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2012年05月31日

『文化のダイヤモンド―文化社会学入門   (原書名:CULTURES AND SOCIETIES IN A CHANGING WORLD)』ウェンディ・グリスウォルド 著 / 小沢一彦 訳(玉川大学出版部)

文化のダイヤモンド―文化社会学入門   (原書名:CULTURES AND SOCIETIES IN A CHANGING WORLD) →bookwebで購入

「グローバル化する文化を記述するためのモデルの探究」

 現代社会はグローバル化の進展が著しいが、それは我々が日々享受するポピュラー文化についても例外ではない。

 一国あるいは一つの社会内だけでというよりも、幾重にも複雑化した状況下で文化を楽しむことが増えてきている。それは、歌詞が日本語の曲を歌うK-POPアイドルの現象であったり、あるいは、もともとはアメリカの影響を強く受けてきたジャンルである、日本製のアニメを通して日本語を学ぶ諸外国のファンがいたりというように、枚挙にいとまがない。


 このように、現代社会とともにますます複雑化するポピュラー文化の状況は、いかにとらえられるべきなのだろうか。


 この点について、旧来のモデルにきっぱりと別れを告げ、新たなモデルの提示とともに示唆を与えてくれるのが、アメリカの社会学者ウェンディ・グリスウォルドによって書かれた本書『文化のダイヤモンド』である。


 この和訳書は1998年に出されたものだが、原書は1994年に出されたのち、社会状況の変化とともに改訂を加えられ、2012年現在、第四版が出るまでに至っており、まさに文化社会学のスタンダードなテキストの一つといってよいだろう。


 さてその特徴は、まずもって、ポピュラー文化現象を単純な「説明」要因に帰属させるような旧来のモデルを明確に退けているところにある。


 ここでいう旧来のモデルとは、いわゆるマルクス主義的な下部構造決定論であったり、マスメディアのメッセージの効果を過剰に強調する強力効果論などを想定するとよい。社会成員が特定の目標を共有しやすい、近代過渡期の社会ならばともかく、後期近代の成熟社会においては、もはやそのように特定の要因から「説明」できるほど、ポピュラー文化現象は単純なものではなくなっている。


 あるいは、この現象は日常的に身近に楽しまれているものであるだけに、客観的にとらえることが難しいともいえるだろう。それゆえに素朴な「肯定論/否定論」であったり、あるいは「有益な文化/有害な文化」、もしくはもっと単純に「正しい/間違っている」「好き/嫌い」といった二分法的な議論ばかりがまかり通り、まっとうで深みのある議論がなされてこなかったのだと言える。


 こうした点を踏まえて、グリスウォルドが提示するのは、むしろポピュラー文化現象に関連する、主たる存在や社会状況相互間の関連を考慮した、「説明」というよりも「記述」することに重きを置いたモデルであり、それこそが「文化のダイヤモンド」なのである。


 日本語としては「ダイヤモンド」というよりも「ひし形」といったほうが正確なのだが、その左端に「(※文化の)創造者」を、右端に「受容者」、上端に「社会的世界」、下端に「文化的表象体」を位置づけて、これらをたがいに線で結んだ「ひし形」を描いた上で、グリスウォルドは「ある特定の文化的表象体を完全に理解するには、四つの点と六本の線をすべて理解する必要がある」(P32)と述べ、一定の複雑さを保持したままに、複数要因の絡み合った現象としてポピュラー文化を記述することを提言している。


 このことを通して、ようやく素朴な「肯定論/否定論」であったり、単純な「説明」要因に帰結させたりする議論を退けて、ポピュラー文化現象に客観的にアプローチすることができるのだという。


 同じようなモデル化の試みとして、他には、「表象」「アイデンティティー」「生産」「消費」「規制」という5つのプロセスの組み合わせから記述しようとするポール・ドゥ・ゲイの「文化のサーキュレーションモデル」なども挙げられるが、むしろ旧来のモデルとの対比のしやすさなどを考えると、評者は本書のほうに軍配が上がるように思われる。


 しかし、だからといって本書で提示された「文化のダイヤモンドモデル」が最終回答であるわけではない。それが記述のためのツールであるならば、ますます複雑化し発展していくさまざまなポピュラー文化現象へのアプローチの記述を通して、より適合的なモデルへとさらに洗練していく努力が求められるといえよう。


 実際に日本においても、社会学者の佐藤郁哉らによる、学術書の出版をめぐる文化現象の記述に用いられた前例があるが(佐藤郁哉・芳賀学・山田真茂留『本を生み出す力』新曜社)、今後もさらに多様な実用例を積み重ねていくことが期待されよう。

※補注は評者。


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『世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』辻田 真佐憲(社会評論社)

