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2013年04月30日

『モノローグジェネレーション』小坂俊史(竹書房)

モノローグジェネレーション →紀伊國屋ウェブストアで購入

「誰もが、「よそ者/観察者化」する中で、織りなされるモノローグの饗宴」

 本作は、漫画家小坂俊史のモノローグシリーズの最終作にあたる。前作の『遠野モノがたり』、前々作の『中央モノローグ線』と書評を書かせていただいたが、評者は本作が一番おもしろかったと思う。

 傑作マンガに対して、凡庸な社会反映論を読み込むのはあまりにも芸がないと言えばその通りなのだが、本作を一読して、現代社会の特徴をうまく描き出す作者のその才能には、改めてほれぼれとしてしまった。というのも、一作一作の四コマ漫画に描かれたその内容に、強い共感(あるある感)を覚えるというだけではなく、本作全体の構成が、なんとも現代的だったからだ。


 本作のタイトルは、『モノローグジェネレーション』だが、「○○ジェネレーション」という著作にありがちなように、何がしかの特徴を若者世代だけから読みとっているのではない。


むしろこのタイトルは、全ての世代(ジェネレーション)のコミュニケーションが、モノローグ化していることを的確に言い表している。特定世代だけを取り出して、現代社会を描くのではなく、さまざまな世代のキャラクターを通して、いわば俯瞰図に近い作品を描き出しているところに作者の力量が表れているともいえよう。


 かつて社会学者の宮台真司らは、「社会が島宇宙化する」と述べたが、本作に現れているのは、それがもっと個人化(個化)したありようだ。


登場するキャラクター個々人は、それぞれに価値観が多様化していて、混じり合うところがない。そして、どの世代の価値観が多数派で、ということもなく、細分化した果てに、すべてのキャラクターが(多数派が存在しない中での)少数派として描かれている。


 前作『遠野モノがたり』を評した際に、作者のモノローグシリーズには「よそ者目線」が潜んでいると指摘したが(『遠野モノがたり』書評参照、http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/09/post_31.html)、本作では、まさに全てが少数派と化す中で、全てが互いに「よそ者化」し、そして互いのふるまいを見つめる「観察者化」していくような状況が的確に描き出されていると言えるだろう。


 前々作『中央モノローグ線』(http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/04/post_10.html)では、それをJR中央線の各駅の特徴になぞらえてプロットされたキャラの数々を通して俯瞰していたのに対し、本作では、中学生のひとみ、大学生の一穂、にはじまって、年金生活者のナナにいたるまで、実に10代前半から70代にいたるまでの様々な世代にプロットされたキャラを描き出しているところに本書の面白さがある。


 そして何よりも特徴的なのは、「よそ者」として、互いのふるまいに対して「観察者」の立場でしかありえないから、コミュニケーションのありようが、モノローグの形を取らざるを得ない様子を描き出しているということである。


 したがって、モノローグの中身として語られているのは、他者のふるまいを「観察」した結果であったり、あるいは、自分のふるまいを他者のそれのように「観察」した結果であったりする。


 多様な世代の人々による、「観察」結果のモノローグが織りなされる様子は、あたかもツイッターにおけるつぶやきを「観察」しているような感覚にも似ていよう。


 いわば本作で描かれているのは、まったく別個の価値観を持った別個の個々人が、時にたまたま交差しながら、バラバラにうごめいていくような、そんな社会の様子である。それは、双方向的でなおかつ深く理解し合ったコミュニケーションが幾重にも積み重なっていくような社会と比べれば、変に空気を読んだり、それに縛られたりしなくて済む分だけ、それはそれで居心地のよいもののように、評者には思われる。


 ここまで無理に理屈をこねくり回さなくても、本作は十二分に面白く読めるマンガであるかもしれないが、できることなら、なぜ本作を面白く感じるのか、その背景にも思いを馳せてみると、より楽しめるのではないかと思う。


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『ビッグデータ時代のライフログ―ICT社会の”人の記憶”』安岡寛道 編(東洋経済新報社)

ビッグデータ時代のライフログ―ICT社会の”人の記憶” →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ライフログはいかに活用されるか=便利でお得で、安心安全な社会は築けるか」

 本書は、近年注目を集めつつある「ライフログ」に関する総合的な研究の成果である。ここでいうライフログとは、「人間の行い(Life)をデジタルデータとして記録(Log)に残すこと」あるいは「蓄積された個人の生活の履歴」のことをいう(本書P2)。

