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2011年12月26日

『昭和電車少年』実相寺昭雄(ちくま文庫(筑摩書房))

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「実相寺昭雄の想像力を培ったものは何か」

―それは昭和という時代であり、鉄道という存在であった。

 実相寺昭雄といえば、知る人ならば誰もが知っている映画監督である。私がその名を知ったのは、ウルトラマン関連のいくつかの作品であった。とりわけ、ウルトラセブンにおいて、侵略者であるメトロン星人とセブンが、ちゃぶ台越しに語り合うシーンなど、数々のユニークな作品を手掛ける独創的な映画監督だと思っていた。


 おそらく、この人物については、同じように理解している人が多いのではないかと思う。実相寺氏イコール、ウルトラマンや特撮といったイメージを持たれている方が多いのではないだろうか。しかし本書と出会うことで、不勉強ながら彼が熱心な鉄道ファンであることを知り、最初は驚いたものの、むしろ後には、それが当然のことであるようにも思われた。


 本書を読めばわかることだが、鉄道ファンといっても、それは余技としてなされたようなものではない。鉄道ファン“でも”あったのではなく、まちがいなく、きわめて熱心な鉄道ファンの一人であったのだ。


 そして昭和という激動の時代に、鉄道(あるいはそれ以外の科学技術)の目覚ましい進歩と向き合いながら少年期を過ごしたことが、その独創的な創造力の源泉であったことが、まざまざと理解されるのだ。


 鉄道ファンであると同時に、ウルトラマンファンであった私にとっても、以下のエピソードなどは大変興味深いものだった。それは、ウルトラセブンの「第四惑星の悪夢」という回で、宇宙船のフォルムを、当時実相寺が心奪われていた玉電200形に似せようとしていたというものである。


 「魂を200形に吸いとられていたわたしは、当時、「ウルトラセブン」の後半で演出を担当した折り、その宇宙船のフォルムを200形に似せよう、と思ったのだ。「第四惑星の悪夢」という回である。
 宇宙船が、長い眠りの果てに疑似的な地球へ漂着する際に、その宇宙船の内部を、200形の先進的な構造にしようと思ったのだ。そう、連接車の革新的なフォルムがわたしにとって具体的な宇宙船だったのである。」(P101)

 残念ながら、実際の撮影セットは彼の思い通りには作られなかったようだが、その独創的な想像力が、本書のタイトルどおり「昭和電車少年」として育ったことに由来するものであったことが十二分に理解されるエピソードだと言えよう。


 このように、本書は昭和時代に鉄道に心奪われた少年たちの文化を伺い知るための、格好の著作と言える。寡聞にして、評者がそのように感じた著作の双璧が、本書と宮脇俊三氏の『(増補版)時刻表昭和史』である。


 もちろん、いずれの著作も回顧的に記されたものだから、一時的な歴史的資料としての価値については十分とは言えないのかもしれない。だが、他にもいくつか、オールド鉄道ファンが記した回顧録のようなものは存在するものの、それらが(ある意味では当然だが)鉄道そのものの記録に偏りがちなのと比べ、これらの著作は、一歩引いた視点から、当時の時代状況や背景も交えて文化論を語りつつ、その上で、鉄道そのものの実態をも記述成し得ている点において、まさに見事というほかないのである。

 評者はかつて、鉄道ファンの歴史社会学を研究テーマとした際に、数々のオールド鉄道ファンの方々から興味深いお話をお聞かせいただいたが、可能ならば、このお二人には、ぜひともお会いしてみたかった。だが、その頃にはすでにこの世にはおられなかった。しかしながら、本書の価値はきっと変わらずに読み継がれることだろうと思う。


補足


 本書は2008年にちくま文庫に収録され、「ブンコのおまけ」も付いていてお得である。だが出来るならば、2002年にJTBパブリッシングから刊行された、ハードカバー版も併せてお読みいただきたいと思う。実相寺氏の手による表紙の電車イラストもさることながら、吉村光夫氏が書かれた帯文が絶妙なのだ。せっかくなので、以下に引用したい。

「電車オタクへ
 この本には電車の形式の説明は勿論、その電車が走り始めた頃の環境や時代背景が描かれ、若い君たちの知らないことが多い。それに還暦過ぎのオジさんの文章だからなかなか味がある。学校を出てテレビ局に勤め、映画監督になった著者の表現力はさすが。鉄チャンもこうありたいものである。

