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2012年06月30日

『「女子」の時代!』馬場伸彦/池田太臣 編著(青弓社)

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「「女性学」から「女子学」へ」

 大学、あるいはその他の教育機関でも同様だと思うが、「男子よりも女子の方が元気がいい」という傾向が顕著である。例えば、成績優秀者をリストアップすると、決まって上位は女子が独占するといった傾向が見られるようになって久しい。

 いったい、いつ頃から女子の方が元気がよくなってきたのかと振り返って見た時、評者の経歴を振り返れば、すでにその少年時代からそうした傾向が見られた。


 評者は現在、いわゆるアラフォーとアラサ―の中間の年齢だが、同年齢層の女子たちは、いわゆる「アムラー」、あるいは「(コ)ギャル」と呼ばれたように、90年代の消費文化を席巻していたことを思い出す。あるいは、評者には10歳ほど年上の姉がいるが、ほぼアラフォーに位置づく彼女たちは、まさにバブルを謳歌し、就職活動も売り手市場だった。このように評者からしても、すでに元気な女子に囲まれて育ってきたことが思い出される。


 さて本書は、こうした元気のいい女子たちの文化に焦点を当てた論文集であり、主に関西在住の研究者で構成された「女子学研究会」の研究成果であるという。編者をはじめとして、ほとんどの著者が甲南女子大学に所属しているというのも興味深い。というのも、これも本文で触れられているように、同大学の学生は、『JJ』(光文社)が1975年に創刊された際に理想的な読者層として想定された対象だったからである(P58)。


 そして、ファッション雑誌だけでなく、マンガ、オタク、鉄子、K-POPと、今日活発化する女子たちの文化をとらえるための対象が適切に選択されており、どの章から始めても、面白く読み進めることができる。


 こうした女性たちの文化に注目した研究としては、ひと頃まではその社会的な地位向上を志向したフェミニズム的な「女性学」が中心を占めていた。本書にはその残り香が全く感じられない・・・、とまでは言わないものの、それでもそうしたこれまでの「女性学」とは一線を画しているところに、新しさと面白さがあると言えるだろう。


 海外でも、「ポストフェミニズム」の名のもとに、一定程度の地位向上を達成した女性たちの文化を、「被抑圧者」のそれとしてではなく、むしろ肯定的に評価すべきものとしてとらえ返していこうとする研究がなされつつあるという。本書は、一面ではそうした潮流に位置付けられるものであると同時に、さらにそれを日本社会の独特の文脈に位置づけなおしたもの(まさに“女子学”!)として、高い評価に値するだろう。


 強いて一点だけ問題提起するならば、こうした「“女子”文化」が、今後も下の世代の女性たちに受け継がれて続いていくものなのか、それとも一過性のものなのかという点については、今後の検討をさらに期待したいと思う。


 というのも、こうした元気のいい「女子文化」は、最初に記したように、現在のアラフォーやアラサ―たちといった、華やかなりし頃の消費文化の下で育った年齢層たち(=コーホート)に特有の文化に思われて仕方ないからだ。


 したがって評者からすれば、こうした文化は下の世代に継承されるものというよりも、現在のアラフォー、アラサ―たちの年齢層が上がるとともに、そのまま持ちこされていくものなのではないかと思いもする。逆にその下の世代では、専業主婦志向の高まりなど、「保守回帰」的な傾向も見られるだけに、なおのことそうした思いが強まるのだが、いずれにせよ、そうした先々の研究展開の可能性まで感じさせる興味深い著作として、本書を多くの方にお読みいただきたいと思う。



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『ヤリチン専門学校―ゼロ年代のモテ技術』尾谷 幸憲(講談社)

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「男性側から「性愛至上主義」の崩壊を描いたルポルタージュ」

 本書は、かの「東スポ」こと「東京スポーツ」紙に連載された記事が元になったものであり、その点からも、半分以上は「ネタ」として差し引きつつながら、面白がって読み進めるべきなのだろう。だが、それでもなかなか他書が踏み込めていないような現状が描かれた、興味深いルポルタージュとして評価に値するものとして紹介したい。

 まえがきでも記されているように、この本の本来の目的は、「彼ら(=カリスマナンパ師。※評者補足)が日々使っているモテ技術をあますことなく紹介していく」ことにあったのであり、いわゆるナンパ指南術的なマニュアル本を意図して行われたインタビュー集だったのだという。


 ところが興味深いことに、その意図とは裏腹に、むしろそうした高等なテクニックを必要としたような、「80年代あるいは90年代的な」性愛至上主義的な文化がすでに崩壊しつつあることが、結果的に記述されることとなってしまったところに、本書の最大の面白さがある。


