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2013年02月28日

『若者はなぜ大人になれないのか―家族・国家・シティズンシップ (第2版)』 ジョーンズ,ジル〈Jones,Gill〉 ウォーレス,クレア〈Wallace,Claire〉【著】 宮本 みち子【監訳】 鈴木 宏【訳】(新評論)

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「卒業生の将来を考えながら、このシーズンに読み返したくなる一冊」

 上記のようなタイトルを付けたが、本書の内容は、決して甘酸っぱい学園モノなどではない。むしろイギリスの事例を基にした、非常にまじめな学術書だ。

 評者は、このシーズンが近づくと、卒業を控えた優秀な学生たちに対して決まって掛ける言葉がある。それは、「無理に卒業しなくてもいいんじゃないか」というものだ。もちろん、冗談半分なのだが、ということは、半分は案外本気だったりもする。


 すなわちその含意は、大学をたった数年間で「卒業」してしまうなんて、実にもったいないとは思わないだろうかということだ。勉学にスポーツ、趣味の活動と、若者たちの特権と思われてきた諸々の活動を、社会人になるからときれいにやめてしまうのは実にもったいない。


 大学卒業とともに、こうした活動をすっぱりと断絶し、それと同時に猛烈に仕事に打ち込むことが大人になることを意味していた時代は、もはや終わりつつある。


 むしろ昨今では、社会全体が「卒業しなくなる社会」へと変化してきたために、こうした言葉にも一定の「正当性」が出てきたようだ。


 「卒業しなくなる社会」とは、若者と大人の境界があやふやになる社会をいう。ここで述べたように、大人になっても若者の特権であったものを享受できるような文化的成熟がもたらされるならば、それはそれで歓迎すべきことなのだろう。(あるいは、本書でも「シティズンシップ」というキー概念によって探求されているように、旧来のものに変わる、大人になることの意味が新たに必要となってくるのだろう。)


 だが一方で、本書『若者はなぜ大人になれないのか』が注目したのは、もっと深刻な現象であった。それは、雇用の不安定化などによる、いうなれば「大人にさせてもらえない社会」の到来であった。雇用状況の変化によって、一定の年齢に達しても安定した職を得られないならば、親元に居続けざるを得なくなる。


 本書の監訳者である宮本みち子は、このように延長されていく、若者で居続けなければならない時期のことを「ポスト青年期」と呼び表し、『若者が社会的弱者に転落する』(洋泉社新書)などでその問題点を訴えてきた。
いわば本書はそうした著作の元になった研究として位置づけられる。イギリスの事例をもとに原著が出されたのがもはや20年以上前の1992年であり、日本での第一版は1996年に出されているが、宮本は2002年の「第二版によせて」の中で以下のように述べていた。

 本書の価値は、今後、本格的に認められるのではないかと感じている。というのは、日本の状況の変化にともなって、本書の枠組みが日本にとっても有効性があることが、以前より理解しやすくなったからである。(P297)

 これは、今振り返っても、まさに正鵠を射た指摘というほかないだろう。確かに1990年代であれば、それほど深刻ではなかったものが、今日では「ポスト青年期」のますますの長期化として注目されるに至っている。


 このように、本書は若者たちを取り囲む喫緊の問題点について、悲観的になるだけでなく、現実的かつ建設的に対応を考えていく上でも示唆に富む。卒業式のシーズンを迎えるたびに、読み返したくなる一冊である。


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『社会学ウシジマくん』難波功士(人文書院)

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「現代社会の「メディア・エスノグラフィ」として」

 本書は、マンガ『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平)を題材に、「社会学の成果を紹介しつつ、社会学の多面性や魅力」(P115)を伝えようとしたものであり、現代日本社会の様々な問題点が浮き彫りにされると共に、それらに対して社会学がどう向き合うことができるのかが示された著作である。

 プロローグで示されたリスク社会論(「今のこの時代に、この地球に生きるがゆえに、誰もが避けようのないリスク」―P27)に始まり、都市社会学、家族社会学、教育社会学、メディア論、ジェンダー論、感情社会学、労働社会学、社会病理学、福祉社会学、そしてエピローグの社会階層論にいたるまで、リアルな社会問題を入り口にして、社会学の多様性とその魅力を伝える入門書としての試みは、十分に成功しているものと思われる。


 あとは、主たる想定読者である学生たちが、マンガのウシジマくんを興味をもって読んできてくれるかどうかがカギだと言えよう。


 さてその『闇金ウシジマくん』とは『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で不定期に連載されているマンガだが、2010年にはテレビドラマ化、2012年には映画化もされた人気作品である。


しかしながら人気作品とはいっても、多くの人にとって読後感のよい作品ではない。というのも、その作中の登場人物は、様々な事情から困難を抱え、やむなく闇金に手を出すことになり、やがてその多くが人生の破滅を迎えていくことになるからである。評者もこのマンガの熱心な読者だが、読んだ後にはしばしブルーになることが多かった。


だが、著者の難波氏は、このマンガについて、次のような読後感を覚えたのだという。

「社会学って、こんなことだったんじゃないのかなあ・・・。」(P15)

