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2012年03月31日

『自動車と移動の社会学―オートモビリティーズ』M.フェザーストーン/N.スリフト/J.アーリ 編著   近森高明 訳(法政大学出版局)

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「移動研究(モビリティスタディーズ)の新たなる成果として」

 モビリティスタディーズという研究が注目されている。『Mobilities』という学術雑誌まで刊行されているこのジャンルを、日本語に訳そうと思うとなかなか難しい。おそらく、適切にあらわす訳語がまだ存在しないのだ(その点は、本書の原題が『AUTOMOBILITIES』であったのを『自動車と移動の社会学』と苦心して訳出した点にも表れている)。

 しいていうならば「移動研究」なのだが、その日本語が持つ意味と、”Mobility”という概念が含意するところはやや異なっている。


 日本で「移動研究」といった場合には、かつての集団就職のような「地域移動」であったり、「階層移動」を意味することが多かった。


 だが、ここでいう”Mobility”とは、そうしたリジッドな社会構造内において、ある定点から定点までを移動することを意味するというより、むしろ社会全体が常にゆるやかに変動しながらも、それでいて一つの社会として機能していくような状況を表す概念なのである。


 よってそうした状況下においては、それまで自明のものと思われていた、空間や時間といった概念が、ゆるやかにほどけていくことになる。


 この点でいえば、本書が中心的な研究対象としている自動車という乗り物はその典型と言える。比較対象として鉄道を取り上げるとよりクリアーだが、それが定められた駅から駅までの空間を、定められた時間通りに、リジッドに線路上を移動していくのと比べ、自動車は、各自の思うがままの場所から場所へ、思うがままの時間の中で移動することができるのである(もっとも、自動車の技術がそのようなものとして形作られてきた歴史的社会的な背景があったことは忘れてはならないが)。


 あるいは、乗り物に限らずとも、情報メディアでも同じような変化がありえよう。これまではテレビ番組を、決められた時間に決められた場所でしか見ることのできなかったのが、スマートフォンで動画サイトにアクセスすれば、いつでもどこでも見ることができる。いまや「送り手対受け手」といった、これまでのメディアに関する一方向的な図式は崩れつつある。


 だがこうした変化は、今までの近代社会の崩壊や融解として捉えるのではなく、むしろ流動化という近代の一側面がより徹底された状況と捉えるべきであろう(こうした主張は本書内の著者によっては、理解にズレがあるようだが、この点も含めてさらに議論を深めていくべきだろう)。


 その上で、こうした様々な“Mobilities”があふれた社会とはいかなるものか、あるいはいかにあるべきかを構想することが今、求められていると言えるだろう。


 本書は、この点について、自動車を事例として取り上げつつ、カルチュラル・スタディーズの論客として知られるイギリスの社会学者、マイク・フェザーストーンを中心に、モビリティスタディーズの先駆者であるジョン・アーリやデジタルメディア時代の音楽を論じるマイケル・ブルなど、一流の論者たちによって書かれた論文集である。


 まさに、移動研究(モビリティスタディーズ)のフロンティアと呼ぶにふさわしい一冊だが、今後は日本社会においても、自動車に限らず、他の様々な事例を取り上げながら、こうした方向の研究が進んでいくこととが期待されよう。

 なお、そのような新しいジャンルの研究ながら、近森高明氏の翻訳は、きわめてわかりやすく読みやすいし、末尾の、これまた適切にまとめられた、吉原直樹氏の解説も忘れずにお読みいただくと、本書の理解がより深まるものと思う。


(最後に、本書評を書くにあたって、『Mobilities』誌の情報をはじめ、移動研究に関してご教示頂いた、法政大学社会学部の土橋臣吾氏に御礼申し上げる。)


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『仕事するのにオフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ 』佐々木 俊尚(光文社)

