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2011年09月30日

『遠野モノがたり』小坂俊史(竹書房)

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「遠野には「何か」がある」

 岩手県遠野市といえば、良く知られた場所である。およそ100年まえに柳田國男がまとめた『遠野物語』の舞台であり、それもあってか多くの文化人がこの地を訪れたり、また、平地と山地が適度に混ぜ合わさった小宇宙的な盆地は、まさしく「日本の原風景」と称されたりもする。

 だが、そうしたよく知られた面を超えて、この町にはさらに「何か」があるのだ。私も2度訪れたことがあるのだが、何度でも行きたくなるような、そう思わせる「何か」がある。


 1度目は純粋な観光として、2度目は東日本大震災後に被災地支援のためのボランティアで訪れたのだが、実は内陸の遠野市は、現在でも岩手県太平洋沿岸部に対する支援の一大拠点となっているのである。沿岸の各地域までおおむね一時間程度でアクセスできるという地の利もあって、過去の災害時にも同様に遠野が拠点となったことがあり、今回もその教訓が生かされているのだという。


 また、その際には、ボランティアに携わる地域住民の方々の意識の高さに驚かされた。一般に日本の地方は、大都市偏重のあおりを受けて保守的かつ閉鎖的でなかなかよそ者や変化を受け入れないことが多いのだが、遠野市のボランティア拠点は、全国からボランティアたちが集結し、その人たちとも上手に連携を取りながら、きわめて機能的に動いていたのを思い出す。


 そのほかにも、市内中心部のショッピングセンターが閉鎖された際に、自治体が受け皿となってそれを立て直した事例があったりと、遠野の魅力は、決して古き良きものだけではなく、むしろその一方で革新的な取り組みを続けることのできる意識の高さにもあるように思われた。


 さて本作は、以前この書評でも取り上げた傑作マンガ『中央モノローグ線』の作者である小坂俊史氏が、実際に2年間、遠野市に移住した際の体験が元になったマンガである。


 作中では、『中央モノローグ線』で中野に在住するメインキャラであったイラストレーター「なのか」が遠野に移住したという設定で、その他2人の地域住民と座敷童子の合計4人のモノローグ形式で描かれている。


 そしてやはり、本年(2011年)5月に遠野にて作者が記したあとがきにも、「あまりにもざっくり言えば この町には“何か”があるのです」とあるように、私と同様の、言語化しがたい遠野の魅力を感じ取ったことが、作者に本作を書かせる動機となったようだ。


 前作『中央モノローグ線』同様の、ほのぼのとしたトーンで大きなメリハリのない展開が楽しめるのだが、しかし残念ながら、遠野の「何か」を完全に得心するところまでは本作では描けていないように思う。実際に現地を訪れた時に、言語化できない「何か」を感じるから、遠野にはリピーターがつくのであり、そのように人々が「何か」を感じる様子は伝わってくるのだが、肝心の「何か」が明示されないままのため、やや消化不良感を覚えるのが正直な感想である。


 とはいえ、捉え難い「何か」に果敢にチャレンジしたことは評価に値するし、その点で本作は期待の若手作家の、努力賞の作品とでも評することができるだろう。


 もう少しだけ筆を滑らせて余談を記すならば、おそらくは、前作と同様の描き方をしたことが遠野の「何か」を描き損ねた原因であり、逆説的にむしろそこから得られた認識利得もあるように思う。


 それは、『中央モノローグ線』と『遠野モノがたり』を読み比べた時に思いついたことなのだが、両者に共通するのは、「よそもの」の目線から描かれているということである。それが後者よりも前者にフィットするのは、都市の文化、あるいは特に東京の文化というものが、基本的には「よそもの」によって担われているからだと思われる。


 作者自身も山口県から上京してきた経験を持つようだが、『中央モノローグ線』では、JR中央線の各駅になぞらえた女性キャラクターのいずれもが、その町にとっては「よそもの」として描かれている。それは単にほかの町から職場に通ってくるというだけではなく、実際にはその町に住んでいても、むしろ新宿にあこがれて地元に密着したがらない武蔵境在住の女子中学生キョウコの例まで含めて貫徹している。


 東京や都市の文化を描くのならば、こうした「よそもの」目線のほうが実態にも適しているのだろうが、やはり地方の町を描き出すのには、不向きなのかもしれない。


 地方の町を描き出した傑作マンガとしては、『YOUNG&FINE』や『フラグメンツ』といった山本直樹の一連の作品を思い出す。そこでは、「よそもの」も登場しながらも、地域住民の目線も十二分に取り入れられていた。だが、どうもそこで描かれているのは、日本の一般的な地方のありようであり、遠野の「何か」を描き出した作品については、今後も登場が待たれるところである。




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『大奥』よしながふみ(白泉社)

