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2012年04月30日

『鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化』ヴォルフガング・シベルブシュ著/加藤二郎訳(法政大学出版局)

鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化 →bookwebで購入

「時空間感覚の変容を描きだした名著」

 本書は、ドイツの歴史家ヴォルフガング・シヴェルブシュによる、もはや古典とも言うべき著作であるが、昨年末付けで新装版が刊行され、その内容に鑑みて、今日でも得るところの大きい著作としてここで紹介したい。

 そのタイトルは『鉄道旅行の歴史』であるが、「何年から汽車の旅行が始まって、次は、何年に新幹線ができて・・・」といったような、いわゆる時系列的で年表形式の歴史を想像して手に取ると、期待外れに終わることだろう。


 むしろ本書は、ただの鉄道旅行の歴史というより、豊富な歴史的資料に基づき壮大なスケールで描かれた時空間感覚の思想史というべき著作なのだ。


 19世紀の欧米社会において、鉄道というメディアを媒介に、いかに時空間感覚が変容していったかというのが主たる内容だが、その骨子は次のような記述にまとめられよう。

「時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世紀初期の共通表現(トポス)であった」(P49)

 つまり、鉄道というメディアが、遍在していた時空間を一つの「国土」として統合していったというわけである。その典型例として、イギリスにおける標準時採用の過程が次のように記されている。


「鉄道の時間は、十九世紀の終り頃まで、もっぱら鉄道交通用であった。それは列車の時刻表の時間だったのである。だが鉄道網が密になり、それに組みこまれる地方の数が増えるにつれて、各地の地方時間は、共通の鉄道の時間に比べて、ますます分のないものになっていった。一八八〇年には、鉄道時間が英国では一般の標準時となる。」(P59)

 また、本書が大きく依拠しているように、ヴァルター・ベンヤミンの表現に倣うならば、こうした現象は「地方のアウラの喪失」(P59)ということもできる。すなわち、地方という時空間が持ち合わせていた(そのときその場に行かなければ体験できない)一回性の価値が、もはや「切符で地方が買えるという観念」(P55)にとって代わられ、「鉄道で到着できる地方にゆく旅行が、劇場や図書館に行くのと同等な」(P55)、いわば複製技術時代の芸術を楽しむのと同じことがらになってしまったのだという。


 このように、本書は、今日では当たり前の存在となっている鉄道が、かつてはいかにインパクトの大きいものであったかを知る上で、非常に重要な著作といえるし、こうした時空間感覚の変容に関する記述は、新たなメディアの普及を考える上でも、示唆に富むと言えるだろう(余談だが、マクルーハンの古典、『メディア論』の冒頭においても、重要なメディアの一つとして、鉄道が例示されているというのは知られた話である)。


 強いて述べるならば、本作の記述は、やや技術決定論的なものに感じられるかもしれないし、また欧米の中でも、英米の先進的な近代社会を中心的な事例としているため、「時空間の圧殺」という側面に偏っているようにも思われる。


 たしかに鉄道は、地方の多様性を「圧殺」し国土に人々を「束縛」するためのメディアであるのは事実だろうが、かつて見田宗介が柳田國男や宮澤賢治に依拠して述べたように、新たな社会の可能性を感じさせる「解放」のメディアでもあったはずである。とりわけ、日本のような後発近代社会では、こうした「解放」のメディアとしての鉄道に対する特別な憧れや思い入れが強く存在していたのではないだろうか。


 また鉄道は、決して古いメディアではなく、今日でも中国では国家の威信をかけて高速鉄道の建設が進められているし、アメリカでもそうした計画があるという。よって今後は、先に記したような情報メディアの研究もさることながら、同じ鉄道といえど、それがもたらした時空間感覚が社会によって異なることに照準した、国際比較研究のさらなる展開も期待したいところである。


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