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「モバイル社会の働き方を考えるために」

 メディアを研究している身ではあるが、恥ずかしながらその変化の速さについていけない思いをすることが多々ある。

 本書もそんな折に手に取った。著者は、ITジャーナリストとして著名な佐々木俊尚氏である。表向きはモバイルメディアを使いこなした仕事術のマニュアル本だと言ってよいだろう。氏の著作はいつもながらに読みやすい。


 いくつも即座に参考にさせてもらったポイントがあったのだが、読み進めていくうちに、本書は、「PC操作術」のような単なるマニュアル本を超えた、実に魅力ある著作として感じられた。


 もちろん、第5章のクラウドの使いこなし方など、いわゆるハウツーとして即座に役立つ内容も豊富なのだが、その前後に書かれた、副題ともなっている「ノマドワーキングのすすめ」ともいうべき、新しい働き方の提案が実に魅力的なのだ。


 これは、IT社会の働き方として、少し前に注目されたSOHOのような在宅勤務の形態とは異なる。それが結局のところ、オフィスではなく自宅という場所に縛られて仕事をするのに対して、モバイルメディアを駆使した「ノマドワーキング」では、気が向いたときにノートPCを持って外出し、気に行ったカフェを転々としながら、徐々に仕事を進めていくようなスタイルなのだ。


 未経験の方からすれば、本当にそんなことで仕事ができるのか、と思わずにはいられないだろう。オフィスにいなければ、仕事をするための資料もないし、そもそも気が散って仕方がないのではないかと。


 だが、モバイルメディアやクラウドコンピューティングの発達した今日では、多量の資料を物理的に持ち歩かずとも、どこにいてもそれを参照することができるし、また多数の人間が閉じ込められたストレスフルなオフィス空間にいるよりも、かえって街の雑踏の中にいたほうが、集中力が高まるものなのだ(評者にもそういう経験が多々ある)。


 著者は、こうした働き方こそ、「ノマドワーキング」と呼ぶ。「ノマド」とは、元々は遊牧民という意味だが、今日では、都市部のカフェからカフェへ、モバイルメディアを携えて、ふらふらとしながら、それでも生産性の高い仕事を成し遂げていく人々こそ「ノマドワーカー」と呼ぶにふさわしいという。


 そこからは、新しい時代に適応した働き方の変化、あるいはそもそも働くということの意味の変化を読み取ることができるだろう。


 いうなれば、満員電車に乗って、会議に出て、帰宅することが仕事なのではない。むしろ、どんなスタイルを取るにせよ、クリエイティブに成果を生み出すことこそが仕事なのだ。


 それは、筆者の言葉を借りれば、「会社に頼っていれば何とかなった時代から、自分自身で人生を切り拓かなければならない時代へ」(P6)の移行に際して、サバイバル術を考えていくことにもつながってくる。


 この点では本書は、表向きはハウツーのマニュアル本であるけれども、評者は、新たな社会の自己やコミュニケーションのありようを論じた、実践的な著作としても楽しむことができたし、授業で取り上げて、学生にもぜひ読ませたいとも思った。


 これからの時代を前向きに働いていこうと思う方に、お勧めしたい一冊である。


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『Pop Culture and the Everyday in Japan : Sociological Perspectives』Katsuya Minamida & Izumi Tsuji eds (Trans Pacific Press)

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「本当の「文化の時代」を考えるために」

 「文化の時代」というキャッチフレーズがもてはやされたことがある。大平内閣のころ、1980年代の初めごろである。

 いわく、これからはお金では買えない満足感の時代、そういうライフスタイルが中心となる、というものだったが、内実はバブル絶頂期へと向かう「経済の時代」の余技のようなものでしかなかった。


 「企業メセナ」という言葉がもてはやされたのも1980年代だが、やがて90年代の到来とともに、企業は文化的活動から次々と撤退し、長期的な不況の続く今日に至るのである。


 だが、こうした状況こそ、本当の意味での「文化の時代」が到来したと言えるのではないだろうか。もはや右肩上がりの経済成長など、到底望めないような成熟した社会状況にこそ、文化的な快楽を中心にしたライフスタイルを構想していくべきなのではないだろうか。