 
 もちろん、誤解のないように記せば、社会学が人々の人生の破滅を好んできた学問というわけでは決してない。むしろ「21世紀初期のアンダーグラウンドシーンを活写した資料」(P15)として、そのリアリティの高さに惹かれたということなのである。


 この点について難波氏は、自身が社会学に惹かれる原体験ともなった著作として、シカゴ学派に代表されるエスノグラフィの数々を挙げている。それらに倣うならば本書は、『闇金ウシジマくん』という作品を通して現代社会の様相を描き出した、「メディア・エスノグラフィ」であると評することもできるだろう。

 さらにこの点で言うならば、いわゆる都市社会学のモノグラフやエスノグラフィに連なるものとしてだけでなく、関西圏の社会学者を中心に発展してきた文学の社会学の系譜に連なるもの、あるいはその現代版と位置付けてもよいのではないかと思われる。


 それも、文学からマンガへと、単純にその表現方法が文字からビジュアルなものへと変わったというだけではなく、前者がどちらかといえば社会的な自己の問題を取り上げることが多かったのに対して、後者が(他者や周りの風景を描きこまざるを得ないマンガのメディア特性もあってか)リスク社会論のような広範な社会背景に迫る議論へとつながっていくというその対比も興味深い。


 このように本書は、マンガを入り口に現代社会を考えるという、一見たやすそうに見えて、実は―著者の豊富な学識も垣間見せながら―奥深い探究へと読者をいざなう著作である。


 一つだけ惜しむらくは、実際のマンガのシーンの引用が少ないために、「あああの場面か」と思いだすのに少し手間がかかることだが、その点については、現物の『闇金ウシジマくん』を傍らに置きながら、本書を読み進めていただければよいのではと思う。


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『ゲーミフィケーション―“ゲーム”がビジネスを変える』井上明人(NHK出版)

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「「ゲームの現実化/現実のゲーム化」」

 本書は、昨今のウェブ業界やマーケティング業界を席巻しているゲーミフィケーションという言葉について書かれたものである。冒頭で筆者も述べているように、この多義的な言葉の定義を明確化することが本書全体を通しての目的であり、実際の様々な事例を取り上げながら議論が進められていく。

 さて、ゲーミフィケーションとは、単なる「ゲーム化」とは異なった概念だ。「あるマンガ作品や小説が、ゲームになる」ということを指して「ゲーム化」というが、ゲーミフィケーションはそうした動きも含みつつ、もっと幅の広い概念である。


 例えば冒頭で紹介されているのは、著者を中心として行われた、節電をゲーミフィケーションする試みである。最初は、著者がツイッターで自宅の電気メーターの使用量の数値をつぶやいていただけだったのが、やがてそれを仲間と共有するようになるとともに、iphoneのアプリとしてリリースするまでに至ったのだという。このことを通して、単なる数値に過ぎないもの、あるいは電気の使用量を控えるというだけの行動が、明確に区切られた時間や場面設定の中で、数値化された目標を仲間と競い合うようなものへと変化していったのである。


 またこれは一例に過ぎないものであり、本書のP130~131の一覧表にも示されているように、ゲーミフィケーションには無数の可能性がある。


 こうしたゲーミフィケーションの動向について、その要点を著者は「補助線を引くこと」(P70)とパラフレーズしているが、これは分かりやすい喩えだろう。そこからも想像されるように、実はゲーミフィケーションという動向は、最近のものではなく、昔から存在していた。これも本書で取り上げられているように、いわゆる「万歩計」の類いがその好例である。ただの歩くだけ行動が、「数値化」という「補助線を引く」ことで、明確な目標が掲げられることになるのである。


 だがかつての「万歩計」との違いに注目すれば、やはりソーシャルメディアの普及を通して、こうしたゲームのリアリティを他者とリアルタイムに共有できるようになってきたことが重要なのだろう。それでいうならば、これも本書で取り上げられていることだが、SNSは人間関係のゲーミフィケーションと考えることができる。いうなればそれは、友人の数やコメントの数を競い合うようなものともいえるからである。


 本書が高い評価に値するのは、こうしたゲーミフィケーションという動向を、単なる新奇な現象として取り上げるだけでも、あるいはマーケティングに役立つという狭い視野で注目するだけでもなく、いうなれば、この社会のリアリティを根底から覆すような変化として、幅広い視野から論じようとしている点にある。この点で、ゲーミフィケーションを論ずる類書はいくつか存在するものの、それらを一歩抜きんでようとする野心にあふれた著作と言えると思う。


 ただそれで一つだけ言うならば、末尾の「付録2 ゲーミフィケーションの概念」については、少し残念なところがある。広義と狭義のゲーミフィケーションを区別して定義するのは卓抜なアイデアだと思うのだが、それならば、広義の概念はもっと冒険してもよかったのではないだろうか。「ゲームが社会的な活動にとって役に立つこと全般」と定義されているが、それこそ東浩紀がかつて『ゲーム的リアリズムの誕生』で論じたことに連なるような、「「ゲームの現実化/現実のゲーム化」に伴うリアリティの変容、あるいは社会変動」というぐらいに大きな動向として定義してもよかったように思われる。


