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2011年10月31日

『子供失格<1>』松山花子(双葉社)

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「笑うだけでは済まされないブラックユーモア4コマ」

 本作は、生まれながらに厭世的な気分を持ちあわせた幼稚園児「生留希望(いくとめ・のぞみ)」を主人公に、彼の家庭や幼稚園での様子を、ブラックユーモアたっぷりに描いた四コママンガである(こうした設定と、そのタイトルからして、太宰治の『人間失格』をもじった作品であることは間違いのないところだろう)。

 こうした作品は、一昔前ならば「シュールなマンガだなあ」といった一言で済まされたような気がする。同じ四コママンガで比べるならば、90年代初頭に人気を博した吉田戦車の『伝染るんです』などは、そういう印象で読んでいた記憶がある。ものすごく性格の悪いかわうそくんも、NHK教育テレビの子ども番組が好きなヤクザたちも、あくまでマンガの中だけの存在だからと思って、安心して笑い飛ばしながら読んでいたように思う。
 

 本作も、シュールな四コママンガだから、笑えることには笑える。それどころか、評者も至る所で大爆笑した。だが、それだけでは済まされないシリアスさが、そのあともずっとつきまとうところに本作の特徴がある。


 主人公が生まれながらに厭世的な気分を持ち、生きる意味を失って無力感に支配されているのは、(おそらくは飛び降りて)自殺をした前世の記憶を引き継いでしまったからである。それゆえ、この世に生まれてくるその瞬間にも、自分を励まそうとする父の言葉に対して、むしろ絶望を深めてしまう。例えばそれは冒頭での「再生」というタイトルのマンガの中に次のように描かれている。


父「息子よ 頑張って生まれてくるんだ!!」
父「生まれれば すばらしいことが いっぱいあるぞ!
  たとえば―」


 
父「パパみたいに 普通のサラリーマンになって 普通の給料もらって 普通の結婚して―」


助産師「ああっ 赤ちゃんの心音が弱まりました!!」


 これほどまでに見事に、日本社会が当たり前のものとしてきた「大人になる」というゴールの崩壊を手短に描き出したシーンもないだろう。私はこのシーンで不謹慎にも大笑いしてしまったのだが、やはりそのあとで真剣に考え込まざるを得なくなった。


 それは、単純に不景気ゆえにリストラが進んでいるとか終身雇用制が崩壊しているとか、それだけにとどまるものではない問題点を感じ取ったからに他ならない。やはりここに示されているのは「大人になること」という、子どもや若者たちにとってのゴールの崩壊であり、ロールモデルの喪失という問題点だと言わざるを得ないだろう。


 そしてその問題点は、実は日本の多くの子どもや若者たちが抱えているものでもある。主人公はたまたま前世の記憶を背負ったがゆえに生まれながらの無気力になったわけだが、日本の子どもや若者たちの多くは、社会が変化したがゆえに(そしてそれゆえに、彼らの意思とは関係なく=その意味で生まれながらに)無気力さに追い込まれているのだ。

 実際に、この社会の子どもたちを見ていても、そのような思いを強くする時がある。もちろん大多数は子どもらしい元気な子ばかりなのだが、ひどく大人びていたり、あるいは子どもらしさのない無気力な子を見かけることが少なくなくなってきたのも事実である。


 だが、そうした問題点とともに、本作からは一筋の希望も垣間見えるように思う。それは、生まれながらの無気力さを背負っていても、主人公自身は決して死なないということである。それどころか、無気力で淡々としているがゆえに、他のおかしな大人たちに囲まれていても、過剰に傷つかずに、何もかも「所詮はそのようなもの」として軽く受け流して生きていくことができているのである。


 その象徴ともいえるのは、第14話で登場するシーンであろう。父が借金の連帯保証人となった友人が失そうしたため、住居を追われてしまった家族は、あたかも「オレオレ」詐欺のごとく、一人暮らしの老人の住居に押し掛け、あたかも息子夫婦とその子どもたちであるかのようにふるまって住み込んでしまうのである。