 具体的には、ケータイのアドレス帳であったり、SNS上の各種個人データ(友人数などプロフィールに関するもの、あるいは、やり取りの記録など)を思い浮かべるとわかりやすいだろう。あるいは、スイカやパスモといった電子マネーを利用した行動の記録などもこれに該当する(具体的には本書P6~7の図表のまとめが分かりやすい)。


 もちろんこうした記録は、いままでもアナログな形で残されてきたものである。ビジネス手帳であったり、保存された年賀状の束、あるいは家計簿などがそれに該当しよう。これら既存のデータと比べた場合に、今日のライフログの特徴は、デジタル化が進むとともに、言うなれば人々の記憶の外部化および一元化が進んでいるということができる。


 そして当然のことながら、こうした変化には功罪両面が存在する。


 人間の記憶力には限界があるから、外部化・一元化して保存しておくことで、便利になる側面はいくらでも存在する。それは、つい名前と顔を忘れがちな昔の知人であっても、顔写真入りで連絡先を保存しておくことができるというだけにとどまらない。たとえば、よく利用するオンラインショッピングのサイトが、自分の購入履歴をデータ化しておくことで、次に欲しい商品の発売予定が明らかになったとたんに、メールで知らせてくれたりもする。


 こうした変化は、効率の観点から言えば、企業などにとっても好ましいものだから、現金よりは記録が残りやすい、電子マネーであったりクレジットカードの利用がますます促されるようになっていき、さらには同種のサービス間での囲い込み競争も起こるようになる。


 一方で、人間の記憶が外部化・一元化されるということは、ひとたびそれが流出すると、以前とは比べ物にならないほど、大きな問題が起こるであろうことも想像に難くない。とりわけ、自分にとって好ましくない情報が流通した場合、人間の記憶ならば時間とともに薄れていくであろうところが、デジタル化されたデータは、理論上は半永久的に残り続けてしまうことになる。


 本書は、こうしたライフログを活用した便利でお得な社会のありようだけでなく(第2章)、そこで注意を払うべき個人の権利であったり(第3・4章)、技術的な基盤とその実状(第5章)、そして今後の展開(第6章)にまで視線がいきわたった、バランスの良さが特徴的な著作となっている。


 というのも、13名の専門家によって書かれた研究報告書が元になっているからだというが、ライフログという論点について、一方的に礼賛/批判するのではなく、バランスよく様々な視点に注意を払いながら、今後を建設的に展望していこうとする本書は、ぜひ関心のある多くの方に読んでいただきたい一冊である。



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『テレビという記憶―テレビ視聴の社会史』萩原滋 編(新曜社)

テレビという記憶―テレビ視聴の社会史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「歴史化されるテレビ」

 本書のサブタイトルは、「テレビ視聴の社会史」であり、テレビを歴史的な視点からとらえようとする先鋭的かつ意欲的な論文からなる論文集となっている。

 評者は、まずこの、テレビという存在が歴史化されるという分析視角に、大いなる感慨を抱かざるを得なかった。それは、この社会における、一定年齢層以上の人々には共通するものであるだろう。それほどにテレビとは、いつもすぐそこの、身近な現実に存在するメディアだったからである。


 さて、テレビを歴史的な視点からとらえると言った場合、すぐに思いつくのは、番組の内容の変遷を追ったようなものや、あるいはテレビという受像機の技術的な歴史ではないだろうか。


 だがサブタイトルにもあるように、本書の視点はそれらとは異なっている。むしろ、この社会が、そしてこの社会の人々が、テレビというメディアをいかにまなざし、受容してきたのか、そしてそこからどのような記憶を紡ぎだしてきたのか。さらには、それが今後どのように変化していくのか。まさに今やっておかないととらえ損ねてしまうような重要な研究課題を、社会史という視点から描き出しているのが本書の特徴である。


 確かに、テレビがこの社会において、きわめて大きな位置づけを持ったメディアであったことは疑うまでもない。そして、今日ではインターネットの普及が大規模に進んできた。動画サイトを好むような若者たちは、テレビのことを「オワコン(終ったコンテンツ)」などと呼ぶこともあるが、主要なメディアの入れ替わりとは、きっとそんな単純に進むものでもないのだろう。


 かつてテレビの普及が進んだ後も、ラジオが一部で生き残ったように、メディアの勢力図の中で、なんらかの棲み分けが進んでいくのではないかと思われる。


 その点で、特に本書の後半で展開されている、若者たちやネットユーザーを対象にした、クロスメディア的な利用行動調査の結果は興味深い(7~10章)。そこからは、やはりテレビが単純に「オワコン」として姿を消していくのではない、これからのありようが、ほのかに垣間見える。


