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2013年12月31日

『アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた―シャイな息子と泣き虫ママのびっくり異文化体験記』小国綾子(径書房)

アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた―シャイな息子と泣き虫ママのびっくり異文化体験記 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「これからの時代の、「子育て/親育ち」を少年野球に学ぶ!」

 いきなり私ごとで恐縮だが、また以前の私をご存知の方ならば大いに驚かれることだろうが、今年度初めから、地元の少年野球チームでコーチをやっている。毎週末は、練習の手伝いや試合の付き添いに出かけている。
およそキャッチボールぐらいしか野球経験のない、文化系街道まっしぐらの私だったが、息子の入団とともに、人出不足のチームのお手伝いをしているうちに、気が付いたらそうなっていた。だがこれが実に楽しく、充実感があるのだ。


 実際に体験してみて思うのは、少年野球は勝ち負けを競う「スポーツ」でもありながら、むしろ「教育」、いやそれが堅苦しい言葉ならば、「子育て」であり、それと同時に「親育ち」ということだ。


 プロや大学生などと比べてしまえば、技術や迫力の面では大幅に劣ってしまう子どもたちの試合だが、これが見ているうちに、ついつい前のめりになって、声を張り上げて応援してしまうのだ。


 ただの親バカに過ぎないと言われればそれまでかもしれない。だが、人様の子どもも含めて、これほどに「成長」という実感を持てる機会もそうないと思われる。それは、子どもの、だけでなく、親としての、もである。


 すなわち、入ったばかりのころはキャッチボールすらままならなかった子が、いつの間にか守備でファインプレーを見せるようになることへの感動もさることながら、自分の子どもを気にするので精いっぱいだった親が、他の子の成長を見守ったり、チームとしての団結に喜びを感じられるになっていくのである(これはまさに私自身のことである)。

 さて、前置きが長くなったが、本書『アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた』は、タロー少年が父親の海外赴任にともなって引っ越すとともに、よく馴染んだ日本の少年野球チームを離れ、現地のチームに入り、そして苦労していく様子を、母親の視線から書き記したものである。
タロー少年が我が家の息子とほぼ同じ年ということもあって、まるで他人事とも思えないなと引きこまれるうちに、あっという間に読んでしまった。元新聞記者という筆者の臨場感あふれるタッチも本書の特徴である。

 日本の野球と、アメリカのベースボールというものが、同じスポーツとは思えないほどに違うものであるらしいということは、素人ながらにも、WBCであったり衛星放送での大リーグ中継などから感じ取ってはいた。


 だが本書が教えてくれるのは、スポーツのゲームとしてだけでなく、「子育て/親育ち」の面においても、この2つがまるで違うということなのだ。


 よく言われるのは、日本の野球は集団主義的だということだ。プレーでも「チームのため」が優先されるし、一つのチームに所属すると、ふつうはずっとそこでプレーすることになる。


 それと対照的に、アメリカのベースボールは少年野球においても、やはり個人主義的なようだ。ずっと同じチームに所属するどころか、むしろ自分の能力に応じて、年に一回ぐらいあるトライアウトを受けながら、所属チームを変えていくことが普通だという。またシーズンオフには、高価な料金を支払って、プロのコーチからプライベートレッスンを受けたりもするのだという。またそのように、個人主義と能力主義の徹底した社会のため、プレーにおいては、結果もさることながら、果敢に「チャレンジ」することが称賛され、たとえば、凡打に終わっても、力強く速球を振りぬこうとしたならば、「ナイス、チャレンジ!」と声をかけられるのだという。


 他にもいくつもの違いが取り上げられていて実に興味深いのだが、これ以上はネタばれにもなるので控えておくこととしよう。


 さて、評者が本書に対して特に好感を覚えたのは、往々にしてこうした「日米比較もの」の著作が、アメリカ礼賛の日本批判になりがちなのに対して、決して、そのように二者択一的になっていないということだ。