 もちろん、その行為の是非は別問題である(というよりも、本来ならば許されざる行為だろう)。だがマンガにおいては、その後、押しかけた先の老女がやがて、主人公の祖母として振るまい、幼稚園行事にまで参加するようになり、曲がりなりにも一つの家族が営まれていく様子からは、絶望だらけの社会状況に、それでも適応しながら生き抜いていくような、人間のたくましさすら感じ取ったと言ったら、果たしていいすぎであろうか。

 以上のように、本作は笑いながら、絶望を深めつつ、そしてほのかに希望も感じさせてくれるような不思議なマンガである。内容からして、決して万人向けとは言えないが、ご関心のある方はぜひお読みいただきたい。


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『スカイツリー 東京下町散歩』三浦展(朝日新聞出版)

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「「厚みのある再帰的近代」を生きるために」

 本書は、『下流社会』(光文社新書)などの著作で知られる三浦展氏が、東京の下町を丹念に歩きながら記した著作である。下町といっても、浅草や神田といった典型的な地域ではなく、むしろ、押上、向島、北千住、立石といった隅田川の向こう側に広がる地域に注目しているのが特徴である。

 これらの地域に注目した理由は、それが大正・昭和初期以降に発達した「新しい下町」だからという。この点について三浦氏は、序章で、東京の下町が4つの段階を経て拡大してきたという「下町四段階説」を展開しながら、本書ではあえて伝統文化が色濃い第一・第二下町(神田や浅草)ではなく、モダニズムを感じる第三・第四下町を取り上げる理由を説明している。


 たしかに、神田や浅草に関するガイド本は世にあふれているが、これらの地域を対象としたものとなると、いわゆる「ディープな散歩」本ぐらいしかない。また、これらの本が、ピンポイントに個別の特殊なスポットを取り上げがちなのと比べて、本書では、幾重にも興味深いストーリーが組み入れられており、それゆえに、つまみ食い式にではなく、つい冒頭から最後まで読み通してしまう著作になっている。


 たとえば、序章での下町の拡大に関する歴史的なプロセスの説明に始まり、続く第一章では著者自身の王貞治選手に対する思い入れから、王選手が少年時代を過ごした墨田川東岸から散歩が開始されている(「世界一の電波塔のスカイツリーの足元に、もう一つ世界一があった。」(P18))。そして、著者独自の観察眼から、有名な建築物というよりも、むしろそこここに存在するような些細な建築物の中に、かつてのモダニズムの残り香をかぎ分けながら記述が進められていくのである。

 この著作を読みながら、私は社会学者のアンソニー・ギデンズらが唱える「再帰的近代」という概念が頭によぎった。「再帰的近代」とは、ただ単純に近代化を進めていくような時代とは異なる概念である。いわば、ある程度の近代化が達せられた成熟した社会状況において、自己反省的にこれまでの近代化過程を振り返り、その問題点を認識しつつ乗り越え、さらに近代化を進めていくような状況を言う。


 すでに高度成長期がはるかに過ぎ去った日本社会は、まさにこの「再帰的近代」にあるといえるだろう。しかしながら、この概念の意味するところが頭の中では分かっていても、なかなか実感を持って理解するところまでは至っていないのも事実であった。というのも、日本社会における、自己反省的に振り返るべき「近代」とは何なのかが、(少なくとも私にとっては)これまで明白ではなかったからである。


 だが、本書に出会うことで、それが幾重にも積み重なった厚みのあるものであることを、はっきりと認識することができた。それは、東京という街の発展・拡大の歴史に色濃く表れていよう。今、日本の首都として、あるいはアジアを代表する大都市として時代の最先端を行くこの街は、一足飛びに、江戸から東京へと変貌を遂げたのではない。


 それは、序章で述べられていたような、第一から第四にまでわたる下町の段階的な拡大の過程、さらにはその後の、新宿から渋谷へと至るような山の手の拡大の過程をたどって、時代ごとに特色のある文化を積み重ねてきたのだ。


