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2011年12月25日

『趣味縁からはじまる社会参加』浅野智彦(岩波書店)

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「中間集団論を日本社会でいかに考えるべきか」


 中間集団論と呼ばれる議論がある。中間集団とは、アメリカの政治社会学者コーンハウザーが『大衆社会の政治』などで用いている概念である。


 平たく言えば、個人と全体社会を媒介する集団のことをいう。すなわち、全体社会や国家といった大きな社会に対して、個々人が直接的に向き合うのには困難が伴う。そこで、地域社会や二次的な結社などを通して、ようやく全体社会や国家に介入を果たすことができるようになると考えられるのである。


 (コーンハウザーもそれに含まれるが)しばしば大衆社会論などの文脈で指摘されてきたのは、こうした中間集団が脆弱になると、個人は原子化してバラバラになってしまい、全体主義の波に飲み込まれてしまうのではないかという危惧であった。それゆえにこそ、中間集団の存在の重要性が訴えられてきた。


 だが日本社会の文脈で考えると、また違った側面も見えてくる。「空気を読む」といったフレーズに代表されるように、付和雷同しやすいこの社会の状況は、表面的には、まさしく中間集団が存在しないか、機能不全に陥った典型的な状況であるかのようにも感じられる。


 しかしその一方で、日本社会は、むしろ中間集団こそが個人の自立を妨げているのではないかと指摘するものもいる。おそらくそれは、中間集団があまた存在しているからというより、ごくわずかな(せいぜい1~2)種類しか中間集団が存在せず、その専制的な状況がもたらすものと考えられるのだが、教育社会学者の内藤朝雄が指摘するように、その代表が学校であり、もしくは成人ならば会社が該当しよう。


 あるいは戦前ならば、町内会を思い浮かべると分かりやすいかもしれない。少なくとも戦中におけるそれは、個人と全体社会を媒介する存在というより、上意下達の伝達機関として、軍国主義の共犯者となり果てていた。内藤は、日本社会におけるこうした状況を「中間集団全体主義」と呼び表している。


 日本社会におけるこうした状況を踏まえるならば、むしろオフラインの中間集団を介さずに、インターネットのアーキテクチャによって瞬間ごとの「民意」を捉えて、それを一部のエリートがモニタリングして政治を進めていってはどうかという、哲学者・小説家の東浩紀の問題提起(『一般意志2.0』)にも、傾聴の価値があると言わざるを得ない。


 しかしながら、それでもこの中間集団という概念を葬り去ってしまうのは、やはり口惜しい気がしてならないのも事実である。もし、学校と会社という選択肢「しか」ないことが問題であるならば、その専制的な状況を嘆く以上に、さらに中間集団のレパートリーを増やしていくという処方箋がありうるのではないだろうか。


 そして、前置きが長くなってしまったが、本書はそのような可能性として、何よりも趣味に基づいた連帯にこそ注視している。そして著者は、教育社会学者の藤田英典の定義にならって、それを“趣味縁”と呼び表している。


 “趣味縁”が、まさに趣味に基づいた連帯であるならば、なによりも個人の自発的な関心に基づくものであり、それゆえにこそ、学校や会社といった既存の集団の枠を超えつつ、さらに連帯の多様なレパートリーを期待することができるのではないかというわけである。


 著者はこの点について、近年注目を集めている社会関係資本論の議論を補助線として用いつつ、日本社会の状況を実証的な質問紙調査で明らかにしている。そして、そのプロジェクトの名称こそが、まさに「若者の中間集団的諸活動における新しい市民的参加の形(2006年度~2008年度、科学研究費補助金基盤研究(B))」である。


 詳細は実際に著作を読んでほしいが、特に2007年に行われた質問紙調査からは、興味深い知見がいくつも得られている。例えば、同じ趣味縁であっても、明確な組織だった集団への加入形態を伴うものを「趣味集団(への加入)」、そのような形態を伴わないゆるやかなものを「趣味友人」と呼んで区別したうえで、全体社会や公共的なものへのコミットの程度を比較検討すると、前者においては正の関連が見られるものの、後者においては残念ながら見られないのだという。


 あるいはそれとも関連するが、とりわけ若年層において、友人と知り合う場所は、圧倒的な割合を学校が占めており、同じ趣味を持つ友人と出会うのも、むしろ学校という場が圧倒的であるがゆえに、(しいて内藤の表現を繰り返すならば)全体主義的な中間集団である学校と、趣味縁が完全に独立していないというのが現状であるようだ。


 よって結論としては、少なくとも現状においては、趣味縁に対して中間集団としての機能を過剰には期待できない、ということを導かざるを得ないようだが、しかしながら、それでも本書からは、今後につながるヒントがいくつも得られるように思う。


 たしかに、若年層において学校集団と趣味縁が完全に独立していないのは事実であるとしても、学校集団に対するコミットの度合いが下がってきているのも事実であろう。そのことは、部活動の停滞や学級崩壊などの事例を思い起こせばよい。


 とするならば、むしろ当面の間の処方箋として、多様な趣味縁を養っていくためにこそ、学校という集団を使っていくという発想もありうるのではないだろうか。初めから、学校や会社といった集団に対抗するのではなく、むしろその内部から徐々にずらしていくような連帯の形成がありうるのではないだろうか。いわば、趣味縁の出会いの場として、学校や会社を見つめ直していくといった発想である。


 もちろん、それだけが答えのすべてではないし、むしろインターネットのオンライン上にも様々な連帯が形成されている今日においては、個々人の社会に対する関わり方について、もっと多様なありようが考えられていくべきなのだろうと思う。


 本書は、そうした関わりのありようについて、最新の議論とデータに基づいて、多くのヒントを与えてくれる著作である。研究者に限らず、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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