 実際に、タロー少年はその後、数年して帰国することになるのだが、アメリカで得た経験を糧として、現在では日本の野球を楽しんでいるという。


 いわば、「子育て/親育ち」としてのベースボールと野球の比較が、二者択一ではなく、どちらについてもメリット/デメリットを取り上げながら、冷静に論じられているのだ。


 まさにこれからの時代に求められているのは、ライフスタイルに対するこうした態度の在り方だろう。社会の流動性が増し、多様性が高まって競争が激しくなっていくこれからの時代を生き抜いていくためには、冷静に状況を分析したうえで、適切なライフスタイルを自ら選びとっていくことが重要になるはずである。タロー少年とその両親は、野球を通して、そのスキルを身につけていったということになるだろう。


 また日本の少年野球チームにおいても、寡聞にして評者の知る限りでも、若いお父さんたちが指導者を務めている場合などは、こうしたアメリカ型のベースボールのよさと、日本の野球のよさをミックスさせたような、子どもの自主性を重んじながらも、うまくチーム全体を運営していくような、新しいケースが見られるようだ。まさに「和洋折衷」のよさとでもいったらよいだろうか。


 このように本書は、単に野球のことを取り上げただけの著作ではなく、むしろこれからの時代の「子育て/親育ち」に関するライフスタイルのヒントに満ち溢れた一冊だということができる。流動性の高まるこれからの社会を考えるという点では、同じく今月の書評で取り上げた『格付けしあう女たち』(白河桃子)が、同質性の高い、閉じた世界内でのトラブルを、いかに描いていたかということと比較しながら読んでも面白いだろう。


 野球に関心のある方だけでなく、「子育て/親育ち」に関心のある方も含め、多くの方にお読みいただきたい一冊である。




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2013年12月29日

『ほつれゆく文化―グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ』マイク・フェザーストン著/西山哲郎、時安邦治訳(法政大学出版局)

ほつれゆく文化―グローバリゼーション、ポストモダニズム、アイデンティティ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「変化し続ける、プロセスとして文化をとらえること」

 本書は、イギリスの社会学者マイク・フェザーストンが、1980年代末以降、各所で記してきた現代文化に関する論考をまとめたものである。

 本訳書の出版当時、フェザーストーンはノッティンガム・トレント大学の研究教授であるとともに、『Theory, Culture & Society』誌の編集長を務めている。冒頭の「『ほつれゆく文化』の刊行によせて」で吉見俊哉氏も述べているように、本書はフェザーストーンの学識の広さが表れた、視野の大きな文化社会学の理論書ということができる。


 その全体を通して、本書が一貫して問うているのは、グローバリゼーションとローカリゼーションが進み、激しく変動する現代において、文化を研究することの社会学的な意義である。


 たしかに、グローバリゼーションの進展は、一見するとアメリカ一極集中型の政治的なパワーゲーム、あるいはマネーゲームであるかのように感じられなくもない。こうした状況下では、イギリスで新自由主義的な政策を推し進めたサッチャー首相が、かつて述べていた「もはや“社会”などというものは存在しない」という言葉にも、それなりのリアリティを感じてしまいかねない。


 だがフェザーストーンによれば、こうした見方はあまりにも一面的なものだという。


 そもそもグローバリゼーションは、単に政治、経済的なパワーゲーム、マネーゲームだけではなく、もっと多様なプロセスからなるものだからである。具体的には、仮に経済的な動向が、既存の国民国家の枠を超えてグローバルな規模に拡大していくことに先んじていたとしても、やがて人々のアイデンティティの遡及対象となる、新たな社会や文化のあり方が、問われざるをえなくなってこよう。またそれは、既存の国民国家内に限定されてきた社会や文化の概念とは違って、流動性の高い、変化し続けるようなものとならざるを得ないのだともいう。


 そしてこの点においてこそ、フェザーストーンは、文化を動的なプロセスとして、しかしながら一つの自律した領域として捉えていく意義を強く主張している。


 また、別な観点からすれば、グローバリゼーションが決してアメリカ一極集中的に進むものではなく、むしろ日本や中国に代表されるような複数の極に基づいて進むものという主張も注目に値しよう。いわばこれまでの社会像(≒国民国家)が、そのままに拡大して単一の国際社会となるのではなく、むしろ複数の極がそのままに存在し、それらがせめぎ合い続けるそのプロセスの中で、まさにアイデンティティや文化が、重要な問題として浮上してくるはずだというのである。


 フェザーストーンによれば、こうした状況下において、(文化を研究する)社会学に求められているのは、「グローバルな社会関係や創発するグローバル社会といった新しい指示対象を考慮するように、基礎概念を再考する」(日本語版序文より)ことだという。


