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2012年02月29日

『男子校という選択』おおたとしまさ(日本経済新聞出版社)

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「ホモ・ソーシャリティにアイデンティティ形成の基盤を求めるという選択」

 本書は、育児・教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が、男女共学化が進む今日においてもなお、いわゆる中高一貫男子校に進学することのメリットを説いた著作である。

 一読して感じたことだが、非常にバランスの取れた内容であり、社会学的に見ても興味深い指摘が散見されるものとなっている。


 今日、「中学受験は親の受験」という言い回しがあるように、その競争は過熱する一方で、多くの私立校は生き残りをかけて共学化を進めてきた。


そこには筆者が言うように、共学校という「異質性」のある空間を増やそうと、多くの学校が「同質的」に変化するというパラドキシカルな状況が見てとれる。


しかし、それでもなお、日本におけるトップレベルの進学校には、未だに名門男子校が君臨し続けている。筆者は、その要因を解き明かすと同時に男子校に進学することのメリットとデメリットを整理していく。


 特にそのバランスの良さを感じたのは、以下のような記述だ。

「私は「絶対的に男子校が共学より優れている」とは考えていない。ただ、現状よりもう少し男子校の良さが認識されてもいいのではないかと思う。特に、進学校としての評価ではなく、男子教育に特化した学校としての側面においての良さが注目されてもいいのではないかと思う。
 また、「これからは多様性の時代。男子だけの集団で学ぶことは時代に即さない」という表層的な論理を盾に、男子校の存在を否定するような風潮こそ「教育の多様性を損なう」という矛盾を指摘したい。」(P200)


 つまり、単純な進学実績の良さだけでなく、思春期の人格形成の側面から考えても、男子校に一定のメリットが認められるのではないかということだ。


 たしかに、異性と触れ合う機会が不足することは想像に難くない。だが、その一方で、さまざまな議論が指摘しているように、人格形成には、「アウェー」とともに「ホーム」の人間関係をバランスよく保持することが肝要である。


 異性関係も含んだ多様な人々に揉まれていく「アウェー」の人間関係に乗り出す前に、じっくりと気の合う男子同士での「ホーム」の人間関係で、自己を磨いていくことも決して悪い選択ではないだろう。


 むしろこれまでの「男らしさ」が急速に解体に向かい、若年男性がロールモデルを喪失してさまよっている今日においては、こうした処方箋には一定の説得力があるといえよう。


 評者も(そして著者も)、実は中高一貫男子校の出身であり、経験則からしても本書の内容には納得のいくところが多かったし、さらに、以前、宮台真司氏・岡井崇之氏とともに、『男らしさの快楽』(勁草書房)という男性性の変容を扱った共著作を出したことがあるが、そこで訴えていた、ホモソーシャリティ―を通した男性性の再構築といった内容とも本書は共鳴しているようで、思わず読みながら膝を打つことばかりであった。


 表層的な情報に流されて、子どもの進学先に迷っている親御さんたちへ、そして、男子校への進学を考えている小学生たちへ、この本を強く勧めたい。


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2012年02月28日

『不安の種+』中山昌亮(秋田書店)

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「ジワジワとくる、「説明のつかなさ」が怖いマンガ」

「とにかく怖いんですよ。何とも言えないんですけど、後から来るんです」と、学生から進められて読んだマンガである。

 なるほど、と思った。たしかに、最初読んだときは「それほどでも?」という些細な印象しか残らないのだが、心に残った何かしらの引っ掛かり(スッキリしなさ、といってもよい)がきっかけで、2度3度と読み返しているうちに怖くなってくる。そんなマンガである。


 そこには、いくつかの特徴が指摘できる。まず、一つ一つのストーリーが短いということ(おおむね2~4ページ程度)。次に、最後にそのエピソードが起こった(あるいは、言い伝えられてきた)場所と年代が記されていること(まれに不明な場合もある)である。そこからは、これらのエピソードが、我々の生きている現代の日本社会において、ごく身近に起こったものであろうことが想像される。


