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2014年01月31日

『雑誌の人格』能町みね子(文化出版局)

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「雑誌を元にした人格類型論」

 とにかく楽しい一冊である。

 『装苑』の人気連載が書籍化されたものだが、まえがきにもある通り、その内容は、女性向けの雑誌を中心としながら、その読者像を、著者の「独断と偏見で想像」したものである。雑誌については、著者が面白いと思ったものを選定し、一定量バックナンバーにも目を通して、想像される読者像(雑誌の人格)を「(雑誌名)さん」と呼び表したうえで、その「年齢、容姿、家族構成やら趣味まで勝手に考えて、一人のあるいは複数の人格として作りあげ」ている(まえがきより)。


カラフルなイラストもふんだんに描かれているので、眺めているだけでも楽しいが、その画力とキャッチフレーズ、的確な分析に基づいた文章が相まって、「あるある」と感じながら読むことのできる、説得力のある内容といえるだろう。


 個人的に気になるのは、女性向けに比べて、男性向け雑誌にやや辛口なコメントが目立つところだろうか。「スパ!さん」は「男性ホルモンと社会性の間でバランスを取りながら暮らす、独身サラリーマン」であり、「メンズノンノさん」は「上京したてのダサい18歳の後輩と、その前に颯爽と現れる大学デビュー後の先輩との関係性」と名付けられている。


もっともこれは、著者の考えというよりも、雑誌が表すような華やかな消費文化に、未だ十分に適応できていない、男性たちに問題があるのかもしれない。よって、むしろ女性向け雑誌では、楽しそうなライフスタイルが伺えるキャッチコピーが多く見られるのが対照的である。


 また私見に基づくならば、雑誌の人格には大きく2つの種類があるようにも思われる。一つは、個別細分化した差異化志向で少数派的な雑誌、もう一つは、同調志向の多数派で共通文化=最大公約数的な雑誌である。


 女性向けでいえば、前者は例えば、「小悪魔ageha」「KERA」などが、後者は「Seventeen」や「Sweet」「non-no」などが該当するだろうか。


 そして、当然のことながら、前者の人格のほうが、よりキャラが立っているように感じられたが、後者についても、多数派志向の人格であったり、これから細分化していく前の思春期の人格などが説得的に描かれていたのは評価に値しよう。


 実は、評者は本務校の授業で、こうした雑誌文化の研究を例年行っており、こうした読者像のプロファイリング作業は、学生たちへの主要な課題の一つとなってきた(本書の存在もその受講者の一人が教えてくれたものである)。


 この課題に、学生たちは毎年悩まされることになるのだが、本書は、こうした雑誌文化研究にも示唆深い参考書となろう。


 だがその一方で、こうした学生たちの悩みであり、雑誌人格類型論の困難もまた本書には示されているように思われる。


 というのも、掲載誌が『装苑』だったこともあるが、本書が取り上げている雑誌は、若者向けというよりも、やや年齢層が上のものが目立っている。そして、そのことが示すように、今後の世代に対しては、その購読率の低下もあって、雑誌が代表的な差異化のシンボルとしては機能しなくなる可能性があるからである。


 実際に、今日の若者たちに話を聞いていると、「どの雑誌を読んでいるか」ではなく、「(そもそも)雑誌を読んでいるということ」によって差異化が果たされることすらあるようだ。


 だが、そうした動向は決して、本書の価値を下げるものでは決してない。雑誌がその姿を消し始めているのだとしても、今後若者たちが皆同じようにtwitterとfacebookだけを使うというような状況にはおそらくならないだろう。


現在は過渡期であり、また新たなメディア利用の人格類型論が必要になる時代が来るはずであり、本書はそのための貴重な資料としても役立つ日が来るはずである。


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『JR崩壊―なぜ連続事故は起こったのか?』梅原淳(角川書店)

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「長期スパンで考えるべき重要な社会問題」

かつて山本七平は、この国の行く末に大きな影響を及ぼすような重要な選択が、しばしばその場の雰囲気(=空気)に流されて決められてきたことを指摘した(『空気の研究』)。

 思い返せば、国鉄民営化当時も、そうした「空気」が充満していたことを、子ども心に覚えている。特によく言われていたのは、国鉄職員の勤務態度の悪さであり、それが民営化によって競争原理を働かせることで、改善されるに違いないといった「空気」が充満していていたように思う。


 もちろん、一般的な利用者にとっては、そうした身近でわかりやすい話題も重要ではあるが、それ以上に、生活インフラとしての鉄道の存在、分割することの是非、とりわけ厳しい経営環境が見込まれるいわゆる三島会社(北海道、四国、九州)の行方など、他に問うべき視点はいくらでもあったはずなのに、それが十分に掘り下げられていた記憶はない。