 こうした主張は、『社会を超える社会学』などの著作において、「移動(モビリティ)」を中心概念に据えながら、新たな時代の社会学を構想しようとする、同じくイギリスの社会学者ジョン・アーリなどの研究とも大いに関連するものである(実際に、フェザーストーンとアーリは、『自動車と移動の社会学』などの共著がある)。


 このように、アジアにもその目を向けながら、グローバルな規模で現代文化を社会学的にとらえようとした著作は、残念ながら日本社会においては多くない。どちらかといえば、等身大のリアリティの記述にいそしむような成果が、多くを占めていると言わざるを得ないのが現状だろう。


 だがその一方で、フェザーストーンの著作にも、一つだけ不満が残る点があるとすれば、記述が抽象的で、わかりやすい具体例を欠く傾向があるという点である。


 評者は、本書を今年度の大学院ゼミの購読テキストに指定して読み進めてきたのだが、受講生たちとともに行ってきた作業の中心は、個々の記述に、その都度あてはまりの良い具体例を探し出していくことであった。そしてその際に、現代の日本社会における文化の事例が、驚くほどに数多く、それも実に適合的であることを学んできた。


 よって、フェザーストーンの著作に、抽象的で具体例を欠くという批判を向けるのは、そもそもが「後出しジャンケンのないものねだり」のようなもので不適切なのかもしれない。むしろ、80年代末から90年代にかけて書かれた論考の中で、すでに今日的な文化状況を見通していたその慧眼をこそ、評価すべきなのだろう。


 そして、本書の様な理論的研究を、実際の日本社会の事例に当てはめつつ、さらに新たな理論的な展開を進めていくことが、我々のような後進の研究者の努めなのだと思わされた次第である。


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『1995年』速水健朗(ちくま新書)

1995年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「日本の現代史を語る上で、新たな必読の一冊」

 社会(科)学を学ぶ上で、現代史の知識は必須である。だが、大学で講義していても、年々その前提知識を持たない学生と接することが増えてきた。

 教えているこちらも歳を重ねているし、何よりも歴史は動いていくので、ある程度は当然と言えば当然のことなのかもしれない。だが10年前に教鞭をとり始めたころは、平成生まれの学生たちが、国鉄解体や昭和天皇崩御を知らないことに驚きを覚えていたのだが、最近では、オウム真理教事件や阪神・淡路大震災を知らない学生たちの出現に改めて驚かされるようになってきた。


 それもそのはずで、本書のタイトルでもあり、これらの事件が起こった1995年に生まれた若者たちが、いよいよ大学に入学する段階に入ってきたのである。


 本書『1995年』は、独自の視点からわかりやすい内容で現代の事象を切り取ることには定評のある、速水健朗氏の手によるものであり、そんな今どきの学生たちにこそ薦めたい、資料的価値の高い一冊といえる。


 『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』といった過去の著作のような、独自の視点から事例を掘り下げる手法とは違って、むしろ本書では、1995年の日本社会に起こった出来事をできるだけ網羅的に、それも淡々とした筆致で書き記しているのが特徴的である。具体的には第一章の「政治」に始まり、「経済」「国際情勢」「テクノロジー」「消費文化」「事件・メディア」といった章立てからなる。


 またこうして網羅的であるからこそ、むしろこの年が日本社会のあらゆる面における転換点であったことが改めて感じられる内容ともなっている。


 だが、一般的な『ニュース年鑑』とどことなく違いを感じるのは、やはり本書のどこか背後に、筆者自身のリアリティが垣間見えるからなのだろう。あとがきでも触れているように、速水氏自身は当時大学4年生で、まさにライフステージの転換点に立っていた。


 加えて、冒頭で記したような、80年代後半以降の徐々に変化しつつあった日本社会を代表する出来事の数々をリアルタイムに経験していたからこそ、1995年という年が転換点ではあるものの、そこで全てが突然のうちに変わっていったというよりも、むしろ「それ以前に起こっていた日本社会の変化を強く認識する機会」(P5)として感じられたのだという。


