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2011年11月30日

『憂国のラスプーチン』原作・佐藤 優、作画・伊藤潤二、脚本・長崎尚志(小学館)

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「愛国と、個人でいることとは矛盾せず」


 本書は、元外交官の佐藤優氏の体験を元に、事実に基づいたフィクションとして描かれたマンガである。東京地検特捜部に逮捕され、拘置所での取り調べ過程とともに、外交官時代のエピソードが時折挿入されながら、ストーリーが展開していく(現在、第三巻まで刊行されている)。


 氏にはベストセラーともなった、『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』という著作がすでに存在するが、本書は、これをコミカライズしたものとも位置付けられよう。


 内容の概略については、第一巻裏表紙の紹介がコンパクトにまとまっているので、それを以下に引用する。


 “外務省のラスプーチン”と呼ばれた男が、東京地検特捜部に逮捕された。ソ連、ロシア政権上層部に最も食い込んだ西側の外交官であり、北方領土返還に情熱を燃やした男が、なぜ国策捜査の名の下に逮捕されなければならなかったのか!?元外交官・佐藤優の実体験を元に、取調室で繰り広げられた特捜部エリート検事との闘いを大胆に描く!!(第一巻裏表紙より)


 一部のインターネット上では、本書を「佐藤優のプロパガンダ漫画」などと揶揄する人もいるようだ。評者も、例の事件について、全ての事実を知り得ているわけではないので、軽はずみな断言は避けたいと思う。


 だが、そうした事実関係をめぐる論争以上に、本書からは(たとえそれがフィクションであっても)学ぶ点が多いと言わざるを得ない。


 とりわけ、評者が強く感じたのは、表題にも記したように、「愛国と、個人でいることとは矛盾せず」という点である。


 (あえて作中の登場人物名で記すが)主人公の憂木衛は、逮捕後、512日間に渡る取り調べに一人きりで耐えることになる。


 拘置所の中で、いつ終わるともしれない取り調べと独房との往復に日々を費やしていると、しまいには、担当の検事が唯一の味方にすら思えてきてしまうのだという。


 そしてマスコミの集団過熱報道によって、世論を敵に回してしまうような飛び切りの孤独を味わうことになり、きわめて過酷な状況に置かれていくことになるのだが、それでも、主人公が自分自身を貫き通すことができたのは、一体なぜなのだろうか。


 他の人にはない、特別な心理的な特性を持ち合わせているからだろうか、それとも・・・と解釈は多様にあり得よう。だが評者は、主人公が愛国者であることにその答えを求めたい。

 愛国者であるがゆえに、「国のため」という信念を貫いてきたがゆえに、孤独になろうが、過酷な状況におかれようが、自分自身を貫くことができたのではないだろうか。


 このように記すと、(とりわけ日本社会においては)奇妙な印象を持たれる方が多いかもしれない。国のために尽くすような愛国者は、(かの敗戦に向かった時代のことを思い出すまでもなく)むしろ自分自身を見失ってしまうものなのではないか、個人であることを忘れ集団に埋没してしまうのではないか、と。


 しかし、愛国者と国粋主義者は明確に区別するべきものと思う。


 自らの信念を忘却して、盲目的に国家を信奉する国粋主義者や全体主義者がたびたび暴走してきたことは、この社会の歴史を振り返ったときに疑いのない事実である。


 そして、そうした状況は、おそらく今日もなお続いている(それは本書の内容からもうかがい知れよう)。


 別な言い方をすれば、それはこの社会が、未だに信念のない個人ばかりが存在する社会だということでもある。


 あるいは、そもそもそうした信念のない存在など“個人”と呼ぶには値しないのかもしれないが、むしろこのマンガの主人公は、愛国という信念を貫くからこそ、たやすく迎合したりはしないし、確固たる個人でいられるのだ。評者は、そこに何がしかの教訓を読み取りたいと思う。


