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2012年12月29日

『第四の消費―つながりを生み出す社会へ』三浦展(朝日新聞出版)

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「個人化の果てに生まれた、消費社会の新たなステージ」

 現代は、個人化社会であるといわれる。人の手を煩わせずとも、ほとんどのことが自分一人でできるようになりつつある。ケータイやスマートフォンさえあれば、いつでもどこでも、好きな音楽を聴いたりゲームを楽しみながら、欲しいものを買うことができる。こうしたふるまいは、個人化した消費行動の典型例ということができるだろう。

 一方で、かつてボードリヤールが看破したように、消費とはコミュニケーションである。我々が消費をするのは、単なる欲求の充足としてではなく、記号的な差異化に基づいた連他的なコミュニケーションとしてである。


 とするならば、ここで一つの疑問がわきあがる。個人化が徹底された果てには、コミュニケーションとしての消費行動は一体どうなってしまうのかと。自分が欲しいものを自分のためだけに買って完結するならば、単なる欲求の充足に過ぎなくなってしまう。


 だが、本書で三浦展が示しているのは、それとは異なった見立てだ。三浦が主張するのは、むしろ個人化の極北においてこそ、新たな連他的コミュニケーションとしての消費行動が芽生えてくるのだという。それがかつての連他的なコミュニケーションと違うのは、あくまで個人に重点が置かれているという点だ。


 すなわち三浦の時代区分に従えば、戦前1912~1941年の第一の消費社会は国家のための、1945~1974年の第二の消費社会は会社や家庭のための消費の時代だったが、「滅私奉公」という言葉があったように、これらはあくまでも個人よりも集団に重きが置かれた時代であった。

 そして自分(個人)のための消費を行う、1975~2004年の第三の消費社会を経て、むしろ今日では、個人化した個人にあくまで重点を置きながら、新たな連帯が模索される時代が来たのである。


 その具体例として、本書では「シェアハウス」や「地域社会圏モデル」といった試みが取り上げられている。これらは三浦が現在力を入れて取り組んでいる試みでもあり、その点で彼のこれまでの業績を俯瞰的に眺めるという点からも本書は有用である。


 このように、今日の新たな消費社会状況をとらえるうえで、他の著作と違い、場当たり的に物珍しい事例だけを取り上げるのではなく、骨太な社会学的時代診断に基づいた分析がなされた本書の内容は説得的である。


 今日の社会状況に関心のある、幅広い読者にお読みいただきたい一冊である。


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2012年12月28日

『日本はなぜ敗れるか―敗因21カ条』山本七平(角川書店)

日本はなぜ敗れるか―敗因21カ条 →bookwebで購入

「「安倍晋三“想定外”内閣」成立時にこそ読み返すべき著作」

 先日行われた衆院選の結果、自民党が圧勝し、安倍晋三氏が再び首相の座につくこととなった。選挙での勝利それ自体については、大方の予想通りであったものの、その後彼らが進めようとしている政策の内容は、この社会の多くの人々が期待していたようなものというより、むしろ温め続けてきた念願を、自分勝手にでも押し通そうというものに見えざるを得ない。

 果たして、震災からも復興もままならない今日の日本社会において、憲法の改正が喫緊の最重要課題なのかどうかは疑問が残る(もちろん、そうした意見を持つ人たちが一定数いることは確かだとしても)。


 この点において、今後安倍内閣が無理にでもこうした政策を押し通そうとするならば、この社会は、2011年3月11日に引き続いて、様々な「想定外」の事象に見舞われ続けるのではないか、といっても過言ではないだろう。


 さて、日本社会のこうした状況を振り返るとき、やはり先の大戦に関するいわゆる「失敗の研究」の蓄積を顧みることが重要だという思いを強くする。その中でも、私が選んだのは、山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条』である。


 本書は、長らく未刊行であった雑誌掲載論文が、2004年に著作の形にまとめられたものだが、その内容は1970年代後半に書かれたものでありながら、未だに今日の日本社会にとって有益なものである。