 この点では、宇野常寛氏を中心とする『PLANETS vol.8-僕たちは〈夜の世界〉を生きている』(第二次惑星開発委員会)が、ゲーミフィケーションを拡張現実やソーシャルメディアといった概念と関連付けながら、より広範な社会的文脈から論じているので、そうした関連書とも合わせて本書を読むとより理解が深まることだろう。


 いずれにせよ、今起こりつつある新たな動向を理解するうえで、本書は格好の導入を果たしてくれる著作と言ってよいだろう。


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2013年02月27日

『ドイツにおける男子援助活動の研究―その歴史・理論と課題』池谷 壽夫(大月書店)

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「男性問題としての社会問題を意図的に考え直すこと」

 昨年(2012年)の11月に、『男性不況―「男の職場」崩壊が日本を変える』 (永濱利廣著、東洋経済新報社)という著作を紹介した際、成績優秀者には女子学生が多いのだと述べた。そのことからも察せられるように、就職活動においても、同程度の学力であれば女子学生のほうが好結果を残すようだ。寡聞にして、私自身の学生指導経験からしてもそうである。

 むしろ逆な言い方をすれば、1社も内定が出なかったり、そもそも就職活動に真剣に向き合わず、いわゆる「就活浪人」になってしまうのは、圧倒的に男子学生ばかりである。


 こうした状況に対して、当の男子学生たちに、「君たちには気合が足りない!」とか、「男らしく歯を食いしばって耐えるんだ、がんばっていればきっといい結果に結びつく」などと力強く励ますのは、おそらく間違っている。


 というのも『男性不況』の中でも触れられていたことだが、そうした「男らしさ」自体が、社会全体でみれば、徐々に不要のものへと変化してきているからだ。


 別な言い方をすれば、新たな変化を遂げていく社会の中で、旧来の「男らしさ」が不適応を起こしているのだともいえるだろう。こうした不適応は、深刻な問題にも結びつくようだ。すでに言われていることだが、自殺者に占める割合は男性のほうが多いし、いわゆる「少年犯罪」についても、主だった事件の犯人はみな男性である。


 こうした状況から我々が学ぶべきなのは、深刻な社会問題のいくつかが、実は男性問題であるということだろう。いわば深刻な社会問題のいくつかについては、その対処を探る際に、意図的にジェンダーの視点を導入する必要があるのだ。


 本書『ドイツにおける男子援助活動の研究―その歴史・理論と課題』でも、特に第7章で中心的に取り扱われていることだが、2000年代以降のドイツにおいては、こうした「男らしさ」の不適応に関する問題点は、「男子=敗者論」として注目を浴びてきたという。


 さらに本書によれば、イギリスなどにおける先行の動向の影響もあるようだが、その結果として、先端的な教育学者を中心に「再帰的な男女共学」という理念が持ち上がり、その中から「女子援助活動」とともに「男子援助活動」の重要性が謳われ、すでに実行に移されているのだという。


 「男子援助活動」というのも、まだ日本においてはあてはめようのない新規の概念に対して、著者が作り出した訳語だが、本書では、ドイツにおけるその実態と問題点を紹介するだけでなく、実行に至るまでの歴史的・理論的な背景にまで深く分け入った分析が展開されており、非常に読み応えがある。


 評者が特に印象に残ったのは、ドイツの事例を紹介しながら著者が唱えている「ジェンダーに公正な教育」という概念である。いわばそれは、「再帰的な男女共学」という概念とも対になるものなのだが、全ての性差を無くせばよいというような理想主義的な発想ではなく、より現実的に、男性に対しても女性に対しても、そして性的なマイノリティに対しても、公正な教育をすることを想定した考え方なのである。よって、間違っても男性が「敗者」となる現状に憤って、女性を攻撃対象とするような、いわゆる「バックラッシュ」といわれる動向に与するようなものではない。


 単純には比べられないかもしれないが、それでも日本と同様に、後発的な近代化を成し遂げると共に、その後ファシズムの嵐が吹き荒れ、「男らしさ」に独特の価値観が置かれてきたドイツ社会において、こうした先進的な取り組みがなされているということは、我々にとっても少なからず学ぶところがあると言えるだろう。

 昨今では、いくつかの自治体において、意図的に「“男性”相談」と名付けられた、男性たちの問題に関する相談事業が始められていると聞くが、その数はまだまだ圧倒的に少ないし、これまた聞くところによると、西日本と比べて東日本ではほとんど実施されていないのだという。


 こうした現状を踏まえても、本書は非常に高い価値がある著作だといって間違いないだろう。やや高価で、大部の学術書ではあるが、関心のある方にはぜひお読みいただきたい。(蛇足ながら、本書で書かれているようなことができるだけ多くの方に伝わるように、そのエッセンスをまとめた新書などが世に出ることを勝手に期待したくもある。)


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