 こうした「空気」の支配は、近年でいえば郵政民営化やゆとり教育からの転換、そして原発の再稼働、あるいは過去に遡れば、太平洋戦争の開戦や軍艦大和の特攻作戦など、例を挙げればきりがない。


 こうした点に鑑みて、本書をネーミングするならば、「30年前に欲しかった一冊」というべきだろう。


 すでにニュースでも知られる通り、JR北海道においては、特急列車の火災、脱線事故など、重大なトラブルが相次いでおり、2014年1月現在でも、特急列車の一部が運休または減速運転を余儀なくされている。


 昨夏に稚内市を訪れた際にも、特急列車の運休を知らせるために、「札幌へお急ぎの方は高速バスをご利用ください」という掲示が駅に出されていたのを見て、非常に驚いた。


 そして著者が言うように、こうした問題の根幹は、実は「1987(昭和62)年4月に断行された国鉄の分割民営化にさかのぼって」考えるべき問題点であり、かつそれは「JR北海道固有のものではなく、JR各社ひいてはすべての鉄道事業者にも当てはまるものではないか」という。


 詳しい内容は本書をお読みいただきたいが、もともとJR北海道は極めて厳しい経営環境に陥ることは目に見えていたはずであり、さらに今後北海道新幹線が開業することになれば、ますます負担が重くなることは明白となる。
その上で、現在一部では、もはや「地方に鉄道は必要はない」といった極論から、「JR東日本が救済合併すべき」といった議論が、沸き起こりつつあるようだが、まさにこうした選択こそ、一時の「空気」に流されることなく、数十年後、百年後の影響を視野に入れて、慎重になすべき問題といえるだろう。


 そして繰り返せば、これはJR北海道だけではなく、強硬にリニア新幹線の建設を推し進めようとする他の会社にとっても、他人事ではない問題のはずであり、あるいは鉄道だけでなく、日本社会全体にも通ずる重要な問題点のはずである。


 よって、できるだけ多くの方に、「他人事ではなく自分のこととして」そして「自分だけではなく子や孫たちの問題として」お読みいただきたい一冊である。


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『我妻さんは俺のヨメ』原作:蔵石ユウ/漫画:西木田景志(講談社)

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「再帰的な自己形成という新たな成長物語」

 本作品は、講談社の『マガジンSPECIAL』で2011年から連載が開始されたのち、現在は『週刊少年マガジン』で連載中の少年マンガである。

 主人公の青山等は、バレー部でも補欠のさえない非モテ男子高校生だが、なぜか10年後の未来では、学校一の美少女にして全校生徒あこがれの的、我妻亜衣と結婚していて、時々その未来へとタイムスリップしながら、日常生活を送るといった設定になっている。


 もちろん、なぜ非モテの主人公が、学校一の美少女と結婚できるのかといった点については、今のところ納得のいく説明はなされていないし、なぜタイムスリップできるのかも謎である。


 さらに、ちょっとしたきっかけで未来が変わった際にも、我妻亜衣以外に何人か登場する、美少女の誰かが結局のところ結婚相手に収まることになっており、本作品を、少年の都合のいい妄想を描いた作品だと、言い切ってしまうことはできるだろう。


 あるいは、ヒロインは同級生ではあるがしっかりものなのでお姉さんキャラであり、(主人公が想いを寄せはしないが)美形の妹や、他にもハーフの美少女、腐女子の隠れ美少女など、王道を行く萌えキャラがちりばめられているので、それだけで少年たちの関心を引き寄せるには十分であるといえるかもしれない(つまり、同級生との対等な関係性の恋愛を回避している点で、結局のところ恋愛に向かう少年のメンタルの軟弱さを露呈した作品だと言ってしまうこともできなくはない)。


 だが、あえていうならば、本作品は、それだけで済ませてしまうには惜しい魅力も兼ね備えているように思う。


 それは、ごく近未来を想定しながら、主人公が少しづつ自分の姿を変えていこうとする姿勢であり、はるか先の未来を見据えながら、壮大な夢をかなえていこうとするこれまでの少年マンガとは、明らかに一線を画しているように思われる。


 そして本作品のほうが、今日の社会にふさわしい、新たな成長物語を提供しているのではないだろうか。


 この点は、例えばドラえもんと対比するとわかりやすいかもしれない。ドラえもんでは、はるか先の未来からやってきて、のび太がジャイ子と結婚する予定であったのを、しずかと結婚するように書き換える。ちなみにドラえもんの作中では、しずかがのび太を結婚相手に選ぶ理由は明確に描かれていて、ドジでどうしようもないのび太を見守るために結婚するのだと、しずかが説明するシーンがある。そして何よりも、ドラえもんという存在がいることが大きな特徴だといえるだろう。