 サブタイトルにもある「敗因21カ条」とは、本書でも山本氏が大きく依拠している、小松真一氏の『虜人日記』から引用したものである。同書は、小松氏が文官として戦地に赴き、さらに捕虜となった経験を踏まえて書かれた、戦争体験談と反省記であり、きわめて客観的に書かれたその内容に対して、山本氏は高い評価を与えながら、日本の敗戦の原因について分析を進めている。


 その内容のどれもが、今日の社会においてもなお当てはまってしまうところが多く、いかにこの社会が進歩のないままに今日に至ってしまっているのかをまざまざと思い知らされるのだが、特に評者の印象に残ったのは、「第二章 バシー海峡」の内容であった。


 すなわち、「21カ条」の中の第15条では「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」と触れているのだが、よく知られたミッドウェー海戦や南方諸島の敗戦ではなく、むしろ多くの人々にとっては馴染みのない「バシー海峡の損害」を重視しているところにこそ、この小松氏の指摘の的確さが表れているのだという。


 詳細は本書をお読みいただきたいが、そこでは、台湾とフィリピンの間の「バシー海峡」こそが補給路として最重点を置くべきところだったにもかかわらず軽視され、むしろ先に例示したような決戦における敗戦に見えるような事象は、兵站が延び切ったことによる半ば当然の結果なのだという指摘がなされている。だからこそ、忘れてはならないのは、そうした敗戦以上にも、「バシー海峡」という補給路を十分に確保できなかったことなのだ。


 恥ずかしながら私も本書を手に取るまで、「バシー海峡」という地名とその重要性を十分に理解していなかったのだが、そのように本当は極めて重要でありながら、跡形もなく忘れされていってしまうことがらが、この社会には多すぎるように思えてならない。


 とりわけ、福島第一原子力発電所事故の影響が、未だに続いている今日において、まるで何ごともなかったかのように、原発の新設や維持に向けた政策が打ち出される状況を目の当たりにすると、その思いを強くせざるを得ない。


 本書を、今このタイミングにこそ、多くの人々にお読みいただきたいと思う。


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『ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争』松谷創一郎(原書房)

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争 →bookwebで購入

「女子コミュニケーションの通史として」

 女子会という言葉がある。男子抜きで女子だけで気ままに集まる会合を意味しており、今や多くの人が知ることとなった言葉だが、先日、ツイッター上でその裏側の定義ともいうべきものを見つけて、思わず笑ってしまった。すなわちそれは、「欠席裁判でいない女子の悪口をみんなで言い合う会」というものであった。

 この定義からも分かるように、女子のコミュニケーションにおいては、多数派(この場合、女子会の参加者)と少数派(同じく欠席者ないし非参加者)の間に線を引いて、前者は後者のことを「変だよね、変わっているよね」と噂することで同調圧力を保ち、後者も前者のことを「周りに流されてばかりでつまらない人たち」と批判することで独自性を担保するという、いわば批判し合っているはずの両者の「共犯関係」ともいうべき関係性が存在しているということが重要なのである。


 そして本書『ギャルと不思議ちゃん論』において、著者の松谷創一郎が看破したのは、女子コミュニケーションを理解する上では、その内容よりも、むしろこうした「共犯関係」ともいうべき形式の方が重要であるということであった。すなわち、「多数派VS少数派」という形式のほうが長らく保たれてきており、その間では、コミュニケーションの内容がまるで180度入れ替わってしまったりもしてきたのだ。


 具体的に言うならば、1980年代に至るまでは、前期近代的な良妻賢母思想がほぼ残存し、多数派の女子とは、非性的な存在としての少女のことであり、むしろ性的に目覚めていたものたちは少数派として「不思議ちゃん」扱いされていた。


 それが、性愛的な快楽が席巻する1990年代を迎えると、むしろ性的に目覚めた(コ)ギャルたちこそが多数派に、そして少数派の「不思議ちゃん」こそはむしろ非性的な存在へと入れ替わっていくこととなったのである。


