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2013年10月31日

『ブ活はじめます―すべての女に捧げる「気持ちいい!」ブス活動のススメ』安彦麻理絵(宝島社)

ブ活はじめます―すべての女に捧げる「気持ちいい!」ブス活動のススメ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「女性たちがすべてをさらけ出す・・・それがブ活(ブス活動)」

「実はどんな女の中にも「ブス」はいる。
 世の中の、あらゆる女が、自分の中に「ブスを飼っている」のだ。」(P16)

 衝撃的だが、でもどことなく納得のいく指摘であろう。「ブス」が何であるか、簡潔に定義づけられはしないものの、「おおむねこういうものだろう」という指摘がつらつらと書かれた第一章「女とブス」から本書は始まる。そして、さらにこうも書かれている。

「女にとっての「ブス」にあたるものが、男には、ない。」(P19)

 これもまた、(評者は男ではあるものの)納得のいく指摘である。たぶん、それの裏返しで「美人」にあたる概念も男性には存在しないのだ。


 わかりやすいのは化粧だろう。それをする男性がまったくいないわけではない。だが女性が化粧によって、かなりの程度「美人」を装うことができるのに対し、男性たちにとってそれにあたるものはなかなかなさそうだ。


 それは、やや乱暴に図式化すれば、「素をさらけ出すこと」という要素が「男らしさ」には含まれているのに対して、どこか「装うもの」という要素が「女らしさ」には含まれているからなのかもしれない。


 そうした社会的に期待される「女らしさ」の装いを、開き直って脱ぎ去る行為こそ、本書の言う「ブス活動」に他ならないのである。


「なぜなら、多少の開き直りは、女を「楽」にしてくれるからだ。
 ずうっと、重荷のように背負ってきた何かが、歳を重ねるとともに気にならなくなったり、「憑き物が落ちた」かのような感覚を味わったり、今まで嫌いだった自分を受け入れてみよう、なんて思えたりするのは、すべて、開き直りがいい方向にいった例である。」(P21)

 そして、上記のようにこの「開き直り」を肯定したうえで、それは年配の「オバさん」だけに見られるものだけではなく、全ての女性に見られるもの、あるいは全ての女性が身につけたほうがよいものなのだと説く。


 だからこそ「あらゆる女が、自分の中に「ブスを飼っている」」ことになるのだ。


 本書では、そうした「ブス活動」の例として、ブスメシ、ブス友・ブス会、ブス本・ブス漫画、ブス育児・ブスママなどが取り上げられている。
  なかでも評者が、特に目を引いたのは、やはり「ブス友・ブス会」である。


「ブス会のキモ・・・それはいかにどこまで女同士で腹を割りあえるか」(P82)
「「ブス友」とは 「ブストーク」や「ブス遊び」を一緒に楽しめてお互いブスをさらけ出し合える友人のことである」(P83)

 具体的にどんな「腹の割りあい」や「さらけ出し合い」がなされるかは本書をお読みいただきたいが、「装い」を解かないままに集った「女子会」が見栄の張り合いに堕していくであろうことが想像されるのと比べて、こうした「ブス友」が繰り広げる「ブス会」は、一見、目をそむけたくなるほどの衝撃を持ち合わせながらも、でも抗いがたい楽しさや気持ちよさを持っているのがよくわかる。


 たしかに、ネーミングはともかくとしても、本当に女性が救われるのは「女子会」よりも、「ブス会」であり「ブ活」なのだろうと納得させられる内容である。


 なかなか、自分をさらけ出せずに悩んでいる女性たちに、そして女性たちの文化を学ぶべき男性たちに、広く読んでほしい一冊である。


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『n次創作観光―アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性』岡本健(NPO法人北海道冒険芸術出版)

n次創作観光―アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「新しいリアリティ、新しい観光の可能性」

 かつて、アメリカのダニエル・ブーアスティンは『幻影(イメジ)の時代』において、現代社会を批判的に捉えた「疑似イベント論」を展開した。その要点は、いうなればマスメディアが作り上げるイメージ(コピーされたもの)と、現実に存在するオリジナルとが混合し、時に逆転さえしてしまう事態を示したものであった。

 いくつもの事例が取り上げられる中で、われわれにわかりやすいものとして、「観光ガイド」に描かれたとおりの体験こそが、「もっとも現地らしい」体験のように感じられてしまうことなどが挙げられよう。観光客の期待するリアリティと、現地で暮らす人々のリアリティが大きくずれていることはよく見られることだし、後者が前者に合わせることで観光産業が成立するという側面もある。


