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2012年07月31日

『インターネットの銀河系-ネット時代のビジネスと社会』マニュエル・カステル著/矢澤修次郎・小山花子訳(東信堂)

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「望ましいネットワーク社会を考え続けるために~ネットワーク社会論の新たな古典」

 本書は、南カルフォルニア大学教授であるマニュエル・カステルによって書かれた学術書である。インターネット社会を理解するための、あるいはインターネットを社会学的に理解するための基本書の一つといえるだろう。

 原著は10年以上も前に書かれ、本訳書が刊行されてからもすでに3年がたつが、改めて読み直してみても、その面白さには変わるところがない。カステルの著作としては、1996~98年にかけての「情報の時代」3部作が知られているが、まだ邦訳が出そろっていない現時点においては、その情報社会論の骨子を知るうえで、本書の重要性は言うまでもないだろう。


 むしろ、変化し続けるインターネット社会の諸問題について、その表層的な目新しさに惑わされず、本当に重要なことを見据えながら対峙していくためには、これからも読み継がれていくべき名著だと思う(余談ながら、それゆえに今年度の評者の大学院ゼミの購読文献の一つともなっている)。


 すでに原著も訳書も刊行されてからある程度の時間がたち、さまざまに書評されてきた著作なので、特に重要と思われる点、印象的な点に絞って記してみたい。


 評者にとって興味深かったのは、本書が社会学的にある意味で徹底的にオーソドックスという点だ。カステルはその他の著作も読みやすいが、それはこうしたオーソドックスさにもあるのだろうし、だからこそ時代を超えて読み継がれうるのだと思う。


 たとえばそれは、本書が徹底して論じている「ネットワーク社会」という社会の在り方、さらにインターネットこそがまさにネットワーク的な存在であるものとして論じられていくプロセスに表れている。


 やや意訳してのべれば、「ネットワーク社会」とは、社会学の基本概念でいうところの、「ゲマインシャフト(前近代的な共同体」とも「ゲゼルシャフト(近代的な組織)」とも異なった、いわば第三の社会の在り方である。前者が、地縁や血縁といった身の回りの人間関係をベースとして営まれるならば、後者は、むしろ合理的な目的とその遂行のための明確な役割分担に基づいて営まれる。そして、「ネットワーク社会」は、このいずれとも異なった新たな結びつきようであり、だからこそ、そこには、今までとは異なった新たな成果が実を結ぶことがありうる。


 そして、そうした成果の最たるものが、インターネットそのもの誕生であり、さらにはインターネットがもたらしてくれるものなのだ。


 この点は、インターネット誕生の歴史的背景を記した1章に詳しいが、とりわけ重要なのは、よく言われるように軍事的な技術の開発を一つの源流に持ちながらも(核攻撃に備えて情報をネットワーク上に分散しておくため)、それだけに限らず、むしろ普通ならば結びつき得なかったような諸要素・諸機関が、それこそ偶然にもネットワーク的に結びついたことで、今日のインターネットが形作られてきたということなのだ。


 もし仮に、それが軍事部門だけが関わって発展してきたものであるのなら、きわめて管理の徹底された、今よりもはるかにクローズドなメディアになっていたに違いない。


 だからこそ、インターネットという存在が、常に論争を巻き起こしがちで、解決の困難な問題点を多数抱えたような矛盾に満ち満ちたものであるのは、いわば必然なのだ。


 個人的な感想だが、ネットワーク社会のもたらす成果に対して、カステルの楽観的な文体には多少なりとも勇気づけられるところもあり、またこれもよくあるミスリーディングだが、技術決定論ではなく、あくまでオーソドックスな社会学的知見に基づいて進められる分析にはやはり大いなる説得力がある。


 近代的な縦割り型組織の専門分化の中では、結びつきようもなかった諸要素が、偶然にも結び付いた結果、あたかも「化学変化」のごとくに、奇跡的にもたらされた成果が、インターネットなのだと言ってもよい。


 いわば、ネットワークの「創発特性」としてもたらされた成果がインターネットであるならば、様々な問題が生じた際の対応としても、そもそもが多少の矛盾や問題点を含みこんだ存在なのだととらえ返して、基本的には管理統制を強めるより、自由で開放的なコミュニケーションを維持するほうがベターだということになる。


