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2013年09月30日

『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について―リキッド・サーベイランスをめぐる7章』ジグムンド・バウマン+デイヴィッド・ライアン  著 /伊藤茂 訳(青土社)

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「「道徳的中立化」され、「液状化」した監視社会」

 本書は、『リキッドモダニティ』などの著作で知られ、現代社会に鋭い批判の視線を送り続ける社会学者ジグムンド・バウマンと、監視社会論の第一人者として知られるデイヴィッド・ライアンとの対談を収めたものである。

 原著は昨年2012年に出されているが、この刺激的な内容の対談が、これほど短期の間に翻訳され、日本語でも読めるようになったことをまずは素直に喜びたいと思う。それほどに、本書は今日の監視社会を考えていく上での必須の著作ともいえる内容になっており、さまざまに新しい概念を駆使しながら、刺激的な議論が展開されている。


 この二人が組み合わされていることからもわかるように、本書が捉えようとしているのは、かつてのように巨大で固定化された権力があって、誰の目にも明らかな監視が行われているような社会のことではない。


それと対比させるならば、本書が対象としているのは、「液状化」した監視社会であり、原著ではそれをメインタイトルにも冠して「リキッド・サーベイランス(Liquid Surveillance)」と呼び表している。そして日本ではまだ耳慣れないこの概念について、翻訳者は、これまた訳書のメインタイトルにあるように「私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界」と訳している。


 この点で、「リキッド・サーベイランス」は、言葉としては耳慣れないけれども、今日の日本社会を生きる我々にとって、すでに幅広く浸透した現象であることが理解されるだろう。


 それは卑近な例で言うならば、ソーシャルメディアを通してお互いの日常生活をのぞき見ているような状況がまさにあてはまるといえるだろう。それまでとは違った意味深なやり取りの増加に、彼氏が彼女の浮気を感じ取ったり、前日深夜まで飲み会だったという投稿から、大学教員が学生の欠席の原因が仮病であることを悟ったり…といったように、枚挙には暇がない。


 そしてそこには、巨大な権力が背後にあるわけではなく、あくまで「道徳的中立化」されて、目立った悪意もないままに、いうなれば「誰得(誰が得をしているのか)」かわからないような状況が広まっていることがうかがえる。


 本書では、こうした状況を、これまでのソリッド・モダニティにおけるパノプティコン的な監視と対比させて、「ポスト・パノプティコン的な世界」(P26)と呼び表している。そして、先のソーシャルメディアの事例もさることながら、その詳細について、デイヴィッド・ライアンは「はじめに」で以下のように記している。

 各組織によって積極的に集められた個人情報の多くが、携帯電話を利用し、モールでショッピングを行い、休暇で旅をし、もてなしを受け、ネットサーフィンを行う人々によっても活用されるようになっています。私たちは自分たちのコードを読み取り、郵便番号を繰り返し唱え、自分たちのIDを日常的に、自動的に、積極的に提示しているのです。・・・善かれ悪しかれ、今日の監視が主に行っているものが社会的振り分け(social sorting)だからです。(P26~27)

すなわち、「リキッド・サーベイランス」が行っているものが、「物理的暴力」というよりも「社会的な振り分け」だという指摘は傾聴に値するだろう。


それゆえにこそ、こうした状況下においては、もはや人間は、バーコードの埋め込まれた「ヒューマン・ハイパーリンク」(P22)に過ぎない存在となっており、ソーシャルメディアは、そうしたハイパーリンクを仕分けしていくようなもの、すなわち「社会的断片化」を推し進めていく原因であり、結果ともなりつつあるのだという。


本書は、対談が元になっているので、読みやすいことも特徴的だが、しかしながら扱っているテーマは、決して軽く読み流せるような内容ではない。ソーシャルメディアのほかにも、こうした問題点を表す事例がいくつも取り上げられている。


 まさに今日の社会における重要な社会問題を考える上で、多くの方にお読みいただきたい一冊といえるだろう。


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『腐女子実録24時―FJS24―』種十号(エンターブレイン)