 つまり、いうなれば東京とは、時代ごとの街のありようが幾重にも展示された、巨大なフィールドミュージアムのような空間なのである。


 このフィールドミュージアムを十二分に見聞するためには、ケータイやインターネットに頼っていてはいけない。時代ごとの「展示物」の境界を、縦横無尽に横断しながら知見を広めていくためにこそ、散歩という、最もアナログな手法が必要となるのである。この点においても、各種の検索エンジンを駆使すれば、相当量の情報が手に入るインターネット全盛のこの時代において、あえて自分の足を使って情報を集めてきた、本書の価値が光るところである(また、あとがきにもあるように、本書はあえて手書きによって書かれたのだという。おそらくはそのことが、好きなところからつまみ食い的に読ませるのではなく、冒頭から一気にストーリー性を持って読ませる文章を生み出した秘密なのかもしれない)。


 また、私自身の体験談にひきつけて言えば、たしかに昨今の郊外化の中で発達する巨大なショッピングセンターについて、その便利さは認めつつも、どこかに無味乾燥さを感じ、もっと楽しい都市空間のありようはないものかと思い続けていた。だが、その対抗馬として、ショッピングセンターが駆逐した、かつてのデパートのありようをノスタルジックにぶつけたところで、説得力に乏しいというのも事実だと思っていた。しかし、山手線の左側の地域を往復するだけで毎日を費やしている私には、それ以上の想像力も働かなった。しかし本書を読み進めるうちに、下町のありようという新たな選択肢を見つけることができ、都市空間に関する考え方を大きく広げることができたのである。


 おそらくは、巨大ショッピングセンターの進出に伴う郊外化の進展と都市中心部の衰退は、日本全国に遍在する問題点であろうから、この点についても、本書と三浦氏のかつての著作『ファスト風土化する日本』(洋泉社新書)などを読み比べると、議論が深まるのではないかと思われる。


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『地方食ぶらり旅 駅前グルメの歩き方』森田信吾(講談社)

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「「常食」を巡る旅」

 旅行に行った際、みやげ物を買いに、スーパーマーケットに行くことが多い。特に海外旅行ではよくあることなのだが、いわゆるみやげ物屋に並べられているのは、まさに観光客だけをターゲットにした法外な値段の品物だったりする。それと比べて、スーパーマーケットに行くと、実際に現地の人が食べたり好んでいる品物が、かなり安価で手に入るのだ。

 数年前に韓国に行った時も、ガイドに連れられて行ったみやげ物屋には、法外な値段のキムチやサムゲタンが並べられていたが、それらを一つも購入せず、あとで自分でスーパーマーケットに出かけた。そして、『コアラのマーチ』や『きのこの山』といった日本のお菓子を模したものをみやげにしたことがある。(私の周辺に特異な人が集まっているのかもしれないが)むしろ、そのほうが喜ばれたのだ。


 さて、本作で取り上げられているのも、そういった「今 現に生きてる地元の人が日常に食べるもの」であり、著者はそれを「常食(じょうしょく)」と呼んでいる(P31~32)。このネーミングも柳田國男の「常民(じょうみん)」という概念を想起させる卓抜なものと思う。


 たしかに、著者がいう「常食」とは、「伝統しょった観光食とは次元が違う」(P31)ものであり、一見すると、伝承文化を担う「常民」とは異なるものに感じられるかもしれない。しかし柳田が取り組んだ民俗学が、「作られた伝統」とは違って、生きられた文化として日常に根づいた伝承文化を対象にしていたことを考えれば、やはり適切なネーミングといえよう。


 近頃ではこうした地方食を取り上げて、「B級グルメ」と呼び表し、それを競わせるコンテストなども盛況なようである。それはそれで町おこしに貢献しているであろうことは評価に値しようが、やはりネーミングにおいては、「B級グルメ」よりも「常食」に軍配を上げたいと思う。


 具体的に取り上げられているのは、長野県伊那市の「ローメン」、長崎県長崎市の「トルコライス」など、未読の方からすると、名前からは到底それがどのような料理かも想像できないようなものが多い。しかし、実際に読んでいると、現地に赴いて食べたくなるようなおいしそうなものばかりである。また、マンガであるだけに、ただ単にその食べ物を紹介するだけではなく、ストーリー仕立てになっているのがなんともニクい。