 こうした「多数派VS少数派」図式は、きわめて強固に、それも本書のサブタイトル(「女の子たちの三十年戦争」)が示すように長きにわたって、女子コミュニケーションを規定してきた。


 だが今後の展開については、さらに興味が惹かれるところもある。たとえば、著者も最後に示唆しているように、最近注目されている、きゃりーぱみゅぱみゅなどは、どちらかといえば「不思議ちゃん」に分類されるものと思われるが、かといって、かつての「不思議ちゃん」ほどマイナーではなく、むしろかなりメジャーな存在だと言ってよい。


 このように、「多数派VS少数派」を線引きするような共通の価値観(例えば性愛至上主義など)が弱り、個別細分化が進んでいくと、果たしてこの図式がどこまで続いていくのかという点については、疑問が生じてこざるを得ない面もあるし、事実そうした象徴とも言うべき女子たちが出現しつつある。


 しかしながら、こうした先々への視線を見開いてくれる上でも、そしてこれまでの女子コミュニケーションの整理された通史という点においても、本書は一読の価値のある著作といえるだろう。


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『受動喫煙の環境学―健康とタバコ社会のゆくえ』村田陽平(世界思想社)

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「ジェンダー地理学の興味深い実践例として」

 ふと考えてみたのだが、タバコを吸う女性とタバコを吸わない男性とでは、どちらが肩身の狭い思いをするのだろうか。

 今日の日本社会で考えてみると、特に女性の若年層における喫煙者の割合は、10年ほど前まで一貫して増加し続けてきたという。最近ではやや減少傾向も見られるようだが、その背景には、女性の社会進出の影響もあるのだろう。もはや男性と同等かそれ以上に活躍するキャリアウーマンの姿はまったく珍しいものではなくなったが、それとともに彼女らが過剰なストレスを抱え、その発散に嗜好品を求めるのだろうということも想像に難くはない。


 そう考えると、女性がタバコを吸っても以前ほどは肩身の狭い思いをしないようになりつつあるのかもしれない。だが、空間に関する分析を得意とする地理学的な観点からするならば、やや異なった見解がもたらされる。それはすなわち、いわゆる「喫煙室」が、依然として男中心の「男らしい空間」であって、そこではタバコを吸う女性は相変わらずに、肩身の狭い思いをし続けているかもしれないということである。


 あるいは、これも本書が的確に指摘しているように、タバコを吸うというふるまい自体が、そもそも「男らしさ」と強く結び付いてきたものなのだといってよい。とりわけTVCMなどでも描かれているように、タバコを吸うことが「男らしさ」を演出するための重要なアイテムの一つとして位置づけられ、それゆえに、タバコを吸わない男性たちは、長きにわたって「男らしくない」存在として、肩身の狭い思いをさせられてきた。


 分煙化が進む前の、それも女性の社会進出が今ほど進んでいなかった頃の、オフィス空間に思いをはせるならば、それは隅々にまで、まさにタバコの煙と「男らしさ」の充満した空間であり、生存適応できないものを強烈に排除してしまうような空間であったと言えるだろう。


 またオフィス空間だけでなく、吸い殻が散乱し、歩行喫煙者が闊歩していたかつての路上空間もまた、過剰に「男らしさ」の充満した、排他的な空間であったともいいうる。いわばそこは、子どもたちのような「喫煙弱者」にとっては、決してやさしい空間ではなかった(同様の点で、かつてのタクシー車内もそうした空間であったと筆者は指摘している。この点は、まさに評者も、子ども時代にタクシーに乗るたびに気分が悪くなった記憶があるので、強く同意するところである)。


 このように本書は、今日の日本社会における受動喫煙防止に向けた取り組みとその立ち遅れている現状や問題点などを、ジェンダー地理学の観点に基づきつつ独自の視点から分析しているところに価値がある。


 タバコを吸う方も吸わない方も、お互いにより快適過ごせる空間を考えていくために、ぜひ読んで頂きたい一冊である。


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