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2013年08月31日

『凡人のための仕事プレイ事始め』中川淳一郎(文藝春秋)

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「すべてが「プレイ」化する社会」

 本書は、現在ではネット上のニュースサイト「NEWSポストセブン」の編集長として知られる中川淳一郎氏が、仕事に対する心構えを記したものである。

 だが、堅苦しくとらえる必要はない。本書は、いつもの氏の著作のように、軽妙で、ざっくばらんな文体に笑い転げながら読み進めることができる。そしてこれまたいつもの氏の著作のように、ジョークのようなその文体の中に、実は本質的な、鋭く的を射た指摘がちりばめられているのである。


 評者が特に気に入ったアドバイスを2つ引用すれば、「好きでも何でもないクソオッサンの出世のためにあなたの時間を使うのが仕事ってものだ!」「「苦しんでいるオレ」「気遣いができるオレ」「あなたを尊敬しています」を演じるのが仕事である」といったところであろうか。


 もちろん多くの人々が、現状の仕事に多々不満を抱いているのだろうし、それをどうにかしたいと強く願っていることだろう。


 だがそこで、「クビでも年収一億円」(!)というような、突拍子もない現実逃避的なユートピアを描くよりは、中川氏はもう少し現実的な処方箋を鮮やかに示して見せてくれている。


 それは、上記のアドバイスにもあったように、仕事を「プレイ」として「演じ」ていけばよいということだ。


 つまり「全身全霊をかけた自分の人生のすべて」として仕事に打ち込むというよりも、「とりあえず生きていくためのゲームのステージ」のようなものと割り切って、淡々とクリアしていけばよいということである。


 そしてこの観点を延長すれば、人生のすべてが「プレイ」として割り切っていけることになる。「勉強プレイ」「家事プレイ」「育児プレイ」「趣味プレイ」・・・といった具合に、この見通しが立ちにくい激しく流動化した現代社会を生き抜いていくためには、すべてをゲームのステージのようなものと割り切って、淡々と「プレイ」していくというのは一つの合理的な選択だと言えるのではないだろうか。

 かつて、仕事とレジャー論の中で、「遊びの社会学」という議論が注目されたことがある。代表的な論者として井上俊などが知られているが、それになぞらえるならば、すべてを「プレイ」として割り切るというのは、すべてが「遊び」と化していくということでもあるのだろう。


 全身全霊を打ち込む仕事と、余暇としての遊戯という明確な区分はもはや消滅し、すべてを「遊び」のように楽しく、割り切って、淡々とこなしていくしかないというのが、今日の社会を生きていく我々に残された一つの道なのだとも思う(この点で、「遊びの社会学」の議論も、過去のものとしてしまうのではなく、むしろ今日的なテーマとして、さらに検討を深めるべきなのだろう)


 本書は、「ごく普通の人のための仕事論」と紹介されているように、過剰にあおりたてることもなければ、比較的ありふれた職場のエピソードからアドバイスが導き出されていて、リアリティを持って読み進めることができる。


 仕事や、日々の働き方に悩んでいる多くの方にぜひお読みいただきたい。


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『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』浅野智彦(河出書房新社)

「若者」とは誰か―アイデンティティの30年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「アイデンティティをめぐる問いの軌跡」

 本書は、若者のアイデンティティをめぐって、特に現代の日本社会におけるその変容について描き出したものである。

 そこで問われているのは、まずもって次のような2つの問いである。すなわち書名になぞらえて言うならば、「若者とは誰でありたいのか」という若者自身のアイデンティティへの探求の視点と、「若者とは誰でなければならないのか」という若者以外からの(往々にして上の世代からの)視点である。


 誰かでありたい若者と、あるべき若者像を押しつける上の世代とが激しく対立してきたという話ならばありきたりだが、本書はこの点をさらに深い問いへと掘り下げていく。


 そこでさらに問われるのは、「若者とは“誰か”であるべきなのか/そうではないのか」という対立する問いである。つまり、アイデンティティを何がしかの収斂した像を結ぶ統合したものとみなすべきか、それとも緩やかなものと見たほうがよいのかという視点である。


 本書では、こうした対立を、一方はエリクソンの発達論に端を発する統合的アイデンティティ論として、もう一方はリースマンの社会的性格論に端を発する多元的アイデンティティ論として整理しつつ、そもそもアイデンティティが両方の側面を兼ね備えたものであることを指摘して見せる。


 すなわち、アイデンティティには、統合的な側面と多元的な側面とがあり、この2つの視点は同時に併存する「理想と実態の緊張関係」のように議論を繰り広げてきたのだという。つまり一方的かつ全面的に、アイデンティティが、統合的なものから多元的なものへと変容してきたのではないということだ。