 今のところ本作には、「第一巻」とも何とも記されていないが、おそらく日本中にこうした「常食」は存在するであろうから、ぜひとも続編を期待したいところである。また日本といわず、世界の「常食」を紹介するような作品も期待したい。


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『「反戦」と「好戦」のポピュラー・カルチャー―メディア/ジェンダー/ツーリズム』高井昌吏編(人文書院)

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「二重にメタレベル化する「戦争語り」に対する意欲的な論文集」

 私が小学生だった頃といえば、今から25年ほど前である。その頃は、「戦争体験」を伝えるテレビ番組が今と比べると随分多かったように思う。やや記憶が定かではないが、たしか毎年夏になるとNHKでは『戦争を知っていますか』と題して、「戦争体験」のある人々の語りを子どもたちに聞かせるという番組をやっていたように思う。

 私がそのことをよく覚えているのは、熱心に見ようと思っていたからではない。お盆にかけて母の実家に帰省した際、祖父とともに甲子園の野球中継を見た後で、他にすることがないのでテレビを見続けていた際にたまたまやっていたというだけである。だが、そうして何度も見ていくうちに、子ども心にも戦争に対するイメージが徐々に膨らんでいったのを覚えている。


 そして今、小学生の息子の父親となった身として、今度は自分の子どもに、こうした「戦争体験」をどう語り継いだものかと思う時がある。だが、自分が子どもの頃のように、それを扱ったテレビ番組はもはや多くはない。また、親や祖父母たちからも「戦争体験」を聞かされていた我々の世代と違って、今日の子どもたちに、そうした語りを聞かせたところで、どこまでリアリティを持ってもらえるか、やや心もとないところもある。


 間接的にしか体験しえなかった我々の世代から、さらに間接的な体験として、語り継いでいってもらうこと。そこにはどんな工夫が必要なのかと、考えていたころに、あるマンガ作品に出合って衝撃を受けたことがある。それは、こうの史代氏の『夕凪の街 桜の国』というマンガであった。この作品は、すでに映画化もされているが、やはりマンガを読んだ時の印象が忘れられない。大きく分けて2部構成になっていて、主人公も二人の女性からなる。一人は広島で被爆した後、1955年に亡くなる女性であり、もう一人はその姪にあたる若い女性で、自分の父が伯母の足跡を辿るところを尾行しながら、たまたまその存在を深く知ることになっていく。原爆を扱っていながら、『はだしのゲン』のような残酷な描写をあえてしない作品であることも印象的であった(そういえば、『はだしのゲン』も小学校のころに、教室の本棚に置かれていてよく読んだ記憶がある)。

 さて、前置きが長くなったが、本書は、このように「戦争体験」の語りが二重にメタレベル化していく状況を、ポピュラー・カルチャーの素材の中に読み取りながら、その実態や問題点について論じた意欲的な論文集である。
ポピュラー・カルチャーを対象としているため、実に対象が幅広いのが特徴的で、『ガラスのうさぎ』や『二十四の瞳』といったよく知られた作品から、上でも触れた『夕凪の街 桜の国』といった近年のマンガ作品、そしてミリタリー関連のプラモデルから戦艦大和にいたるまで、さまざまなものが取り上げられている。


 私と同じかやや上の世代にあたる若い著者たちの目論見通り、いわゆる「戦記もの」のような研究もそれはそれで重要なのだが、全く戦争を体験していない世代が多くを占める今日においては、「ポピュラー・カルチャーにおける戦争の表象・言説を対象に」して、「日常生活を生きる人々の戦争観」(P2)を明るみに出していくような研究の重要性はますます高まっていると言えるだろう。とりわけ若い世代の読者においては、本書を読んだ時に、ポピュラー・カルチャーの中の自分にとって身近な対象にまで、戦争が関連していたのかと驚きをもって受け取ることになるものと思われる。


 これらの点からしても、いまだ類書が数多くない現状において、本書は先駆的な試みとして高い評価に値するし、また文科省の科研費研究が元になっているようだが、さらに分析対象を広げつつ、広範な研究者をも巻き込みながら、体系的に研究が進められていくことを強く期待したい著作であると言える。


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