 インターネット、あるいはネットワーク社会のもたらしてくれる実りや成果を保持しようとするならば、それを忘れてはならないということを本書は教えてくれるし、いくつかの事例に見られるように、昨今の日本社会におけるインターネットへの規制強化の動きについて考え直していくためにも、本書はやはり読み継がれていくべき価値を有した、新たな古典ともいうべき一冊だと思われる。


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『脱会議―今日からできる!仕事革命』横山信弘(日経BP社)

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「効率的な会議のあり方を考えるために」

 「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがある。多忙な合間を縫って、信頼のできる優秀な仕事仲間と意見交換をする時間をなんとか確保できると、頭を悩ませていた問題が一気に解決し、先行きが広がったという経験は幾度もある。

 その一方で、「船頭多くして船、山に上る」あるいは「小田原評定」ということわざもある。評者の経験でも、あるイベントをやるかやらないか、それだけを決めるのに、10時間近くにも及ぶ、それも数回にわたる会議に出たことがある。そこまでいくと、そのイベントをやるかやらないか以前に、無駄な時間を費やすその会議自体をやめることを真剣に考えるべきだったと思う。


 あるいは企業であっても、こうした無駄な会議の嵐に悩まされている人々は多々いる。現代の日本社会では、そのあり方が時代にそぐわない多くの組織が機能不全を起こし始めているようだ。


 機能不全に陥った時の基本は、やはり一歩引いた目から組織のあり方を見直し、より効率的なあり方へとゆるやかに適応していくことだと思う。だが、この基本的なことがなかなかできないようだ。


 多くの場合は、旧来のやり方にしがみついて、Aの問題を解決するための会議、Bの問題を解決するための会議・・・と増やしていき、しまいには増えすぎた会議を整理するための会議が行われる羽目になっていくようだ。


 こうした状況で社会学という学問は、組織の機能不全が、特定の個人の失敗に帰責されるようなものであるというよりも、むしろ社会変動の中で不可避的に陥りやすい問題であることを指摘できる。


 だが、実際にはこれだけでは不十分なようだ。社会学者である私も、しばしば「話し合ってもあまり意味がなさそうなら、初めから会議をやらないほうがいいんじゃないでしょうか」というような発言をついついしてしまい、その「空気を読まなさ」を指弾されたりする。


 そんなときこそ、まさに本書の出番であろう。上記したような社会学的な視点に基づきながら、さらに本書のような詳細で具体的な提案が加わることで、ようやく「脱会議」の見通しが立ってくるように思われる。


 例えば一番印象に残ったのは、会議の「自己目的化」を防ぐためには、会議を会議室でやったり、テレビ会議でやることには十分な注意が必要だという提案である。前者は、とりあえずその空間でそれらしいことをやっているという根拠のない安心感が満たされるだけになる危険性があり、後者は機械のトラブルなどに見舞われながら、結局実のある議論が進まないうちに、これまた何かをやったという感覚だけが残ってしまいやすいのだという(2章 会議の何が問題か)。


 他にも、すぐにでも取り入れてみたくなるような提案ばかりの本書は、身につまされながらも、楽しく読み進めることができる一冊である。そして、この先行きの暗い現代日本の中でも、少しは仕事の効率化が図れるかもという気にさせてくれる、ほのかな希望の書でもある。


 会議に振り回されている多くの方にぜひともお読みいただきたい。


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『気楽に殺ろうよ』藤子・F・不二雄(小学館文庫)

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「脱常識トレーニングのためのSFマンガ 」

 社会学は、よく脱常識の学問だと言われる。人々が「当たり前」のものとして自明視してきた考え方が、決して「当たり前」のものではないということ、すなわち、社会的、歴史的な背景をもって形作られてきたものであることを解きほぐしていくことを得意とする学問である。

 たとえば「自分という存在は、自分だけでなく、他者との関わり合いの中で存在している(=社会的自己)」、あるいは「男女の性差は、生物学的にだけでなく、むしろ社会的に作られてきたものである(=ジェンダー)」といった基本的な概念を見ても、そのことがよくわかる。


 だから社会学は、SFと相性がいい。空想の世界では、「当たり前」の常識から遠く離れることができるし、反実仮想的な作品の中では、新しい常識に基づいた社会のありようについての思考実験をすることができる。


 一方で、だからこそ、社会学もSFも敷居の高いものでもある。


 「○○さんは常識のある人だ」といった物言いが、しばしば肯定的な意味合いで語られるように、常識を疑ってかかるようなふるまいは、ごく普通の日常生活を送る中ではなかなかやりにくい。