 それは、今の若い女性たちが「高い店を嫌う傾向があり」、「オシャレな雰囲気を楽しむより、気楽に飲んでダラダラと話すのが好き」なため「居酒屋を支持する女性の方が圧倒的多い」(第四回 安い居酒屋はモテる!)ということや、「高いブランド物を着てればモテるなんて発想自体が古い」(第八回 ブランド信仰は終わった)ということ、あるいは、多数のクルマが乗り付けたナンパスポットがもはやクルマオタクの社交場と化し、女性たちには「車に対する思い入れがない」(第九回 車ナンパの時代の終焉)といった記述などに典型的に表れている。


 いわば、半ばゲーム感覚に記号的な消費行動を競い合い、その延長線上のゴールとして性愛行動が位置づけられていたような文化は、すでに遠い過去のものとなってしまったのだ。こうした変化を鮮やかに、それもリアリティをもって描き出したところに、本書の価値があると言えるだろう。
だがその一方で、本書が描き出しているのは、若者が性愛行動から完全に撤退してしまったということでもない。それはいうなれば、消費行動の先の至上のゴール(=性愛至上主義!)ではなく、もはや複数あるうちの一つの楽しみ(=ワンノブゼム)になったということなのだ。


 そしておそらく、こうした変化を先取りしているのは、男性よりも女性たちなのだ。だからこそ、しばらくの間、男性たちは「置いてけぼり」を食わされているのだろう(いわゆる草食系男子もこうした「置いてけぼり」の状態なのだと理解することができるのではないだろうか)。


 そして置いて行かれた男性たちが、女性たちとの新しい向き合い方を求めた取り組みの一つとして、本書が位置づけられよう。このように「講談社アフターヌーン新書」には、一風変わった視点から、新しい性愛や関係性を描いた好著が多い。そのタイトルからしても、誰もが手に取りやすい著作ではないが、新しい時代の性愛文化を考える一冊として本書をお勧めしたい。


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2012年06月29日

『鉄ヲタ少女』久寿川なるお(エンターブレイン)

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「鉄道オタクが自分を「客観視」できる貴重なマンガ」

 オタクとは驚くほど周りが見えていない存在である。だから、しばしば顰蹙を買うような行動を平気でするが、鉄道オタクはその最たる例かもしれない。駅などで、周りの乗客の迷惑も顧みずに、勝手な行動をしている鉄道オタクを見かけた人も少なくないだろう。

 それは、オタク達が自分を「客観視」できてないということでもある。あまりにも一途に、対象に入れ込むためにそれ以外のものが見えていないのだ。


 こうした一途さは、かつてならば「ハカセ君」的な熱心さとして肯定的に評価されていたものかもしれない。だがこれからの時代は、オタクであれ、あるいはそうではない人であっても、何かに「ハマ」っている自分を「客観視」しながら、自覚的に生きていかなければならないと思われる。


 その理由としては、他人に迷惑がかかるから、ということ以上に、「ハマ」るべき楽しみの対象が多様化している今日においては、どうしても思考が狭小化しがちだからである。自分が楽しいと思い込んでいることであっても、知らない間に狭い世界に閉じこもっていて、実はもっと楽しい世界が広がっているのを見落とすことがままありうる時代である。


 この点で、これまでにも指摘してきたことだが、元々、鉄道オタクとマンガとは相性が悪い存在だった。鉄道オタクが「ここではないどこか」に強い思いを寄せる存在だとすれば、マンガの文化は、主としてその作中の理想化されたキャラとの「いま、ここ」の関係性への耽溺を志向しがちだからである。だが、この両者の世界をうまく「連結」させたマンガとして、本書を高く評価したいと思う。


 その内容だが、主人公の女子高生十河ひびきは、成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗にして、ごくわずかな欠点といえば、「まな板のような胸」と「鉄道オタク」であることだと言われていた。だが当人は、多少は周りの目を気にしつつも、臆することなく、鉄道趣味にのめりこんでいき、同じ高校の鉄道オタク男子や、女性鉄道ファン(鉄子)仲間との交流も広めていく。


 こうした主人公のキャラ設定自体は、ややあり得ないものかもしれないのだが、それ以外のストーリーについて、他の鉄道オタク的なマンガ作品と比べると、比較的説得力があるところに本作の特徴があるといえよう。


 一つには、主人公の女子高生がいわゆるオタク系作品におけるような、萌えキャラの要素が比較的薄いという点を指摘できよう。その何をさせても及第点をこなす万能ぶりは、まるで電気機関車の「EF81」みたいだと作中で喩えられているが、いずれにせよ、男性オタクが一方的に思いを寄せるような、(例えば、理想の妹の存在のような)典型的な美少女キャラではない。