 誤解のないように記せば、もちろん個人が信念を持つ対象が国家でなければならない必然性はないし、信念の対象は多様であるべきだと思う。


 本書は、このように当たり前といえば当たり前に過ぎることを、改めて気づかせてくれる作品である。


 確固たる信念を貫いたがゆえに、まわりの空気に溶け込めず孤独な立場に置かれている人々に、たやすく周りになびいたりしようとする前に、ぜひ読んでほしい作品である。


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『わが輩は「男の娘」である!』いがらし奈波(実業之日本社)

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「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的、『妄想少女オタク系』以上にリアル」


「男の娘」とは、「2次元用語であり、女の子のように可愛い女装少年を指す」言葉であり、本書は「無謀にもそんな次元の壁を越えようと日々努力する、二十代後半の、今でも「少年ジャ○プ」を愛読しているひとりの男の話」である(P5)。


 その「男」とは、実は、名作『キャンディ・キャンディ』で知られる漫画家いがらしゆみこ氏の息子であり、元ジャニーズJrでもあるという、いがらし奈波氏のことである。


 本書は、エッセイ風のマンガ仕立てで、元々小さいころから女装に関心のあったいがらし氏が、やがてオタク趣味の彼女と付き合うようになる中で、彼女の服を借りて本格的に女装にのめりこむようになり、その後、様々な人と出会う中で、現在の自分の立場を確立までを描いた著作である。


 マンガ仕立てで非常に読みやすいが、その内容は刺激的であり、読後の感想は、表題のとおり「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、『妄想少女オタク系』以上にリアルだ」というものであった。以下、この点を説明したい。


 『ジェンダー・トラブル』とは、いまやジェンダー論の古典とも呼ぶべきジュディス・バトラーの名著である。個人的なことを述べるならば、評者は大学院の修士課程に入学直後に、ゼミで輪読することになり、その難解さに頭脳がトラブルを起こしそうになったことを記憶している。それはさておき、バトラーが述べていることは大意以下のとおりである。


 すなわち、ジェンダー=社会的な性差とは、セックス=生物学的性差とは異なって、人為的、社会的に構築されてきたものと考えられてきた。だが、バトラーに言わせれば、セックス=生物学的性差と思われてきたものもまた、ジェンダーなのだという。生物学的な特徴を取り上げて、それを「男か女か」という分かりやすい二分法に落とし込んでしまうふるまいそのものが、社会的に構築されてきたものなのだ(いくつかの社会には、「第三の性」と呼ばれるジェンダーカテゴリーが存在することを思い起こせば、理解できよう)。


 とするならば、「女性だから・・・」「男性だから・・・」といったような、固定化された立場をあてにして社会的な性差の解消を訴えることは、非常に困難にならざるをえない。繰り返せば、「女性」「男性」といった立場そのものが、実は社会的に構築されたものに過ぎないからだ。


 よってバトラーの主張は、その書名にも表れているように、既存のジェンダー論にトラブルメイキングをなすことがその主たる目的であったといえる。さらにその後は、クイア理論と呼ばれるような、よりラディカルなジェンダー論の発展を導くこととなるが、その中で、「女性」や「男性」というより、もっと性的なマイノリティの人々から注目を浴びることとなっていった。


 だが私自身のことを振り返れば、『ジェンダー・トラブル』は、そのトラブルメイキングな内容とは裏腹に、長らく、濃密なリアリティを持って受け取ることができない著作であった。率直に記せば、それはバトラーを強く支持していた人々、性的マイノリティという立場を身近に感じることができなかったからである。


 そして、まさにこの点においてこそ、私には本書が『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、トラブルメイキングなものであると感じられるのだ。


 すなわち、あまり身近に感じることのできなかった性的マイノリティという存在が、本書を通して、実は、どこにでもいるごく普通の(というには、著者の育ちは多少特殊かもしれないけれども)存在なのだということが理解できたからである。