 そしてもちろんのこと、年長世代にはなじんだ話である、かつてのテレビ黄金期における視聴と記憶の形成に関する分析も興味深い(1~6章)。アイドルや、「仮面ライダー」などのヒーローに夢中になりつつ、やがてリモコンの登場とあいまって「ながら視聴」を覚えていった世代としては、まさに自分のことを分析されているような感覚がしてしまう。


 そして、終章では「「ポストテレビ時代」のテレビ」のありようまでが示唆された本書は、日本のテレビ研究において、今後も参照され続けであろう大きな足掛かりと呼ぶにふさわしい著作だと思う。


 今までのテレビにも、そしてこれからのテレビにも関心のある方に、広くお勧めしたい著作である。


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『ぽちゃまに』平間要(白泉社)

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「太めの少女がヒロインのラブコメ少女マンガ」

 本作は、「ぽっちゃりな女子校生」本橋紬が、ある一点で「残念なイケメン」と噂される田上幸也に告白され、その後、様々な恋愛模様を繰り広げるラブコメ少女マンガである。そして、田上幸也が「残念なイケメン」たる所以とは、「ぽっちゃりさん(=太めの女性、評者註)しか愛せない男=ぽちゃまにだったのだ!」(裏表紙より)という点であり、その設定からしてなんともユニークな作品となっている。

 一方で、設定のユニークさとは対照的に、そのストーリー展開については、(よい意味で)オーソドックスかつ古典的なものとなっているのも特徴的である。


 2年ほど前に藤本由香里氏の少女マンガ論を評した際、氏の指摘に添いながら、かつての少女マンガの核心的なモチーフが、「自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、「そんなキミが好き」だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある」と記したことがあるが(『私の居場所はどこあるの?』書評参照http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/02/ )、本作はまさにこの古典的なモチーフに沿っていると言えるだろう。


 逆に言えば、このような凝った設定をしない限り、古典的モチーフを描くことができないという点には、今日の社会の変化が表れているようで興味深くもある。


 それはまさしく、これまた本書評欄でもたびたび記してきたように、若い世代において、そもそも恋愛や性的なことへの関心の度合いが相対的に下がりつつあり(性愛至上主義の終焉)、さらには、ファッション文化の広まりとともに、女の子がみんなキレイになっていくような変化(山本桂子『ブスがなくなる日』書評参照 http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/05/post_13.html)のことである。


 こうした状況下において、普通の少女ではなく、あえて「ぽっちゃりさん」を主人公にしたことで、古き良き少女マンガの世界を思い出させてくれるところに、本作の大きな魅力があると言えるだろう。一見、マンネリ化しがちに見える少女マンガの世界に、多様な関係性のパターンと持ち込もうとした狙いについては、高い評価に値すると言ってよいように思う。


 だがその一方で、少し残念な点がないわけでもない。というのも、狙い自体は非常によいのだが、ストーリー展開にはやや強引な点も見られるからである。


 例えば、イケメン田上幸也が「ぽちゃまに」になった理由が、ある突然のアクシデントによるものとして描かれていて、ややご都合主義に過ぎるのだ。それゆえ、本橋紬と恋に落ちていくプロセスも、(後に内面的な部分に触れる場面も出ては来るのだが)どちらかと言えば、外見的な部分を重視した突然の一目ぼれに近いものとして描かれてしまっていて、やや説得力を欠くと言わざるを得ないのである。


 外見だけで相手を選んでしまうのならば、美人を一方的に崇めていたこれまでの物の考え方と変わらなくなってしまい、せっかく本作が持ち合わせていた可能性がスポイルされてしまうようでもったいない。


 評者の個人的な見解を述べるのならば、田上幸也が本橋紬に惹かれるプロセスは、もう少し時間をかけて丁寧に描くべきではなかったかと考える。つまり、ややありきたりなアイデアかもしれないが、彼が「ぽちゃまに」であることは、「理由に乏しき衝動的な性癖」として描くよりも、「性愛史上主義崩壊後の社会における内面重視系イケメン」として設定し、徐々に本橋紬の内面に惹かれていくように描いた方が、リアルだったのではないかと思われる。


 だがいずれにせよ、本作における、多様な関係性のパターンを楽しもうとするその姿勢は大いに評価すべきだと思う。先月には、ぶんか社から「ぽっちゃり」女性を対象にしたファッション雑誌『la farfa(ラ・ファーファ)』も創刊されたと聞く。


 女性たちのこうした前向きなスタンスを見るにつけ、なぜ同じようなものが、男性たちの文化から出てこないのだろうという、ジェンダー論的な問題意識も芽生えさせてくれる。そんな本作を、ぜひ「ぽっちゃり」な方だけでなく、多くの方に広くお読みいただきたい。



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