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2012年04月30日

『こびとづかん』なばたとしたか(長崎出版)

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「「拡張現実」の時代の子ども向けファンタジー」

 本作は、イラストレーターのなばたとしたか氏による、「きもかわいいこびと」たちの物語であり、すでにひそかなブームとなりつつある一連の「こびと」関連の著作の一作目にあたるものである。

 その内容について、公式ウェブショップの案内には、次のように記されている。

「ある朝、草むらの中から飼い犬のガルシアが変なものを見つけてきた。ヘビの抜け殻みたいな、まるで小さな全身タイツのようなもの…。
じぃじからかりた“こびとづかん”を頼りに、少年が好奇心と命の大切さを学ぶ衝撃のデビュー作。」

 評者も、小学生の息子が友達から勧められてきたのをきっかけに読み始めたのだが、作中に登場する「こびと」という「変なもの」が、当初はいったい何者かまったく呑み込めず戸惑ったのを記憶している。だが、複数の作品を進めるうちに、なんだかおもしろく感じられていくのが、実に不思議な作品であった(ただし、これには個人差があるようで、いくら読んでもわからないという人も一定数いるようだ)。


 結論を先取りすると、それは、この「こびと」たちの設定が、フィクションとも現実ともつかない、不思議な描かれ方をしている点にあるように思われる。たとえば評者は、かつて理科好き少年だったこともあって、同シリーズの中でも『こびと大百科』や『こびと観察入門』がかなり気に入っているのだが、その文中では、それがフィクションであるとはほとんど触れられておらず、大真面目に、この世界のあちこちに「こびと」が存在するかのように描かれているのだ。


 だから、それを読みこんだ息子も、私がくしゃみをすれば「パパ、それはキラワレスギのせいじゃない?」と話し、花壇が荒れていれば「きっと、アラシクロバネがやったんだよ」と話しかけてくる。


 いわばそれは、かつての八百万の神々のような存在にも似ていて、不可思議な現象が起こった際に、科学的に解明するのではなく、そこに神秘的な存在があることを読み込もうとしたふるまいに近いといえるだろう。


 そしてそのことは、近年のフィクション作品における大きな変容とも連動していよう。


 すなわち、評論家の宇野常寛氏のいうように、今日のフィクション作品は、巨悪のような「ビッグブラザー」とそれに対峙する絶対の正義、といった構図では描かれず、むしろ個別分散化した「リトルピープル」たちの小さな世界の秩序が描かれる傾向にある。また、こうした善悪が二元論的に定まらない社会は、それと同時に、現実とフィクションとの区別も明確化せず、どれもがそこそこの「現実」として感じられるような、「拡張現実の時代」でもある。


 こうした背景を考えると、本作が、今日の子どもたちに広く受け入れられているということにも納得がいくだろう。いわば、「こびと」は、悪でも善でもなく、そして現実でもフィクションでもなく、我々には説明のつかない不可思議な現象を引き起こすものとして、そこここに存在しているのだ。


 映画やDVDなど、映像化も進んでいる本シリーズについて、ぜひ子どもだけでなく、大人もいっしょに楽しんでいただきたいと思う。


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『「世界征服」は可能か?』岡田斗司夫(ちくまプリマ―新書)

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「「男子的野望」を転換させるための特効薬」

 読後感が実に爽快な一冊である。期待以上の内容といってよい。当初は「?」のついた疑問形の書名が頼りなさげに感じられて仕方なかったのだが、まさに「どんでん返し」ともいえる結論を読んで、スッキリした。コンパクトで読みやすい本なので、ちょっとした時間の合間にでも、前から順に読んでほしいと思う。

 さて、「はじめに」において、「小さい頃、一度くらいは「世界征服」にあこがれたこと、ないですか?」(P15)と問いかけられているように、それはある時代までの男の子にとって、実にメジャーな野望(あるいは夢)だったといってよい。あるいは、これも本文中で触れられているように、アニメや特撮に登場する悪の組織の野望は、たいていの場合、「世界征服」であった。


 このように、ある時代までは当たり前のように語られていた「世界征服」という野望について、本書では、いくつものマンガ・アニメ・特撮作品の設定内容を事例として取り上げながら、丹念な検証がなされていく(このあたりは、まさにオタキングたる岡田氏の面目躍如という感じである)。