 大学に入学したばかりの若者たちも、常識にがんじがらめになっていて、「常識破壊ゲーム」としての社会学的な思考を植え付けようと思っても、大いに苦労する。ましてや、そんな最中に、わざわざ重厚なSF作品を読もうという気にはならないだろう。


 そんなふうに、ふと日常の常識を問い直したくなった時、(あるいは私ならば)初学者にそのことを教え疲れた時に、ぜひ読みたいのだが、藤子・F・不二雄のSFシリーズマンガである。


 藤子氏は、ドラえもんなどの作品で知られた漫画家だが、著名な作品群とともに(あるいはおそらくこうした作品を生み出す背景として)、短編のSFマンガをいくつも記している。今日でも複数のシリーズが刊行され、文庫化もされているので、コンパクトに読み進めることができる。


 その多くは、私が生まれた頃かその前に書かれたような作品である。だが私は、幼いころから兄の本棚から拝借して繰り返し読み、今でもほとんどのシリーズを買いそろえて、事あるごとに読み返しているほどのお気に入りである。


 中でも特にお勧めしたいのは、独特な作品が集められた『藤子・F・不二雄[異色短編集]2 気楽に殺ろうよ』である(やはり、本書も含めて、早い段階に描かれた作品に傑作が多いように思われる)。


 表題作にもなっている、「気楽にやろうよ」はなかなかショッキングな作品だ。ある男性が何気ない月曜日の朝に、激しい衝撃を受けるとともに、見た目はほとんど変わらないのだが、少しだけ常識の異なったパラレルワールドに巻き込まれてしまう。そこでは、性欲と食欲のとらえ方が逆転していて、前者をオープンに、後者を恥ずべきもの(カーテンを閉め切って静かに食事をし、外食などありえない)にとらえていたり、また殺人についても権利書を持てば合法的に行うことができるのだという。


 この男性は、カウンセリングを受けることになるのだが、そこでは「いっさいの常識とか固定観念なんかをすて」ることを求められ(P236)、自分がこれまで持ち合わせてきた常識からはかけ離れているその社会であっても、それはそれで成り立っていることを、諭されていくことになる。


 物語にはその先もあるのだが、このように常識を一歩引いた視点から見直し、さらに、自分の常識とはかけ離れていても成立する社会が存在することを理解するプロセスは、まさに社会学的思考の基本中の基本とも言えるものである。

 さて、あまりにも著名すぎる漫画家の、よく知られた作品を、いまさらに取り上げるのには、もちろん理由がある。


 それは、現在の日本社会が、まさにこれまでの常識を見なおしながら、新しい社会のありようを真剣に考え直さなくてはならないタイミングに来ているからだ。脱原発問題しかり、社会保障問題しかり、である。


 これらの問題に共通しているのは、小手先のごまかしがきかず、我々の常識を塗り替えつつ、社会のあり方を根本から問い直していくような徹底的な対策が必要ことだ。


 その一方で、諸々の重大な問題が山積しつつあるにもかかわらず、社会全体を巻き込んでいくような関心の高まりが見られない現状にはやや危惧を覚えざるを得ないところもある。


 この点は、同じく本書に収められた「大予言」というごく短い作品が趣深い。著名なタロット占い師が4~5年越しの重いノイローゼにかかり、なにか重大な未来を予知したかららしいと聞きつけた弟子が面会に行くという作品である。占い師は、弟子の問いかけにこう答える。


「予知?わしはなにも予知なんかせんぞ!!
「自分たちの滅亡を予言されて。平気な顔をしてられるみんながこわい!」
「有効な対策もないくせにさわごうともわめこうともしない世界人類がこわい!!」
(P34~35)

 「明日をも知れぬ命の日本社会」というのは大げさかもしれないが、ともすると福島第一原発事故の記憶が薄れかねない昨今の状況を見ると、この作品中の占い師の恐怖や危惧がわが身のことに感じられるといっても過言ではない。


 だがマンガには結末がある一方で、やはり我々は連綿と続いていくこの社会の未来を考え続けなければならないだろう。その際に、常識を問い直す社会学的な思考の重要性は間違いなく高まっている。


 その際に、社会学という学問世界や、あるいは重厚なSF作品では敷居が高すぎるなら、作者が遺した言葉に倣って「すこし不思議(Sukoshi Fushigi)」なマンガからトレーニングを積み重ねていくというのも、大いにお勧めしたいところである。


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