« 『鬱ごはん』施川ユウキ(秋田書店) | メイン | 『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』浅野智彦(河出書房新社) »

2013年08月31日

『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』近森高明・工藤保則編(法律文化社)

無印都市の社会学―どこにである日常空間をフィールドワークする →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「郊外化」空間における日常生活を記述する方法」

 この夏、とある地方都市の若者調査に出かけて、いろいろと驚きがあった。まず、驚いたのは、中心市街地の廃れた様子である。いわゆる「シャッター街」化は日本の至る所で進んでいるものの、この地方都市の廃れ具合は半端ではなかった。

港にも近い駅前では、数年前に大火事があったということもあって、もはやシャッターの下りた商店すら存在せず、さながら戦災後のように空き地ばかりが広がっていた。


 だが次に驚かされたのは、若者たちにその地方都市の現状を訪ねたときである。彼らの口からは「最近、だいぶ発展してきなって思います」「なんだか都会みたいになってきました」という答えが返ってきたのだ。


 一体どういうことなのかと思い、中心部から少し離れた、彼らの通う大学のキャンパスを訪れてみたが、そこで謎は解けた。彼らの住居もあるその一帯には、いわゆる「郊外型」の大型店舗が林立していたのである。近年では多くの人々が、この「郊外化」した空間へと移住しつつあり、旧来の中心部から、街の重心が移りつつあるのだという。


 つまり、この地方都市の若者たちにとって、“街”であったり、“都会みたいなところ”というのは、「郊外化」した空間のことだったのだ。


 なるほど、たしかに彼らの発想を外部からの視点で批判して見せることはたやすい。どこにでもあるような「郊外化」空間を追い求めるより、その地方都市の固有性、かつて漁業で栄えたというその独自の歴史や文化を大事にするべきなのではないかと。


 しかしその一方で、喪失ばかりを嘆くのではなく、現実に向き合って、実態を記述するところから、何かを始めることもまた重要なのではないだろうか。彼らが一定の満足を覚えている、「郊外化」空間における日常生活を、それに内在して記述していくこともまた必要なことだろう。あるいは、社会学とは一面においては、そうしたものだったはずである(この点において本書は、関西圏を中心とする現代風俗研究会的なものの流れに位置づく、良質な研究成果ということもできよう)。

 さて、本書『無印都市の社会学』は、まさにこうした問題意識に貫かれた著作であり、現在の都市をフィールドとした都市社会学、文化社会学、あるいは社会調査法についての格好のテキストブックともなっている。


 編者の一人である近森高明は、第1章において、本書が対象とする「郊外化」空間について、それが多分に批判的な色合いを持った言葉として使われていること、さらに居住と消費の空間とを区別して分析するのに不十分な概念であることから、「無印都市」という新たな呼び名を与えている。


 これは、建築家レム・コールハウスの議論を援用して、「ジェネリック・シティ」という概念を翻訳したものだが、これまた郊外型店舗の一例でもある「無印良品」を連想させる見事な訳語といえるだろう。


 続く第2章で、もう一人の編者である工藤保則によって、こうした「無印都市」の日常生活を記述するためのフィールドワークの方法論が検討された上で、「消費空間(コンビニ、ショッピングモール、家電量販店など)」「趣味空間(マンガ喫茶、パチンコ店、TSUTAYA/ブックオフなど)」「イベント空間(フリマ、ロックフェスなど)」といった順に、さまざまな事例が検討されている。

 評者自身の見解を記せば、こうした「無印都市」は、自分の感覚の全てを満たしてくれるとまで言えないのは事実だが、だが抗いがたい楽しさや便利さがあるのも事実である。


 そうした「無印都市」の実態を描き出した本書は、楽しく読み進めながら、現代社会の重要な変化について考えさせてくれる、まさに良書と呼ぶことができるだろう。


 若者に限らず、またさまざまな居住地の方に読んでいただきたい一冊である。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5352