 だが著者の分析では、それでも大局的に見て、アイデンティティは緩やかに多元的なものへと移り変わりつつあるのではないかという。


 本書では、特に1980年代以降の消費社会化、あるいは1990年代以降の高度情報化の進展といった若者たちを取り巻く「場」の変化を追いながら、各種の実証的な調査データも示しつつ、この点が検討されている。


 言うなれば、「地域育ち」「学校育ち」だった若者が、「消費市場育ち」「ネット育ち」へと、より流動化した社会を生き抜いていかなければならなくなってきているのだとすれば、この変容には大きく頷かざるを得ないところがあろう。


 本書は、若者論・アイデンティティ論で定評のある著者が、これまでの経緯とともに先端的な議論を適切に整理しながら紹介しており、この点で、若者(論)の現状を知る上でも、そしてアイデンティティ論のテキストとしても興味深く読める一冊である。


 評者の主観的な物言いになるが、これだけの議論がバランスよくフォローされていて、1500円(税別)はお買い得な内容だと思う。ぜひ多くの方にお読みいただきたい。


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『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』近森高明・工藤保則編(法律文化社)

無印都市の社会学―どこにである日常空間をフィールドワークする →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「郊外化」空間における日常生活を記述する方法」

 この夏、とある地方都市の若者調査に出かけて、いろいろと驚きがあった。まず、驚いたのは、中心市街地の廃れた様子である。いわゆる「シャッター街」化は日本の至る所で進んでいるものの、この地方都市の廃れ具合は半端ではなかった。

港にも近い駅前では、数年前に大火事があったということもあって、もはやシャッターの下りた商店すら存在せず、さながら戦災後のように空き地ばかりが広がっていた。


 だが次に驚かされたのは、若者たちにその地方都市の現状を訪ねたときである。彼らの口からは「最近、だいぶ発展してきなって思います」「なんだか都会みたいになってきました」という答えが返ってきたのだ。


 一体どういうことなのかと思い、中心部から少し離れた、彼らの通う大学のキャンパスを訪れてみたが、そこで謎は解けた。彼らの住居もあるその一帯には、いわゆる「郊外型」の大型店舗が林立していたのである。近年では多くの人々が、この「郊外化」した空間へと移住しつつあり、旧来の中心部から、街の重心が移りつつあるのだという。


 つまり、この地方都市の若者たちにとって、“街”であったり、“都会みたいなところ”というのは、「郊外化」した空間のことだったのだ。


 なるほど、たしかに彼らの発想を外部からの視点で批判して見せることはたやすい。どこにでもあるような「郊外化」空間を追い求めるより、その地方都市の固有性、かつて漁業で栄えたというその独自の歴史や文化を大事にするべきなのではないかと。


 しかしその一方で、喪失ばかりを嘆くのではなく、現実に向き合って、実態を記述するところから、何かを始めることもまた重要なのではないだろうか。彼らが一定の満足を覚えている、「郊外化」空間における日常生活を、それに内在して記述していくこともまた必要なことだろう。あるいは、社会学とは一面においては、そうしたものだったはずである(この点において本書は、関西圏を中心とする現代風俗研究会的なものの流れに位置づく、良質な研究成果ということもできよう)。

 さて、本書『無印都市の社会学』は、まさにこうした問題意識に貫かれた著作であり、現在の都市をフィールドとした都市社会学、文化社会学、あるいは社会調査法についての格好のテキストブックともなっている。


 編者の一人である近森高明は、第1章において、本書が対象とする「郊外化」空間について、それが多分に批判的な色合いを持った言葉として使われていること、さらに居住と消費の空間とを区別して分析するのに不十分な概念であることから、「無印都市」という新たな呼び名を与えている。


 これは、建築家レム・コールハウスの議論を援用して、「ジェネリック・シティ」という概念を翻訳したものだが、これまた郊外型店舗の一例でもある「無印良品」を連想させる見事な訳語といえるだろう。


 続く第2章で、もう一人の編者である工藤保則によって、こうした「無印都市」の日常生活を記述するためのフィールドワークの方法論が検討された上で、「消費空間(コンビニ、ショッピングモール、家電量販店など)」「趣味空間(マンガ喫茶、パチンコ店、TSUTAYA/ブックオフなど)」「イベント空間(フリマ、ロックフェスなど)」といった順に、さまざまな事例が検討されている。

 評者自身の見解を記せば、こうした「無印都市」は、自分の感覚の全てを満たしてくれるとまで言えないのは事実だが、だが抗いがたい楽しさや便利さがあるのも事実である。


 そうした「無印都市」の実態を描き出した本書は、楽しく読み進めながら、現代社会の重要な変化について考えさせてくれる、まさに良書と呼ぶことができるだろう。


 若者に限らず、またさまざまな居住地の方に読んでいただきたい一冊である。


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