世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代 →bookwebで購入

「あの麻木久仁子氏もtwitter上で所望した貴重な網羅的資料集」

 はじめに、で書かれているように、本書は「軍歌の標本」となるべく、「世界各国の軍歌をひとつの素材として取り上げることで、各位の興味や趣向にあわせて随意に翫賞してもらうこと」を目的としたものである。

 よって取り上げる素材に比して、おどろくほどその内容はイデオロギッシュなものではない。国粋主義的な視点からそれを称揚するのでもなく、左派的な視点からそれを批判するのでもない。


 それゆえにこそ、バランスよく多様な軍歌がちりばめられた本書は、まずもってその網羅的な資料集としてのハンディな価値を評価すべきなのだろう。


 だが、ある意味で筆者の意図したとおりに、その資料集は私(=評者)の社会学的な問題関心を幾重にも刺激してやまないものであった。


 以下、箇条書き的にいくつか感想を記してみたい。


 まず本書を通して、軍歌というものの特徴を、一歩引いた目から改めてよく理解することができた。本書では書籍自体の内容と合わせて、動画共有サイトでの視聴が勧められている。そこでの動画視聴から感じられたことは、やはり軍歌はともに歌うものなのだということであった。(そのことの良し悪しは別として)リズムを共有させて一体感を増すことで、統率がとりやすくなるのは明らかであろう。


 この点について評者は、幕末から明治初期を描いた手塚治虫の名作『陽だまりの樹』において描かれている、急きょ集められた農民たちを統率するのに苦労していた指揮官が、いわゆる「農兵節」を歌わせることで、うまく統率できるようになったというエピソードを思い起こした。


 次に感じたのは、その勇ましい歌詞において、「敵味方モチーフ」がほぼ共通して存在しているという点である。(当然といえば当然であるが)共に歌う我々と、それに敵対する相手という二分法は、ほぼ各国の軍歌に共通するモチーフであり、この点でも、軍歌という音楽が、近代国民国家間の戦争とともに発達してきたジャンルであることが改めて思い知らされた。


 しかし、ここからがより重要なのだが、戦争の世紀とも言われた20世紀を過ぎ、21世紀の今日において、こうした軍歌という存在に象徴された「敵味方二分法」的なコミュニケーションが消えうせたのかといえば、まったくそうではないだろう。


 たとえば、戦争放棄をうたった日本国憲法下の戦後社会において、それはアニソン(とりわけ少年向けのそれ)に、受け継がれたといえるのではないだろうか。ヤマトしかり、ガンダムしかりだが、そのアップテンポなノリの良さと勇ましい歌詞という組み合わせに基づくアニソンというジャンルは、戦前の軍歌からの継続性の上に理解するべき文化なのではないかと思われる(実際に本書においても、軍歌を収集した代表的なインターネットサイトの中で、アニソンが同時に紹介されている事例が掲載されている)。


 そして、このアニソンというジャンルが、日本社会に特徴的な存在であるならば、他の社会では、どのように受け継がれているのか、という風に議論を展開することも可能だろう。具体的には、スポーツの応援歌などと比較検討することも興味深いし、社会主義圏と自由主義圏とでも事情が違ってくるだろう。


 このように、幾重にも議論の広がりが導かれていくところが本書の最大の魅力であるといえる。


 さらにここで筆を滑らせるならば、こうした国際社会的な深刻な問題点を、日常的で身近な文化的素材を切り口にして考えさせてくれる著作を出し続けている点において、出版元の社会評論社のスタンスもまた高い評価に値するものといえるだろう。

 本ブログでも、過去に2度ほど同社の著作を評したことがあるが(伸井太一『ニセドイツ』、曽我誉旨生『時刻表世界史』)、いずれも同じようなスタンスに貫かれた魅力的な著作であった。


 こうした著作群は、(失礼を承知で申し上げれば)決して爆発的なベストセラーになるようなものではないのだろうが、その一方で、「ロングテール」な熱狂的な読者を手堅く魅了するものでもあるだろう。


 この点で、この書評のタイトルは、いわゆるマスメディア広告的な安い売り文句に見えて、実はそれなりの含意を持っている。


 それは、先にも述べたとおり、帯文において動画共有サイトでの視聴が合わせて勧められていることと大きく関連するのだが、言うなれば、本書が「ソーシャルに楽しむ著作」、あるいは「ソーシャルメディア上のコミュニケーションを通して、より楽しむべき著作」ということだ。


 本年のNHK大河ドラマ『平清盛』が、大多数には不評である一方で、一部においては、その複雑な設定について、ネットでその背景を調べたり意見交換したりといった、「ソーシャルな視聴の楽しみ」が広まっているといわれるが、まさにこれと似たような楽しみ方が、本書のような著作においては、特にあてはまることだろうと思う。


 そうした「分かる人には分かる」ような「ソーシャルに楽しむ著作」が、今後も刊行されることを願ってやまない。


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『孤立の社会学―無縁社会の処方箋』石田光規(勁草書房)

