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2013年06月30日

『私とは何か―「個人」から「分人」へ』平野啓一郎(講談社現代新書)

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「ほどけゆく個人のゆくえ」

 本書は、作家の平野啓一郎が、2009年の小説『ドーン』の作中で描いた概念「分人主義」について、スピンオフ的に別の著作にまとめあげたものである。

 『ドーン』は近未来の社会を描いた小説であり、「分人主義」という概念も、われわれ人間存在のこれからのゆくえを説得的に描き出したものとして興味深く、何よりもネーミングセンスがよい。


 その内容についてパラフレーズしておくならば、「分人主義」とは読んで字のごとく「個人主義」と対置される概念である。元の英語で述べたほうが分かりやすいが、「個人」がin-dividual(それ以上分けられない存在)であるならば、「分人」とは、dividual(分けられる存在、複数のコミュニケーションの寄せ集まった存在)のことをいう。


 すなわち、人間存在を、「固定化された自己」や「かけがえのない自分」が中心に据えられたものと見なすのではなく、他者と織りなす複数のコミュニケーションの集合体と見なすというである。


 これは、社会学で論じられてきた2通りの概念と、似ているようで異なっている。2通りの概念とは、一つには「地位と役割」であり、会社では課長、家庭では父親としてふるまう「私」というとらえ方がある。近年ではさらに一通り、「空気とキャラ」という概念があって、ある場面では「オタクキャラ」を演じ、またある場面では「リア充キャラ」を演じるというような、より流動化したとらえ方もある。


 だが、「役割」にせよ「キャラ」にせよ、これらの概念が、それらを演じ統制する中心としての「自分」という概念をどこかで捨て去っていないのと比べて、「分人」はより徹底して中心を否定するのが特徴的である。かといって「多重人格」とも少し違うのは、それがむしろコントロールを失った異常事態と見なしがちなのに対して、「分人」はあくまで一つの正常な状態なのである。


 そして、もはや「自分」という中心を否定する代わりに、そこに存在するのは、せいぜい一人の人間の中の複数の「分人」を、積極的に混ざり合ったほうがよいと考える「分人多元主義」か、それらがきっぱり分かれている方がよいと考える「多分人主義」かという差でしかなくなっていく。


 さて、こうした「分人主義」に近い発想は、すでに1990年代において、若者のコミュニケーションに関する実証調査研究から提起されていた。社会学者の浅野智彦や辻大介らが論じていた「多元的な自己」と「選択的コミットメント」と呼ばれるような概念がそれであり、若者たちが複数の交友関係を選択的に使い分けながら、その場面ごとに出てくる「自分らしさ」を、どれも「本当の自分」ととらえるような現象をアンケート調査の結果から明らかにしていた。


 だが、そこに見られていたのは、100%全ての若者がそうなっていくというわけではなく、一定数において「多元的な自己」という現象が見られるという指摘であり、一方では依然として「ハッキリとした中心のある自己」をもった若者も存在していたのである。


 評者自身も、この社会の流動化がますます激しくなるにつれ、固定化された中心のある「自分」にこだわるよりは、「多元化した自己」や「分人」といったありようのほうが、むしろ適応的だろうと考えている。


 ただ、実態と対比させるならば、「分人」という発想はやや先を行き過ぎていて(近未来小説における概念なので、当然と言えば当然だが)、逆に言えばこの概念は、理論的に純粋化された概念、すなわち「理念形」であるともいえるだろう。そして小説という思考実験の中だからこそ、近未来の人間存在に起こりうる「理念形」が提起されてきたという点がやはり興味深い。


 社会学においても、理論と実証の軽やかな往復運動から、研究を深めていくことが重要視されるのだが、こうしたフィクショナルな作品世界との間の往復運動もまた、研究に有益な発想をもたらしてくれることだろう。
この点で本書は、新しい世代の若者たちのコミュニケーションやその展望を知りたい人には格好の入門書ともいえるし、研究者にとっても、ヒントの詰まった著作である。


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『凍りの掌―シベリア抑留記』おざわゆき(小池書院)

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「記憶をめぐる情報戦」

 本作は、作者の父親のシベリア抑留についての語りに基づいて構成されたマンガ作品である。50万人とも言われる日本人が抑留され、多数の死者を出したこのできごとについては、おそらくその重大さと比べると、体験者の手記なども一定数刊行されているにも関わらず、人々の話題に上ることが少ないのではないだろうか。

 その点で本作は、やさしげなその絵柄とは対照的に、淡々と記された過酷な事実が、読者の記憶に強烈に刻まれざるを得ない、貴重な存在となっている。とりわけ60年以上も前の風化しつつあるできごとを、父親にどうにか思い出しつつ語ってもらい、それを数少ない資料と照らし合わせながら再構成していった、作者の努力には、素直に敬意を払わずにいられない。


 さて、シベリア抑留が未だになぜ話題に上りにくいのか、という点については、いくつかの理由が考えられるだろう。一つには、何よりも抑留者たちが帰国する際に、ほとんどの物品を没収されたということが大きいといえよう。後々に語り継ごうと思っても、それを表す、何か物的な証拠や資料がなくては、説得的な語りを構成しづらくなってしまう。