 こうした現状に比して、この社会においては、文化を捉える視点があまりにも貧しかったと言わざるを得ない。


 一つには、過剰に否定的か、肯定的な議論に偏りやすいという問題点がある。かつての、大衆文化をめぐる議論を見ても、あるいは今日にまで至る若者文化に関する議論を見ても、そこには、外部からの一方的な批判と、内部からの自己肯定との対立が繰り返されてきた。いわゆるオタク文化に関する議論についても、同様の構造があてはまる。


 さらにはこの点とも関連して、議論のベースがその時々に輸入された学問に依拠しがちで、深みのある継続的な研究がなされてこなかったという点も指摘できる。


 例えば、バブル経済の崩壊した90年代以降、英米圏に端を発するカルチュラル・スタディーズと呼ばれる批判的な文化研究の潮流が日本においても広がっていったが、評者もこの潮流に対して、一定の評価をしつつも批判的な立場を取ってきた。


 それは、現代の文化を研究するチャンスを拡大してきたのがカルチュラル・スタディーズの貢献であることは否定しがたい事実であるとしても、アプリオリに前提とされがちな批判的な視点が、日本社会の状況を分析するのに適していると思われなかったからである。


 本書、『Pop Culture and The Everyday in Japan 』は、こうした経緯を踏まえて、現代日本社会における文化状況を、あくまで経験的・実証的にとらえることを企図して、編集された論文集である。


 その特徴を一言で言うならば、幅広い社会的文脈から文化を捉えなおそうとしている点にある。


 したがって、そこで扱われている事例も幅広い。オタク系のキャラ「萌え」の文化やアイドルファンの文化に始まって、若年層の労働問題やナショナリズムの問題にまで及ぶ。だが、一見バラバラに扱われたこれらの事例が、読み進めていくうちに、今日の日本社会を表す個別の断面として、徐々につながって感じられてくることだろう。


 また第Ⅱ・Ⅲ部の事例編に先立ち、第Ⅰ部においては、現代の文化に関するこれまでの議論を手際よく整理しつつ、日本社会の現状を捉えるために適切な視座は何かという点が提起されている。


 こうした本書を貫く視座は、文化に対する「文脈化した理解」にあるといってよいだろう。過剰に否定的、あるいは肯定的になるのでもなく、あるいはその場しのぎの分析をするのでもなく、あくまで経験的・実証的に、今日の日本社会における文化状況が、いかなるコミュニケーションとして営まれているのかを冷静に記述していくこと、を企図している。


 こうした作業の蓄積は、冒頭で記したような、本当の意味での「文化の時代」ともいうべき社会を構想していく上で、重要な知見をもたらしてくれることだろう。

 本書は、元々は、『文化社会学の視座―のめりこむメディア文化とそこにある日常の文化』というタイトルで、2008年にミネルヴァ書房から日本語で刊行された論文集だが、オーストラリアの出版社、Trans Pacific Pressのご厚意によって、日本語版から数年を経て、英訳版として刊行されたものである。


 とりわけ輸入学問のアリバイ作りのような浅薄な議論ばかりが繰り返されてきたジャンルの研究成果が、英訳されることの意義は決して小さくないものと思い、編者の一人ではありながらも、本書をここにご紹介させていただいた。


 諸外国において、現代日本の文化に関心を向けておられる方々は元より、多くの方に本書をお読みいただきたい。


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2012年03月30日

『いのち運んだナゾの地下鉄』野田道子 作 /藤田ひおこ 絵(毎日新聞社)