 電車オタクに悩んでいるお母さんへ。お子さんが心豊かな趣味人になれる可能性がこの本には秘められています。 吉村光夫」


 記録的でありながら抒情的でもあり、実に読み応えのある本書の魅力を、うまくとらえた文章というほかないだろう。実相寺氏と同じく現在のTBSに勤務し、ロンちゃんのニックネームで親しまれ、これまた熱心な鉄道ファンで知られた吉村氏も、すでにこの世にはおられない。だが評者は、幸いにして生前の吉村氏から、一度だけお話を聞く機会に恵まれた。


 出来る限りそう遠くない日に、こうしたお話を元にして、本書に負けないような、鉄道ファンの歴史社会学を著作としてまとめ上げたいと思う次第であり、そのように、読者の想像力をも強く喚起するような魅力を、本書は持ち合わせている。




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2011年12月25日

『時刻表世界史―時代を読み解く陸海空143路線』曽我誉旨生(社会評論社)

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「時刻表を読むのが100倍楽しくなる本」


 ひところまで、この世で一番面白い本とは時刻表のことだと思っていた。実は今でも、その考えは変わっておらず、このブログでも、お気に入りの時刻表のいくつかを(○○年○月号の、というように)書評として取り上げたい衝動に駆られるほどである。


 もちろん、関心のない人からすれば、それはただの数字の羅列に過ぎないかもしれない。見かけるとしたら、せいぜいがJRの駅のみどりの窓口で、一月も立つとボロボロになって捨てられていくような存在であり、電話帳と似た風景のような存在に過ぎないかもしれない。


 だが私からすれば、それはただの数字の羅列ではない。むしろ、無限の想像力を導く、いくつもの秩序だった数式の集まりなのだ。


 “想像力”といっても、いくつもの種類があるのだが、私が時刻表に喚起されるのは、主に3つ、「空想」と「夢想」と「幻想」だ。


 「空想」とは読んで字のごとく、空間の広がりに対する想像力だが、時刻表にはまだ行ったことのない地名や駅が多数登場する。多忙のために行くことができなくても、架空の旅行プランを立てているだけで、実際に出かけたような気分を味わうことができる。


 そして「夢想」は、未来の夢を描くような想像力だ。特に子どものころによくやったことだが、時刻表の路線図の中に、勝手に自分で新しい鉄道路線を引いて、駅を設置したり、あるいは架空の時刻表を作りだしたりした。あるいは、実在する路線であっても、そのうちにこんな列車が走ったらなと、想像しながら眺めているのも楽しいものだ。


 最後の「幻想」は、過去のノスタルジーに浸るような想像力だ。実際に旅行に行くときの時刻表は最新版でなくては困るが、そうでなければ、過去の時刻表を眺めながら、かつて存在した列車や路線に思いをはせるのも楽しい。実在はせずとも、時刻表上と想像の中では、いつまでも残りつづけるのである。


 このように、実際に現地に行かずとも、いつでもどこでも「紙上旅行」を楽しむことができるのが、読み物としての時刻表の正しい読み方だといえるだろう。


 そして本書『時刻表世界史』には、そのような読み物としての時刻表が、日本国内にとどまらず世界各国から、それも幅広い年代に渡って取り上げられているから、これが面白くないはずがない。


 それも鉄道に限定せずに、船や飛行機といった他の乗り物も取り上げられているから、事例もバラエティに富み、ここでもどれを例として紹介したらよいか、迷ってしまうほどである。


 しいて私が強く興味をひかれたものを挙げるならば、まず何よりも世界最長の「平壌発モスクワ行き」列車であろう(P399)。2001年11月のトマスクック時刻表によれば、およそ週に一回運転され、9日間かけて終着にたどりつくのだという。現状どうなっているのかは確かめがたいし、なかなか乗ることのできない列車だろうが、鉄道ファンとしては何とも心動かされる存在である。


 あるいは、飛行機で言うならば、1967年に日本航空が開設した、世界一周路線であろうか。わずか5年で幕を閉じたというこの路線だが、これも現存していたらぜひ乗って見たかった。その叶わぬ思いを、わずかながらにも満たしてくれるのが、時刻表とそこに書かれた数字である。P251に掲載された当時の時刻表中の都市名や出発/到着時刻が、私を想像力の世界へといざなってくれる。


 このように、本書は時刻表を読み物として楽しむための方法を教えてくれる格好の書籍である。もし本書を十二分に堪能されたなら、今度は、国内の時刻表の復刻盤や、海外の交通機関の時刻表などに進まれるとよいだろう。さすれば、この狭い日本に居ながらにして、あなたは無限の想像力の世界へと旅をすることができるはずである。