 またもう一つには、それと関連して、そのできごとを示すシンボルが存在しないということも指摘できよう。原爆の被害ならば原爆ドーム、ナチスのホロコーストならば強制収容所跡が残されているが、日本社会の中で、シベリア抑留の記憶を語り継ぐための、特定の場所というのはあまり存在していない(しいていえば、作中でも出てくる通り、帰国時に到着した舞鶴港ぐらいだが、それはシベリア抑留そのものの記憶を語り場所ではないだろう)。それゆえに、何者かの意図によるところも、あるいは意図によらないところも持ち合わせながら、シベリア抑留は、人々の記憶に残りにくいできごととなってしまっていた。


 こうした状況下にも関わらず、本作はシベリア抑留の体験そのものだけでなく、その前の徴兵の段階から、そして帰国後の体験までを描き出し、また過酷な体験の中でも、ごくわずかながらの幸運なできごとにも触れられている点で、実にバランスの良い内容となっている。とりわけ、体験者の一方的な語りではなく、作者である若い世代の人物が聞き取る形で再構成しているので、この出来事を実際には体験していない人々にも理解しやすい ものとなっている点が評価に値しよう。


 評者自身がもっとも印象に残ったのは、過酷な強制労働の惨状もさることながら、途中で共産主義に感化された一部のものたちが、突然アジテートをはじめ、またそれに多くの賛同者が出て、抑留者内のそれまでの力関係が変わっていくところである。かといってそれは、多数の民衆が一部の権力者を打倒するような「民主的な革命」などではなく、戦前はファシズムに同調していたものたちが、今度も「空気」を読んで新たなイデオロギーに同調したということに過ぎなかったというところを実に的確に描き出している。


 さらに、帰国後も抑留者たちがいわれのない差別的な待遇を受けたという証言も貴重だ。作者の父親も、左翼的な思想を散々に疑われ、職に就く際にも、あれこれの差別を受けたのだという。


 よって、強制労働という体験の過酷さもさることながら、結局のところ、人々のふるまいが、戦争という体験を通しても、あまり反省的ではなく、変わっていないということをまざまざと教えてくれるところに本作の最大の魅力がある。


 またその意味で、このできごとをどうにか記憶から風化させずに、語り継いでいくための努力を続けていかなければならないという点において、戦争は未だに終わっていないのだと改めて感じさせられる。年長世代だけでなく、むしろ若い世代を含めた、多くの方にお読みいただきたい作品である。


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『重版出来』松田奈緒子(小学館)

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「このマンガが「あえて」か「素」かに、出版業界の浮沈が掛かる」

 本作は、長期的な不況に見舞われている出版業界の様子について、マンガの制作過程を中心に、マンガで描き出した、いうなれば「自己言及的」な作品である。

 そもそも日本のマンガ作品において自己言及はよく見られてきた特徴だが、言及の対象が、「自己」の水準から、「社会」の水準へと移行したところに、本作の特徴がある。


 かつての著名な作家、たとえば手塚治虫や藤子不二雄、少し時代が下がって岡崎京子などの作品中においても、作家自身がモデルとなったようなマンガを描くキャラクターが登場していた。場合によっては、そのキャラクターが作家自身と同じ名前だったりもした。


 そうしたふるまいは、明治期の近代小説の時代から続く、いうなれば自己の探求過程の一環であったといえる。すなわち急速な近代化の波に翻弄される中で、探求を続ける自己というモチーフは、小説からマンガを通して、一つの主要なトピックであり続けてきた。


 一方で、今日の後期近代の成熟社会においては、急速な近代化がひと段落した代わりに、「この社会」そのものが、はたして「この社会」のままでいてよいのか、という点が探求の対象となる。まさしくイギリスの社会学者ギデンズらの言う「再帰的近代」だが、「この社会」が存在していることの自明性が崩壊していくなかで、むしろ重要になってくるのは、意図的に思考することであり、自己言及的な反省の過程を繰り返しながら、「この社会」を営んでいくことが求められるのである。


 よって本作の主人公は、新人編集者黒沢心ではない。出版業界そのものであり、出版業界が大きな位置づけを占める「この社会」なのだ。


 そして本作が、「あえて」なされたもの、すなわちかなり意図的に描かれたものであるならば、出版業界にも、ひいては「この社会」の未来にも大きな希望が持てる。インターネットとの激しい競争にさらされている出版業界だが、自己言及的な反省過程を通して、その長所と短所を見つめ直し、新たな時代に適合的なありようへと脱皮できるのならば、今後も十二分に期待ができるだろう。


 本作のタイトルになぞられた言い方をすれば、出版業界そのものが「改訂版」を出すことを通して「重版出来」へと至ることができるのか、それとも他のメディアとの激しい競争に負けて「絶版」へと至ってしまうのか、この作品の成否が、出版業界の展望を示しているといっても、決して過言ではない。


 本作で描かれている内容、そしてその自己言及的な描きかたには、一抹の可能性を感じさせるところがあるのは確かだが、その一方で、本作が「素」でなされたものになっていくならば、その可能性はしぼんでいかざるを得ない。


 編集部の体育会系的で集団主義的なノリであったり、社員に求められる根性主義、戦略的な思考よりも根拠のない「運」の重視といった、出版業界に伝統的に存在する要素を、ただノスタルジックにめでるだけの作品に堕していくのなら、展望は暗いと言わざるを得ないだろう。


 正直に言って、今のところ本作の内容には、これら両者の要素が入り混じっている印象があり(おそらく現状の出版業界も同じような状況なのだろう)、その点でも、今後の展開から目が離せない作品である。


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