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「新しい「空襲」の語り継ぎ方として」

 3月11日で、東日本大震災から1年が経過した。

 その記憶を風化させてはならないと思うし、メディアが大々的に取り上げることで語り継いでいくことも重要だろう。一方で、少し気にかかることもあった。


 それは、67年前の3月10日に起こった東京大空襲の扱いが、相対的に小さくなってしまったことである。


 人間とは忘れる生き物であり、だからこそ前に進める部分もあるとは思うが、忘れてはならないような語り継ぎ方という工夫も時には必要だろう。

 本書、『いのち運んだナゾの地下鉄』は、児童向けの短い読み物ながら、そうした可能性を感じさせてくれる著作であった。


 モチーフとなったのは、1945年3月13日の大阪大空襲の夜に、記録には残っていないものの、地下鉄が走り、被災した人々を救ったというエピソードである。


 正直にいえば私自身は、一人の鉄道ファンとして、このエピソードに惹かれて本書を手に取ったのだが、読み進めていくうちに、いろいろと考えさせられた。
 


 いくつか、感じた点を記してみたい。


 まず、記述が淡々としていて、過剰に悲惨でないところがかえってリアルである。話はやや平板で、明確なクライマックスのないところが今風でもある。


 空襲を描いた文学作品では、人々が焼け死んでいく様子を強調することが多いが、本書では、主人公の三人姉妹の母は死ぬものの、そのシーンばかりが強調されることがない。 


 むしろ逃げる途中、焼け残った家に住む見知らぬ老夫婦に声をかけられて休んでいく際には、こたつにはいってまんじゅうまで食べているのだ。


 そして姉妹の避難行動の仕方が、また興味深い。関東大震災や東京大空襲の際には、パニック状態で逃げ惑った人々が押し合いへしあいとなり、そこを火災が襲ったことが知られている。しかし彼女らは、長女を中心に自己決定的に行き先を決め、独自に行動して助かるのだ。それは、あたかも三陸地方に伝わる「津波てんでんこ(津波が来たら、自己決定で逃げるべきである)」という言い伝えにも通じるものがある。


 
 だが正確にいえば、完全に自己決定だけで助かるわけではない。自己決定的に行動したことで、たまたま動いていた地下鉄に乗ることができ、安全な場所へと批判することができたのだ。


 ここで気づくのは、空襲を行った爆撃機を生み出したのと同様に、いのちを救った地下鉄を生み出したのも、近代の科学技術だということである。こうした近代の両義性が垣間見える点も興味深い。


 そして、そこには今後の防災対策を考えていく上でのヒントも垣間見えよう。


 それは、「空襲」や「津波」の被害経験を、文学的な語り口だけに閉じ込めていてはいけないということであり、別な言い方をすれば、こうした被害を天災ととらえてはならないということでもある。


 よく指摘されることだが、空襲についてもそれがあたかも天災のようにとらえられて、許し難い大量殺戮としての追及や、被害を防ぐための社会的対策が忘れられやすい。


 今回も、震災そのものについては自然災害であっても、原発事故に代表されるように、被害を大きくしたのは人災の部分が大きいと言わざるを得ない。そしてその一方で、原発を生み出したのと同様に、それを乗り越えていくのもまた、科学技術(あるいはそれを生み出す人の手)によらなければならないのだ。


 こうした状況で今後を考えていくためには、悲惨さや感動的なエピソードを、感情的に強調するだけではいけないだろう。


 緊急の事態に立ち至ったときに、いかにパニックにならずに「てんでんこ」な自己決定を個々人が成し得るか、そしてそれ以前から、近代の科学技術を暴走させることなく、いかに役立つものとして使いこなしうるか、社会的な対策を考えていくことの方が重要であろう。


 本書は、こうした「ポスト311」とでもいうべき社会のありようを十分に意図して刊行されたものであるように思われるし、プロローグでも、東日本大震災の話から始まって、生き延びた姉妹が久々に再開するシーンから本題へとつながっていく。


 私自身、実体験はしていないけれども、東日本大震災当夜に帰宅難民となり、徒歩で帰宅しながら考えていたのは、東京大空襲の混乱はもっと激しいものだったのだろうな、ということだった。


 「ポスト311」においても、空襲を語り継ぐための新しい可能性を感じさせる著作として、本書を評価したい。


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