 具体的には、「世界征服」をすることの背景にはどのような目的がありうるのか、征服した際にどのような支配者になりうるのか、そしてそれはどのような手順でなしうるのか、といった点について検証が進められている。

 そして、これらの検証を経たうえで、第4章で書名と同じ問い、「世界征服は可能か?」が問われることになるのだが、この問いに対する岡田氏の答えは、「不可能と思われるが、可能でもある」というものである。


 すなわち、いわゆる旧来イメージされてきた「世界征服」についていえば、それは理論上は不可能なことではないという。確かに、強大な軍事力があれば、一時的に世界を支配下に置くことは不可能ではないだろう。


 だが、これだけ複雑化した現代の社会を、一人の支配者が独裁的に支配し続けることは、おそらくは不可能であろうことも想像に難くない。いわば、それは「世界という学級の先生」「世界の校長先生」(P158)のようなものであり、これだけ問題の多発する現代社会においては、「その労力に見合った「うまみ」」(P160)がなく、不可能であるというよりも、「かつてのイメージみたいな「世界征服」は無意味なこと」(P176)になってしまったのだ。


 しかしその一方で、岡田氏は「世界征服」は可能だともいう。「「その時代に信じられている価値観に反対すること」が悪の定義」(P183)であり、それに従えば、旧来イメージされてきたのとは、異なった「世界征服」がなしうるはずだという提言がなされている。


 以降の詳細は、本書をお読みいただきたいが、最後に岡田氏が提言している新たな「悪の定義」や「世界征服」については、特に、かつてそれを野望として描いていた男性たちに読んでほしいと思う。


 数年前、閉塞する社会状況を打破するには「戦争」にしか希望を見だせないという評論が注目をされたことがあったが、そのような幼児的な野望を乗り越えていくためにも、本書は特効薬的な効き目を持ち合わせた一冊だと思う。


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『鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化』ヴォルフガング・シベルブシュ著/加藤二郎訳(法政大学出版局)

鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化 →bookwebで購入

「時空間感覚の変容を描きだした名著」

 本書は、ドイツの歴史家ヴォルフガング・シヴェルブシュによる、もはや古典とも言うべき著作であるが、昨年末付けで新装版が刊行され、その内容に鑑みて、今日でも得るところの大きい著作としてここで紹介したい。

 そのタイトルは『鉄道旅行の歴史』であるが、「何年から汽車の旅行が始まって、次は、何年に新幹線ができて・・・」といったような、いわゆる時系列的で年表形式の歴史を想像して手に取ると、期待外れに終わることだろう。


 むしろ本書は、ただの鉄道旅行の歴史というより、豊富な歴史的資料に基づき壮大なスケールで描かれた時空間感覚の思想史というべき著作なのだ。


 19世紀の欧米社会において、鉄道というメディアを媒介に、いかに時空間感覚が変容していったかというのが主たる内容だが、その骨子は次のような記述にまとめられよう。

「時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世紀初期の共通表現(トポス)であった」(P49)

 つまり、鉄道というメディアが、遍在していた時空間を一つの「国土」として統合していったというわけである。その典型例として、イギリスにおける標準時採用の過程が次のように記されている。


「鉄道の時間は、十九世紀の終り頃まで、もっぱら鉄道交通用であった。それは列車の時刻表の時間だったのである。だが鉄道網が密になり、それに組みこまれる地方の数が増えるにつれて、各地の地方時間は、共通の鉄道の時間に比べて、ますます分のないものになっていった。一八八〇年には、鉄道時間が英国では一般の標準時となる。」(P59)

 また、本書が大きく依拠しているように、ヴァルター・ベンヤミンの表現に倣うならば、こうした現象は「地方のアウラの喪失」(P59)ということもできる。すなわち、地方という時空間が持ち合わせていた(そのときその場に行かなければ体験できない)一回性の価値が、もはや「切符で地方が買えるという観念」(P55)にとって代わられ、「鉄道で到着できる地方にゆく旅行が、劇場や図書館に行くのと同等な」(P55)、いわば複製技術時代の芸術を楽しむのと同じことがらになってしまったのだという。


 このように、本書は、今日では当たり前の存在となっている鉄道が、かつてはいかにインパクトの大きいものであったかを知る上で、非常に重要な著作といえるし、こうした時空間感覚の変容に関する記述は、新たなメディアの普及を考える上でも、示唆に富むと言えるだろう(余談だが、マクルーハンの古典、『メディア論』の冒頭においても、重要なメディアの一つとして、鉄道が例示されているというのは知られた話である)。