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『趣味縁からはじまる社会参加』浅野智彦(岩波書店)

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「中間集団論を日本社会でいかに考えるべきか」


 中間集団論と呼ばれる議論がある。中間集団とは、アメリカの政治社会学者コーンハウザーが『大衆社会の政治』などで用いている概念である。


 平たく言えば、個人と全体社会を媒介する集団のことをいう。すなわち、全体社会や国家といった大きな社会に対して、個々人が直接的に向き合うのには困難が伴う。そこで、地域社会や二次的な結社などを通して、ようやく全体社会や国家に介入を果たすことができるようになると考えられるのである。


 (コーンハウザーもそれに含まれるが)しばしば大衆社会論などの文脈で指摘されてきたのは、こうした中間集団が脆弱になると、個人は原子化してバラバラになってしまい、全体主義の波に飲み込まれてしまうのではないかという危惧であった。それゆえにこそ、中間集団の存在の重要性が訴えられてきた。


 だが日本社会の文脈で考えると、また違った側面も見えてくる。「空気を読む」といったフレーズに代表されるように、付和雷同しやすいこの社会の状況は、表面的には、まさしく中間集団が存在しないか、機能不全に陥った典型的な状況であるかのようにも感じられる。


 しかしその一方で、日本社会は、むしろ中間集団こそが個人の自立を妨げているのではないかと指摘するものもいる。おそらくそれは、中間集団があまた存在しているからというより、ごくわずかな(せいぜい1~2)種類しか中間集団が存在せず、その専制的な状況がもたらすものと考えられるのだが、教育社会学者の内藤朝雄が指摘するように、その代表が学校であり、もしくは成人ならば会社が該当しよう。


 あるいは戦前ならば、町内会を思い浮かべると分かりやすいかもしれない。少なくとも戦中におけるそれは、個人と全体社会を媒介する存在というより、上意下達の伝達機関として、軍国主義の共犯者となり果てていた。内藤は、日本社会におけるこうした状況を「中間集団全体主義」と呼び表している。


 日本社会におけるこうした状況を踏まえるならば、むしろオフラインの中間集団を介さずに、インターネットのアーキテクチャによって瞬間ごとの「民意」を捉えて、それを一部のエリートがモニタリングして政治を進めていってはどうかという、哲学者・小説家の東浩紀の問題提起(『一般意志2.0』)にも、傾聴の価値があると言わざるを得ない。


 しかしながら、それでもこの中間集団という概念を葬り去ってしまうのは、やはり口惜しい気がしてならないのも事実である。もし、学校と会社という選択肢「しか」ないことが問題であるならば、その専制的な状況を嘆く以上に、さらに中間集団のレパートリーを増やしていくという処方箋がありうるのではないだろうか。


 そして、前置きが長くなってしまったが、本書はそのような可能性として、何よりも趣味に基づいた連帯にこそ注視している。そして著者は、教育社会学者の藤田英典の定義にならって、それを“趣味縁”と呼び表している。


 “趣味縁”が、まさに趣味に基づいた連帯であるならば、なによりも個人の自発的な関心に基づくものであり、それゆえにこそ、学校や会社といった既存の集団の枠を超えつつ、さらに連帯の多様なレパートリーを期待することができるのではないかというわけである。


 著者はこの点について、近年注目を集めている社会関係資本論の議論を補助線として用いつつ、日本社会の状況を実証的な質問紙調査で明らかにしている。そして、そのプロジェクトの名称こそが、まさに「若者の中間集団的諸活動における新しい市民的参加の形(2006年度~2008年度、科学研究費補助金基盤研究(B))」である。


 詳細は実際に著作を読んでほしいが、特に2007年に行われた質問紙調査からは、興味深い知見がいくつも得られている。例えば、同じ趣味縁であっても、明確な組織だった集団への加入形態を伴うものを「趣味集団(への加入)」、そのような形態を伴わないゆるやかなものを「趣味友人」と呼んで区別したうえで、全体社会や公共的なものへのコミットの程度を比較検討すると、前者においては正の関連が見られるものの、後者においては残念ながら見られないのだという。


 あるいはそれとも関連するが、とりわけ若年層において、友人と知り合う場所は、圧倒的な割合を学校が占めており、同じ趣味を持つ友人と出会うのも、むしろ学校という場が圧倒的であるがゆえに、(しいて内藤の表現を繰り返すならば)全体主義的な中間集団である学校と、趣味縁が完全に独立していないというのが現状であるようだ。