 その一方で、今日の社会はさらにその先へと突き進んでもいるようだ。本書が取り上げている「アニメ聖地巡礼」は、まさにその典型例といえるだろう。

 宗教における「聖地巡礼」とは、唯一にして、まさに複製不可能な「聖地」だからこそ、人々が集い、巡礼が成立してきた。それと対比させるならば、「アニメ聖地巡礼」は、アニメという複製作品によって媒介された、どこにでもありそうな日常空間こそが「聖地」となり、そこに人々が集うところに面白さがある。


 本書のP45で取り上げられている埼玉県の鷲宮神社がそのはしりと言われているが、その後、郊外のニュータウンのような、まさに「入れ替え可能」な空間が、作品内容的にも「日常系」といわれるささやかな等身大の現実を描いた作品によって、「聖地」と化していく逆説的な動向が見られるのである。


 これを、「疑似イベント」ここに極まれり、と批判して見せることはたやすいだろう。だが、本書はむしろこうした現象に、「コンテンツツーリズム」の、さらにはこれからの時代の文化の可能性を見出そうとしている。


 宗教における「聖地巡礼」と対比させるならば、超越性の失効した成熟社会において、「あえて」日常的な取りに足らない空間に「聖地」としての意味を見出して、文化を盛り上げていこうとする動向は興味深いと言えるだろう。


 本書は、具体的な事例についても、多数の図表を用いながらわかりやすく解説しており、この点で「アニメ聖地巡礼」に関する格好の入門書となっている。


 また北海道大学大学院に提出された博士論文がもとになっているので、社会背景に関する分析もわかりやすくなされ、それが今日の社会においていかなる意味を持つのか、きちんと検討されているのも特徴的だ(しいていえば、理論的な検討がやや羅列的で、十分に事例とリンクしているかどうかという点に難がなくもないのだが、それは今後の課題というところだろう)。


 いずれにせよ本書は、新しい時代の現象を、新進気鋭の若手学者が果敢に分析しようとした著作として評価したいと思う。


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『さとり世代―盗んだバイクで走りださない若者たち―』原田曜平(角川書店)

さとり世代―盗んだバイクで走りださない若者たち― →紀伊國屋ウェブストアで購入

「何事にも、そこそこに入れ込んで、そこそこに満足する若者たち」

 さとり世代とは、今日の若者たちの特徴をうまく言い表したフレーズだと思う。もちろん「若者たち」といってもその内実は多様だし、ひと括りにすることに慎重な見方があるのは事実だ。だが相対的にみても、急激な社会変動を遂げてきたこの社会においては、まだまだ世代論は有効な分析視座だと思う。

 著者の原田氏は、「ゆとり世代」を読み替えた呼称として、「さとり世代」を定義しようとする。評者もこの見方には賛成だ。


 大学で教鞭をとってから10年目を迎えるが、巷での悪評とは違い、実際に接してみた印象として、評者はゆとり世代を肯定的に評価してきた。学力の面ではさほど変化はないが、それ以外の面では、明るくて自信に満ち溢れた学生が多くなった印象がある。


 もちろん、この自信の裏側にさしたる根拠のないところがこの世代の弱点でもあるのだが、それでも、世の中も、そしてこの社会の先行きも決して明るくない中で、さまざまなことに前向きに取り組む学生たちが出てきたことは評価していたし、その「開き直った」かのようなふるまいを、なんと呼び表したものかと思ってきた。


 原田氏は、人生経験の少ない若者が、実際に全てをさとることは当然ありえず、彼らは本当は「さとった風世代」(P230)なのだという。そして以下のように、彼らのふるまいを社会の変化に対する適応行動として分析する。


「・・・社会環境の大きな変化から自分の身を守るために、過剰に世の中に期待をして振り回されないために、ある種の処世術として、今の若者たちはあくまでクールに、客観的に、さとったような冷静沈着な態度をとるようになったのです。」(P232)

 たしかに「処世術=適応行動」とする解釈は妥当だろう。だからこそ、これもあとがきで述べられているように、むしろそこから学ぶべき点が多いのは、まだまだ十分に適応しきれていない大人のほうなのかもしれない。


 本書は原田氏を中心に、実際に大学生たちと繰り広げられた座談会の内容をそのまま書籍化したものである。その分、彼らのリアリティが、言葉遣いのままに感じられる著作であるところに特徴がある。


 その一方でないものねだりをすれば、こうしたリアリティをさらに掘り下げた、本格的で重厚な研究成果が読みたくもなるが、それは評者も含めた研究者に課せられた使命と捉えるべきなのだろう。


 いまどきの若者に関心がある大人たちだけでなく、当事者である若者たちにも、広く読んでほしい一冊である。


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