 強いて述べるならば、本作の記述は、やや技術決定論的なものに感じられるかもしれないし、また欧米の中でも、英米の先進的な近代社会を中心的な事例としているため、「時空間の圧殺」という側面に偏っているようにも思われる。


 たしかに鉄道は、地方の多様性を「圧殺」し国土に人々を「束縛」するためのメディアであるのは事実だろうが、かつて見田宗介が柳田國男や宮澤賢治に依拠して述べたように、新たな社会の可能性を感じさせる「解放」のメディアでもあったはずである。とりわけ、日本のような後発近代社会では、こうした「解放」のメディアとしての鉄道に対する特別な憧れや思い入れが強く存在していたのではないだろうか。


 また鉄道は、決して古いメディアではなく、今日でも中国では国家の威信をかけて高速鉄道の建設が進められているし、アメリカでもそうした計画があるという。よって今後は、先に記したような情報メディアの研究もさることながら、同じ鉄道といえど、それがもたらした時空間感覚が社会によって異なることに照準した、国際比較研究のさらなる展開も期待したいところである。


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『グラゼニ』原作:森高夕次  漫画:アダチケイジ(講談社)

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「“超二流”の野球マンガ」

 ヤクルトや阪神、楽天などの監督を務めた野村克也氏が、著作の中でよく唱えている言葉がある。それは「超二流の選手になれ」というものだ。

 いわく、イチローのように、全てに秀でた超一流選手になれるものはごく限られており、厳しい競争社会で生き残るには、自分のオリジナリティに徹底的に磨きをかけるしかない。足が早ければ、ここぞという時の代走のスペシャリストになれるし、肩が強ければ、外野の守備固め要員になることができる、といった具合である。


 本作『グラゼニ』の主人公、スパイダースの凡田夏之介投手も、そうした選手の典型である。サイドスローの左投手で、球速は140キロそこそこだが、コントロールがいいので、ここぞというときに登場してくる中継ぎピッチャーである。


 このように、試合がヤマ場を迎え、相手チームのチャンスで左の好打者に回ったとき、その相手だけを押さえるために登場する中継ぎピッチャーを、「左のワンポイント」と呼ぶ。野村監督が現役であったら、凡田を愛用したにちがいない(余談だが、本作に出てくる監督は、見た目が野村監督に似ているし、おそらくスパイダースのモデルは、東京ヤクルトスワローズである)。


 さて、この凡田投手、高卒からプロ入りして8年目の26歳、年俸は1800万円である。数字だけを見ると高給取りのようだが、遅くとも30代か40代には多くのプロ野球選手が引退を迎えることを考えれば、また引退後の仕事がスムーズに見つかることはまれで、解雇された翌年の年収が100万を割るのも珍しくないということを考えれば、決して多いとは言えない。


 そんな彼の口癖は、本作のタイトルでもある(「グランドには銭が埋まっている」の略)「グラゼニ」である。自分よりも年俸が上の打者には弱いが、下の打者にはめっぽう強い凡田投手は、今日も年俸アップを狙って黙々とブルペンで準備を続けるのである。


 このように、本作は野球マンガだが、かつてのような非現実的で超人的なマンガと比べると、きわめて現実的なのが特徴だと言えよう。


 評者もかつて、“大リーグボール養成ギブス”を使って鍛える『巨人の星』や、マウンド上で大きく飛び跳ねる“エビ投げハイジャンプ”といった投法のでてくる『侍ジャイアンツ』をなどの作品を面白く見た。だが、これらの作品と比べて、本作の主人公は、時にピンチを切り抜けつつ、時に失敗もして痛打も浴びる。いわば、主人公が「等身大」か、ちょっと見上げるぐらいの立場にいる現実的な内容のマンガなのだ。


 だからこそ、評者は本作を高く評価したいと思う。我々がこれからの競争社会を生き残る上でも、誰もが超一流のジェネラリストを目指して、(例えば英会話に資格に他にも○○に・・・というように)無駄なお金と時間を費やすよりも、むしろ自分にしかない特技に磨きをかけた、超二流のスペシャリストを目指すべきではないか、そんなことを教えてくれているように思われる。


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