 よって結論としては、少なくとも現状においては、趣味縁に対して中間集団としての機能を過剰には期待できない、ということを導かざるを得ないようだが、しかしながら、それでも本書からは、今後につながるヒントがいくつも得られるように思う。


 たしかに、若年層において学校集団と趣味縁が完全に独立していないのは事実であるとしても、学校集団に対するコミットの度合いが下がってきているのも事実であろう。そのことは、部活動の停滞や学級崩壊などの事例を思い起こせばよい。


 とするならば、むしろ当面の間の処方箋として、多様な趣味縁を養っていくためにこそ、学校という集団を使っていくという発想もありうるのではないだろうか。初めから、学校や会社といった集団に対抗するのではなく、むしろその内部から徐々にずらしていくような連帯の形成がありうるのではないだろうか。いわば、趣味縁の出会いの場として、学校や会社を見つめ直していくといった発想である。


 もちろん、それだけが答えのすべてではないし、むしろインターネットのオンライン上にも様々な連帯が形成されている今日においては、個々人の社会に対する関わり方について、もっと多様なありようが考えられていくべきなのだろうと思う。


 本書は、そうした関わりのありようについて、最新の議論とデータに基づいて、多くのヒントを与えてくれる著作である。研究者に限らず、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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2011年12月01日

『ナショナリズムは悪なのか』萱野稔人(NHK出版)

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「グローバル化に抗うため、あえてナショナリズムを擁護する」


 本書は、哲学者であり津田塾大学准教授の萱野稔人によって書かれた論争的な著作である。


 萱野氏には『権力の読み方』(青土社)など本格的な専門書の著作もあるが、いずれにおいてもその主張は論理明晰でわかりやすい。それゆえにこそ、本書の主張は際立って論争的なものとなっている。


 萱野氏は、「左翼」を自称する。しかし「左翼」でありながら(というよりもむしろ「左翼」であるからこそ)、ナショナリズムを擁護するのだという。


 こうした主張は、日本社会においては奇異なものとして受け止められやすい。共産党が戦前から一貫してナショナリズムの高揚に基づく侵略戦争に反対していたと唱えているように、あるいは、左派的な知識人たちによって、明治以来のナショナルな文化のありようが繰り返し相対化されてきたように、「左翼」とナショナリズムとは、水と油のように、全く相いれないものと考えられてきた。


 だが、萱野氏はこうした発想を内在的に批判していく。例えば、明治以来のナショナリズムやそれに基づいた文化の形成について、左派的な知識人たちは、それがフィクションであることを暴き、批判してきた。


 しかし、相対的な視点を学ぶためならばこうした発想に一定の有用性も認められるものの、「スクラップ&ビルド」という言葉で言うならば、こうした批判はただ単に「スクラップ&スクラップ」を繰り返していくだけで、実際の生活を考えていく上では、なんら有効な実践に結びついていないのではないかという。

 例えば、利益の再分配を求めるのならば、国家がフィクションであることを割り切ったうえで、あえてそのフィクションを維持し、そのフィクションに基づいて、再分配を成す以外にあり得ないのではないかということだ。


 つまり、この近代社会を生きていく上で残されているのは、ナショナリズムか否かではなく、よいナショナリズムと悪いナショナリズムのどちらを選ぶかしか、ないのではないかということである。


 同じような主張は、リスク社会論を唱えるドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックにも共通する。ベックはここ何年にもわたって「methodological nationalism」という概念を唱えている。直訳すれば「方法論的ナショナリズム」だが、私は「戦略的ナショナリズム」と意訳したほうがいいように思う。


 いわく、今日の国際社会における諸問題については、理想主義的にコスモポリタンで統一的な価値に基づく全会一致的な合意形成を求めるより、あえて各国の利害に基づいた調整をなしたほうが結局はうまくいくのではないかということだ。

 わが国の、TPPに対する賛成とも反対ともつかない(それでいて結局は賛成と取られてしまうような)参加に対する意思表明の様子を眺めていても感じることだが、これからますますグローバル化の進展が著しくなる中で、本書は長きにわたって読まれるべき著作だと思われる。


 末尾ながら、本書の内容をよりよく理解するためには、ビデオニュース・ドットコム(http://www.videonews.com/)によるインターネットニュース番組「マル激トークオンデマンド」の第550回 (2011年10月29日)『今こそナショナリズムを議論の出発点に 』(ゲスト:萱野稔人氏、津田塾大学国際関係学科准教授)も併せて視聴することをお勧めしたい。




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