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「孤立をめぐる学際的研究の可能性」

 本書の魅力は、今日の日本社会における孤立という問題点をめぐって、その学際的研究の可能性を感じさせる点にある。言うなれば、孤立を社会的事実としてとらえたうえで、多角的にその背景を分析したうえで、現実的な処方箋の提示に向けた議論を展開している。

 孤立が「社会的事実」であるというのは、およそそれを深い悩みとすることが、他の生物に比して、社会生活を営む人間に特徴的なふるまいだと考えられるということだ。


 つまり、孤立という社会的事実、ないしそれを社会的な問題点たらしめている(あるいはそのように感じさせている)背景要因を的確に整理するところから、本書は始められている。


 そこで、取り上げられているのは、流行語ともなった「無縁社会」である。この語が流行したことについて筆者は、孤立という問題点に注目を集めさせたことには一定の評価を与えつつも、むしろ社会的な問題点を隠ぺいすることになってしまったのではないかと批判する(1章)。


 すなわち孤立という現象が、単に「最近、隣の人が冷たくなった」というような、個別な人間関係の希薄化として切り下げられることで、社会的弱者の排除や、家族構造の変化、中間集団の弱体化といった社会問題の探求へとは至っていないのではないかということだ。


 そこで筆者は、こうした広範な社会状況の変容に十分な目配りをしたうえで(2章)、客観的な質問紙調査のデータ(JGSS2003)を主として取り上げつつ、実際に孤立している人々がどのような特徴を抱えているのかを明らかにしている(3章~6章)。その結論を簡潔に述べれば、「孤立の問題は個人の保有資源の不平等ではなく、特定の属性の背後に潜む不平等にある」(はじめに、ⅲ)のであり、「すなわち、家族関係に問題がある人、男性、高齢者、地方生活者に孤立の傾向」(同、ⅳ)が目立つのだという。


 そのうえで、こうした孤立という現象の社会的な背景を踏まえたうえでの、現実的な処方箋に向けた議論を提起し、本書は締めくくられている(終章)。それは、伝統的な絆への回帰だけを目指すのではなく、また市民社会的な新たな連帯だけを目指すものでもない。いわば、家族関係を実存的なホームベースとして、一定の必要範囲において再帰的に営みつつも、基本的には新たな連帯の可能性へと開いていくための社会制度が求められるという、いわば第三の道を志向するものである。


 こうした一連の内容からもわかるように、本研究の内容は実に学際的である。それは、筆者の専門領域が、伝統的な連字符社会学の領域名ではなく、(パーソナル)ネットワーク論としか言い表しようがないという点にも特徴的に表れていよう。


 もともとこうしたパーソナルネットワーク論は、都市社会学などで進められてきたものだが、筆者の研究は、その範疇を大きく超えた射程を持つ。具体的には、家族社会学であったり、ジェンダー論や、あるいは社会福祉論ともかかわってこよう。


 それはこの孤立という社会問題が、まさに学際的であり、領域横断的にしか対処なしえないものであるということを示唆しているのだろう。


 この点で、多角的な視点から、孤立という問題の背景に取り組んだ本書の姿勢は高い評価に値しよう。

 その一方で、本書には問題点がないわけではない。


 一つには、中間集団の弱体化が論じられ、各種のデータに基づいたその議論にはおおむね首肯できる点も多いのだが、同じ社会問題でも、いじめを取り扱った議論などでは、むしろ違った視点も見られるという点である。例えば内藤朝雄氏などは、むしろ日本社会において、学校や職場が他に選択肢のない強大な中間集団として君臨していたがゆえに、そのストレスフルな状況がいじめの背景にあるのだという。いわば孤立というよりも、所属の強制的な中間集団における病理とでもいうべき問題点である。筆者はこの点を、どう考えるだろうか。


 また本書では、孤立の背景として個人化という大きな社会変動を指摘しているが、この点は、インターネットや携帯電話に代表される情報メディアの進展と深い関連があろう。他者と連帯しないライフスタイルを営む上で、これらのメディアは不可欠のインフラを成すものと考えられるが、本書ではこうした情報行動との関連はあまり論じられていない(ただしこの点は、筆者に期待するよりも、むしろ評者自身の問題関心によるものなので、共同研究のような形で深めていくべきかもしれないが)。


 だが、こうした点は、単に本書の問題点というよりも、むしろこれからの研究の発展と広がりを感じさせるものととらえるべきなのだろう。


 まさに喫緊の課題について、冷静な視点に基づき、客観的なデータを用いて実証的に検討し、幅広い可能性を感じさせる成果を導いた本書を高く評価したいと思う。


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『のりもの絵本―木村定男の世界 <1><2>』関田克孝 監修・文(フレーベル館)