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「「虚構の現実化」と「現実の虚構化」の合わせ技」

 本書は、いわゆる腐女子を対象とした、昨今流行の「あるある」本の一つでありながら、それらの多くがせいぜい一コママンガを交えた細切れのエピソード集であるのに対し、四コママンガにストーリー化されていて、それ自体一つの作品として楽しめるのが特徴となっている。

 虚構と現実の世界をないまぜにしながら楽しんでいる彼女たちの様子を、いわゆる「日常系」的なタッチで淡々と描いており、本書自体一つのマンガ作品として楽しみながら、腐女子の世界を理解することができるようになっている。


 腐女子の世界を描いたマンガ作品はすでに複数存在しており、それらを合わせて読むことでより深く理解することができるようになるだろうが、本書はそのハンディさと、しかしながら、コスプレイヤーに加え鉄子も取り上げると言ったように、さまざまなジャンルをカバーする内容面の広がりからして、初心者向け「腐女子入門」に適した一冊であるように思う。


 本書を読んで改めて感じたのが、女性のオタクにあたる「腐女子」と男性のオタクとの違いだ。この点を考える上では、宮台真司の言う「虚構の現実化」と「現実の虚構化」という概念が参考になる。


 そもそも男性を中心としてきたオタク文化の根幹をなしてきたのは、「虚構の現実化」だ。現実から逃避して虚構の世界へと飛び込んだ人々が、虚構の世界のリアリティを現実にも持ち込もうとすること。いわば、コスプレイヤーの世界などはまさにこれだと言えるだろう。アニメやゲーム中のお好みのキャラの衣装を身にまとい、そしてコスプレイヤーとしての名前を名乗りながら、現実空間でのイベントに集結することになる。


 一方で、女性のオタクには「現実の虚構化」の動きも少なからずみられる。ネタばれになるので詳細には触れないが、鉄道擬人化などはその好例といえるだろう。いわばそれは現実の対象を虚構へと読み替えていくような動きだが、自分のお気に入りの鉄道路線の開通日を、誕生日に見立ててお祝いのプリクラを取るエピソードなどが典型である。


 そもそもオタクに限らずとも、女性たちの文化には「現実の虚構化=現実の読み替え」の動向がこれまでにも存在してきた。それはどちらかといえば、オタクと対比されてきた新人類の文化の要素だが、ちょっと読みかえれば、今ココの東京が、パリやニューヨークにも感じられるような、あるいは、海外旅行に行かずとも、安近短の温泉旅行でも絶好のバカンスに感じられるような、そうしたふるまいである。


 いまやオタクといえば、男性以上に腐女子たちのほうが活気づいているように感じられるのは、こうした「虚構の現実化」と「現実の虚構化」を合わせ技で楽しむスキルを身につけているところにもあるのだろう。


 この点で本書は、大いに楽しみ笑い転げながら、腐女子の世界を深く理解させてくれる一冊である。関心をお持ちの方に広くお勧めしたい。


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『遊びの社会学』井上俊(世界思想社)

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「ゲーミフィケーションを考えるために、読み返したくなる名著」

 何度となく読み返したくなる名著というものがある。この社会の何がしか、本質的で重要な点を言い表しているような著作、評者にとっては、この『遊びの社会学』がそうした一冊である。おそらくは今後も古典として読み継がれていくことになるのだろう。

 本書は、社会学者の井上俊が文化という現象を分析したものであり、重要なのは、メインタイトルにもある「遊び」というパースペクティブである。第Ⅰ部では個別の事例に関する分析や議論がなされたのち(遊びへのアプローチ)、第Ⅱ部では、そもそも「遊び」というパースペクティブがいかなるものか、理論的な検討がなされている(遊びからのパースペクティブ)。もともと一つの著作として体系的に描かれることを意図したものというより、書かれたものを編み上げた論集といった著作だが、その分、興味の惹かれるどの章からでも読むことができる(また定評のある流麗な文体は、いつ読んでもわかりやすい)。


 初版が1977年に出されたのち、新装版を含め、幾度も重版が続いてきたこの著作は、多くの人に読まれ、そして紹介や検討がなされてきた。それに屋上屋を架すのもおこがましいが、評者なりに、昨今の社会現象を理解する上で、本書が持つ価値について触れておきたいと思う。