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「リアルな社会変動を描きだした歴史マンガ」

 本作は、2011年に第56回小学館漫画賞(少女部門)を受賞したマンガであり、また2010年には嵐の二宮和也主演で映画化されている。すでに広く知られた作品であり、それに対する評価などもあまた存在する中で、いまさら何かを記すのも、屋上屋を重ねるがごときで実におこがましいことではある。

 さて、本作品のモチーフが、将軍にとってのいわゆる「ハーレム」のような場所である「大奥」において、男女の立場が逆転していたら・・・というものであることはあまりにも知られた事実だろうから、ここではあえてマニアックに、社会学者としての立場から、本作が評価に値する点について考えてみたい。


 それは、一言でいうならば、社会変動をリアリティを持って丁寧に描き出しているという点にあるといえる。つまり「大奥」において、男女が逆転している状況が、単なる反実仮想として、所与に前提とされているのではなく、むしろいかにしてそのような逆転した状況がもたらされてきたのかという「過程」が丹念に描き出されているのである。


 いわばこうした「過程」が、社会学的に言うならば「社会変動」に相当するのだが、それも堅苦しい法律やその他の社会制度の変遷から描き出すのではなく、「大奥」を取り巻く一人一人の行為の積み重ねの中から、結果的に導かれたものとして描き出されているのである。


 社会の仕組み(社会構造)や社会の変化(社会変動)を理解して、わかりやすく伝えるのが、社会学(者)の務めであるのだが、実はこれはそうそうたやすいことではない。


 というのも、社会というものが、たんなる法律や社会制度だけからなるのでも、あるいは、個々人からなるのだけでもなく、それらがリンクして成り立っているからである。


 よって、これらをすべて見据えて、リアルな記述をすることはそうそう容易なことではないのである。

 しかしながら本作においては、個々人の心情描写も細やかであるし、それに基づいた行為や、やがてそれが社会全体の制度へと反映されていく過程など、どの水準においても説得力のあるストーリーが展開されている(それゆえに、一度読み始めるとなかなかやめられないのが悩みの種でもある)。

 別な言い方をすれば、マンガやテレビドラマでよくあるような、たとえば転校生や交通事故といったご都合主義的で場当たり的なストーリー展開がとにかく少ないのだともいえる(しいていえば、男子人口のみが減少にいたる病気がはやったという点だけがご都合主義だろうか)。


 したがって本作を読んでいると、あたかも事実を描き出した、よくできた歴史書を読んでいる錯覚に陥るし、学者として、このような論文を書いてみたいという気になるといっても、決して過言ではない(正直に吐露すれば、学者であっても、つい、ご都合主義的な説明を加えた論文を書いてしまうことは少なくないのだ)。


 やや「ネタバレ」になってしまうが、ストーリー構成で言うならば、1巻はまだ反実仮想 の段階でとどまっている。それでも十分に面白いのだが、あえていえば、そこまでが普通のマンガであり、本格的に面白くなっていくのは、やはり社会変動の「過程」が丹念に描かれることになる2巻以降だと思う。


 まだの方には、ぜひ一読をお勧めしたいマンガである。


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『若者の介護意識―親子関係とジェンダー不均衡』中西泰子(勁草書房)

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「他人事では済まされない一冊」

 今日の日本社会では、少子・高齢化が進んでいて、老親扶養や介護が喫緊の課題であることは疑うまでもない。近年では、ようやく制度面での整備(介護保険など)も進められてはきたものの、対応が後手に回っている感は否めないだろう。

 そんな状況下で、本書はあえて、実際の老親介護現場の実態よりも、これからそれを担う若者たちの意識に注目している。


 というのも、変動期の社会に求められているのは、次世代の担い手が考えていることを明らかにしながら、未来を構想していくことだからである。


 この点において本書は、特に若い女性たちを中心に、若者たちの老親扶養に対する意識の実態を実証的に明らかにした本邦初の試みとして高い評価に値しよう。


 より具体的にいえば、本書の中で明らかにされているのは、老親介護の中心的な担い手が「嫁」から「娘」へと移り変わろうとしている中で、若い女性たちがそれをどのように受け止めているのか、あるいは、それが同世代の男性たちや親に当たる年長世代の意識とはどう異なるのか、といった点であり、時に、大都市郊外と地方都市といった地域差のような社会的な背景に関する分析をも交えながら議論が展開されている。


 特に興味深いのは、「娘」が老親介護の中心的な担い手になりつつある中で、その現象がはらむ両義性が指摘されている点であろう。


 すなわち、「嫁」も「娘」も女性であるという点においては、老親介護においても、相も変わらず性別役割分業が再生産されているとする批判的な議論が存在するのは確かである。


 しかしながら、「嫁」がイエ制度的な規範の中で「担わされる」状況であったのに対して、「娘」が愛情に基づいて「自発的に担う」状況に移行したことは、それ自体、女性のあらたな権利獲得とも言えるのである。