 そして何よりも最大の特徴は、「わからないこと=説明がつかないこと」だらけということなのだ。


 ごくごく短いストーリーの中で起こる、不可思議な現象については、その背景や原因について、まったく何の説明もなされない。なぜそのような目に合うのか、なぜそのような現象が起こるようになったのかが、まるで分らないのだ。しかし、本書に収められたエピソードの多くは、「自分にもある!」というように、多くの読者が共感を覚えてしまえるようなものばかりである。


 子どもにしか見えない「オチョナンさん」と呼ばれる謎の存在についても、それが幽霊なのか妖怪なのかすら作品中では説明されないが、なるほど、そんな存在が子どものころには見えたような気もしてくる。


 あるいは、誰もいないはずの隣室から壁をたたく音が聞こえたり、(作中では「屋鳴り」と呼ばれているが)誰もいないはずの2階から階段を下りてくる軋みが聞こえたりといった体験は多くの人が持ち合わせていることだろう(評者も、前者は人から聞いたことがあり、後者は自身でも経験がある)。


 もちろん、こうした怪奇現象や怪談の類が、昔から存在してきたことは言うまでもないのだが、かつてと異なるのは、とにかくそれが「説明のつかない」ままに放置されているということなのだ。


 いわば、価値観を共有できた時代ならば、それを神仏のせいにしたり、霊のせいにしたりして、ある意味で「納得」した形で、共に怖がることができたのだろうが、これほどに価値観の多様化した時代にあっては、「ただ単にわからないこと/もの」があふれ出る一方になるのだ。


 評論家の宇野常寛氏の言い回しに倣うのならば、怪談についても、「巨大なる恐怖の対象(≒ビッグブラザー)」に説明を求められた時代が過ぎ去り、「個別分散化した端的なわからなさ(≒リトルピープル)」が遍在する時代になったのだといってもよい。


 本作品は、そんな今どきの怖さをじっくりと味わうことのできるマンガであるが、一度手に取ると、つい読み返してしまうので、本当に読みたいと思う人だけが読むことをお勧めする。



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『FANDOM UNBOUND』Mizumo Ito, Daisuke Okabe, Izumi Tsuji(Yale University Press)

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「「オタク・オリエンタリズム」を超えて」

今日、われわれは「日本のオタク文化は海を越えて世界的に評価されている」と思っている。

ジブリに代表されるアニメ作品に対する評価や、あるいは海外出張の際に現地の書店に入ると「Manga」と記されたコーナーがあって、現地の言葉に訳された日本のマンガが並んでいる光景などを見ると、それもおおむね間違ってはいないのだろうと思ったりもする。


だがその一方で、なぜ日本のオタク文化において、これらの評価に値する作品が生まれてきたのか、さらに引いた目で見るならば、なぜ日本社会においては、これほどの想像力の豊かなオタク文化が成立してきたのか、といった社会的な背景については、十分に理解されていないように感じることもある。


寡聞にして評者の経験に基づくならば、海外からの日本のオタク文化に対する見方においては、一方では「ゲイシャ・フジヤマ・シンカンセン」とでも並べられてしまうような、珍妙なふるまいをする「オタクたち」が注目を集めながら、さらに一方では、あたかも文学的な評価に値する作品のように、一部の日本製アニメやマンガがもてはやされるという、そこには奇妙な切断が存在しているように思われる。


日本社会に注目が集まること自体は喜ぶべきことと思うのだが、結局のところ、珍妙な社会の珍妙な存在としてしかオタク文化が見られていないのだとしたら、それは本当の意味では理解されていないのではないかという思いを強くしたりもする。結局のところ、オタク文化に対しては、オリエンタリズム的な見方にとどまっているのではないかということだ。


そこで本書は、こうした「オタク・オリエンタリズム」を乗り越えようとすることを企図して編纂された論文集である。


社会学的な視点を中心にしながら、PART1~3までの3部構成を取りつつ、まずはオタク文化がいかにして日本社会に成立してきたのか、その歴史的な経緯をじっくりと掘り下げたうえで(PART 1.CULTURE AND DISCOURSE)、今日のオタクたちのふるまいや実践が、決して珍妙なものではなく、いかに理解可能なものであるかという点について、当事者たちの間に深く入り込んで記述がなされている(PART 2.INFRASTRUCTURE AND PLACEおよびPART 3. COMMUNITY AND IDENTITY)。