 そしてもう一つには、何よりも作中での男性鉄道オタクが、主人公のいとこや同級生男子を含め、きちんと「キモい」存在として描かれ、リアルであるということである。他に、鉄道オタクが理解しがたい存在として描かかれた良作のマンガとして、『鉄子の旅』も挙げられるが、そちらでは、結局のところ英雄視されてしまう点からすると、こちらの作品の方が、一般的な鉄道オタクの様子としてリアルであろう。


 だが彼らは、ややアンコミュニカティブではあるものの、それはあくまで、鉄道に対してピュアに思いを寄せているからであり、その熱心さゆえに、やがて主人公とも徐々に打ち解けて、一緒に鉄道趣味に打ち込んでいくこととなる。その後、関西出身の鉄子も加わって広がっていく趣味の世界は、今までの鉄道オタクの世界にはなかったような楽しみ方も感じられて心地良い。


 このように本書は、鉄道オタク文化の新しい広がりの可能性を感じさせてくれる好作であるが、一冊で完結してしまった点が非常に惜しまれる。ぜひ続編を期待したい。




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『21世紀メディア論』水越 伸(放送大学教育振興会)

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「メディア論テキストのニュー・スタンダード」

 本書は、放送大学の大学院向けに書かれたものであり、私も今年度前期の大学院ゼミでの購読テキストに指定した。だがそのわかりやすさと内容の濃密さからして、一定レベル以上の大学であれば、読み応えのある学部テキストとしても使ってほしいと感じた。

 さて、その内容だが、まずもってバランスの良さという点が長所として挙げられるだろう。著者が旧来専門分野としていた、メディアの生成段階に関する社会史的な記述に始まり、新たに普及の進むメディアや、あるいは日本社会における独特の問題点、さらに、メディアを考察する上で求められるべき理論的な視座の検討にまで及ぶ。


 その上で、近年著者が強い関心を寄せている、メディアリテラシーの実践的な取り組みに関する検討や紹介にも重点が置かれ、この先のメディア社会に対する提言も十分に含んだ内容となっている。


 日本社会において、これほど多岐にわたる内容をバランスよく取り上げたメディア論テキストは、寡聞にしてほとんど存在しないといってよい。伊藤守編著『よくわかるメディア・スタディーズ』(ミネルヴァ書房)も、本書を凌ぐ幅広い領域を取り上げている良書だが、本書は一人の著者によって一貫して書かれている点でも価値がある。


 実際に講義を担当する教員の一人としても痛切に感じることだが、(あるいは、この領域に限らず近年のアカデミズム全般にも言えることだが)タコつぼ化の進行は本当に顕著で、総合的な視点を教え込むのに、本当に苦労する時代である。


 メディアについて言えば、旧来からのマスコミ論だけでなく、新しいメディア(ケータイやインターネットなど)についても教えなければならないし、これからの時代を見据えるならば、机上の空論よりも、むしろ実践的な内容も織り込まなければと思いもする。


 だが、大学というのは意外に時代への適応が遅いところであり、出版論、通信論、放送論といったように、それぞれには重要であるものの、個別化した講義の設定がなされる一方で、これらの俯瞰する総合的な視点を学ぶ機会がなかなか存在しなかった。


 この点で、様々なメディアの動向を一つの生態系になぞらえてとらえようとする「メディアビオトープ」という著者の概念は、ユニークであると同時に、まさにこうした目的にかなったものと言えるだろう。


 さらにこの「メディアビオトープ」という概念が、単なる分析のためだけでなく、望ましいメディア社会を構想していくために、実践的に用いられている点からもしても、今後の研究や実践に関する展開可能性を強く感じさせる良書だと言える。


 強いて一点だけ述べるならば、この「メディアビオトープ」を繁茂させていくための原動力として取り上げられている「メディアリテラシー」や、あるいはその根底にある「メディア遊び」の実例について、いわゆるオタク文化やファン文化の事例が取り上げられなかったことが残念でならない。


 著者は、「メディア遊び」を「メディアと人間の関係性を批判的にとらえ直し、新たな可能的様態を探る営み」(P171)と定義し、いくつかの事例を紹介しているのだが、そのようなメッセージ性を持ったコンテンツの創造であったり、あるいは新たなコミュニケーション形態の発展については、日本社会では、まさにオタク文化こそがその先鞭を担ってきたと言えるのではないだろうか(たとえば、既存のマスメディアとは違った流通経路としての「コミケ」や「インターネット」、あるいはそこで新たに創造されてきた諸々のアニメやマンガ作品などを想起するとよい)。


 しかしながら、この点を差し引いても、本書は、現在の日本におけるメディア論のテキストとして、これまでとは一線を画した、新しいスタンダードに位置付けられるものとして高い評価に値するものである。ぜひ幅広い読者層に、読んで頂きたい一冊である。


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