 いわばそれは、「制度から友愛へ」とも言い表されるように、集団としてのまとまりを尊重する家族から、個々人の自立を尊重する家族へと大きく変容を遂げつつあることの一つの表れとも言えるのだろう。


 だがさらに、本書の面白さが最も際立つのは、そうした、「個々人の自立を尊重した」家族における介護を通してこそ、既存のジェンダーが再生産されていくという、さらなる「どんでん返し」が待ち構えていることなのだ。


 これ以上の内容は「ネタバレ」になってしまうから、紹介しないほうがよいだろうが、しかし、幾層にも複雑化した現代家族のメカニズムを丹念に、かつ実証的に明らかにした意義は大きく、またそれを明らかにしていくプロセスは、あたかも「読み物」のようにスリリングですらあった。


 少子・高齢化がますます進むであろう日本社会においては、親世代においても、そして子世代にとっても、老親介護は目をそむけずにはいられない問題であり、本書はまさに、この日本社会を生きる誰にとっても他人事では済まされない一冊になるものといえる。


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『アンアンのセックスできれいになれた?』北原みのり(朝日新聞出版)

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「恋愛・性愛至上主義を相対化するために必読の一冊」

 本書は、フェミニストであり、女性のためのアダルトグッズショップの代表も務めている北原みのり氏が、雑誌『an・an(以下、本書にならって“アンアン”)』を、その創刊号から読み直した記録である。現代の女性文化の変遷を知る上で、格好の著作といえよう。直截にいえば、私自身は全ての内容に同意や共感ができるわけではないものの、現代の女性たちの文化を理解するためには、非常に資料的価値の高い著作といえる。

 氏が注目しているのは、アンアンの中でも名物特集といえる、セックス特集の記事である。冒頭にも記されているように、1989年4月に発売されたアンアンのセックス特集のタイトルは「セックスで、きれいになる」であった。


 結論を先取りすれば、本書のタイトルにもなっているように、著者の主張としては、女性たちは、「アンアンのセックスできれいになれた」わけではない。あるいは著者自身も触れているように、ただ単純に過去(のアンアン)を礼賛して、ノスタルジーに浸ることが本書の目的なのではなく、むしろセックス特集がピークを迎えていたと思われる1990年代の、異様なまでの「恋愛・性愛至上主義」を相対化することが、最大の課題なのである。


 本書によれば、そのピークは特に1997~98年の特集に見られるようだ。まず1997年には「(最高のセックス)は愛情と信頼と、すべてをゆだねられる一番好きな恋人とこそ」と記され、さらに翌年、キムタクこと木村拓哉のヌードが掲載されるとともに、「最高のセックスが、あなたを絶対にきれいにする」と、愛あるセックスが称揚されるようになる(P104)。


 だが、こうした愛あるセックスという称揚は、男性に主導権を奪われていた段階から、女性自身もセックスを謳歌することのできる自由へと歩を進めるには役立ったものの、むしろ、その後には、セックスには愛がなければならないという新たな呪縛をも生み出してしまったのだという(第5章)。


 いうなれば、女性たちが「セックスへの自由」を得た後で、「セックスからの自由」を得ることが課題として残されたということである。


 後者の自由を謳歌するということは、すなわち、先にも記したとおり「恋愛・性愛至上主義」を相対化して、より多様な快楽を追及したライフスタイルを謳歌できるようになるということなのだが、この点が、現代の女性たちにおいて、まだまだ十分に実現できてないことに、著者は苛立ちを覚えているようだ。


 この苛立ちについては、評者も大いに共感を覚える。ごく近年における若年女性の専業主婦志向の増加などといったような「保守回帰的」な傾向を考えると、「セックスからの自由」を得ることには、それなりのタフネスが要求されるとともに、そのタフネスに耐えられない若者が数多く出てくるだろうことも想像できる。


 しかし社会学者として発言するならば、おそらくそのタフネスはこれからも必須のものであるし、そうした社会になっていくものと予想される。残念ながら、そのタフネスを身につけるための処方箋までは、本書では明確には提示されていないし、評者にも名案があるわけではない。だが、しいて言えば、本書の著者のタフネスさに、継続的に触れ続けることで、徐々にそれに感化されることはあるのではないかとも思われる。


 (書評という内容からはやや外れるかもしれないけれども)具体的に言うならば、著者の北原みのり氏は、現在twitterを使って継続的に情報を発信しておられるが、これが実に興味深い内容が多い。実は、評者が本書の存在を知ったのもtwitterを通してなのだが、内容に興味を覚えた方は、ぜひtwitterで北原氏をフォローしていただきたいと思う。


 そうすることで、本書を読んだ体験が、一時のものとして忘れ去られずに、継続的に「セックスからの自由」を模索することにつながっていくのではないかと思われる。


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