またアメリカにおけるオタク文化の事例についても、ふんだんな記述がなされた章がいくつもあるので、決してそれが日本社会だけの珍妙な現象ではないことが改めて理解されよう。


なお評者自身も、Chapter 1.Why Study Train Otaku? –A Social History of Imaginationにおいて、鉄道オタクの歴史を掘り下げながら、日本社会におけるオタク文化の成立と変容について論じているが、そのように自らのかかわった著作を取り上げることに対しては、若干のためらいもありながらも、前例のない野心的な論文集であるがゆえに、あえてこの書評で取り上げさせていただいた次第である。


近いうちに日本語版も筑摩書房から刊行される予定だが、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス)、森川嘉一郎氏の『趣都の誕生』(幻冬舎)といった、オタク文化を社会背景から理解するうえでの必読の文献(抜粋)も、そろって収録された本書は、まさにお得でお勧め一冊であるといえよう。



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『情報の呼吸法』津田大介(朝日出版社)

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「「ソーシャルメディアのフロンティア」にしか見えない風景」

本書は、ジャーナリスト/メディア・アクティビストの津田大介氏が、ソーシャルメディアについての現状に触れながら、今後の向き合い方や使いこなし方について、実践的な提案を行っているものである。

 文体も読みやすく内容も具体的なので、関心のある方々にとっては、格好のソーシャルメディア入門といえるだろう。


評者にとっては2章以降が抜群に面白かった。いうなれば、まさにソーシャルメディアの最先端にいるものでなければ見えない景色が垣間見える思いだった。いや、著作のタイトルになぞらえるならば、フロンティアにしか吸えない空気があるというべきだろうか。


「フォロー数は300~500人くらいが最適」(P67)といったように、経験に基づいたアドバイスやエピソードが目白押しなのだ。


 他にも、情報はストックからフローになる(P80)といった指摘も興味深かった。これは、私の専門であるファン文化・オタク文化の領域でもよく感じる変化である。

最近、韓流アイドルのファンにインタビューをしたところ、彼女らの主たる情報収集手段は、やはりツイッターなのだという。それも蓄積(ストック)していくというよりも、とにかくいちはやく最新の情報をチェックすることに重きを置いているので、この点で、流れゆくツイッターの情報が役に立つのだという。


「ツイッターは『シャー』という音を立てて情報が流れていくみたいなもの」だと語っていたが、かつてのオタクたちがむしろひたすらに「ストック」に重きを置いていたことを考えれば、そこには隔世の感がある。


 また第3章のタイトルであり、本書の骨子でもある「情報は発信しなければ、得るものはない」という主張も非常に興味深い。


「ストック」に重きを置いていたのは、かつてのオタクだけでなく、むしろ優等生のガリ勉スタイルも同様であったが、著者に言わせれば、情報はインプットして「ストック」するだけではダメなのだという。


具体的に言うならば、新聞を5紙読み比べて自己満足するくらいならば、むしろ両極端の2紙に絞るくらいでいいのではないかという(P79)。そうでなければ、刻々と変化する膨大な量の情報を、新鮮なうちに入手して、かつ適切な発信に結びつけていくことができなくなってしまうのではないかという。


 このように、本書を読み進めていると、ソーシャルメディアのフロンティアの雰囲気に触れながら、我々がこれまでに抱いてきた「情報」という概念そのものが、根本から覆ろうとしている可能性すら感じられてくる。


 加えて、更に示唆深かったのは、こうした「フロー」化がますます進むメディアに立ち向かう、強靭なタフネスさを著者が垣間見せてくれることだ。


「人生で大切なことは、全てエゴサーチで学んだ」(P91)とあるように、普通ならば、人目を気にしてビクビクとしてしまうエゴサーチ(=インターネット上で自分の名前を検索すること)についても、むしろ著者は、自分が発信した情報への反応を確かめるマーケティング戦略の一環としてやっているのだという。


 こうした「タフネスな再帰的自己」とでもいうべきものがなければ、フロー化する高度情報化社会は生き残っていけないのだろう。本書は、まさにこれからの時代を生き抜いていくために、必読の一冊といえる。


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