 一方で本作では、準拠点ははるか先ではなく、10年先とごくごく近未来なのがいい。というのも、それは少し想像力を働かせれば、現在の自分にも見通せなくはない未来だからである。そして、ドラえもんが登場しない代わりに、すべて独力で今の自分を変えながら、未来を変えていかなければならないし、その分だけ、未来は不確定で、しばしばその姿を変えていくことになるが、主人公は決してあきらめることなく、周りの人の未来をも、できるだけ良い方向に向かうように努力し続けるのである。


 今日のように、流動性の高まった先行きの不確かな社会においては、かつてのような確固たるバラ色の未来が保証された成長物語ではなく、むしろ本作のような、常に可変的な自己を再帰的に形成していく成長物語こそが求められているのではないだろうか。そして、この点においてこそ、本作を評価しておきたいと思う。


 他にも本作品には、興味をひかれる描写がいくつもあった。特に印象に残っているのは、クラスでも評判のイケメン君が、実は内面では空虚さを抱えていて、むしろ非モテのオタクたちこそ充実した日常生活を送っているのではないかと羨んでいるシーンであり、これは非常に今日的で、(評者が長らく非モテ人生を歩んできたためかもしれないが)説得力があった。


 たかが少年マンガと思わず、興味のある方にはぜひお読みいただきたい一作である。


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『「親活」の非ススメ―“親というキャリア”の危うさ』児美川孝一郎(徳間書店)

「親活」の非ススメ―“親というキャリア”の危うさ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「親になるのが困難な時代の到来」

 成人式が終わり、センター試験も過ぎ、いよいよ大学入試本番に突入すると、まさに本書が扱っているようなテーマを、考えさせられる季節が今年も来たなと実感させられる。

 現在の勤務先が大学であるということもさることながら、高校3年までを過ごし、現在も居住する実家がちょうど大学のそばにあるため、その試験日当日の様子の移り変わりをこの目で見てきた。


 一番大きく変化したのは、送り迎えをする親の姿だ。かつてならば(少なくとも評者の頃はまだ)、大学受験に親がついてくることはほとんどなかった。それが今では、終了間際の大学の門の前を、大挙して押し寄せた親たちが埋め尽くしている状況である。多くの大学では、付き添いの親のための待合室を設置するのが当たり前ともなった。


 「大学生は、もはや子どもではなく半分は大人なのだから、受験に親がついてくるようでは、これからのキャンパスライフはどうなるのか」と勝手な心配ばかりしてしまうのだが、最近では、卒業後に向けた就職活動にも、親が関与するのが当たり前になりつつあり、大学によっては、親向けに就職活動に向けたガイダンスを開いていると聞く。


 だが、ここまで来ると、私の感覚ではさすがに行きすぎなのではないかとも思う。20歳を過ぎて、就職して社会人となったら立派な大人であり、もはや親が過保護に関与する余地などないのではないかとも思う。


 そして前置きが長くなったが、これと同じ問題意識を持ちつつ、より冷静な筆致で、親たちの立場にも寄り添いながら、こうした過剰な関与を控えるように訴えているのが本書『「親活」の非ススメ―“親というキャリア”の危うさ』である。


 本書の優れているところは、こうした状況を「過保護な親が増えたから」「未成熟な親が増えたから」というような、安直な心理学的な説明をせずに、冷静に社会的背景から分析しているところである。 


 評者なりに要約すれば、その主張の根拠は、今日は極めて社会の流動性が高く、そもそも若者たちがどうすれば大人になれるのかそのゴールが不明確化しており(良い会社に入れたからと言って人生の幸せが保証されるわけではもはやない)、それとともに、親という役割も不明確化せざるを得ないためだという。


 つまり、いったいどこまで関与するのが親なのかという役割が不明確化している以上、一方的に批判するのもフェアではないということになり、この分析は妥当なものといえるだろう。


 だがその一方で、社会の流動性がこれからますます高まり、若者たちが生き残るのにますますタフさが求められるのだとしたら、やはり親の過剰な関与は、どう考えてもプラスの影響をもたらすとは思われないという。


 こうした点について、「私立中学受験と就職活動は別物」「子どもの代わりに親が就活してしまうのは、アウト」といったわかりやすいキャッチフレーズで訴えつつ、最後には、流動性の高まる社会だからこそ、親たちにも、自分の人生を見つめ直し、歩み直す覚悟が求められているのだと(そしてそのことに気づくならば、親たちは子どもに過剰に関与などしている余地などないはずだと)、説いている。


 著者は、過去に法政大学キャリアデザイン学部長も務めた、まさに専門家であり、それだけにその内容は平易でありながら説得力に富む。


 今すでに大学生であったり、あるいはこれから大学生になる子どもを抱えた親御さんたちに、そして当の大学生をはじめとする若者たち、さらにこうした現象に関心のある多くの方々にお勧めしたい一冊といえる。


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