 では、なぜ本書を通してこそ、より身近でリアルに感じることができるのか。この点をあるマンガ作品と比較して述べてみたい。


 かつて評者は、この書評ブログの中で『妄想少女オタク系』というマンガを取り上げた。それは、腐女子である女子高生浅井留美と、彼女に行為を抱いてしまった普通の男子高校生阿部隆弘とのラブコメなのだが、いくら告白されても、隆弘とその親友のBL的なシーンばかりを思い浮かべてしまう留美や、あるいは隆弘の親友である美少年に好意を抱いてしまう硬派な柔道部の先輩など、正統派の少女マンガにはなかなか登場しがたい新しいキャラクター設定が魅力的なマンガだと評した。


 また、こうした思考実験が出来るのも、フィクションとしてのマンガの強みと言えるだろう(この点において、『妄想少女オタク系』が名作であるという評価は微塵も揺るがない)。


 しかしその一方で、マンガであるがゆえに(むしろそれがマンガのよさでもあるのだが)、登場人物には、キャラクターの一貫性が求められ、極力、矛盾のない振る舞いが求められることになる。その分だけ、結局のところ、実在はしないような理想化された存在になってしまうのが、マンガのキャラクターの宿命でもあるのだ。


 そして、この点においてこそ、事実を元にしたエッセイ風マンガである、本書のほうがリアリティにおいては勝るのだ。

 
 というのも、「男の娘」である、いがらし氏のふるまいは、一貫性を持っているどころか、むしろ矛盾に満ち満ちているからである。


 たとえば女装に関心があって、世の女性よりもきれいにそれを着こなしながら、セクシャリティにおいては、意外と男性としての保守的な一面も持ち合わせていたりする。ロリコンであったり、あるいは彼女の浴衣姿に欲情して、セックスしてしまうところなどはその典型と言えるだろう。


 こうした一貫性のないふるまいは、その周りの人々にも共通している。たとえば、ニューハーフのミヤちゃんは、これまたきれいな女性としての容姿を装いながら、氏の彼女であるクルちゃんに対して、好意を抱いているようなしぐさを見せる(作中には、どうもバイセクシャルらしいと記されているが)。


 いずれにせよ、新たなジェンダーを切り開いていくような存在に見えながら、意外と内面のセクシャリティは保守的だったりと、この矛盾に満ち満ちた様子が、かえってリアルなのだ。そもそも、人間とはそのような矛盾に満ち満ちた存在なのであろう。


 よって、本書を読み進めていると、たびたび頭を抱えてしまうことになる。


「あれ?この人のジェンダーは、男だっけ?女だっけ?セクシャリティはなんだったっけ?」とたびたび混乱に陥りながら読むことになる。だが、この体験は決して不快なものではなく、むしろ頭の中の固定観念を揺さぶる、心地良いものですらある。


 刺激的でありながらリアルでもある本作を、そんな心地良い混乱の感覚を味わいながら、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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2011年11月29日

『アラサ―ちゃん』峰なゆか(メディア・ファクトリー)

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「リア充か否かが問題ではない、関係的自己の生きづらさが問題なのだ」

「リア充」という言葉がある。元々はインターネットから生まれたスラングであり、「リアル(の生活)が充実しているもの」といった意味で、当初は決して肯定的な意味合いで使われていたわけでもないようだが、現在では恋人が居るものを妬んでラべリングするときなどにも広く使われるようになった。

 この用法にならうなら、筆者は「非リア」で「非モテ」の道をまっすぐに突き進んできた人間である。だからこそ「リア充」で「モテ」になることが、若者が幸せになれることなのだと、長らく思い込んでいた。


 だが、本書が教えてくれるのは、恋人がいたりセックスをする相手がいたりする(ここでいう「リア充」と定義できる)ものたちであっても、決して幸せではなく、大きな問題点や生きづらさを抱えているということなのだ。


 やや抽象的な言い方になってしまうが、コミュニケーションが得意か否かが重大な問題なのではなく、日々の膨大なコミュニケーションの渦の中で、自らの立ち位置を探し続けなければならないつらさ、いうなれば関係的自己の生きづらさのほうが問題なのだ。


 別な言い方をすれば、コミュニケーション漬けの現代社会において、むしろ一定のコミュニケーション能力があるほうが、苦労をするということだ。

 象徴的な例として、本書のP48「好きな食べ物はなんですか?」と題するマンガが挙げられよう。男性からそのように尋ねられた時、素直に自分の好きなものを即答すればよいものの、相手の受け取り方を考慮するあまりに考え込んでしまって、なかなか答えられないという、以下のような場面である。

アラサ―ちゃん:ホットケーキ……だと、フツーに女子っぽくなっちゃうし、ヨーグルトは
なんかエロっぽいよね……
馬刺しだと男前タイプになるし、それは絶対に避けたい!
じゃあ、えっと……桃?桃はエロタイプに入るのか?白桃はエロいがすももは?