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「ホンモノよりもリアルな「のりもの絵本」の世界へ」

 かつて、「のりもの絵本」というジャンルがあった。鉄道を筆頭に、自動車や飛行機といったさまざまな乗り物が、おおむね小学校入学前か低学年の子ども向けにわかりやすく、描かれた絵本であった。
   本書の解説を担当している関田克孝氏によれば、およそ明治中期から大正期にはその萌芽が認められ、戦前に一時的な発展を見たのち、戦時色が強まった時代を超えて、戦後に特に大きな発展を見たジャンルであるという。まだ敗戦の痛手を引きずっていた終戦直後においても、「キンダーブック」や

 「講談社の絵本シリーズ」などが復活し、「皇国史観的なもの、戦争美談ものはリストから消え」(P11)、実物の鉄道に先駆けて夢ある世界を花開かせていったジャンルであった。


 この100年あまりに渡る「のりもの絵本」の歴史において、その後半のおよそ50年間にわたって乗り物を描き続け、まさにこのジャンルの第一人者たる画家こそが、本書が取り上げている木村定男氏であった。


 木村氏は、1922年に大阪に生まれ、大阪美術学校西洋画部本科を卒業後、大阪市立都島工業専門学校に講師として勤務したのち、出版美術界に転向し、「のりもの絵本」のジャンルで、長きにわたって活躍をすることとなるが、その期間は、終戦直後から亡くなる1999年までのおよそ半世紀にわたった(本書表紙裏)。


 評者と同世代にあたる鉄道ファンの方々も、木村氏の筆に魅了された経験があるのではないだろうか。評者は1976年の生まれだが、子どもの頃に読んだ「のりもの絵本」は、思い返せば、ちょうど木村氏の活躍期間の中ごろから後半に位置づけられよう。

 木村氏が描く乗り物の絵の特徴を一言で言うならば、「ホンモノよりもリアル」というに尽きる。


 一つには、これも関田氏が指摘するように、それまでの平板的で2次元的であった絵本の世界に遠近法を多用し、「より立体的な構図」や「はっきりとした遠近や陰影、物の質感を強調する描写へと」変化させ、いわば3次元的な世界を確立したことが大きいだろう(P3)。とりわけ新幹線からリニアモーターカーへといたる戦後日本の電車の発展について、そのスピード感をあますところなく、絵本の世界に表現した点が大きな魅力であった。


 そしてもう一つには、絵本だからこそ描ける世界というものがあったように思う。もちろんそこには、乗り物のメカニズムを極めて精緻に描き出せる画力が前提になるのだが、未知の外国の鉄道の様子や、未来の鉄道の予想図なども、木村氏の描く絵本の大きな魅力であった。


 あるいは、実際には写真に撮れないような新幹線と在来線特急列車の迫力ある並走シーンであったり、あるいはターミナル駅の複雑な階層構造や、機関車のメカニズムの解剖図など、今日ならばCGで簡単に描き出せるものかもしれないが、それらがあくまでアナログに手書きで精緻に描かれているのを見て驚いた記憶もある。そして、必死に真似をして描画しようとしつつも、到底叶わなかったという記憶もある。


 言うなればそこには、(あえて矛盾めいた表現をするならば)「リアルな虚構世界」とでもいうものが存在していたのだろう。未来の交通予想図で言えば、そのあまりに精緻な画力ゆえに、単なる荒唐無稽な夢物語ではなく、いつの日か具現化しそうな世界に思えて仕方なかったのだ。


 さらに筆を滑らせるならば、かつて多くの少年たちが、木村氏の描く「のりもの絵本」を必死に真似しようとしたふるまいとは、決して単なる描画にとどまるものではなく、その「リアルすぎる虚構世界」を本当のリアルな社会において実現しようとして、未来への想像力を育んでいたふるまいだったのだと言えるだろう。


 そして、今日の少年に対してでも、その魅力は十分に伝わるようだ。私事で恐縮だが、鉄道ファンである小学2年生の息子に本書を見せた際の第一の印象は、「パパ、この絵、どうしても絵に見えないよ」というものであった。

 今日では技術の進展もあり、また木村氏ほどの画力をもって乗り物を描ける画家がもはや存在しないということもあるのか、「のりもの絵本」のほとんどが写真のグラビアページで占められてしまっている。そこには、懸命な模写を通して少年たちの想像力を育む機会が失われていっているようで一抹のさみしさを覚えざるを得ない。


 だからこそ、かつての「のりもの絵本」の世界の魅力を、あますところなく伝えてくれる本書の存在をここで高く評価したい。ハードな装丁の上に、1・2巻を合わせると、やや高価かもしれないが、十分にそれに見合った内容として評価できる。

 かつて、「のりもの絵本」を楽しんだ世代のお父さん、おじいちゃんたちに、息子や孫たちとともに楽しんで頂きたい画集である。


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