている。


 むろん、何をもって成熟した社会とするかという定義によっても話は異なってくるため、終章で土橋臣吾も指摘するように、我々の「社会に対する捉え方」そのものを相対化しながら、こうしたモバイルメディア込みの社会のありよう(モバイルな社会性=モバイルソーシャリティ)を考えていくことも今後は重要となってくるのだろう。


 その点でも貴重な成果といえる本書を、ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。


 また一点だけ、本書に参加したものとして追記しておくならば、今後におけるこうしたメディアの利用実態調査に関する困難についても触れておきたい。


 2001年の段階では、ケータイの普及率もまだ100%近くには達していなかったし、ケータイの利用とPCの利用とを明確に区分しやすかったのだが、今日では先ほども触れたように、スマホや各種のタブレットの普及なども進み、非常に複雑な状況にある。


 したがって2011年の段階ですら、こうした複雑なメディア利用状況を、質問紙で尋ねることには相当の困難が伴ったのだが、もし今後もこうした調査を継続しようと思うと、さらなる困難が待ち受けていることが予想される。


 この点は今後も課題とすべき点だろうが、そもそもこうした点が、困難な問題点として存在しているということ自体が記録として残され、語り継がれるべき知見であり、その点でも本書は、調査方法論上においても、貴重な成果といえるだろう。


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『友活はじめませんか?―30代からの友人作り』木村隆志(遊タイム出版)

友活はじめませんか?―30代からの友人作り →紀伊國屋ウェブストアで購入

「再帰化する友人関係」

 本書のタイトルに含まれている「トモカツ」という言葉。これは決して人の名前などではない。漢字をあてはまると「友活」、すなわち「友達活動」の略である。

 基となっているのが「婚活」という言葉であることは自明だろう。「婚活」が初めて世に出たのは2007年で、すでに世に広まった感があるが、その意味するところは、結婚するために自覚的になす活動や行動、というものであった。


 つまり「トモカツ」という言葉が意味しているのは、友人関係もまたあえてするもの、すなわちそれをするための努力を、自覚的になすべきものになりつつあるということである。あえて、自覚的になすべき友人関係とは、いうなれば「再帰化する友人関係」ということであろう。


 こうした物言いは、特にある世代から上の人々にとっては奇異なものに映ることだろう。友人関係にせよ、結婚にせよ、普通に人生を送っていれば、おのずとできるはずのものではなかったかと。


 だが、これまで「普通の人生」と思われてきたもの、そしてそれを成り立たせていた「普通の社会」と思われていたものは、大きく変わりつつあるのだ。社会の先行きや人々の日常生活すらも、不透明感が増しつつある。それは流動化の進展に伴って、自由な選択の幅が大きく広がっているからであろう。


 決められたコースに従い「普通の人生」を送っていれば、当たり前のようにできていたことは、もはや当たり前ではなくなっている。つまり、今まで当たり前であったことは、そもそもそれを「するのか/しないか」という自覚的な判断を伴うものになりつつある。その典型が結婚であり、友人関係というわけだ。


 このように本書は、その成立の背景を社会学的に読み解くだけでも楽しいが、やはりその内容も興味深い。社会学的な背景を意識しながら、列挙された「友人の作り方」のハウツーを眺めているといろいろと考えずにはいられなくなってくる。


 ありていにいえば、やはりある世代以上のものからすれば、その内容の「当たり前にすぎる当たり前さ」には拍子抜けするのだろうと思う。というのも、友人のメンテナンスの仕方、SNSの利用法(コメントの書き方の詳細なアドバイスなど)、あるいは「友人との主なトークテーマ一覧」など、人から教えられるまでもなく、おのずと実践してきたような事柄が本書では列挙されているからだ。


 だが、やはりこうした事態を「若者たちのコミュニケーションスキルの低下」「ハウツーがなければ何もできない世代」などと紋切り型の批判の対象としてはいけないのだろう。


 先にも記したとおり、こうした「あたりまえにすぎる」ハウツーが列挙されるようになったのは、それが「教えてもらえなければできなくなった」ということ以上に、「あたりまえだったことが自覚的にやらざるを得なくなった」社会の変化を表しているのであり、加えて言えば、本書はいわゆる若者向けではなく、主として、表紙にもあるように「アラサー&アラフォー」の30~40代向けのものなのである。


 この点で、一風変わった視点から友人関係を自覚的に見つめ直す機会を与えてくれる著作としても、読者の年齢を問わず、本書を興味深く読んでみることをお勧めしたい。


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