 「遊び」というパースペクティブは、知られる通り、オランダの歴史学者ハイジンガやフランスの社会学者カイヨワらの著作をもとにしたものである。井上は、その要点を日常生活からの「離脱」とそれゆえの「相対化」機能にみる。そしてそうした特徴を、大衆文化や当時の青年たちの文化の中に見出していくのである。その頃においては、一見何の効用も持たないかのように論じられていた、低俗番組や青年文化の中に、社会的な存在意義を見出した著作として、本書は高い評価を得ることになった(第18回城戸賞を受賞)。


 また日常生活からの「離脱」という点において、「遊び」すなわち文化の領域は、そもそも「聖」なる宗教の領域から派生したものであるという。よって、井上が後の論考でも触れることになるのだが、「遊び」の文化が日常化し、遍く定着していくことは、むしろその「相対化」機能を低下させかねないことになるという。


 評者は、この著作を近年のゲーミフィケーションという現象を考える上で、再検討すべきだと考えている。ゲーミフィーケーションとは、この書評ブログでもいくつか関連する著作を紹介してきたが(例えば、『ゲーミフィケーション―“ゲーム”がビジネスを変える』井上明人(NHK出版)など)、「ゲームの現実化/現実のゲーム化」が折り重なって進むような、大きなリアリティ変容のことだ。


 具体的にいえば、若い世代を中心に、人生もまたゲームをプレイするようなものへと変わりつつある。それは、スマートフォンをゲームのコントローラーのようにして、そしてソーシャルメディア上のライフログ(自分の経歴や友人数など)を、あたかもゲームのステージのようにして、徐々にクリアしていくようなものである。


 「がんばっていれば人生なんとかなる」「日本の未来は明るい」といったような大きな物語に人々が駆動されていた時代とは、まったく異なったリアリティがそこにはある。


 そして奇しくも、本書『遊びの社会学』の冒頭で検討されているのも、実は「ゲームの世界」である。そこで中心的に論じられているのは麻雀であり、「遊び」の領域を日常生活から確固として分離できた時代の話ではあるけれども、「ゲーム」という「遊び」の効用を的確に分析している点においては、今日でも得るところが大きい。


 いうなれば今日は、「ゲームが日常化」してしまったというよりも、「日常をゲーム化」させていくことでしか、日々をやり過ごせないような、そんな時代になりつつある。この点をとらえて、これも以前の書評欄で紹介したように、中川淳一郎は『凡人のための仕事プレイ事始め』(文藝春秋)において、仕事も生活もすべてを「プレイ」するものと割り切るしかないと説いていた。


 まさに生活のすべてが、あたかも「ゲーム」を「プレイ」するかのように化していく、それこそがゲーミフィケーションの進んだ社会であり、すべてが「遊び」と化した社会なのだろう。かつてのように、仕事に本腰を入れながら、時々のレジャーに「離脱」して、リフレッシュする・・・のではなく、すべての生活に対して、時に入れ込み、時に「離脱」することを繰り返して、その場その場をやり過ごしていくしかないような時代になりつつあるのである。そのとき果たして「遊び」の効用はどうなっていくのか、そうした論点こそを今、じっくりと深めるべきであるように思う。


 本書は、こうしたこれからの成熟社会の生き方を前向きに考えていく上でも、改めて学ぶところが大きいように思う。かつて愛読した人々にも、そしてこれからの社会を担う若い人々にも、じっくりと読みなおしてほしい一冊である。


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2013年09月29日

『社会を超える社会学―移動・環境・シチズンシップ』ジョン・アーリ著/吉原直樹監訳(法政大学出版局)

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「「移動性(モビリティ)の社会学」への期待的な展望」

 本書はイギリスの社会学者、ジョン・アーリが2000年に出した著作“Sociology beyond Societies: Mobilities for the twenty-first century”の翻訳である。原著が出されてからすでに10年以上がたち、訳本が出されてからも数年が経過しているが、原著のサブタイトルに含まれている”Mobility(モビリティ=移動性)”というキー概念の重要性はますます高まっていると言えるだろう。