 この点は、速水氏よりも3年遅れて生まれた評者においても、ほぼ同じリアリティを共有するし、さらにいえば、1976年に生まれた評者の世代は、ちょうど高校卒業から大学入学へとさしかかる時期に1995年を迎えており、加えて、小学校の卒業から中学校への入学へとさしかかる時期に、昭和から平成への移り変わりを経験してきた。それゆえに、自らのライフステージと重なり合いながら、時代が変遷していくリアリティについては、非常に強い実感がある。


 本書は、速水氏や評者のような70年代生まれ世代が、後発世代に対して、日本社会の現代史を語り継いでいく上で、必読の一冊となっていくことだろう。


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『格付けしあう女たち―「女子カースト」の実態』白河桃子(ポプラ新書)

格付けしあう女たち―「女子カースト」の実態 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「女子カースト」に対する社会学的分析と処方箋」

 見つけた途端に、すぐにでも講義で紹介したくなる本というのがある。加えて、紹介した途端に、学生からも非常にいい反応が返ってくる本というのもある。本書はまさにそうした著作である。平易な書き方をしながら、その一方で、今日の社会における何がしかの本質的な点を指摘しているような著作というのは、なかなかお目にかかれないものである。

 さて、本書『格付けしあう女たち』は、家族社会学者の山田昌弘との共著によって、「婚活」というキーワードを世に広めたジャーナリストの白河桃子氏が、今日における女性たちのコミュニケーションの実態を社会学的に分析したものである。


 サブタイトルにおいて「女子カースト」と呼び表しているように、今日の女性たちのコミュニケーションにおいては、影に日向に激しい差異化競争が繰り広げられ、その結果を元にした厳しい「格付け」がなされていくのだという。冒頭でも取り上げられている「ママ友」の事例などはその典型で、「友」という文字とは裏腹に、場合によっては競い合う「敵」にすらなりうるのだといい、他にも「恋愛・婚活カースト」「女子大生カースト」「オフィスカースト」といった事例が取り上げられている。


 本書が優れているのは、こうしたコミュニケーションが生まれる社会的背景について、的確でなおかつわかりやすい分析がなされていることだ。すなわち「「女子カースト」が生まれる四つの原因」(P34~)として挙げられているのは、「ヒマがある集団」「狭くてぬるい均質な集団」「逃れられない集団(会社、ママ友など)」「「悪の種」が集団に紛れ込んだ場合」だが、ここからは、いわゆる集団主義的で、他に逃げ場のない同質的な集団において(例えば、管理教育の徹底された学校などを想像するとよい)、いじめが起こるのと類似した構造を見出すことができるだろう。


 だが、本書がさらに注目に値するのは、こうした実態をただ批判するだけではなく、さらなる深い分析に基づいて、建設的な処方箋を提示していることである。


 すなわち本書によれば、いじめが起こるのと類似した構造である、逃げ場のない同質性の高い集団は根強く残存していくものの、その一方で「格付け」競争がますます激化していく背景には、社会全体の流動性の高まりとともに、むしろ人々の間での多様性が徐々に高まり始めていることが指摘できるという。


 いわば「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、同質性の高い集団においては、少しでも異質なものが紛れ込むと激しい反発が生じうる。つまり本書によれば、今日において「女子カースト」が非常に過激になっているのは、「多様性社会への過渡期」にさしかかりつつあるからだというのである。


 こうした「多様性社会」の到来を前に、選ぶべき道はおそらく二つありうるのだろう。一つには高い同質性に固執して激しいバックラッシュ的な反応を見せることであり、もう一つには、流れに棹さして、時代の変化への適応能力を高めていくことである。


 そして白河氏が進めるのは後者の選択肢である。「女子のカーストをサバイバルするための三つの技術」(P180 ~)において、提示されているのは「複数の足場を持つこと」「問題解決能力を持つこと―集団の居心地に敏感になる」「自分を肯定すること―自分を嫌いな人とは仕事できない」といった内容である。


 こうした処方箋は、すぐにでも問題を解決し救われたい女性たちにとっては、即効性のある特効薬とはならないものかもしれない。だがむしろ社会学的な処方箋は、「対症療法」というよりも「気長な根治」に向いたものである。


 「女子カースト」に悩む世の中の多くの女性たちに対して、その実態を冷静に分析し対処していくために、本書を強くお勧めしたい。


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