男性:アラサ―ちゃんは?

アラサ―ちゃん:今考えてるからちょっと待って!!

 このように、常に自分の立ち位置を気にしながら逡巡しつづけるのが、主人公のアラサーちゃんなのである。


 評者自身も、年齢的には(ギリギリ)アラサ―であり、末っ子だったということもあって、空気を読みながら立ち位置を気にするというこうした振る舞いは、世代的にも非常によくわかる。まさしくこういう立ち位置こそ、アラサーっぽいものだ。


 だがさらに興味深いのは、主人公も含め、明確な名前を持たないということだ。名字も名前もなく、ただ「アラサ―ちゃん」や「ゆるふわちゃん」、「文系くん」や「オラオラくん」といった、まさしく「キャラ」としてのみ存在する。


 どこで生まれて、どんな学歴・職業で、どんな家族構成でといったような、その人だけの「入れ替え不可能」な背景(設定)は一切登場せず、むしろ、お互いの関係の中だけで、意味づけられていくような立ち位置、つまり文字通りの「キャラ」として、登場人物が出てくるのが興味深い。


 そのように「入れ替え可能」な、どこにでもいそうな「キャラ」として登場人物がパターン化されているからこそ、「こういうことって、よくある!」という風に、このマンガが説得力を持つのだろう。


 だからこのマンガは、特定の登場人物に感情移入をして、物語世界に入り込んでいくようなものではない。むしろ「キャラ」同士の関係性のパターンを楽しむもの、いわば、若い世代における、コミュニケーション指南の絶好の教科書と言えるものと思う。


 例えば、「アラサ―ちゃん」と「ゆるふわちゃん」の間には、本音では憎しみ合いながらも、一方ではお泊りもしたりして離れられないといった複雑な関係性がある。そこからは、いわゆる「女子の友情」の実態を、特に若い男性読者に学びとってほしいと思う。


 もう一点だけ、本書を高く評価する点があるとすると、こうした関係的自己の生きづらさに対する処方箋が示唆されているということだ。


 常に立ち位置を気にして、なかなか自分の振る舞いが定まらないという悩みは若い世代に共通するものだ。だが、「アラサ―ちゃん」の、そして著者である峰なゆか氏の振る舞いには、こうした問題点への処方箋が表れているように思われる。


 それは端的にいえば、「さらけ出す」ということだ。「アラサ―ちゃん」は、立ち位置を定めるのに逡巡しているけれども、その逡巡それ自体、あるいは悩む理由を全てさらけ出している。そして、だからこそそこにはタフさが感じられる。
 

 比べて他の登場人物は、表層的に「キャラ」を取り繕うことにだけ専念していて、きわめてひ弱な印象を覚える(一見、女性に対して強気な「オラオラくん」であってもだ)。


 どうせ、表層的な「キャラ」を通してしか他者と関われないのなら、むしろその「キャラ」を選び取る自己をさらけ出すことで、そこには一定の深みが生じることになる。


 分かりやすく言えば、「この人、表面上だけで「キャラ」を作っているんじゃなくて、なんか考えているな、結構強い人なんだな」と思われるようになるということだ。


 以上、書評という性質もあって、やや理屈をこねくり回してしまったが(こういうのが空気を読んだ「キャラ」づくりだろうか)、本書は楽しみながら読めるエッセイ風4コママンガである。


 ちょっぴりエッチな内容も含まれているから、相手に勧める際には少し注意が必要だが、ぜひ老若男女、幅広い読者にお読みいただきたいと思う一冊である。



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