 アーリは、この概念の検討に特化した著作を、2007年にも”Mobilities ”というタイトルでPolity Pressから出しているが、和訳されたものとして、さらに今日の社会変動を踏まえつつ、その中での社会学の存在意義を見据えながら、このキー概念を提唱したものとしての本書の重要性は今なお変わることがないだろう(それゆえに、余談ながら評者は、本書を今年度前期の大学院ゼミのテキストとして取り上げた)。


 アーリはもともと観光旅行に関する研究から、この概念の着想を得たようだ。この点をパラフレーズするならば、観光旅行中、人は地位や役割のフィックスされた日常生活とは違って、身寄りのなさやアイデンティティの寄る辺なさを味わうことになる。そして移動性(モビリティ)の高まった今日の社会においては、いわば毎日の生活すら、観光旅行中のように寄る辺なく生きていかなければならなくなる(ガイドブックに頼って観光客がその寄る辺なさを埋め合わせていくように、今日のわれわれはその寄る辺なさを埋め合わせるために、例えばモバイルメディアのようなものが手放せなくなるのだともいえよう)。


 アーリは、こうした移動性(モビリティ)の高まりの表れを、たとえばグローバル経済の進展に見る。国境を越えたフローの広まる今日においては、国民国家の存在そのものが相対化されざるを得なくなる。こうした状況下では、19世紀以来、社会学がその存在意義を見出してきた「社会」という対象すら、流動化してあやふやなものになってしまいかねない。


 だが、アーリの着想が面白いのは、こうした状況を新たな社会のありようとして積極的にとらえ直そうとするところにある。いわば、バウマンのように、近代社会が液状化したものとして悲観的に捉えるのではなく、むしろ移動性(モビリティ)の高まった状況を、そのまま社会として名指すところに、新しい社会学の方法基準を求めようとしているのである。


 こうした新たな社会を記述するキー概念の中でも、地位や役割といったフィックスされたものにかわる、ハイブリッド(な存在)という捉え方が面白い。


 例えば、アーリは移動性(モビリティ)の高まりを示す事例として、(他の著作でも)自動車について検討しているが、そこでは自動車と運転手を別々の存在としては捉えていない。つまり、自動車と運転手というものが、固定化されて別々に存在しているのではなく、「自動車・運転手」というハイブリッドがネットワーク化されてうごめいているものと捉えるのである。


 こうした発想に基づくならば、さしづめ今日でいえば、「モバイルメディア・ユーザー」というハイブリッドな存在を思い浮かべるとわかりやすいだろう。これまでのテレビでいうならば、一方的に情報伝達してくるメディアとその受け手との区別はフィックスされていた。だが、たとえばLINEのようなスマートフォンのアプリケーションソフト(アプリ)を想定すると、それを介したコミュニケーションに時と場所とを問わずに追い立てられているとき、はたしてコミュニケーションしているのは、自分なのかアプリなのか、よくわからない感覚に陥った人も少なくないことと思う。


 このように、本書は近年の社会変動を捉えていく上でのヒントに満ち満ちた著作である。評者は、研究仲間とともに、メディア論における応用を構想しつつあるが、むろん本書の射程はそれにとどまるものではないだろう。


 ただ、発想の独創性が先立つためか、概念整理がやや雑だったり乱暴だったりする個所も見られるのだが(本書の所々でも、重要な概念が系統立てられないままに箇条書きになされた個所が見られるのだが)、この点は読む側が自らの社会のコンテクストに合わせて期待直していけばよいのだろう。


 また、いわゆる9・11同時多発テロ事件以前にまとめられた書物のため、やや国際社会の流動化の高まりに対して、あるいはそこで果たすEUの展望について、少し楽観的なのが気になるのだが、そのような批判は「後出しじゃんけん」のようなものとして差し控えるべきかもしれない。


 いずれにせよ本書は、これからの新たな社会をとらえるための、一つの重要な概念を提起した記念碑的な著作として評されるべきものと思う。


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